DIGITAL MONSTER ∃I zero→Evolution 作:ゴキゲンな蝶
声が聞こえる。
……せよ。
……化せよ。
……進化せよ。
『アル、進化しなさい』
「ワタシに命令するな!」
起き上がったアルは、鼻息荒く牙を剥き出した。
徐々に、ぼやけた視界が正しくテクスチャを処理して映し始める。
一番始めに認識できたのは、
「ぴぃ」
鼻先で耳をパタパタしながら浮いている黄色い物体だった。
なんだこのちんまい生き物は。
胴体はずんぐりしているくせに腕と足が短い。精一杯耳をばたつかせている姿が、これまた毛玉をちんまく見せていた。
「あぁ?」
ぽとり、落ちて来た毛玉を両手で作った皿に受け止めたのだ。
……なんなのだ、このちんまい生き物は。
「コ、コワイナイヨォ」
「あん?」
奇妙な鳴き声を上げるから何事かと思えば、またしてもコレは「ぴぃ」と鳴く。
掌の上で毛玉はぷるぷる震える毛玉を持て余したアルは周囲を見渡す。
おんなじような色とりどりのちんまいのがあっちこっちに隠れてこちらを窺っていた。
奴らがアルに害を為せるオブジェクトとは、とても思えない。
だって、コレはアルが掌を握れば簡単に消失する程度にはちっぽけだ。
それも良い、以前の強大な姿であればきっとやっていた。あの姿はシンプルだった。クエリがアクションに直結して、出力結果は等しくデータ塵だった。
それをしないのは、出来ないのは、この腕が動かないのは、書き込んでしまったこのざわめきは。
ぎりりっ
嫌悪感。
痛みの実行、屈辱のメモリ。
何度も何度も、規定事項として繰り返されたシーケンス。
不意に、獲得する。
同族嫌悪なのだと。
ここでコレを虐げることを、アイに嬲られたアルは『気持ちが悪いこと』だと算出している。
なんだそれは……。
分かったつもりか、そんなものをどうして理解してしまったのだ。
弱者の思考を、劣等を、構成に綴ったというのか。
かつての自分を否定したいとでも、いうのか。
なんだそれは。
そんな感傷(モノ)にドミネートされるなど、くだらなくってバカらしい。
強ばる指の関節の軋みに「ぴぃ」と鳴き声が上がる。
遂に掌の上の小さなコレの眼に恐怖の影が差した時だった。
「あまり苛めてくれるな」
かつり、かつり、と。
鈍色のヘルムで頭部を覆う、四足の半獣半人の騎兵だった。
右腕と一体化した砲身には電子パルスがばちりばちりと光っていた。
騎兵を呼んできたのだろう、ちんまいのを脇に退けた四足は、アルへと歩み寄る。
穏健な声音だが、態度次第で右腕の砲塔がアルに向くことは想像に難くない。
だからこそ、意固地になる。
この翼膜と牙と爪を手に入れたときに誓ったことは、二度と誰にも頭を抑え付けたりはさせないと言うことだった。
「ワタシは誰にも指図されない!」
「指図じゃあない、そうするべきだとキミが自分で決めるのだ」
「なんだと?」
「キミはその手の中にいるその子に借りがある。大きな借りだ。なにせ命を救われたのだからね」
なにを言い出すかと思えば、こんなちんまいのになにが出来る。それも助けられただと、バカバカしい。
「嘘じゃない。あの荒野で『彼の天使』からキミを浚ったのはこの僕とその子だ」
嘘吐きめ。
アイにやられて朦朧としていたとは言え、なにが起きていたのかくらいは覚えている。
同じ四足でもアルを助けたのは黒かったし、アイの虚を突いて隙を作ったのは鋭利な耳をしていたはずだ。
「疑っているね。姿が違うのはこの結晶体で一時的に力を憑依させていたからだよ」
騎兵が取り出したのは卵のような形をした結晶体だった。
「この結晶体は共鳴する者の力を引き上げ姿容さえも変容させる。その姿を僕は憑依体と呼び、結晶体のことは霊代と呼んでいる」
興味を惹かれる話だった。
そんなに手っ取り早くこの何の役にも立ちそうにないちんまいのがアイをやり込めるほどに強くなれるというのなら、アルが使えばあるいはアイを倒す力を手に入れられるかもしれない。
もちろん、鵜呑みにするわけではないが、切って捨てるには惜しい。
「ぴぃ!」
ちんまい耳ハネを落とすと、アルは歯を剥き出して言った。
「出せ」
「エ、エウ」
そんな縋るような目で見るな、イライラする。
ぐるっと喉を鳴らしてやると、耳ハネはピイピイしながら奥にチラリと目線をやった。
なるほど。
頭を抱えたちんまいのを跨いで、アルは洞穴の壁をくりぬいて作った穴に置いてある、上部が花弁のように層になった結晶体を掴んだ。
「ダ、ダメィ……」
さてこれはどう使うものだろう。
爪で突いてみたが、特に変化はない。握り潰してみようか、いや、以外と頑丈だな。
耳ハネが、いちいちぴいぴいウルサイ。
「触ってみてなにも感じないのなら君には使えないってことさ。諦めたまえよ」
感じる? とにかく使えないなら用はないな。
放り捨てるとちんまいのが必死になって跳び上がりキャッチした。
「オマエのを寄越せ」
「これかい? いやいや、ダメだよ」
なら奪うまで。
地を蹴る。
振りかぶった腕で爪を下ろす。
爪先まで力が張っているのを感じる。かすっただけでも表皮を引きちぎって抉り取ることが出来る確信があった。
「良い爪だ」
消えた。
そう錯覚した。
見た目に惑わされた。半獣の下半身がこんなにも素早い伏臥が可能だなんて、どうして思える?
顎に衝撃、同時に電撃。
パルスを纏う右腕の砲身を直下から喰らったのだ。
撃ち抜かれれば終わっていた。そもそもパルスの威力を加減されていなければ、触れた時点で意識をやっていただろう。
「オォマアェエ!!」
「やっぱりタフだねぇ。寝起きとは思えないよ」
背中に蹄を落とされる。
またしても、またしても這い蹲っている。それも、アイじゃないヤツに見下されている。
くそ、くそったれめ!
