DIGITAL MONSTER ∃I zero→Evolution 作:ゴキゲンな蝶
強者は知恵を育まない。
知恵とは生きることすら地力では足りない弱者が不足を補うためのものだからだ。
知恵の種は、恐怖という土壌からしか芽吹かないのである。
なにが言いたいのかと言えば、かつては絶対強者だった彼は、たったいま、知恵者の資格を得たと言うことだ。
目覚めた彼に訪れたもの、それは彼という人格に萌えた初めての複雑な思考だった。
空虚、心許なさ、息苦しさに似た存在の困窮。
周囲の巨大な草花にさえ自身は劣っているのだと、データの集合体としての直感が告げている。
咄嗟に彼はその場にうずくまった。
全てに脅えた彼は小さな手で眼を覆い、情けなく尻を突き出しながら震えた。
ふふ、と。
頭の上から聞こえてきたのは思わず溢してしまったといった調子の微笑だった。
窺うように覗けば、どういうわけか見覚えのある気がする碧色の瞳を見つける。
「調子はどうですか? 小さな小さな皇帝くん」
少女が膝を突いて手を伸ばす。
言葉の意味なんて理解出来なかった。
彼女がどんなつもりかなんて考えたわけでは無かった。
このとき、自分をなんとか守ることにしか頓着が無かった彼がしたことは、尻尾を巻いて逃げ出すことだった。
「あ、こら、待ちなさい」
耳を貸すはずも無く、自分の背丈程もある青々とした林へと駆け込んだ。
身体の表面が常にぴりぴりと張り詰めている感覚、内側では、はっきりとしない欲求が脈動の度に押し寄せる。
恐怖という感情の名前すら彼は知らなかった。
岩床を寝床にしていた彼の青い肌は、枝葉にさえ負けていくつもひっかき傷を作る体たらくだった。
弱さを感じる毎に肥大化する生存欲求。
可哀想な彼はその自覚すらも出来ない程に無知なのだ。
当然のように理解もしていない。
このエリアはかつての彼が支配していた強者と生きる術を持つ者だけが生存を許される場所だと言うことを。
林の中を走れば穂先が揺れる。狩人共に獲物の場所を態々教えているようなものだ。
ひゅるひゅるひゅる
耳朶をくすぐる、風を捲る音。
急かされるように構成データが粟立つ。
そら、来るぞ来るぞ、逃げなければ削除(DELETE)だ。
搾取される、徴収される、なにもかもを奪われる。
消滅を間近に感じる。
ひゅるり
音階が上がった。
「止まれ!」
データの震撼に自体の構成情報を竦めたと同時だった。
――チヂッ!
風の刃が行く先を切り裂いたのだ。
構成データを巡る乱数に酔い、眩む。
この脆弱で小さな身体はたかだか攻撃の余波にさえ膝を突く。それでもまだ逃げ続けることしか考えていなかった。
震える頭を持ち上げる。きちきちと、顎を鳴らす三角頭の複眼が傾いで覗いてきた。
動けなかった。
捕食されてデータを持ってかれるのを待つしか無かった。
ただ動けなかっただけなんだ。
「そう、それでいい」
炎弾が三角頭をデータ塵に変えたのだ。
金切音が霧散するデータに塗れて消える。
炎々と、金髪を灼色に揺らす少女は、アルを襲った甲虫をぱきりと踏みつけて言う。
「わたしに傅きなさい」
少女の両腕に炎が燃えていた。
「かわいそうな弱っちいキミ」
くすぐるような声音で彼女は言う。
TASK KILL
宣言で灼熱の武装(アーマー)を解いた少女は、びくりと脅える小さな彼の頭に無遠慮に手を乗せ、その整った顔を刷り込みさせるように近づけて言うのだ。
「守ってあげますよ、庇護してあげます。わたしが見守って育みましょう。お前の在るべき姿に到達するまで、ね」
そら、
「握手しましょう。今日からわたし達は『パートナー』ですよ」
小さな彼の意思なんて最初から関係なかった。
この世界では強者の意思のみがピックアップされるのだから。
『主従関係 (パートナー)』。
そんな契約は一方的なシェイクハンドで結ばれた。
それから、彼女は小さな彼の長く伸びた青い耳をむんずと掴んで引き摺った。
