気が付けば、なんて言うとおかしいかもしれない。隆士は金井に病院に運び込まれるときも意識はあったし、病院に到着してからも医者からどういったことがあって両腕骨折なんてことになったのかだとか、どうしてもっと早く来なかったのかだとかを、両腕のじんわりとした痛みに耐えながら答えていたことを覚えている。
朝だった。
気が付けば、朝だった。
だから、気が付けば、という表現は特におかしくないかもしれない。
「……」
個人部屋だったりすることもなく、隣のベッドの備え付けられているテレビからニュースの声が漏れている。ただぼんやりと、隆士は天井を見上げていた。
「…………あれ?」
隆士の両腕はギプスで固定されていなかった。包帯を巻いているだけの簡単な治療の後。あれだけ勢いよく折れて、こんなに簡単な固定の仕方でも大丈夫なのだろうか、と隆士が首をかしげたときだった。ガラリ、と病室のドアが開いた。足音はそのまま近づいて来て、隆士のベッドを区切っていたカーテンを開けた。
「なんだ起きてたのか、化け物高校生」
「金井くん?」
「医者が顔真っ青にして驚いてたぞ、なんで骨がくっついてんだって」
「え、治ってるんスか、これ」
「おー、もうバッチリ完治だってよ。逆にお前を診た先生が寝込んじまったくらいに完璧な治り具合だってさ」
隆士は握り拳を作っては開いてを繰り返した。痛くないのを確認してから、おそるおそるノックするように両腕を叩いてみるも、やはり痛みはなかった。不思議なこともあるものだ、と隆士が腕をマジマジと眺めていると、金井が声を出して笑った。
「おもしれーな、お前ら。おんなじことしてんぞ」
「ら?」
「おう、隣のベッドの患者さんだよ」
「宝院?」
「はい?」
隆士が呟くように言った言葉を呼びかけと勘違いしたのか、隣のベッドから小町の声がした。衣擦れの音がして、カーテンが開く。そこには、相変わらずの無表情で宝院小町がいた。
彼女は全身に包帯を巻きつけているようだったが、ところどころ見えている肌には、傷の一つもなかった。巻かれている包帯も、なぜかお飾りのように見える。
「お前、全身傷だらけじゃなかったっけ?」
「私自身も不思議に思ってはいたのですが、『タイムパラドックス』という言葉が思い浮かびましてね、仕方なく納得することにしました」隆士が首をかしげたのを見て、小町はやれやれ、と肩をすくめながら続けた。「タイムパラドックスという単語は知ってますよね? 過去への時間旅行で、現在の事実を捻じ曲げてしまうような矛盾を生む行為のことです。私の場合、過去とは『私の現在』のこと、現在とは『私の視た未来』のこととして考えてください」
「一言で言うと?」
「頭悪い。考えようとしてくださいよ。……一言で言うと、『私の傷はなかったことになった』ということです」
「よく解った、ありがとう」
「嘘。めんどくさくなっただけでしょう、あなた」
「正解。よく判ったな」
「こんな短時間で
小町との会話すら面倒くさくなって、隆士は適当にはぐらかせた。彼自身、なぜ小町があれほどの怪我をしていたのかを知らなかったのだが、今言うのはなにか言い訳のように聞こえそうだったので、言わないでおきたかったからだ。長々と小町のことばかりを話されるのも、それはそれで面倒だ、とも思っていたのだが、小町が拗ねそうだったのでこれも言わないでおいた。
「……あなたが寝ている間に考えていたんですが、『境界の力』について、昨日あなたが教えてくれた推論……」
「あれ、俺ってそんなことまで言ってたっけ?」
「どれだけボーっとしてたんですか。独り言みたくブツブツ言ってたじゃないですか。まあ、この中で一番煙を吸ったのはあなただったでしょうから、ボーっとするのも無理はないといえばないでしょうけど……」ともかく、と小町は言う。「私の方でも、あのまま放っておいた場合の推論を立てました。私たちが『孔』として存在しているというのなら、力が大きくなる、というのはつまり、『孔』が大きくなるということだと考えられます。とすると、あのまま榊さんを放っておけば『孔』は拡がり……、あとはわかりますね?」
隆士はそれを想像したくなかった。火炎に飲み込まれる自分や茜、小町を想像してしまって、少しだけ鬱になった。
頭を振って想像してしまった光景をかき消して、隆士は改めて小町と向き合う。口をパクパクと動かし、何かを訊きしぶっていた。
