週末の日曜日。レース開始時間となる午後3時ごろを見計らって、アタシはバスを乗り継いで練習会となる会場を結局訪れた。
会場は県が運営している公共のレース場で、芝のレーストラックが整備されていた。幼い頃、姉たちがここでレースを走ったことがあり、あたし自身も連れられて何度か来た覚えがあった。
コースの周りには運動会で使われるようなパイプテントがいくつも建てられていた。練習会やレースに参加するクラブの私物のようで、その中にFKBのテントを見つけた。
テントの近くまで行くと、アンナがアタシに気づいて手を振ってくれた。
「スカーレットさんっ。おいでだったんですね」
「お疲れさまです。えっと。これ、どうぞ」
アタシは近くのコンビニで買った2リットルのスポーツドリンクを差し入れとして彼女に渡した。
「そんなわざわざ……ありがとうございます!」
「いえ。……あの、レースは?」
「もうすぐ始まりますよ。レースに出るウマ娘たちはあちらでアップしてます」
彼女が指さした先には深尾と共に何人かのスクールのウマ娘がいた。彼女の言う通りそれぞれ体を軽く動かしてレースの準備をしているようだった。その中にアクアと傍らにいる母親の姿もあった。
木曜日にアクア母娘との一騒動があってから、昨日土曜日のトレーニングで2人と一緒になったが、特に何も無かった。一切会話も無ければ、アタシかあっちが謝罪するなんてことも無く、無関心でお互いスルーしている形だった。遠目から見た2人の様子は普段と何も変わらなかった。
5月の下旬だけれど、今日は快晴で夏の感じさせるような陽気だった。気づけば首筋が汗でしっとりとしていた。
目の前にいるアンナも暑そうで、首に巻いたタオルで額の汗を拭っていた。
「暑いですし、こちらへどうぞ」
アンナに誘導されテントの下へと入る。ウマ娘たちの保護者たちが何人もいて、軽く頭を下げて会釈をした。あのキャンプに来ていて知った顔がいくつかあった。
「あれ? マリン?」
「……こんにちは」
テントの下には保護者に交じってマリンがいた。黒鹿毛セミロングが汗で少しだけぺたんとなっていた。
「レース出ないの?」
「出る。でもちょっと疲れたから休んでる」
マリンは“1”と書かれたゼッケンを着けていた。
「無理しちゃダメよ」
「うん。もう楽になったから大丈夫。…………」
「……?」
彼女は喋りながらもアタシへ視線を向けず、どこかをじっと見ていた。なんとなくその視線の先を辿ると、アップしている他のクラブのウマ娘たちがいた。
──『……なぜ、本気で走らないのですか?』──
耳に残っている、深尾の言葉。
「……じゃあ行ってくる」
「あ、頑張ってね」
立ち上がってFKBのウマ娘たちがいる場所へとマリンは向かっていった。
彼女はいつものようにアクアの隣へ行き、何かを話しながら体を動かし始めた。
実を言うならアクアにも頑張れって声をかけてあげたかったけど、あんなことがあったので無理な話だった。せめてレース中だけでも声を出して応援しよう。
どういう経緯であっても、アクアが目標へ向けて懸命に頑張っているのは変わりない。それが報われてほしいと本心から思う。
『ではただ今より──』
遠くのアナウンスがレース開始を告げていた。
◇
わたしはアップを終えた。あとはレースを待つだけ。
アクアの横に座って、ちょっとだけスポドリを飲む。わたしとアクアが出るレースはもう少し先だけど、トゥインクルシリーズと違って前のレースが終わったらすぐに次のレースが始まるので、すぐに時間がやってくる。
その短い時間の中で、レースに出るウマ娘について考えていた。
アップする場所からでは他の出走ウマ娘を見られなかったから、見るために疲れたと嘘をついて全体を見渡せるテントにいた。おかげでウマ娘全員を見れた。
アクアと最後に走るこのレース、わたしの目的は──
──アクアを勝たせること。
アクアを勝たせるためだけに、私は立ち回る。
(…………)
アクアが普通に走っても勝てるかもしれないけど、他のウマ娘と実力はあんまり変わらないと思うから、100%勝てるわけじゃない。
だから、わたしがなんとかしなくちゃ。
大切な親友のために。
親友の夢を叶えてあげるために。
(……ちょっとまとめよ)
過去に一緒に走ったときや、今日の合同練習会で一緒に走った姿を思い出しながら、わたしが何をすべきか考える。
速くてアクアの敵になりそうなウマ娘何人かについて情報をまとめよう。
まずゼッケン2番、芦毛ロングのウマ娘。この子は隣の市のクラブの子で、何回も一緒にレースを走ったことがある。
差しのウマ娘で直線の末脚はまあまあ。でもこの子には弱点があって、左から少しでも寄られるとフォームを大きく乱して遅くなる。それで一回走りがバラバラになったらレース中に戻せない。今日のレースは左回りだから、序盤か中盤あたりで内から少し寄れるように走れば
次はゼッケン4番、手足の長い鹿毛のウマ娘。顔は知っているけど一緒に走ったことない。だから外から見た過去のレースや、今日の練習会だけの情報になる。
追い込みで切れ味はあるけど左右にフラフラするし真っ直ぐに走れない。速さ的にはアクアよりは遅いから、めちゃくちゃ気にしなくてもいい。
それにこの子は左回りのコーナーが得意じゃない。左回りのコーナリングで絶対に膨れるので、外から並んで蓋をしておけばスピードが落ちて、ただでさえつかない行き脚がさらに遅くなる。だから位置取りが合いそうなら第1・2コーナーだけで
でも今日は内のバ場がすごく良くて外から追い込み決まりにくそうだから、それをしなくてもたぶん大丈夫。