「ああそうだ、これからしばらく一緒ですから呼び方が必要です。分かりやすいのが良い。なにが良いでしょうか?」
彼女はしゃがみ込むと、ふーふーと唸る小さな彼に指を突き付けて言った。
「――アル」
二度、三度、彼女は頷く。
「うん、そうしましょう。お前を『アル』。そう呼びましょう」
自分のセンスに満足がいったかのようだった。
小さな彼の胸に湧く、疑心や反抗心には、彼女はまるで無頓着だ。
それでも、
こくり。
頷く以外に、彼には生存を守る術が無い。そのことを『彼』の、『アル』の本能が識っていた。
事象、存在の定義、観測――故に、定着。
その碧色の眼差しに覗く深淵の昏きこと、なお昏きこと。
「返事をなさい、アル」
せめてもの抵抗とばかりに、聞こえるか聞こえないかの大きさでアルが低く唸ると、彼女は「よろしい」と口角を吊り上げたのだ。
―― 1001101100 ――
『アイ』と、少女は名乗った。
耳を掴んで宙吊りにされた歯を剥き出しにするアルに向かって、少女は自身を指してそう教え込んだ。
最初はもう少し長くて違う響きだったが、アルが発音できないから、単純な二つの音にまで短くしたのだった。
アイは、アルの反抗を許さなかった。
名前を教え込むときも、唸ろうものなら頬を張り、黙っていても頬を張る。
「『アイ』、言ってみなさい、『アイ』です。できるでしょう?」
こう啼かれたらアルはなんとか音を倣って「アイ」と返すしか無い。そうしてやると彼女はイジワルに碧眼を細めて「よろしい」と言うのだ。
そんな調子のことが何度もあって、アルは有無を言わさずにアイの言葉を理解しなければならなかった。
逃げ出そうとも考えた。だが、考えただけで終わった。振り上げられた大鎌と三角頭の複眼の記憶がアルの脚を絡め取り、ぶるりと全身を脅えさせるから、すごすごとアイの休む場所まで戻るしか無かった。横目に見る彼女の口端が吊り上がって見えたのはきっと見間違いじゃない。
ふつふつと煮える呼び方も分からない胸の内のデータの戦慄きさえ、彼女の寝返り一つで黙ってしまった。
アイのご機嫌を伺う姿は惨めだった、卑屈だった、みっともなかった。
だけど彼女に向ける牙はとうとう冴え渡ることは無かった。
真っ当に叛意を見せるわけにもいかない愚図るアルを見留めると、彼女はアルの青くて長い耳を引っ掴んで歩きながら言う。
「さあ行きますよアル、世界を救いに」
そんなときの彼女の碧眼の鋭利さはアルの身体の動きをぎこちなくさせる。
噛み締めた辛酸は、着実にアルの構成データの確信にこれまでに無いパターンを構築した。
問答無用で目の前の対象を破壊することしか考えていなかった、かつて皇帝竜として君臨した小さなモンスターは、あろうことか食むべき獲物の機微を窺って一喜一憂する思考ルーチンを獲得していたのだ。
情けない弱者のための思考、則は、畏れ。
絶対強者、皇帝竜の成れ果ては、少女に隷属していた、恐怖、故に。
ぎりり
口の隙間から真っ赤なエフェクトが漏れる。自らを傷つけるほどに皇帝竜の成れ果ては屈辱を噛み締めていた。
いつかと思っていた。
必ず思い知らせてやる。必ずその日は来る。そう念じていた。
それでもなお、
「アル」
彼女のたったの一声に、身体を竦ませる日々が過ぎていく。
―― 100110 ――
アイは、ただあてどなくアルを連れ回しているわけでは無かった。
その足の向く先には常に目印が聳えている。
『大樹』だ。
巨大な、その全容を把握しようとすることさえも烏滸がましく思える程の超質量データのオブジェクト。
さながら天と地とを一本で隔てる柱であった。
その異様さを語る証拠を提示せよと問われれば、きっと、この一言で足りる。
『この世界のどこに居ようとも必ず聳えている』
さながらは現人神が如く、この世界に存在した生物が共有して見上げ、礼拝することになる、枝葉さえも観ることが適わない神木。誰しもが畏れて近づくことを本能で拒んだその場所へ、アイはアルを引っ張って歩いた。