「……あの、さ」
「つばささんのことですか?」
「……まあ、そうだな」
「茜さんには、言わなくてもいいんですか?」
「……そうだな」
「学校から帰ってくるまで待ちますか?」
「……それがいいかな」
隆士は自分自身でも驚くほど弱気になっていた。その理由はわからない。なぜこんなに弱気になってしまっているのか、彼はまったくわからない。
ただ、聞きたくない、ということはなかった。むしろ、隆士は聞かなければと思っていた。ただ、何が理由で弱気になっているのかがわからない。それだけが、隆士の中の不安を膨らませていた。
それからすぐに金井は「大学があるから」と言って、病室を去って行った。彼はほとんどしゃべることはなかったが、隆士の肩を励ますように一度だけ、強く叩いた。
「じゃあな。退院したらメシ奢ってやる、約束だったろ?」
それだけを言い残して、金井は帰った。
小町は、隆士が話せる状態ではないと判断したのか、備え付けのテレビにかじりついていた。隆士の家で見たときと同様に、彼女は忙しなくチャンネルを変えている。隆士もそれをぼうっと眺めているだけだった。
昼前になって、医者が看護師を二人ひきつれてやって来た。金井が言っていた通り医者の顔色はあまりよくなく、隆士や小町のことを異常なモノを見るような目で見ていた。
「世の中には医学や化学じゃ説明のつかないことが起こるって言うけどね、まさか自分がこんな
「はあ、まあ」
疑わしげな視線を向けられながら言われると、隆士も曖昧な返事しかできない。また「小町に殺されたんだ!」と叫び散らしても詮無いことだろう、と半ばあきらめも入っていたが。
「ともかく二人には、一応あと二日だけ入院してもらうことになるから。あと、もう治ってるし包帯しとくものメンドクサイよね、取っちゃおうか」
医者は隆士と小町の包帯を取るように看護師に指示を出した。小町の方の看護師はベッドを区切っているカーテンを閉じ、小町の方をずっと向いていた隆士には「前を向いておく!」とお叱りが入った。それでも隆士はチラチラと小町の方を盗み見ては、ため息を吐いた。見れないから、というわけではなく、いまだにつばさのことを聞くことに対して不安が膨らんでいっているからだった。
包帯を取り終わり、医者が帰って行くと、また、病室に二人っきりになってしまった。
「…………」
「…………」
言葉はない。小町はテレビを見ているし、隆士はぼうっと天井を見上げている。
昼食を食べ終わってからもその空気が変わることはなく、さすがの隆士もそれに耐えかねて、フリースペースへ移動した。何週間も前の雑誌を読み漁り、適当な文庫本を数ページ読んではあきらめる。そしてまた雑誌を見る、の繰り返し。
そうしていること、二時間は経っただろうか。ペタペタとスリッパを鳴らしながら小町がフリースペースへやってきた。隆士は別にそれを気にすることなく、読んでいた雑誌に視線を戻した。
小町は適当な雑誌を取ると、隆士の隣のイスに座った。
「……独り言、ですから」
「……そうか」
「榊さんは『境界の力』を使って、この世から争いをなくそうとしていた。でも、その方法も争いだった。ただ、絶対的に有利な力、私の『未来視』を使えば争いも争いでなくなる。そう彼は考えていたんです。そんな
聞いていないフリをしていた隆士は、チラ、と小町を覗き見た。俯いたまま雑誌をぐしゃぐしゃになるまで握っている。
隆士は、榊のことをよく知らない。小町にとってどんな父親だったのか、どんな風に映っていたのか。全然知らない。知ろうとも思わない。
「……これ、独り言なんだけどさ」
「はい」
「……宝院小町ってヤツは本当に馬鹿だと思うわけ。俺なら、どんなデタラメな話をされても向き合う。向き合いたいね、大事な人だってんならなおさら。そんなことする暇があるんなら、俺を遊園地の一つにでも連れて行けってごねてやんのさ。茜だったら、おでんを奢ってやりゃすぐに機嫌直す。下手に相手を逆なでするようなことすっから、関係ない人まで巻き込んじまうんだ」
「……ごめん、なさい」
「おっと、独り言聞こえてた? ごめんねー、ドちびちゃん。でも、あんまりにもお前が馬鹿だからさ、殴るのはツケにしてやってもいい」
「え?」
「店でツケしたら、金を払わなくても飯は出てくる。あー、まあ、そういうこった」