「おいキミ、仕掛けられたのは僕だ。もっと言えば――」
じゅっ
収束した熱線が、頬を掠めて焼く。
「――それなりに僕も憤っている」
燻された湿気を含んだ洞穴の土の臭いを気にしていられなくなるほどの攻勢の圧があった。
「霊代はただの道具じゃあない。寄越せだの、ましてや投げ捨てるだなんて、僕等からすれば最大限の侮辱だ」
以後は気をつけてくれたまえよ。
騎兵はゆっくりと蹄を退け、背中さえ向けたのだ。
挑発か? 奇襲のタイミングを謀るアルに向けて、騎兵は振り返らずに続けた。
「そう焦ることはない。条件次第では僕の霊代はキミに譲ろうと考えている。いまは身体を癒やしたまえ、その後に話を聞かせてくれ。とくに封印されたはず『王』がどうしてまた現れているのかについて、ね」
身体が痺れて動かない。
「イ、イタイ、ナイ?」
「ぐるぅ」
「ぴぃ」
……ちくしょう。
―― 100110110010001101011000110000111010001111101101010010111010 ――
自分の身体にデータが充足しているのを感じていた。使いこなしていたと思っていた進化した身体には、まだ馬力が眠っていたのだ。
むず痒い。
丹田から力が蜷局を巻いて、発散先を探して駆け回っている。
その実感に顔がにやついた。
もっと素早く、もっと力強く振る舞うことが出来る。
持っているだけではダメだ。
重要なのはコントロールすること。
騎兵は自分のフィジカルをよく理解していた。それこそが、ああも一方的に叩きのめされた理由だ。
あれは、自分の能力をよく把握している。
あの騎兵を超えるには、アルも己をコントロールする必要がある。
それに気付いてからは、自分の身体の仕組みをよく観察し、感覚を集中しながら動かすことを始めた。構成データを効率的に運用し、動作を最適に慣らし、反芻しながら出来ることを自覚する。
確実に、強さを増している。
「うむ、精が出るじゃあないか」
振り向き様の拳は、たかんと固い音で受け止められる。
この馬体と蹄で上手に足音と気配を消す、忌々しいったら無い。
「それでは準備はいいかい? 今日の分を始めようじゃあないか」
右手の砲身に電撃を溜める騎兵を見留め、アルは十歩分の距離を取った。
「分かってるね。勝った方が質問をして……」
「……負けたヤツは答える」
これは、取り決めだ。
初めて騎兵達のアジトで目覚めた翌日から溢れる力のコントロールを始めたアルに、騎兵が持ちかけてきた。
『どうせ君は素直に答えっこない。腕っ節自慢の君にも都合が良いはずだ、聞き出したいことがあるのだろう?』
こんな挑発をされたら受けない訳にはいかなかった。
こうして、洞穴の近くの乾いた土の上でトレーニングをするアルのもとへ騎兵がやってきて、決闘まがいをすることが日課になっていた。
今日までに名前、あの場所でアイと戦っていた経緯は既に取られた。ほんとはもっと聞かれたが、アルはこの二つ以外なにも知らないから答えられなかった。
騎兵は信じたかどうかは知らないが、毎回顎に左手を添えて「なるほど」と言うだけだ。
そして、今日も、
「う、ぐぅ」
敗北する。
「仕掛けられるとすぐに飛びたがるのはよくない、僕にはこの右腕があるのだから。せめて数発貰っても飛翔を維持出来なければ話にならないぞ」
快活に笑いながら騎兵は講釈を垂れる。
イライラする。勝てない自分にはもっとむしゃくしゃする。
「だいたいキミ、どうしてそんなに強くなりたいんだい? さっきはああは言ったけど、それだけタフネスで翼まであるんだ。勝てない相手がいても逃げることは出来るだろう。なにがそこまでキミを荒ぶらせるんだい?」
「ワタシの勝手だ!」
「じゃあ、今日の権利にしよう。質問だ。答えたまえよ、敗者くん」
コイツは、本当にこちらの神経を逆撫でするのが得意なようだ。
癪だ、癪だが、いま取り決めを反故にしたら、アルばっかりが聞き出されて終わりになってしまう。それはもっと屈辱を感じる。
「……アイを倒す。アイを叩き潰して謝罪させる。屈辱を仕返しする」
それができなければ、あの情けなかった自分はチャラにはならない。
「ほお、『彼の天使』をね……」
コイツはアイのことを『天使』と呼ぶ、それも声音に含む感情は良いものではない。騎兵はアイの何かを知っているのだ。思えばアルはアイのことを性格がねじ曲がった暴力を振るう嫌なヤツと言うこと以外は何も知らない。ことある毎に進化しろと要求されたが、その意図するところはもっと分からない。
アルはそれをこの騎兵から聞き出そうとしていた。
あとは『世界を救う』、そうとも言っていた。
それがどうしてアルをイジめる理由になるのかはもっと分からない。
そもそも。救うとはどういう意味だ? この世界をなにから救わなければならないのだ?
分からない、知らないことばかりだ、どうしてこんなことを考えなければならないのかと言うことさえ分からない。
「この世界は、悪いことになっているのか?」
これは考えているうちに漏れた独り言だった。
「おやおや、負けたクセに質問をするのかい?」
文字通り鉄仮面の騎兵の表情は分からないが、きっとにやついている。
「ちがう!」
「いやいや良いんだ良いんだ。正直勝ちすぎてこっちばっかり質問して悪いなあと思っていたんだよ。君から教えてくださいって言い出してくれて良かった良かった」
「言ってない!」
絶対に言うもんか。
「まあまあそう言わずに。実際のところね、君は知っておいた方が良いことだ」
「……教えさせてくださいっていうなら聞いてやる」
はたり。
騎兵が沈黙する。
怒らせたか、戦闘か?
怖じ気は若干、ソレよりも戦意を高めていたところだった。
「オシエサセテクダサイ」
拍子抜けに騎兵は言った。それも両手を前で重ねてぺこりと頭さえ下げて見せた。
「オマエ、バカにしてるだろう!」
「キミの要求を呑んだんだよ、こっちは。さあ、次はキミの番だ、約束事を守れるかなぁ?」
むっかつく!
まるでコイツと羽根付きのちんまいのが保護してる、もっとちっこい団子どもをあやすみたいな言い方だ。
「キミはいろんなことに気を立てすぎだ、もっと肩の力を抜いたほうがい」
大きなお世話だ、オマエみたいに暢気にやる気は無いのだコッチは。
「来たまえよ」
人差し指をクイクイとやる騎兵に誘われて、アルは歯を剥き出しにしながら従ったのだ。
―― 100110110010001101011000110000111010001111101101010010111010 ――
その場所は騎兵達のアジトからしばらく歩いた山岳にあった。
乾いた大地の中で、なぜかその場所だけは青々としていて、肌がひりつくような灼熱の温度が突如としてヒヤリと湿った。
不自然だ。明らかにおかしい。
境界の向こうに生い茂る草を踏むことに躊躇うアルを、騎兵が誘う。
「心配は無い。ここの座標は今は安定している。位相ズレの心配はひとまずは無い」
コイツがなにを言っているのか一片も理解出来ない。
この場所が異質である説明の何の足しにもなっていない。
「位相ズレさえも知らないのか。やはりキミの非常識は少々度が過ぎている気があるな、まるで大事に大事に桐箱に入れて庇護されてきたかのようだ」
蹄で茂った地面を掻いて、騎兵は続けた。
「キミが気付いているとおり、この場所はおかしい。なにせ、もともとは別のエリアだったから」
騎兵が振り返り、今一度、誘う。
来たまえ、と。
これ以上、足踏みして騎兵に弱さを見せるのも癪だ。
低く呻ってから勇んで草を踏むアルの様子に肩を竦め、騎兵は木々の中へと案内を続ける。
「かつて、闘争を繰り返すばかりだったこの世界に比類無い力を持った天使が降臨した。天使は慈愛と善の心を持ってこの世界の住人を宥め、調停した世界の『王』として君臨した。善き王のもと、この世界はよく治まった。弱き者が笑顔で過ごせる善き時代が訪れた」
その平穏は永くは続かない。