彼女は頻繁にアルに言う。
「強くなりなさいアル。『進化』しなさい」
碧眼の魔力でアルを釘付けにしてから、彼女はアルを引っ叩く。
「進化しなさい。それがお前のやるべきことで、この世界のためになる」
どうでも良かった。
アルにあったのは際限ない屈辱感だけだった。
紅いデータ片を噛み締めて、それでもアルはアイから眼を背け続けていた。
だからこそ碧眼は徐々に鉄刃の冷血さでアルを見下ろすようになった。
アイと旅路を共にする様になって暫く、アイのやり方はエスカレートし続けた。
「アル、抵抗なさい」
アイは拳を振りかぶり、アルの頭の横をぶん殴った。
「アル、やり返しなさい」
アイはつま先をアルの腹目掛けて蹴り上げた。
高い木の枝に放り投げられて自力で降りてこいと言ってみれば、囲んだ火から脱出してみろとも命じた。
「アル」「アル」「アル」……
煽るような文言と暴行。
課題の押しつけ。
彼女の要求に、ことごとくアルは応えることが出来なかった。
翻意は絶やさないクセをして、下ばかりを見る卑屈な精神が彼を孤独に閉じ込めて、アイの碧眼を真正面から見ようともせずに、蚯蚓のようにみっともなく這いつく張り続けるばかりの日々が続いた。
自分の境遇ばかりを嘆く曇った瞳は、何一つとして見えていなかった。
だからこそ、碧眼の冷徹はますます鋭利に研がれることとなったことに、アルは気が付くことが出来なかった。
―― 1001 ――
「はぁ」
アイの暴行は日を追う毎に雑になった。このところは暴言を吐くことすらも止めて、碧眼で見下ろし、ひたすら棒で叩く。今日に至っては、ため息さえも出る始末だった。
アルは身体を丸めてアイが飽きるまでやり過ごすことばかりを考えていた。アイの側にいても碌なことにならない、だが彼女はアルに肉を与え、休息を与える。アルを虐めはするが殺そうとはしていない。そして何よりも、強い。
二足歩行が出来て、ある程度の知性とデータ容量を内包する個体はアイの姿を見ただけで逃げていく。アイよりも数倍身体の大きい獣や、鋼と重火器の部位を搭載する無有機合生体すらもアイからは逃げ出す。むしろ、そう言った力が強く、弱肉強食を勝ち抜いてきた個体ほどにその傾向が見受けられる。
彼らはその知性故にアイに潜在するデータ量に脅えていた。
だが、生き抜いてきた個体が知性によって生き抜いてきたとは限らない、どちらかと言えば天性(ランダム値)で授かったデータの暴力で生き抜いてきた個体の方が圧倒的に多い。
彼らは不幸だ。
手向かう彼らを前に、アイはフードを払って金髪をはためかせると、唱えるからだ。
「レプリケーション」
炎弾が、雷撃が、風斬が、彼らを等しくデータ塵に代えて終了させた。
彼女の側にいれば辛い目に遭う、苦しい思いをする。その代わり死ぬことは無い。彼女に侍ることこそが小さくなった彼の学んだ唯一の生存戦略だった。
彼は日々を生きることに必死だったのだ。だから、目前しか見えていなかった。
そんな思考放棄と甘えは、彼女の望むところでは無いことに気付くことが出来なかった。
―― 100 ――
それは皇帝竜が縄張りとしていた昆虫と竜のデータが色濃いエリアを抜け、獣と雑木林のデータエリアを踏破した先にある、剥き出しの岩肌と灼熱の気温に晒された荒野エリアで起こったことだった。
「はあ、成ってない。お前はまったく成って無い」
棒で散々打ち据えた後に、アイは丸まっていたアルの長耳を掴んで宙吊りにして、顔を近付けて言った。
いくら掴み上げられているとはいえ、この距離ならば、その端正な横っ面に拳の一つでも叩き込めそうものだが、もはやアルは呻り声の抵抗さえもしなくなっていた。なんとかやり過ごそうと耳の付け根の痛みに耐えて顔を覆う。殴られて一番痛いのは鼻だと学習してからは、このポーズがお決まりになっている。
早く終わってくれ、さっさと解放してくれ。
殴られている時はそんなことばかり考えている。
ふいに、