「…………」
ポカン、と。
隆士はそれに気がつくことなく、雑誌に目を向けた。
「なんだよ、ったく」
「いえ。あの……、ありがとう、ございます」
「ツケだっつってんだろ、ありがとうなんていらねえってーの!」
「照れ隠しですか?」
「違ぇ! やっぱツケなしにするわ、お前今すぐ歯ァ食いしばれ!」
雑誌を机に叩きつけ、イスを倒すほどの勢いで隆士は立ち上がった。それをいつもの無表情で飄々と受け流しながら、小町は雑誌を読み始めた。隆士が拳を握りしめると、なんだなんだ、と看護師や入院患者、お見舞いに来ていた人が集まってくる。隆士は一気にバツが悪くなって、集まってきた人たちを睨んで追い返し、イスにどっかと座り込んだ。
「殴らないんですか?」
「やっぱツケにしとく」
「ああ、そうですか。それはよかった」
あまりに嬉しそうに言うので、まさか笑っているのかと隆士は驚き小町の顔を見た。だが、やっぱり彼女は無表情で、その眼は雑誌の記事を追っているだけだった。
それが面白くなくて、隆士はまた雑誌を読み始めた。同じことの繰り返しが続く。
フリースペースにある雑誌をほとんど読み終えて、さてどうしようか、とぼんやりとしているときだった。エレベーターから、茜が出てきた。俯き加減に、やけに元気がない様子で歩いており、ブツブツとなにやら呟いていた。小町も彼女に気がついたのか、呼びかけようとしたのを、隆士が止めた。
「面白そうだから見てようぜ」
「……意地が悪いです」
茜はフリースペースの隆士たちには気付かずに、そのまま病室まで歩いて行ってしまった。しばらく耳を澄ませていると、勢いよく病室のドアを開く音がして、そのまま沈黙。その沈黙は数十秒続き、続いてドタドタと慌ただしく走る音がして、血相を変えた茜がナースステーションへやってきた。早口で「隆士がいない! こまっちゃんがいない!」と連呼していた。
そのあり得ないほどの茜の慌てっぷりに、さすがの隆士も悪いことをしたと反省し、フリースペースから茜に声をかけた。
「ここにいるぞー」
「隆士! こまっちゃん!」
まるでゾンビのように手を前に出し、ゆっくりとフリースペースまで歩いてやってきて、隆士の顔と小町の顔をペタペタと触ってから脱力して、床に座り込んでしまった。
「よかったぁー。本当によかったよー。もー、どうして声かけてくれなかったのー?」
「いや、俺らも雑誌読んでてさ、気がつかなかったんだよ。ごめんな」
「もー、勘弁してよねー」
あはは、と笑う茜を見ながら、隆士も苦笑い。それを無表情のまま横から眺めていた小町は、ため息をひとつ挟んで言った。
「……『面白そうだから見てようぜ』って言ってましたよ」
「おま、馬鹿!」
「なっ、隆士の馬鹿! 私、私がどれだけ心配してたかわかってるの!?」
「だから、ごめんって!」
「嘘ついたもん! 隆士嘘ついたもんっ!」
「ガキか、お前は! ていうかドちび、てめえ!」
「……いい加減そのあだ名で呼ぶのやめてもらえませんか? あることないこと言いたくなります」
「やめろ、馬鹿! お前の冗談はシャレになってねえ!」
「茜、私、昨日いよいよ彼に初めてを……」
「隆士っ! アンタって子はぁーっ!」
「お前こいつの話聞いてた? あることないことって言ってたよね!」
「『ある』こと、『ない』ことでしょっ! あったんでしょっ!」
「なかったことに決まってんだろ、アホッ!」
その後、彼らは騒いでいたところをそのやかましさに耐えかねた看護師にこっぴどく叱られ、病室に強制送還されてしまった。隆士は病室に送り返されてから数分間、茜に平謝りし、なんとか許しをもらったところで、小町が口を開いた。
「それで、聞くんですよね、つばささんのこと」
「……聞くよ」
「うん。私も聞かせてほしいかな」
「わかりました」小町は静かに頷き、つばさのことを思い出すようにしばらく沈黙してから続けた。「中学三年生の夏に、つばささんと初めて出会いました。彼女は公園でうずくまっていて、一緒にいた榊さんと『具合が悪いのですか?』と声をかけました。そうしたら、彼女は驚いて振り向いて、手の中にいた小鳥が逃げてしまったんです。逃げたと思っていたと言った方が正しいのですけど」
つばさと榊、小町の出会い。中学三年生という時期の合致。夏休みが明け、つばさが付き合いを悪くした理由。隆士は確信した。間違いなく、榊のせいなのだと。