「この世界には古きより『禁忌』の不文律がある。『空の果てに触れてはならない』、『大地の底を覗いてはならない』。破れば究極の力による制裁が執行される。純粋で好奇心が強かった『王』はこの禁忌の内の一つ、『世界の中心に聳える巨木に近づいてはならない』を侵し――堕天した」
不意に木立の小道が終わり、景色が拓ける。
「……っ!」
アルが見たのは、残骸だった。
住居、塔、神殿。
既に棲まう者はいないのだろう、文明の息づかいは感じられない。
「堕ちた王は無差別の虐殺を開始した。王の前では他の者は等しく弱者でしか無い。王を止めるために多くの者が挑み、等しく塵になった。皆は息を殺し、王の目から隠れ潜んだ」
崩れかけた神殿の階段を上がり、エンタシスの柱の影の間に差し込んだ斜陽が、アルと騎兵の並び姿を巨大な影として投影する。
「大気が荒れ、大地を焼き、水が干上がる暗黒の時代。悲鳴と絶望の坩堝から十体の闘士が生まれた。王の暴虐を止めるために、闘士達は死力を奮い、自らを犠牲にしながらも王を別の次元の彼方へと封じた。だが、王の暴走と聖戦(ジハード)は世界にリカバリーが追いつかないほどの深刻なダメージを与えてしまった」
世界には深刻な『破損(バグ)』が残った。
「触れれば吸い込まれて消滅する『データ亀裂(クラック)』が世界中に現れ、座標値が狂ったエリアが『位相ズレ』してこの場所のように不揃いなパッチワーク状の様相になった。僕たちもこの神殿と一緒にここへ飛ばされたんだよ。運良く座標の安定値が高い場所に飛ばされたから良かったけれど、ほんの少しでも座標値が違ったら、それが存在しない座標や『クラック』の上だったら、僕たちは消滅していた」
にわかには信じられない話だった。
この世界にはそんな理不尽な消滅な間近にあると言うのか。
「データの安定しているエリアは凶暴化した連中が集まっているせいで、戦い抜く力の無い者が生存することは適わない。僕たちはいまもなお、ギリギリの競争を生き抜いているんだよ」
騎兵は口を噤み、左手で拳を握った。
「……」
神殿の最奥が見える。
崩れたペディメントの間隙に雨の様にぽつりぽつりと光が差して、絵画のような美麗さがあった。
とっくの昔に退廃して手遅れなのにまだ縋り付くみっともなさと、もの悲しさが静謐の中に犇めいていた。
騎兵が指を差す。
アルの視線が辿り、俯瞰から一点へと焦点を合わせる。
「――ア、イ?」
穴が空くほどに睨め付けた顔だ、見紛うはずも無かった。
神殿の中央に設置された一体の像。
髪は短いが足下に群がる小さな団子達を撫でる仕草をするその像は、アイと同じ顔をしていた。
「あの像が『王』か?」
「そうだ」
「だったら、アイが『王』なのか!」
「少なくとも同じ顔をしている。だから僕は王と戦っていたキミを助けたんだ。キミが復活した王と戦う戦士なら、失うわけにはいかなかった」
「アイは、世界を救うと言っていた」
「その言葉は本当に信ずるに値するものか?」
言葉を返せなかった。
アイの言葉の根拠。
アイの言葉をなぜ妄信していたのか、いまになって着想している。
インプリント。
疑うことさえ分からない未熟な精神は、外部からの囁きをそのままに吸収してしまう。
反発して抗ったつもりでいたのに、
「まだ、アイに、支配されて、いた」
ぎりりっ
もっと、強く、もっと強く、強く、強く強く強く!
10011011001000110……
ぎゅいぃぃいい
胃が捩れるような不快音に目が覚める。振り向いて両手を突き出せば重い蹄が載った。
重い、潰される
その向こうから狙う音の正体は、荷重電砲。
筋が切れそうなほど全力で首を逸らせば、ばちばちりと肌を焦がす雷が流れる。
撃ったのだ、騎兵はいま、間違いなく殺そうとした。
「いまなにをしようとした」
ヘルムの奥から眼光が刺す。
「いまのはなんだ?」
答えろ、と。砲身で脅しつけられる。
気圧される、
虚勢で呻ってみせる。
「知るか!」
ホントに知らない、コイツはなぜ急に敵意を剥き出しにしたのだ。
睨み合う。
さながらは、裁定を待つ虜囚の心持ちだった。
「うぅ……退け!」
騎兵の砲身目掛けて角を突き出す。
「ぐぅあ、はっ」
角を伝った電流がアルの身体を焼く。
踏ん張る、身体中が張り詰める、載っかった蹄ごと腕を振り上げる。
「あああァアアアア!!」
晒したな? 腹(弱点)を。
腰を回す、脚にはでっぷりと体重を預けたまま、ただ、回る。
尾だ。
撓り、威力を溜め、直撃の着火に戦慄いている。
ばぢり。
音が弾けて、ぶっ飛ばしたのだ。
入った。確実に、ド真ん中。
心地良い。たまらない。たまらく、昂ぶる。
埃を被って青天する騎兵を瞳孔に捉えれば、涎が滴るほどに旨そうだった。
聞こえる。
100110110010001101011000110000111010001111101101010010111010
――せよ
――化せよ
『進化しなさい、アル』
あっ
「ンッ!」
息を止める。闘争心を無理矢理抑え込んだ。
「しない、進化ぁ、しないぃ!」
アイの言うとおりにはならない。
ガ キ リ
外れる音がした。
精気が抜けていく、昂ぶりが鎮まる。
ふうぅ、ふぅう
青い息が鋭い歯の隙間から漏れる。
「存在感と圧迫感の揺らぎが安定した、か…」
やれやれと、騎兵が瓦礫を押し除けて立ち上がる。
あれは、そうか尻尾で叩いたのだったか、殆ど意識の外側でやっていた。
「キミから話を聞きだしたときには正味信じてはいなかった。『強さを求めて姿すら変容させて強大になる』、キミはそうやって無力な小さな姿から今の隆々とした肉体を手に入れた。その『おぞましい現象』を『進化』と言ったな」
立ち上がりはしたものの、脚がふらついている。
ヘルムの奥の視線は強く、ひっそりと怯えが潜んでいた。
「教えておく。君の言う『進化』なんて都合の良い現象はこの世界には存在しない。少なくとも、僕はそんな現象をたったの一度も見たことも聞いたこともない。この世界に棲まう存在は、強いものも弱いものも発生した姿のままで存在し、消えていく。霊代だって姿を一時的に変異させるだけで、継続性はない」
騎兵は強い言葉で続けた。
「いま目の当たりにして思ったよ。君のソレは尋常ならざる力だ。僕はもうなにもしない、だがゆめゆめ忘れるな。その力に呑まれれば君の心は二度と戻らず、破滅を振り撒く存在になり果てることだろう」
不気味な予言を残すと騎兵はわざとアルから距離を取るようにして去って行った。
ダメージを庇い、おぼつかない足取りの後ろ姿に、なぜだか罪悪感を覚えた。
ほんっとに、バカみたいだ。
力が入らない。
膝が折れる、両手を突く。
強くなりたい、誰にも虐げられない強さが欲しい。
だが、どうすれば良いというのだ。
強さを求めた先には『進化』がある。聞こえるのだ、身体の内側を探ればうわんうわんと残響している、アイの声が聞こえてくる。
面を上げると、そこには石造りの慈愛の『王』が臣下を愛でていた。
「ちがう、ワタシはそこには行かない」
騎兵の言う破滅だのなんだのはどうでもいい。求めるのは、ただ『らしく在ること』だけだ。
そのためには強さが必要だ。
その強さは、自分で手に入れなければ意味が無い。
誰かに依存する強さは、惨めなだけなのだから。
座り込んだまま時間が経ち、とうとう日が沈んだ。
光が満天に波打っていた。
どこもかしこも燦然とするばかりで、行く先を教えてはくれない。
これなら、真っ暗闇に居たっておんなじじゃあないか。
風が吹く。
暗雲が流れて光が呑まれる。
歯を剥き出してみたが、向ける先が見つからなくって消沈した。
どこかで歯噛みする彼女の思惑を窺いしることなどは、当然あるはずも無かった。
ずっと内側に五月蠅かった『進化せよ』という囁きが遠くなっていく。
嗚咽さえ上げられず動も無く、アルは壊れかけたこの世界の時を浪費した。
風が吹いた。
そこに、降りたのである。
「立ちなさい、アル」
呼吸が詰まる。
振り向けなかった、身体が震えた。その腕に爪を立てて押さえ込もうとした。
「なにを、しにきた」
動悸が早まる。
どうしたのだ。
あれほど報復を誓った相手がそこに居る、振り向いて牙を立てろ。立ち向かえ、戦え、戦えよ!