「がふっ」
アイはその場にアルを落とすと、慌ててうずくまる小さな彼の頭上から言う。
「立て、わたしを殴れ、わたしにその存在の活力と可能性を証明せよ。進化に至れることを示せ。でなければ――」
「……」
からり
棒が転がる。アイは腕を組んで碧眼で見下ろした。
恐ろしかった。
その刺し貫かんばかりの鋭さが質量を持っていないことに安堵した。
今日はいつにも増してしつこい、何だというのだ。
自身がかつて巨体と何者をも寄せ付けぬ力を振るう存在だったことは、うっすらと覚えてはいる。そのころの自分であったのなら、躊躇無く彼女の希望通りに噛み付いただろう。だが、その力を奪ったのは彼女だ。どうやったかは識らないが、彼女は竜殺しを行い、彼をこんなにも矮小な存在に変えた。彼を弱くしたのはアイだ。それなのに強くなれだのと宣い、暴力を強要する。
なんなのだ、この理不尽は。
そうだとも、全ては彼女のせいだ。アルから心も体もいたぶって奪ったのは、アイなのだ。彼女にはアルを庇護する責任がある。アルには彼女から安穏を享受する権利がある。なのに、それなのに、クソ、クソ、クソ。
「さあ、どうしたのです。やり返してみなさい」
「……ゥゥ」
苦渋を噛み締めて、やっと漏れた小さな彼の小さな呻り声。腹の鳴る音の方がまだマシだった。
「そうですか」
「……かっ!!」
浮遊する身体、酩酊したように回る景色。
ジ、ジジジ
構成データが軋みを上げ、耳の裏側でスノーノイズが、がなり立てる。
腹を蹴り上げられた。それも意識が一瞬飛ぶほど強烈に。
過る、否定する、拭えない、考えてしまう。
アイが、殺しにきている。
そんなことになったらどうしようもない、この身体は小さく弱いのだから、アイの庇護がなければ生きられない。
なんなんだよ、どうしてこんなことをするんだ。
助けてよ、助けてくれよ。
恐る恐ると顔を上げた先で、ああ、されども碧眼は冷徹に光るのみだった。
ジジジ、ジジ
だれも、たすけては、くれない。
構成データが震えている、脅えている。
傷み、痛み。
荒野エリア特有の乾いた砂粒が口の中でざりざりと擦れる。
「ひきっ」
逃げようとして脚をもつれさせて転んだ。
追い打ちを掛けるように、アイは再びアルを蹴り跳ばしたのだ。
今度の浮遊は長い。崖から突き落とされたのだから当然だった。
なんで、どうして
手足をばたつかせ、溜まった側から頭上に流れる涙の粒の向こうで、少女の鉄の美貌が無慈悲な言葉を落とす。
死にますよ?
ジジジジジジッ!
ヒリつく、頭項から尻尾の先までを冷えた鉄でなぞられたかのような悪寒。
身体を捩って振り向けば、すぐそこには生え並ぶ三角歯があった。
荒野エリアに生息するのは竜と呼称されるデータのなかでも、特に『恐竜』種が中心だ。環境データを構成する硬い岩壁や切り立つ峰に耐えうる表皮と筋肉、そして生存競争に勝ち抜く為に、その堅牢な肉体を切り裂くことが可能な牙と爪こそが彼ら『恐竜』種の特徴である。
その牙がいまアルを食い破ろうとしている。
いつもアルを助けるために割って入る金色の君は、ただアルを見下ろしている。
100110110010
ジジジ、ジジ
生きたい。
ジジジジジジジジ
生き続けたい。
「うわぁあ」
みっともなく宙空で身を捩ってばたつく。
たまたま鼻先に足が当たって顎の狙いが逸れた。
がちり、数ミリの向こうに巨大歯の脅威を思い知る。
黒々とした固い地面に頭から落ちた。
それが功を奏した。
アイが素手で叩くのを嫌がるほどに固い頭はむしろ、地面に罅を入れたほどだった。
「あぐ、ぅう」
腹が熱い。
紅いエフェクトが白い腹から漏れ出ていた。
「ああ、ああ」
掌からさらさらと流れていくデータの残滓が、間近に迫った自身の構成の崩壊の予感を告げている。
死ぬぞ、死ぬぞ、お前は死ぬぞ(DELETE! DELETE! DELETE!)。
1001101100100011010110001100001
生きたい!