「つばささんはそのとき、『小鳥が怪我をして飛べないようだから、どうにかできないかと思っていた』と話してくれましたけど、小鳥は実際に飛んで行きました。まあ、怪我をしていなかった、と思えばなんら不自然なことはなかったのですが、榊さんが彼女の指から血が出ているのに気がついたんです。それにも彼女は『突かれた』と言っていましたが、その傷は明らかに切り傷でした」
「待てよ、それじゃあ、つばさも――――」
「はい。『境界の力』の持ち主でした。それも、とても特殊な」
曰く、つばさの言い訳を聞いて、問い質していた榊が自分の指を同じように傷つけ、小さな火を出して見せると、つばさも警戒を解いたらしい。「不思議な力が使える」と榊らに話したつばさは、榊の指の切り傷に手を当て、綺麗に傷を治してしまったという。
「その後、話はトントン拍子に進みます。榊さんは彼女を私たちの家――、私の前に住んでいた家に招待して、ここにいる人はみんな君と同じような力を持った人たちだ、と紹介しました。彼女の元来の優しさと明るさから、みんなとすぐに打ち解けました。同い年の私も、例にもれずに仲良くなりましたよ」
「……茜、つばさって、死にかけるような怪我したことあったか?」
「ううん、ないと思うよ。でも、確かちっちゃい頃、四十度超えた熱出したことあるって聞いたことある、かな?」
「おそらくそれが原因でしょうね。さて、話を戻します。つばささんの優しさと、彼女が能力を使う時に出てくる細く赤い糸を見て、榊さんは彼女の能力を『
隆士はそれを聞き、反射的に胸を押さえていた。どくん、と心臓が動いている。確かな力強さで、心臓が動いていた。
小町はそれに何かを言おうとして、茜を見て言葉を飲み込んでいた。その様子を見た隆士が、小さく頷いた。ツケではあるが、隆士は遠回しにそう言ったのだ。今さら小町に殺されたことをとやかく言うつもりはない。
「それじゃあ、俺が死んだってのに生き返ったのは……」
「つばささんの、能力でしょう。自らを傷つけたキズに比例したキズを治すことができるというのなら、自らの命を投げ出せば、誰かの命を救えるのは道理です。おそらく、あなたの腕の骨折があっという間に治ったのは、残った力が働いたんでしょう」
「馬ッ鹿じゃねえのか、あいつは……っ」
イラ立ちから、隆士はベッドを思い切り叩いた。ギシ、と軋むだけで、ベッドが折れることはない。茜は隆士のその姿を見て、何か声をかけようとして、できなかった。
そんな二人を見ても、小町は無表情のままだった。内心、戸惑いが多かったのかもしれない。彼女もしばらく押し黙ったままだった。沈黙が続く病室の空気を破ったのは、隆士だった。
「それで、続き話してくれるか」
「……、はい。夏休みが明けてからも、彼女はずっと私たちの家を訪ねて来てくれました。確か、『隠し事ができずに話せるのは、気が楽だから』と苦笑いしていたと思います」
「……私たち、そんなの気にしないのにね?」
「今さらだけどな。今度墓参り行ったら一発ずつ墓石蹴ってやろうぜ」
苦笑しながら隆士がそう言うと、茜の返事も苦笑いだった。
――終わったことならなんとでも言える。
隆士は思う。傷をすぐに治すことのできる力。そんなものを目の前で見せられて、そのためにつばさが目の前で自傷するのを見せられて、平気でいられる自信を、隆士は持てないでいた。
きっと取り乱す。「何してるんだ」と叫び散らす。もしかしたら、殴ってまで止めているかもしれない。隆士は自分で自分が厭になる。そして、それをつばさは『嫌われた』と解釈してしまうかもしれない。それが何よりも、隆士のことを責め立てていた。
「そして、彼女が高校に受かったことを報告しに来た日でした。榊さんはいよいよ、私とつばささんに『世界征服』の話を持ち出しました。それを聞いたつばささんは激昂して、榊さんと口論になりました。榊さんにしてみれば、見事に裏切られたと思っていたんでしょうね。榊さんもまた激怒して、つばささんを追い出しました」
「なあ、おい。つばさはなんて言ってたか、覚えてるか?」
「『あなたが考えているほど世界は弱くない。そんなものに協力するくらいなら、私はもっとずっと親友と生きていたい』。これだけは、しっかりと覚えています。この言葉が、私のきっかけだから」