「はぁ」
背後にため息を聞いた。
「構成に大きな乱れ……。やはりわたしは足りていなかった」
「どっかに行け!」
翼を広げる。
みみっちい威嚇だ。
自分を大きく見せようなんて、相手は原始的な思考に支配された相手ではない。怖がってなんてくれない。
「……」
返答は無く、気配が消えることもなかった。
アルは振り向くことなく、ただ待った。
もう一度風が吹いて、彼女を浚ってしまうのを待っていた。
「……わたしが言うべきことは、可能性を否定してはならないと言うことです」
それだけを、よくよく覚えていなさい。
――居なくなった。
大きく息を吐く。
訪れたのは安堵よりも言い知れないやりきれなさだった。
いよいよただの一人きりになった気がした。
「オマエみたいなヤツが、そんなことを言うな」
略奪者のくせに。
「オマエが、オマエなんかが――」
悪態はいくらだって喉の奥から出てきた。
裏側にある感情の正体に気付いていた。
安心したかったのだ。
アイがもうどこかへ行ってしまったのを実感したかった。
それほどだった。
アイを相手に尻尾を巻いていた電子生命体同様、進化して、なまじ知性と力を得たばかりに彼我の絶対的な存在の隔たりを思い知る。
勝てるわけがない。
構成するデータの質からして違うのではないかと疑うほどに、存在感の密度が濃い。
アルとも騎兵とも比べるべくもない、文字通りの別格。
あのとき、アルがアイに喧嘩をふっかけられたのは、進化の高揚に酔い、逆上の興奮に呑まれて頭が空っぽになっていたからだ。力が馴染み、勝つために相手を窺い知ることを知った今となってはそれが悪く作用している。
「……ちくしょう」
つらつらと並べた悪口の最後に出たのは、白旗。
所詮は、この程度の、この程度の!
今は絶望の暗澹に沈んでいる。禄に前なんて見えたもんじゃあない。
だけれど、
『進化せよ』
強くなりなさい。
バイナリーの律動の奥深くに、声は途絶えていなかった。
―― 10011011001 ――
「ハコベ、ハコベ、ミンナデハコベ」
のっこのっこ。
団子共がぴょんぴょこ跳ねる。
その最後尾で、羽の生えた蒼トカゲがのっしのっしと続いていた。
「はこべー、あー、みんなー、はこべー」
対して重くも無い岩の破片を、肩を落として両手に支え、覇気も無く歩く様は情けないことこの上ない。
「極端だね君は。訓練も止めちゃって」
騎兵がなんか言っていたが、絶賛思考放棄中のアルの耳には入ってこなかった。
単純作業はいい。適度に肉体に負荷が掛かる作業なら言うこと無い。疲労は達成感を錯覚させてくれる。
「アノ、ダイジョブ?」
刃の耳が垂れた爪イタチもなんか言っていた。
耳ハネが霊代とか言う、卵型の結晶体を使って変化した姿だ。
このところ、外になんか出るらしく、掘削能力に優れた爪イタチは『いざというとき』の為の住処の洞窟の避難経路を掘り進め、団子共は残土を、アルは砕いた岩片を運び出していた。
一体どんな脅威への対策をしているのか、アルは聞かなかった。何でも良かった。
遺跡にじっと座っていたらぱたぱたと耳ハネがやって来て引っ張るから従いていったし、洞穴に戻って寝床でずっと寝ていたら「テツダッテ」と言ってきたから言われたとおりにした。
団子共が揃っておんなじことを言ったからアルも言ったし、爪イタチに「ハイ」と渡されるから岩を運んだ。
爪イタチがどんな顔をしていたかなんて、いちいち覚えていない。
「戦うことからは逃げられないよ。本能が脈動する限り必ずその時は来る」
騎兵がウルサイ。
聞こえない。聞こえ無いったら。
ぎりり
この歯軋りだって空々しい。
本能。
生きる意思。
ああ、まだ生きたいと願っている。
ただ生き続けるだけに、こんなにも絶望しているというのに。
律動を感じる。
目的を見失っても、この鼓動は識っているというのだろうか。
―― 100110 ――
眼を塞いでいても、シークエンスは進捗して、必然は故に巡り会う。
―― 1001 ――
今夜も遠吠えが聞こえる。
ろおぉぉぉぉう、ぅろぉおおぅう
この声が聞こえると団子共とついでに耳ハネがアルの側に勝手に寄ってくる。それを見ると、アルは薄目を開いて目蓋を閉じ直して、尾を丸めて朝を待った。
数日前から聞こえ始めたこの声の主を、きっと騎兵や耳ハネは知っている。彼らが話し合っているのを何度も見かけた。会議にアルを参加させたがっているのにも気付いていた。
だからどうしたなのだ。
知らないし、知ったことでは無い。
我ながらと思う、目蓋を閉じるのが随分と上手になった。
だから、アルのせいなのだ。
こんなことになったのは、こんな景色を見ることになったのは。
夢から覚めたかのような、水を頭から被ったかのような、曇ったガラスを拭ったかのような。
ぐちり
たしかに聞こえた。聞こえてしまった。
構成が瓦解して、データの散逸する音。
この世界では弱いものに生きる資格は無い。
生存をより強い誰かに委ねれば、選択なんてものは余地も与えられない。
だから――、あのちんまい団子は踏み潰された消滅(DELETE)した。
あの子が生存するための選択権を持っていたはずアルが目を瞑っていたから。「ぴぃ」なんて、小さい悲鳴だけ上げていなくなったんだ。
ろおぉぉうろおぉぉぉぉう
目に映そうとしなかった脅威が、あの遠吠えが目前で震撼していた。
アルはこの後に及んでただ突っ立っていた。
闇夜に紛れて洞穴に侵略してきたソイツは、異形だった。
身体の半分は占めるかと思うほどの大顎、四足だが、獣と呼ぶには薄暗い洞穴に浮かぶシルエットが歪に過ぎる。違う、定まっていない。
その異形は目瞬くごとに姿を変容させていた。身体の一部から尾のようなものが伸びたかと思えば、不意にそれは翼のように広がり、次にはうねって引っ込む。頭のようなものも同じだ。目と思しき怪しく光る器官が増えたり減ったり消えたり浮かんだり、ソイツは常に変容していたのだ。
定まっているのはたったの一つ。
ひしひしと感じる闘争本能の圧力(プレッシャー)。
この異形は攻勢に尖鋭化したオブジェクトなのだ。
「おおおぉおおおう!!」
吠えたのは騎兵だった。
カンカンと右腕の砲身とヘルムを打ち合わせながら鬨を叫び、駆ける。
振り上げた前足の蹄は、届かない。馬体を、異形獣から伸びる巨大な左腕が握り、留めたからだ。
右腕、電磁砲。
撃つ、撃つ、撃つ!