「ぜ、ぁはあ」
止めていた呼吸を思い出せば、身体の中に取り入れた空気に混じった臭気に咽せる。土、鉄、涎の生臭さ。
敵がいるのだ。
アルを殺そうとしているヤツがすぐ側にいる。
がりがりがりり
大地をも抉り取る三本爪。
赤黒い外皮とは対照的な白色の爪刃。
守る?
出来るわけがない。
その爪は難なくアルを引き裂くだろう。
ぎょろりと目玉を血走らせて逃げ場所を探す。
避けるしかない、どこか、どこか避けられる場所はどこかにないか。
矮小な弱者は思考を巡らす。
跳ぶ。
恐竜の発達した両腕はその強靱さ故に、指の可動域が極端に狭い。
だからこそ、爪と爪の間、そこがたった一つの活路。
「ぐ、うっ」
転がる、転がる。
またしても腹に一本筋、先のとはちょうど対となるように刻まれる。
死ぬよりは良い、まだ生きている。
そうとも、生きている。
生きる生きる、生きる!
100110110010001101011000110000111010001111101101010010111010
傷だらけ、泥だらけ、満身創痍。
しかし瞳が燃えていた。
忘れかけていた本能が、この世界に出現(ポップ)した全ての生命に刻まれる根源が、彼が砂を掛けてしまった熾火がいま燃え上がっていた。
「ああ、ようやく」
待望の景色が、目の前に実現しようとしている予感に興奮し、アイが思わず崖から身を乗り出して、小さな彼を注視する。
必要なのは、その『本能』だった。
生きる意思、強さを求める意思、存在を望む雄叫び。
挑むための力、『生存本能』。
おぉぉぉおお!!
剛健の赤肌の恐竜が振り上げる尻尾を睨み付け、アルが咆哮する。
額のVの文様と、恐竜によって刻まれた腹のX字の傷が眩い光を放つ。
EVOLUTION
体の内側から溢れ出るデータの奔流が体中に満ち充ち、怒濤の意思のままに腕を突き出す。
小さな彼の体ではいとも容易く潰されていたであろう恐竜の尾による潰撃を、光の中から突き出された遙かに逞しく強化された腕が受け止める。
取り囲むコードの帯が彼の中に戻ったとき、そこに立っていたのは、周囲に翻弄されるばかりの小さな彼ではなかった。
体つきも上背も比べるべくもなく大きく、角張った精悍な顔つきは、少し前の愛嬌のある丸っこい輪郭とは似ても似つかない。
鼻先には鋭刃がギラリと光り、背中には翼膜が生えていた。
腹に新しく刻まれたXの文様は痛みと、取り戻した本能を二度と失わないように刻印したかのようだった。
『蒼影の幻竜』
隆々としたその肉体には、施しに縋る惰弱さはどこにもない。
「それが観たかった」
アルの変化を、『進化』を観測し、碧眼の少女は口角を吊り上げる。
欺き謀る、酷薄な悪魔の笑みにも見えた。
この秩序の乱れた世界を再構成するための力、古さを脱ぎ捨て、より強固で最適へと生まれ変わるためのプログラム。
「さあ」
さあ、さあ、さあさあさあ!
「示せ、お前がまだ玉座を覚えているのなら。偶然(ランダム)ではなく、自らがその器に相応しいことを証明して観せよ」
がああ、アアアアアア!!