隆士は、その言葉に耐えられなかった。自然と、涙がこぼれてきていた。我慢しても、身体が震える。声が、出る。
「…………つばささんは、言っていました。『巻き込みたくない大好きな人がいる』って。それがきっと、あなたたち」
「なんで死んだんだよ、だったらなんで、なん、で……」
「……きっと、隆士だからだよ」
隆士の疑問に答えたのは、茜だった。
涙でかすむ視界で、隆士は茜を見た。彼女は笑っていた。涙を瞳一杯に溜めながら、満面の笑みをしていた。彼女の続く言葉は痛々しいほど声が震えていて――――
「きっと、隆士が、ね? まっさきに私たちをまもってくれるって信じてたから、つーちゃんはね、きっと、ね……? りゅうじに、ね、ね……?」
つーちゃん。隆士はその響きを本当に久しぶりに聞いた。茜から、つばさの名前が出ることは、片手で数えられるほどしかなかったからかもしれない。それか、ただその響きが懐かしかったからかもしれない。
――――だから。だから、隆士は、我慢ができなくなった。蛇口が壊れてしまったように、涙がとめどなく流れ、流れ、零れて、落ちた。
二人の泣き声が、病室に響いた。
小町はその二人を見て、病室から静かに出て行った。
子どもの声ではない泣き声に看護師が駆けつけて来たが、小町が決して病室には入れずに、扉の前で仁王立ちしていたというのは、二人の知らない話であった。
隆士が思っていたより、退院までの二日は短かった。
久しぶりに出た日光の下は、目が痛くなるほど眩しかった。
この二日、何もしていなかったと言えば、隆士は何もしていなかっただろう。ただじっと、フリースペースに入り浸り、昼食と夕食の給食までそこで食べるという徹底ぶりで、思い出をかき漁っていた。
二日だけでは思い返せないほど、つばさや茜との思い出があった。
遊んだ場所、時間。
怒られた場所、時間。
泣いた場所、時間。
楽しかった場所、時間。
思い出していけば思い出していくほど、芋づる式に新たな、眠っていた思い出が蘇ってきた。子どもの頃のたったひとつの思い出が、今に至るまでに幾多の思い出を生んでいる。子どもの頃の記憶はだんだん薄れてきていたが、それ以上に今の思い出が多くあることに、隆士はいちるの幸せを感じることができていた。
いつか、写真を見なければつばさの顔を思い出せなくなる日が来るのかもしれない。そう思っても、隆士にはもう、それは気にすべきことではなくなっていた。
過去は記憶の中から薄れていずれは消えていく。だけれども、今はそれ以上に得るモノが増えた気がする。隆士は、少し後ろについて歩いている小町を見て、そう思った。
「惚れましたか?」
隆士の視線に気づいたのか、小町は視線を合わせずにサラリとそんなことを言う。せっかくの清々しい気分を台無しにされた気がして、隆士はため息をついた。
「なんでだよ、ふざけんな」
「それは残念です。惚れたならツケだってなしになりそうだったのに」
「はいはい」
「でも――」
少しだけ、楽しそうな声音で小町は顔をあげた。いつもの無表情に変わりはないはずなのに、隆士には、その表情がやわらかく見えていた。じとっとした半眼と、真一文字に結ばれた口元が、どことなくゆるくなっているような気がして。
「ツケってことは、そばにいろってことですよね」
とんでもない
隆士のその姿があまりにも予想外だったのか、小町までポカンと固まってしまっていた。
「ちょっと、なんでいつもみたく否定しないんですか」
「いや、そんなんじゃねえよ。ビックリしてただけ。お前なんか本気でそれ言ってるっぽかったから。いっつもこう、冗談めかして言ってたから」
「だって、本気で言いましたから」
「……何様だよ、お前」
あきれながら、隆士は口の中で呟く。
照れを隠しながら、隆士は家路に戻った。小町も隆士に黙ったままついて歩いていく。
しばらくそのままの状態が続き、ふと、隆士に違和感が蘇ってきた。それはまっさきに覚えた違和感で、一度決着をつけたはずの違和感だった。
なんで今頃思い出すんだ、と自分の問いかけに頭をひねった。
『
これに、隆士は「なぜ俺を殺しに来た」と返した。この言葉の通り、小町が未来を視ていたのだとすれば、隆士を殺そうと思わずに、彼と会わずにいれば、そのまま彼女の死は回避できたはずなのだから。それでも、小町が隆士に会いに、殺しに来た理由を彼女は――