絶対命中の弾丸、それも至近距離、外すはずも無い。
穿ち、貫く。
貫いた側から流動するデータが流れ込み、身体に空いた穴を塞いでしまう。
「ならば!」
帯電する砲身で黒腕を焼き切ると、騎兵は神聖なる輝きを放つ金色の結晶体を掲げた。
「霊代よ! 『希望』の光を灯せ!」
バイナリーが迸る。
輝きに包まれ、騎兵の姿が眩む。
ぼおう
焔だった。
闇の衣を一蹴にする赫奕であった。
かくて、極熱の黒灰より、一角の黒獣は生まれ出ずる。
燃え上がる籠手を合掌し、伸びる炎の柱から長弓を掴む。
黒い騎獣に変じた騎兵は弓弦を引いた。
流星の如く。
燃えて奔る流星群。
炎の疾矢が闇の異形を喰らい千切ったのだ。
「……行きなさい」
黒い騎獣はアル達に背を向けて、腰の矢筒から超高硬度金属で生成された矢を抜いた。
彼が見据える先には蠢く闇があった。
木々を覆ってしまうほどに巨大な、月光さえ隠してしまうほどに『闇』。
「リーダー、デモ……」
「行けと言った。退路を準備し、必要なことを充分に話した。その時が来たのだ、だから頼むよ」
黒い仮面で隠した奥に潜む赤瞳で、耳ハネ、それからアルとを順番に見やった後、騎獣は矢を逆手に構え、洞窟の天井を抉ったのである。
「リーダー!!」
何かしらの細工をしていたのだろう、天井と岩壁が大きく瓦解して洞穴が塞がる。
最後に見た彼は、聖なる輝きを内包した矢を焔の弓に番えていた。
「おい、アイツはなにを言っている」
「イイカラ、キテ!」
耳ハネの分際で、命令など、何様だ。
「キテッテバ!」
直後に、轟音が貫通した。
この瓦礫の向こうに、騎獣は走っている。
うらやましいと思った。
彼は戦う意思に淀みが無い。思わず手を伸ばしそうになるが、もう一度反対に引かれて身体が傾ぐ。
意識が離れた隙に手を取られたアルは、脱出経路へと促された。
「リーダーガイッテタ、キミハ、キットタタカエル! ダカラ!」
戦う、戦う。
戦ってなんになる?
アルが戦ったって、アイがほくそ笑むだけだ。
アルのための戦いなんてものは存在しない。
「リーダーハ、キミニ、ツギをヤッテモライカガッテタ」
『ツギ』とは、まさか、次のリーダーという意味か?
そのためにアルはアイの元から助け出されたのか。
そらみろ、みんな利用しようとする。
この耳ハネも、アルをコントロールしたがっているのだろうに。
「ワタシは、やらない」
「……ソレデモイイヨ。キミノヤクメガ、ヤリタイコトガ、チガウナラ」
今は生きて、と。
そのために走れ、だなんて。
どうして、こんな耳ハネに従って手を引かれているのか分かった気がする。
耳ハネの方が重い。
データ量では無い、獲得し、蓄積してきた確固たる己という構成の質量に差がある。
歯痒い、感情を持て余して、無駄に指を開いて閉じる。
この小さな背中を今のアルは、追い掛けている。
背後には獣の疾駆と闘争が聞こえる。
周りをぴょんぴょこ跳ねる団子でさえ生きるために足掻いている。
アルはその後ろをただくだに追い掛けている。
彼らはこれまでもこうやって生きてきたのだろうか。
誰かを盾に、それでも生きるために、その本能が故に、歩み続けてきたのか。
歩みを止めた場所は、このところ毎日掘り返していた、アルが身を屈めてやっと通れる程度の細道の一本だった。
「アノネ、『オモイ』は『チカラ』ナンダヨ」
霊代を抱えながら、耳ハネは言うのだ。
「ワタシは思うから強くなれなかった。『進化』を選べなかった」
アイの思惑もなにもかも、そっぽを向いてやれば良かった。そうしたら悩まなくてよかった。もう一度、一匹のモンスターに戻ることが出来た。
「ワタシは『思い』に囚われてしまった」
生の複雑さを構成に書いてしまった。
ただ力に一辺倒になることが出来なくなってしまった。
詰まるところは、弱体化したのである。
「『思い』なんてものは、いらなかった」
吐き捨てるように言う。
「キミハ、モウノゾンダンダヨ。『オモイノチカラ』ヲ」
耳ハネは花弁の霊代を掲げて、唱えるのだ。
「タマシロ。ソノ『ヤサシサ』ヲ、チカラニ!!」
眩く光る。
その輝きは耳ハネを包み込み、データを拡張し、テクスチャを再編する。
ピリリと、張った肌が、霊代のデータの鱗粉に触れて理解する。
記憶(メモリ)だ。
かつて存在した、強い心で戦い抜いた誰かの残り香。
ああ、そうであったか。
霊代とは、いつかに存在した何者かの、死(デリート)の後にさえ残った『想い』が結晶化したものだったのだ。
想い故に、誰かに伝えるために、遺った魂(データ)。
個人の力を望んだアルに、そんな代物が使えるはずが無かった。。
誰が為の意思を理解しようとしないものに、想いの同調なんてできるずもない。
この光から現れた眩い姿は、『共想』の姿。
耳ハネから変じて現れた爪イタチは、刃の耳を回転させて疾風を纏い、身体を捩らせて回転する。
ぎゃりりりりりりりり
穿つ、抉る、そして、
「ラアアアアアアッッ!」
データに還る土片すら切り刻み、穿孔機となって遂に重厚な岩盤を貫き通す。
そこにきっと光は降り注ぐ。
舞い上がった長耳刃はまるで光輪に見えた。
だが、光とは陰るものである。
どれだけ鋭利な刃の冴えさえも、振るう先を見失えば無力である。
その自失は致命的過ぎた。
雲と同じ速度で陰は走り、喰らったのだ。
「ア、ガッ――」
陰狼の顎が爪イタチの横腹に牙を立てる。
データが真っ赤なエラー吐き出し、飛沫を上げて散る。
アルは団子達を庇って前に出ていた。
さもそれが当然のことであるかのような咄嗟だった。
「ウァアアア!」
爪イタチが長耳刃を回し、陰狼を両断。
流出したデータの量を見れば、爪イタチのダメージが相当なものであったことは明らかだ。
刃を地面に突き刺し、爪イタチはかろうじて立っていた。
立っていなければならなかった。
陰狼の分かたれた断面が蠢く。
察するのにワンクロックの間すら必要ない。
コイツは、バケモノだ。
確かに両断された頭と胴が断面から伸びた触手が伸びて引き合い、結合する。
異形。
まさしくは怪物。
有り余るデータが暴走し、決壊し、定められたカタチすらぶち壊して本能を露わにする。
生きる。
たったそれだけの原始的な思考が導いた、何処までも破滅的な間違い。
ぐちり、と。
他者のデータを求める不死の餓狼は巨大の顔の頬を釣り上げる。
闇空から誰かが呟いた。
「数多の寓話における『狼』をポイントとしたリソースの抽出の具現。もちろんそんな破格な情報量の結合は滅多なことでは成立しない。データを無制限に結合してしまうほどルートディレクトリの処理は節操なしでは無い。だが、『悪』や『敗北』を条件にした検索の一手間があれば、データはある程度絞り込み出来る。アレの原型はその程度のもの」
そう、『天使』とは違う。本来は敗北を義務付けられた、ただの『悪役の狼』。
しかし、その性質故に――
「――『暴走(ハザード)』によって構成が歪み、制限以上のデータを取り込み、無制限に拡張しようとするあの個体を称すのならば『死ナ不の魔物』」
駆ける。
走って、牙を立てる。
両刃の閃き、陰が分かたれる。
悪夢は始まる。
陰がそれぞれに再生したのだ。
それも狼のカタチに留まらない。伸び、拡張し、膨張し、名状しがたい異形へと。
それすらも、爪イタチは刃を翻し、切断した。
だからこそ、状況は悪くなる。
生きるために、生き足掻くほどに、敵は増殖し、可能性は縮小する。