ぐじぎちちち
蒼き竜の爪が恐竜の尾の赤肌を破る。
蒼竜の呵成と恐竜の悲鳴が不況和音を昇らせた先で、上回ったのは、蒼竜の側であった。
腕が脚が、みしみしと張り詰め、ついに、
ひゅっ
それは恐竜が息を呑んだ音だったか。
孤月の軌道で頭上を振り回し、岩壁へと叩きつける。
環境データが瓦解してバイナリーに還る、恐竜の苦悶の呻きが力なく横たわる。
進化を果たしたとは言え、身の丈から想像するにはあまりある膂力であった。だが、それすら一端にすぎない。蒼竜の体の中で最も発達した部位は顎であり、その咬合力を前にして恐竜の硬い外皮と強靱な筋肉などは障害足り得ない。
ぐちぶちぎちち
尾の付け根に牙を立て、食い破る。
うわんうわん、荒野の大地に反響する悲鳴は、生存本能に支配され闘争心を昂ぶらせたアルには聞こえていなかった。
足裏を背に打ち、尾を引き千切る。
殴り、蹴り、引き裂き、脅かしに来た敵を、破壊する。
恐竜の鼻先より、ちろりと炎が舐めた。
大きく開いた口の奥、喉奥に溜めた灼炎で蒼竜を呑み込もうとしたところであった。
力のままに暴走しているように見えて、アルは手に入れた知性を失ってはいなかった。
腰溜めに握り込んだ拳を振り上げ、恐竜の下顎を思い切りかち上げる。
上向き白目を剥く恐竜。
口を閉ざされ、放出先を失った灼炎が、恐竜自らの頭を焼いた。
どどうと、青天する恐竜を見留め、ようやく蒼竜は攻撃の手を止める。
「はあ、はあ、はあ」
絶え絶えの呼吸。
散乱した恐竜の肉片がデータ塵に還って逝くのを眺め続け、不安になり、自らの両手を観る。
大丈夫、生き延びた。自分の身体を構成するデータは崩れてはいない。
生き延びたのだ。
すーっと、本能と理性のバランスが整っていく。
生を噛み締めていく。
落ち着いた、こちらは片付いた、よし、よしよし、なら、――
再び、アルの構成データがざわつき、活性化する。
――やることが、ある。
見上げる先は、崖上からニタニタと気に入らない笑みを浮かべて見下す、ヒト型オブジェクト。
いつも、いつもいつもそうやって。
「いつもッ!」
壊れかけている恐竜を掴み、持ち上げる。
いつまでも、そうやって!
噛み締めた屈辱を忘れるはずがない、搾取され続けた日々は流れども、アルの中には蓄積されている。
「アァイィ!!」
恨み人の名を呼べば、彼女は悪びれなく小首を傾いで応えた。
「はい、なにか?」
ああ、気に入らない。
募らせた恨み諸共に、恐竜を投げつけたのである。
「レプリケーション」
焔の籠手から吐き出された炎弾が容易く恐竜をデータ塵へと還した。
翼膜で空を叩き、アルは突進する。
筋肉が張り詰め、データが滾る四肢を働かせて猛攻を繰り出す。
鋭く伸びた爪、貫き引き裂くために進化した角、固い肉が張り詰めた重い尾の撃。
どうしてッ!
進化したアルの全てがまるで、通じない。
「レプリケーション」
炎を纏った籠手が一切を薙ぎ払う。
同じ土台に立っていたのならとっくに叩き伏せられていた。進化によって手に入れた翼膜による飛翔で、宙空のポジショニングを維持出来なければとっくに叩き伏せられていただろう。
籠手の先がアルを定める。
熱線。
収斂した熱の一閃が頬を掠める。
瞠目する。
呼吸すら止めた。
この間隙は明らかに致命的だった。しかし、アイはなにもアクションをしない。
先ほどからこんなことばかりだ。
大振りの爪撃に伴う次撃への空白も見逃された。
体積による圧迫攻撃も容易く膂力で返された。
アイはその気になれば進化したアルを容易く制圧できるくせに、碌な反撃をしなかった。
見定めているのだ、その碧眼で。
進化したアルになにが出来るのか、どの程度強化されているのか、どの程度の負荷まで耐えられるのか。
試験して、観察して、測られている。
そんな舐め腐ったお遊びが可能な理由は単純な理屈。
彼我の絶対的な力の差。
アイの能力は進化したアルの力の限界を軽く凌駕する。