『確かめてみたかった。自己満足だって判ってた。巻き込むって、視て知ってた。だけど、私は確かめてみたかった』
小町は一体、
本当に死んでしまうのかを確かめたかったのか? 違う、と隆士は否定する。本当に死んでしまうかなんて、「確かめたい」と思うはずがないからだ。小町は自分自身の能力がどういうものなのかを理解しているぶん、それはいよいよありえない。
だとすれば、一体何なのか。
「なあ、ドちび」
「…………なんですか」
「俺を殺しに来た本当の理由ってなんなんだ?」
「まだそれ引っ張るんですか。ツケにしてくれるって言ったのに?」
「違えよ。お前、確かめたかったって言ったよな? 何を確かめたかったんだ?」
「……それくらい察してほしいものですね」
隆士は顔をしかめた。小町の無表情からどう察すればいいのか、彼女のめちゃくちゃな言動のどこから察すればいいのか。隆士にはそれらがまったくわからなかった。
隆士のその顔を見て、小町は無表情のまま、盛大なため息をついた。
「ヒントです。私の未来の中で私自身の行動が、そのときの私には考えられない行動だったから。それは本当にそうなるのかを、確かめてみたかった」
「だから、その確かめてみたいこと、お前の取った行動ってのを教えろって言ってんだよ」
「それくらいは自分で考えてもらわないと、私としても困ります。ぜひ、解を導き出してもらいたいものですね、ワトソン君」
誰がワトソンだ、とあきれながらも、いつもと違う口調だった小町に意地になって、隆士も何が何でもその解答が知りたくなってとにかく考えた。
あと数分で自宅に到着する、というところまで考えても、それらしい解答が浮かばない。
道すがら、あと一つヒントを貰おうと隆士が頼んでみるも、小町は顔をそむけて教えてくれそうにはなかった。全然わからない数式を目の前にしたときのような気分を抱えながら、普通に歩いて帰るよりも、たっぷりと時間をかけた帰宅をしてしまった。
家の前まで来て、隆士は考え始めてから、やっと「ヒントをくれ」以外の言葉を言った。
「わっかんねー」
「はあ。まあ、見事に期待を裏切ってくれましたね」
あきれたような口調で、小町が言う。隆士はそれにしかめっ面をして返した。小町はそれを気にする風でもなく、「さっさと扉を開けろ」と言わんばかりに玄関を指差し、催促した。
「お前、何様だよ本当に」
「そうですね、何様か、ですか?」
不敵な雰囲気を出しながら、小町はあきれて突っ立っていた隆士の手の中にあった家の鍵を奪った。あ、と声を出す暇もなく、隆士は後ろから勢いよく抱きつかれた。
「どあっ!?」
「隆士おかえりーっ」
「いたたたたっ、おまっ、首痛い!」
隆士が茜に絡まれている隙に、小町は鍵を使って滝宅の玄関を勝手に開けた。それに文句を言おうにも、隆士の首は茜が気付かずに絞めていて言葉を出せない。
隆士に断りも無く、小町はなんでもないように扉を開けた。
「宝院、勝手に入るな! 茜、お前はいい加減放せ!」
小町は隆士の叫びも全く聞かずに、するりと家の中へ入ってしまった。彼女はそのまま顔だけを扉の陰から覗かせて、口を開いた。
「ねえ、知ってますか?」それは意地悪な答え。隆士と茜は動きを止めて、小町の方を見据えた。「私が確かめたかったこと。私は基本、神様なんて信じてません。なら、なにを信じて祈るのでしょうか。答えは単純。答えは、あなたです」
顔と同じように覗かせた指で、小町は隆士を指差した。
隆士は自分を指差し、茜は不思議そうに隆士の顔を見た。
「そう、あなたです。私が確かめたかったこと。よければ、私の神様にしてあげてもいいですよ? どうですか、悪い話じゃないと思います」
「断る」
だが隆士は、すぐに否定の言葉を小町に投げていた。
「頭悪いですね、こんないい話めったにありませんよ?」
「うっせーよ。最後まで頭悪い言いやがって。何様のつもりだ、お前」
小町は不満そうな声でそれに抗議し、また同じように隆士も反撃する。
ただ、何様だと聞かれた小町は、
小町が、笑った。
「私が何様か、ですか。そうですね――――」
隆士はこのとき、つられて笑っていた。小町の笑顔が見れたこと、それが始まりな気がして。
隆士と、茜と、小町との、思い出の始まりな気がして。
「例えば、あなたの
滝隆士は、椛路茜を、宝院小町をひきつれて。
一歩前へ踏み出した。