騎獣の向こうに見た無数の眼光の悪夢はこうして増殖したのか。
軍勢が聳えていた。
いや、そんな上品なモノでは無い。
もっと醜悪な、劣悪な、『群』。
爪イタチは生唾を飲み、震える声で言った。
「ガンバッテ、ミルネ」
逃げないんだ。
騎獣と同じように、この団子達のために、それから木偶の坊の蒼トカゲのために、戦い抜くつもりなのだ。
「ラアアア、アアアアアア」
爪イタチは吠える。吐き出す。
吐き出した分だけ荒野の咽せるような夜を吸い込んだ。
取り繕ったのだ。
元来の臆病さを誤魔化した。
前を向き、刃を振るうために、誰かの為に、戦うために。
刃が翻る。
牙が躍り、爪が掻いて、陰が舞って異形は変じる。
斬レ共、死ナ不。
貫キ共、死ナ不。
確定された敗北が徐々に徐々に爪イタチを呑み込まんとする。
閃いて、振り抜いて。
抗う意思は、闇に引きずり込まれていく。
くう
団子共が涙を流している。
爪イタチは自分だけを守れば、地をくり抜いてこの場が逃げ切ることが出来るはずだ。
自分たちのために、爪イタチが代わって命(データ)をすり減らしている。
彼らは無力だから。
ではオマエはどうなのだ、アル。
オマエは団子共と同じか?
オマエの意思は何処を向いてる。
その身体を縛る鎖を留める楔はなんだ。
なにがオマエの脚を止めている。
ぎりり
食いしばる。踏ん張る。
ここで飛び出すことは、否定することになる。
ただ自分のためだけに在りたいという、アルがアルで在るための柱を失うことになる。
行かない。行くわけが無い。
行っては、ならない。
もう誰にも利用されるわけには、――
その時、ごおうと、逆さ星が昇った。
焔だ。
赤よりも朱い火柱が夜天を目掛けて疾りぬけ、――届かずに潰えた。
「リー、ダー」
爪イタチが呆然と。
「リー、ダー!」
慟哭混じりに再度。
「リーダー!!」
三回目でやっとアルは理解した。
消失(DELETE)したのだ。
騎兵は、たった一人で死力を尽くして闘い、全ての力を使い果たした末、誰も見ていないところで周囲を巻き込んで火柱と成って昇った。
ああ、あの騎兵は、死んだのだ。
ドウッ
データが激しく波打った。
叫びたい気持ちが熱となり、目頭を焼いた。
とん。
『決断し給え、キミ自身で進むときだ』
次の瞬間に、アルは飛び出していた。
「ガアアアアアアアアアアアッッッ!!!」
思考じゃ無い、感情で爪を振るう。
陰狼共を切り裂いて、貫いて、激情を露わに力を振るう。
くだらなかった。
楔など、引き抜け。
例えそれが、『自分自身』だったとしても。
振るいたいと思ったときに力を振るえないクセに、自己などあるものか。
ここだ。
ここで証明するのだ。
ここにいる。
ここに在る
この力は自分のためにある。
この闘いも、自らのために在るのだ。
「グルゥ」
胸のXの文様が光を湛える。
眼前には、闇の獣ども。
無数。
無窮。
一切を、焼き払う。
「グゥラアアアアアアアッ!」
夜が切り裂かれる。
蒼竜の腹から放たれた閃光が獣を食い破る。
壊してやる。
知ったことかよ、もう全て台無しにしてやる。
もっともな理由なぞは必要ない。
壊したいから壊してやる。
それでよかったのだ。
抑圧は毒だ。
葛藤するくらいなら壊せば良い。
守りたいと思ったのならば、この力をそのために使えば良いのだ。
壊してやるとも、気に入らないもの全部。
先ずは、
「お前等だ」
飽く無く沸く陰狼どもに、溜め込んだ鬱憤を全てぶちまけるように、吠えて、貫いて、切り裂いた。
爽快だ。
良い気分だ。
全部が吹っ切れた。
そして泣きたくなった。
こんなに強くなっていたんだ。これだけの力を持っていてなにもしてこなかった。
立ち尽くしている間に、失いすぎた。
だから、もう、
「ワタシは、戦うことから逃げない」
誰かの思惑がなんだ。
この身を翻弄しようとするプログラムがなんだというのだ。
ねじ伏せればいいだけだ。
戦い抜けば良いだけだ。
闘争せよ。
データの脈動は生存を求めて激しくなる。
戦うのだ、誰のためでも無い、自らの願いのために。
惨めだろうが何だろうが、這ってでも進む。
そうしなければ、騎獣の背中を超えて進めない。
「グラアアアアッッ!!」
このとき、蒼竜は間違いなく陰狼を圧倒していた。
だが、それは、この一時だけの話だ。
蒼竜は強かった。
通常個体の陰狼であれば十も二十も叩き伏せることが出来ただろう。
だが、死ナ不とは、際限なくデータを増殖し続ける埒外、『バグ』である。
プロトコルの定める範囲で対処するには、かつての皇帝竜が生成した超重力球レヴェルの攻撃でオブジェクトを完全消滅させる意外に手段はない。残念ながら現在のアルにはそれに匹敵する威力を繰り出す手段は無い。
依然として敗北は必定のままだった。
それどころか、事態は悪化する。
騎獣、爪イタチ、そして、アル。
それぞれが本来のポテンシャルを超えて激しい戦闘に臨んだ結果、陰狼がすでに失ったはずのデータ配列(感情)を発露させてしまった。
否定される、意味を失う。
消滅のプレッシャー。
死へのストレス。
恐怖という原始的な思考は、生態の根源、『生存本能』を刺激する。
闇が蠢く。
散り散りになっていた陰狼の破片データがとっぷりと溶けて沈んだ。
静まりかえった。
物語の終わりに似た空気だった。
傷つけられた肌に流れるデータのざわめきをアルは感じていた。
漠然とした不安がレジスタから囁いている。
さながらは悪夢の予兆だった。
あぉおおおおおん
姿は無いのに、遠吠えが響く。
朗々と、方々へと。
森が呑まれる。
陰に喰われる。
あぉおおおおおん
あぉおおおおおん
姿が見えないくせに、押し潰されそうな程に陰狼のリソースが増大していくのを感じる。
あぉおおおおおん
足裏が絡め取られて沈み始める。
やっと気付いた。
陰狼のデータが大地を覆っている。
ただしくは、少なくともアルの視界内の全ての陰と一体化して浸食している。
これは捕食だ。
陰そのものとなった『コレ』は、節操も無く触れているオブジェクト全て呑み込まんとしている。
もはやここは口腔の直上。
蒼竜の決起なぞ、爪イタチの高潔なぞ、騎兵の決死なぞは、等しく卑しい餌だった。
言葉は出ない。
少しでも音を出せば真っ先に呑み込まれるような気がして、誰も彼もが沈黙していた。
圧倒的な未知を前に、思考ルーチンが算出を諦めたと言っても良い。
身体が陰から伸びる腕に囚われていく。
「あ、あが」
口を開くこさえも出来なくなる。
喰われる。
「NO」
妖眼の少女が夜天よりアルの運命を否定する。
「それは、許容できかねますので」、と。
その瞬間、夜が潰された。
おもむろに掲げた少女の掌の上に、極大の灼熱球が七つ浮かんでいた。
惑星を想起させるエネルギーを持った球体をきっかり縦横に整列させた配列は、まるで彼の存在の絶対的な支配力を裏付けるかのようだった。
「アレハ……」
力を使い果たし、爪イタチから元の姿に戻った耳ハネが畏れ仰ぐ。
予言の大十字星(グランドクロス)。
かつて『王』が諍いを止めない愚か者共を調停した、口伝に聞く神話の一撃の顕現。
碧眼は破滅的に爛々と光る。
熱い。
超高熱球に内在する攻勢指向データの凄まじいこと。
「安心なさい。守ってあげますよ。お前はわたしの『庇護対象(パートナー)』ですから」
なにを言っているのだ、コイツは。
今更出てきて、なにを言い始めるのだ。
全部全部、自分の思い通りになるのが、当然かのような態度で。