そもそもアイは絶対の力を持っていた皇帝竜を降している。進化したとは言え当時の力には及ばない蒼竜形態のアルでは適うはずもないのだ。
「さて」
その『お試し期間(ボーナスタイム)』も終わりを迎えた。
「いつまでわたしを見下ろしている?」
レプリケーション
轟風。
少女の脚が風を纏う。
波打つ金髪に眼を奪われた直後。
「がっ」
巨大なかぎ爪に変化したアイの手によって首根っこを鷲掴みにされたかと思えば、あらがえない突風に圧され、アルの身体が強かに地面に叩きつけられた。
「ふうむ」
顎に指を添え傾げると、少女はアルを拘束しているという事実さえ他所に分析を進めていた。
「オブジェクトの再構成に歪な点はありませんね。総データからの引き出し率はおよそ二十パーセント程度。比率はほぼ『竜』に偏っている。これは……、より適合性が高いデータから引き出されている? いや、限られた容量の中で複合データを扱うとなるとオブジェクトを成立させてテクスチャを構成することが困難だからより適合するデータが選別(ケースプロセス)を通り分岐したということでしょうか」
なんにしても、
「NO PROBLEM」
順調ですと、少女は一人で頷いたのである。
「あが、うぅう」
牙を剥こうとすれば、持ち上げられて叩きつけられる。
意識が朦朧とする。きっとここで眼を閉じてもう一度開いた時には、アルは彼女のパートナー(奴隷)に戻っていることだろう。
くそったれめ。
なにが進化だ。
なにも変わらない、かえられない。
でも、だとしても!
アルは瞳の中の炎を絶やさなかった。
二度と屈しない、二度とコイツの顔色を窺わない、二度と、二度とアイには平伏しない。
「アァァイイイイ!!!」
「そう力まずとも聞こえていま……」
ひゅっ
アイが手を翳し、風の防壁を形成する。
巻き上げられた直線が空を舞った。
疾矢。
横撃ちの炎の流星が、続け様にアイを襲っていた。
大地の鳴動は四足の蹄が奏でるカルテットか。
アルが横目に見つけたのは、こちらに向けて猛突する黒毛半身半馬の弓士であった。
不意にアイが視線を下げる。
「下」
硬質の大地を掘削し、アイの真下からブレードが突き出される。
栗毛とくりりとした眼、両腕に赤い爪の籠手を装着した獣。
赤爪を躱したアイに睨め付けられ、栗毛の獣は怯えを見せた後に固く目蓋を閉ざしその場で高速回転、長い両耳のブレードがアイの胴を切り裂く軌道で強襲する。
くわん
高速回転する刃をアイは下から剣幅を狙ってかち上げて往なして見せたのだ。
きゅいっと悲鳴を上げた栗毛の獣はすぐに自分が空けた穴の中へ引っ込む。
潔い理由は獣が臆病な性質をしているからでもあるだろうが、今回はそれは理由の全てでは無い。獣の戦士は既に役割を達した。防御に回ったが故に、アイの注意はアルから逸れて手放してしまった。
風壁が途切れた一瞬に疾走する半身半馬が加速して、アイの膝元からアルを掻っ攫う。
「疑似進化体。データ結晶体を用いた外付け(アーマー)タイプの進化形態。電子生命体オブジェクトの消失時に、パラメータ値に一定値以上の偏向がある場合にオブジェクトデータが再凝固、発生することが希に確認されている」
結晶体は繰り返し使用すれば破損し、進化後の形態も時間経過で解除される。データ偏向が著しくオブジェクトに影響を与えているせいか、共鳴する固体が選別されるという点も勝手が悪い。
所詮はまがい物。とても『進化』とは呼べない。
不快を露わにし、アイは言う。
「成っていない」
つまりは、そういうことである。
遠ざかる黒毛の半身半馬の背中にアイは腕を伸ばす。
ごおう
籠手を炎が渦巻き、紅蓮の槍を形成。
放とうとして、
「……」
脇に抱えられているアルの強い視線受け止めたアイは、腕を下ろした。
「アルの構成データに『暴走(ハザード)』の兆候を確認」
その原因となっているのは……。
「そうですか……」
紅蓮は消火し、腕を下ろす。
碧眼は、遠ざかる蒼い幻竜を見送るのみだった。