3人目はゼッケン10番、青毛ポニーテールのウマ娘。もしトゥインクルシリーズみたいに人気とかがあれば、この子かアクアが1番人気になってると思う。この地域じゃ速くて有名なウマ娘だ。わたしは一緒に走ったことはないけど、アクアとは何回か走ってる。ちなみにアクアの負けの方が多かったはず。
逃げのウマ娘。スピードに任せて逃げるタイプで、自分のペースで走った時は速くて、何バ身も離して勝つこともある。すごく派手な勝ち方をする子だ。
……でも、今回は
この子、逃げられないとすごく遅くなる。できる範囲で他の子の対応が終わったあと、向こう正面ぐらいで気持ち良く逃げてるこの子を追い抜かしてハナを取り、わたしがペースを握るだけで
ムキになってハナを取り返そうと競ってくれたらペース速くなって、他の先行勢みんな
ちなみにアクアはいつも通りの差しで行く予定だから大丈夫だと思う。でもアクアのポジションによっては作戦を変えないと。最低この青毛ポニーテールの子だけでも潰せればアクアは勝てる。
(あのレース、見てよかったな)
後ろと前の子にどっちにも対応するにはどうしたらいいんだろうって悩んでいた時に偶然見たのが、ある年のジャパンカップだった。
ドウデュースが勝つレースだけど、わたしが参考にしたのは2着に負けたドゥレッツァってウマ娘だった。スタートから2コーナーまでは中団でレースを運んだけど、向こう正面で先頭を奪っていった。
(そんなのもあるんだって、驚いたっけ)
ドゥレッツァは2着に負けてしまうけど、ドウデュースと差はほとんど無かった。それに、わたしは勝つ気が無いから、勝つとか負けるとかどうでもいいんだ。
(……こんな感じかな)
他のウマ娘もついて少し考えて、情報は全部まとまった。
余裕があったら最後の直線でアクアが走りやすいように進路を開けてあげよう。
同じチームのわたしがアクアを助けているって思われないように上手く立ち回る。一個一個に点で対応してたら怪しまれるから、動きに関しては点より線、流れを意識する。でも、このレベルのレースに出走するウマ娘がそんなこと出来るわけないってみんな思ってるから、考えすぎかな。
(……全部、アクアのために……!)
性格が暗くて学校で友達もいなくて、家でも──
(っ!)
──頭を振って、
(…………)
……そんな自分に分け隔てなく接してくれて、仲良くしてくれた友達。
わたしの大好きな友だち。
アクアのためなら、なんだってできる。やってみせる。
アクアが喜んでる姿が見たいから、ずっと手を抜いて勝たないようにしてきた。勝って母親に褒められている時が、アクアが一番幸せそうだから。
「……」
自分の脚を見る。
「ねえ、マリン」
「なに?」
先程まで真剣な顔で集中していたアクアは表情を和らげてわたしを見ていた。
「ぼくたち、ずっと友達だよ」
「……ふふっ」
「な、なんで笑うのさ!」
急にそんなことを言い出した親友がちょっとおかしかった。
アクアの顔はちょっと赤くなっていた。
「だってぼくたち学校違うから、ぼくが違うクラブ行ったらもう会えなくなるでしょ」
そのことは、前から分かっていたこと。
アクアは何年も前からもっと強いクラブに行きたいって言ってた。
「そうだね」
「でも、LANEはいっぱいするから!」
「うん。わたしもLANEするよ」
アクアが笑う。もうアクアがすぐそばにいないことを考えると、すごく悲しくなる。
でもアクアの夢が叶ってほしいって、わたしは思う。
たくさん我慢して頑張ってるのを、わたしは一番近くで知ってるから。
「アクア。もうすぐ呼ばれそうよ」
「あっ、母さん。うん、分かってるよ」
アクアは私のすぐ横で母親と話していた。
「……アクア」
「わっ、母さん……?」
母親に優しく抱きしめられるアクア。
「頑張ってアクア。……私の可愛い娘。愛してるわ」
「……うんっ。ぼく、絶対に勝つねっ!」
──そんな幸せそうな2人を見て、フラッシュバックする暗い記憶。
「……………………」
──誰もいない家で、ひとりで泣いていた惨めな自分。
「…………っ…………」
──忘れようとしてたのに。
──かき消そうと思えば思うほど、はっきりと思い出してしまう。
──だって、ついこの前のことだから。
母親に抱きしめられるアクアの顔がこっちから見える。またちょっと顔が赤くなっていた。
なんて、幸せそうなんだろう。
わたしが一番欲しいものを、昔からずっと目の前で見せつけられてきた。
胸の奥に黒い点がある。
まるで服にこぼしたインクのように、それが広がっていく。
──一緒に走るのは最後。だから今日しかない。
(あ、あれ……!? だめだ、こんな気持ち…………っ!)
それはわたしの胸でぐつぐつと熱くなってきている。
『次のレースに出走の子は、スタート位置に──』
「行こっ、マリン」
「えっ? うん……」
いつの間にか母親から離れていたアクアがわたしに声を掛けてからスタート位置へ向かっていた。
わたしはゼッケン7番をつけたアクアの背中を見ながら、後ろに続く。
ゲート裏に着くと、すぐにゲート入りになった。心の整理は全然ついていなかった。
ゲートに入りながら必死に他のウマ娘の情報を思い出す。わたしがしないといけないことを……
『スタートっ!』
ゲートが開かれて、レースが始まる。
(…………え?)
位置取りのためにわたしは予定通りわざと出遅れた。出遅れてから中団後方へとポジションを上げた。
(なんで…………)
わたしのすぐ目の前、中団へ位置するアクアの背が目に入った瞬間──
──黒い何かがわたしの中を満たしていた。