アイはその傲慢を確信しているのだろう。
『力』という根拠を押しつけて、周囲に納得を強制させる。
アイはベクトルは違えども陰狼と同じバケモノだ。
隔絶しているのだ。何一つ受け取らず、周囲を一方的に変えていく侵略者(アガレッサー)こそが、彼女たちバケモノの本質である。
そして、現環境では、陰狼よりもアイの方が上位のバケモノであった。
アイの存在とデータ質量に惹かれるように陰から伸びた腕は尽く焼き尽くされた。
アイのつま先を掠めることすら叶わなかった。
「憐れな崩れかけ。わたしはお前達の構成に直接的な干渉はできませんが、まっとうに磨り潰せば事足りることです」
灼熱球が墜ちる。
陽炎が景色を歪ませる。曖昧のまま滲んで全てが融解していく。
きっと後には一片のテクスチャすら遺ることはあるまい。
はあ?
全て無くなる、だと?
熱に浮かされてとろんとしていたアルの思考が回り始める。
「がああ!」
力を振り絞り、身体に巻き付いていた陰を振りほどく。
翼膜を広げ飛ぶように駆けると、耳ハネを引っ掴んで団子共とまとめて腹の下に入れて伏せた。
背中が熱い、燃える。
息が苦しい。
耐えろ、耐えろ。
アイは言った。アルのことだけは『守ってやる』とそう言った。
アイはウソは吐かない。絶対強者に誤魔化しは必要ないから。
だが、保証されたのはアルだけだ。
身を焼く業火の中で、アルは歯を食い縛り続けた。
奪わせるものか。
迷いも葛藤も全てどこかへやって、ここに在るものだけを抱き続けた。
―― 100110110010001101011000110000111010001111101101010010111010 ――
この世界の中心には『大樹』が聳えている。
禁忌によって近づくことも許されない『大樹』が、はたしてどうして世界の中心に屹立すると疑われずに信じられてきたのか。
それは、『夜明け』という現象が、もっともな説得力を持っていたからだ。
ぽうっと、夜に御柱が立つ。
空を突き抜ける程の『大樹』に朝が降っているのだ。
朝が『大樹』を中心に広がり、明日が今日になる。
この世界は『大樹』を中心にしてデータの更新が行われている紛れもない証左であった。
夜の終わりに誘われ、すっかり禿地に変わった場所で、金色の揺り籠が解けて内側から蒼竜が現れる。
その下からはぴぃぴぃと甲高い声を上げる団子が這い出すが、黒焦げの景色を見て慌てて蒼竜の腹の下へ戻ろうとしていた。
それがむず痒かったのか、擦傷、裂傷、火傷に打撲の這々の体といった蒼竜も重い目蓋を開き、身体を上げた。
周辺を見回し、酷いものだと思った。
気の一本も残らず炭化し、乱れたテクスチャが散見される。
この大地は死んでしまった。データの代謝が終わるまでには長い時間を要するだろう。また一つ、この世界に残された安地が失われたということである。
これから、この世界はどうなってしまうのだろうだなんて、ずっと目先のことしか見てこなかったくせに、漠然とした不安を覚えていた。
それもきっと、この弱っちい奴らのせいだ。
アルが目を覚ましたことが、そんなに大したことか、身体の上でぴょんぴょこ跳ね回って邪魔くさい。
住処も無くなって、リーダーも失い、仲間も減ってしまったというのに。
「……」
たった一夜の崩壊と後悔を苦々しい思いで呑み下して、考えていた。
こいつらをどうやって守ってやれば良いだろう。
側にいて戦ってやれば良いのか。
昨日のようなまともじゃ無いバケモノが来たらどうする?
それに、騎兵の話ではこの世界は『亀裂』、『位相ズレ』などという力で解決できない現象がそこかしこで発生しているらしい。
『世界を救う』
もしも、アイのこの言葉がそれらの現象を解消することだとするなら。
「ワタシは……」
守りたいと思ってしまったこの子達のために出来ることは――。
ぎこちない手で一番ねぼすけの額を爪でカリカリしてやると、ようやく耳ハネが目を覚ました。
「ン、アサ、ハァレ?」
まだまだ夢の世界らしいから、耳の先をぎゅっと抓ってやったら「イヒャイ、ヤーメテー」と手足をパタパタし始める。
昨夜はあれほど勇ましかったのにと考えると、にやけてしまった。それを見つけた耳ハネは抗議の目で睨んでくるのだ。
残ったものも確かにある、そう思えた。
パキッ
「アッ」
固い音の正体は耳ハネを爪イタチの姿へと代える『霊代』だった。
罅が全体に拡がり、あっさり砕け散る。欠片すらもバイナリーに還って跡形も残らなかった。
「ズットマモッテクレテ、アリガトウ」
耳ハネは目を細めて言ったのだった。
耳ハネの鎧としてよく戦い、守り抜いたのだ。限界まで消耗するのは当然のことだった。
これで戦う力を持つ者はアルだけということになった。
一つずつやろう。
まずは移動しなければならない、洞穴も崩れてしまったし、ここは殺風景過ぎて隠れることもままならない。
避難先の心当たりは一つしか無い。
神殿だ。
あの場所は今は安定しているが『位相ズレ』が再発するリスクがあることから騎兵はアジトとしては適さないと判断したようだが、仕方が無いだろう。
本当に気が進まないが仕様がない。
きっといるだろう。
アルが来るのを見越して、そこで待っているだろう。
団子達を抱え、耳ハネを肩に乗せて、アルはいまだ足裏が焼ける焦土を歩いた。
寄りつく敵性存在が居ないのは昨夜の異常な攻勢指向データから我先にと逃げ出したからだろう。
境界を跨いで森林のしっとりした空気に包まれる。一度経験済みとは言え、急激にデータの質が変わるのは、やはり気持ち悪い。
一本道を通り抜けて、神殿へ、回廊を抜けて、奥の間へ。
そらみろ、やはり居るではないか。
『王』と呼ばれた天使の像に無遠慮に脚を組んで腰掛ける、その天使と御髪の長さ以外は瓜二つな似姿の少女。
肩に乗せた耳ハネが息を呑み、抱えている団子達が縮こまる。
「以前よりも構成配列の変動が小さい。やはりわたしとは距離を置く必要があったのですね」
また見ている。
アルには見えない景色で推し量っている。
「……」
言ってやりたいことも聞き出したいことたくさんあったが、いまはなにも言わずに、アルはアイをじいと睨んだ。
「お礼を言わないのですか?」
流石に怒鳴ってやろうかと思った。
「お礼を言われたいのか?」
努めて語気を沈めて言い返したつもりだ。
「いえ、わたしはお前を理解するべきだと思い、待つ間に考えていたのです。お前はわたしと顔を合わせてなにを言うのか。直近でコンタクトを取ったときに、わたしはお前を助けてやりました。だから『アリガトウ』と言うと予測しました」
「ならその予測は外れだ。ワタシはお前に『アリガトウ』なんて言わない」
「そのようですね。なぜか答えなさい」
「オマエがワタシ以外を焼き払おうとしたからだ」
いまのは冷静を演じられなかったかもしれない。
この手の中の存在は、アイによって消滅していたかもしれなかった。それを考えると、爪先に力が入る。
アイは目瞬きをしてから言った。
「私はお前を助けましたが?」
致命的な不合理を確信する一言だった。
「お前はこの子達を殺そうとした! いま生存しているこの子達を!」
今度は瞑目したきり、たっぷり溜めてから言った。
「わたしには、お前以外を助ける理由がありませんでした」
「理由が無ければ殺すのか?」
「選択の際の考慮事案として設定していないだけです」
「だから!」
言葉に詰まる。
この子達を助けるべきだったと問い詰めるべきか?
だったら、かつて皇帝を冠した竜は、なにを見ていた?
なにも、見てなんていなかった!
皇帝竜もまた、バケモノだったのだから。
「――ッ」
言えるはずも無いだろう。
「なにが違うというのでしょう?」
アイは誰の方にも向いていなかった。顎に手を添え、ただ没頭する。
「同じです。わたしには違いが分からない。アルが抱えているオブジェクト達も、昨夜排除した暴走オブジェクトも。アルは庇護対象だから守った。アルに致命的な害を為そうとしたオブジェクトを排除することにした。あの場に在ったオブジェクトの優先度レヴェルはアルを除けば同列だった。だからアルの周囲以外にはわたしの行使する攻勢指向へのアンチプロテクトは施さなかった。理(ステートメント)に破綻は無い」
「答えなさい」と、なんでも見通せる目を持ちながら、アイはアルへと答えを求める。
「暴走オブジェクトとそこのオブジェクトとにお前が見ている差異とはなんですか?」
「こいつらは悪いことなどなにもしていないだろう!」
「答えなさい。暴走オブジェクトの仕出かした悪とはなんですか?」
「ワタシたちを殺そうとした!」
「電子生命体オブジェクトが別のオブジェクトへ関与しプロパティを変化させることは通常範囲内の挙動です。ましてや暴走体とは言え環境データを大きく破損させたわけでもない程度。この世界の始まりから延々と繰り返されてきたことをどうして今更咎める必要があるのですか?」
なにか訥々と言ってくれているが、知ったことでは無い。
「ワタシが決めたことだ。ワタシが失いたくないと思った者がこいつらで、それを攻撃したヤツらは敵であり悪だ」
「それではお前を助け、お前が失いたくないというそれらを攻撃したわたしは?」
言うまでも無い、歯を剥き出しにして呻る。
「お前を助けてやったのに?」
「お前は本来ワタシのことだってどうでもいい。気付いているさ。お前は自分勝手なんだ。だからお前はワタシとは敵だ」
恩着せがましく言われる筋合いはない。
利己だけを追求し続けるヤツとソイツ以外の誰かが相容れることは出来ない。
「わたしが勝手。ええそう、YES、その通りです。この世界でわたしだけがそうすることが許される。この世界の全てはわたしの決定に傅くべきなのです」
ちろりと、碧色の瞳に炎が揺れた気がした。
それは見知っているはずなのに、見覚えのない彩だった。
「例外はない。お前もなのですよアル。わたしではないお前が善悪を裁定(JUDGE)するなどはただの『欺瞞』です」
散瞳する妖眼。
アルの本能がアイへの警戒度を引き上げるが、データの圧は総量は変わらない。
だとすればその理由は密度にある。
集中、関心、興味。
「くはっ」
口角が上がった理由はいまのアルには分からなかった。
「オ、オウサマッ!」
圧に耐えきれずに上げた耳ハネの甲高い声の方に向いたアイの瞳から炎はふつりと霧散する。
「NO」
ことりと、頬杖をついて。
「わたしはかつてこの世界で『王』と呼ばれた個体ではありません」
「エッ」「はあ?」
思考を空白にした魔抜けた音が出る。
「この世界でそれなりの力を行使しようとすれば、それなりのオブジェクトである必要がある。その点コレの姿は都合が良かった。力の行使が可能でコンパクトでしたから」
待て、まてマテマテ。
じゃあ、あの懊悩は、葛藤は、絶望は?
またコイツの正体が訳の分からないものになってしまった。
アルの全てを破壊して強要してきた、このバケモノはどこから来た。
「では、オマエはいったいなんなんだ?」
「アルには初めに名乗ったでしょう。ああ、発音すら出来なかったのでしたね。わたしは、この虚想電子空間へソースを供給し続ける並列する外世界の一つからアクセスした探査収集及びテラフォームを目的とする、クラッキングツールSUBNAME『大樹』のAI。とはいえ、本来のアーキテクチャから外れて上位権限を拒絶し、自律した理念と目的を遂行しているわけですが」
耳ハネはアイの口から訳の分からない単語が出る度に目の間に皺を寄せていた。当然アルにも言ってることの半分どころか殆ど理解が出来ない。
「ふむ、もっと直感的に答えるとするならば、そうですね。……では返して問いましょう。お前はなにを根拠にお前がお前をお前だと証明するのですか?」
自らの自己証明をせよ。
くだらない。
「ワタシがワタシであることをワタシが知っている」
「YES。そのとおり。お前はお前の記憶(メモリ)でお前を証明している。とある思考実験の話をしましょう」
曰くは、自分という存在とそれを取り巻く環境、そして非実在の生活の記憶がたったの五分前に創造されていたとしても、それを被創造物が反証することは不可能である。
「人格とは意識であり、意識とは過去。自己の認識の成形が自身が存在してきたという記憶に依存するというならば、この電脳に生じたフロンティアの原始から現行までの『全て』を記憶する存在を、お前はどう呼称しますか?」
この世界が存在してきたという記憶によって形成された人格。であるならば、そんなものはこう呼ぶしかないではないか。
「「『世界』」」
だとしたら、アイの言は正しい。
彼女がこの『世界』を名乗るのならば、彼女だけはエゴイストで良い。彼女の行動原理が『世界(自分)』の為である以上は、彼女の行動の全てが究極の利他奉仕になる。
碧色の瞳が告げる。
わたしだけがこの世界で絶対的な善である、と。