一時的に、日曜のレース当日から2日後へと時が進む。
「…………」
火曜日の放課後、早めにFKBに着いたアタシは着替えを済ませてグラウンドにいた。まだ練習が始まるまでには時間の余裕があった。
クラブのウマ娘はまだ3割程度しかいない。逆にスクールのウマ娘は殆ど揃っているようだったけれど、そこには
ふと事務所から出てきた深尾と偶然目が合った。彼の視線に何か意味深なものを感じた。
彼はアタシから視線を外すと、事務所の裏の方へと歩き始めた。その先は上り坂となっていて、裏山の奥の方へ通じているようだった。
「……?」
彼に“ついて来てください”と言われたよう気がして、アタシは彼の後を追った。
あのレースの直後、深尾と2人になれる頃合いを見計らって彼女たちのことをそれとなく訊いた。でもその時は何も教えてくれなかった。
ただあれがマリンの本気の走りで……そしてそれは彼の予想を遥かに超えたものだったとだけ伝えられた。
彼は行き止まりの狭い広場になっているようなところに、アタシに背を向けて立っていた。周りには木々が生えているが、この辺りは靴底の高さほどの雑草しか生えていなかった。
彼の前には薄い桃色をした野花が咲いていた。
「今日も綺麗ですね。……ああ、誰もいないなら、あなたに話を聞いてもらいましょうかね。私の独り言、聞いてくれますか?」
「…………?」
「誰かが来て声がしたら話すのをやめちゃうので、その時までですけど。誰かが来たら教えてくださいよ」
深尾は目の前の花に対して話しかけていた。
けれどおそらく彼の言葉はアタシに対して向けられている。言外に返事をするなと言っている……?
「実はマリンさん……両親から
「!?」
思わず声が出そうになった口を慌てて両手でふさいだ。そして振り返って後ろを見て、誰も来ていないことを確認する。
これは誰にも聞かれてはいけない話だ。
「マリンさんのご両親は2人で事業を立ち上げた実業家でして。その事業が成功しぐんぐんと業績を伸ばしていた頃に生まれたのがマリンさんなんです」
「赤ちゃんから物心つくまではご両親でマリンさんの面倒を見ていましたが、保育園に通う頃からはベビーシッターにお世話を全て任せられるようになりました。事業は成功を続け、多忙を極めた2人には時間がなく、一週間以上家に帰ってこないのも当たり前だったようです」
「……時間が無くマリンさんの面倒を見られなかったのは事実ですが、事業のことばかりで一人娘であるマリンさんへの興味が失せていたのも事実のようです」
「なので幼少期からご両親と過ごした時間はほとんど無く、稀に帰ってきても着替えや荷物を取りに来たりする程度だったと。……経済的には裕福な家庭なので、
「私のFKBに来たのもマリンさんが望んでのことです。母親はレースとは無縁の方でしたが、テレビでレースを見て興味を持ったと。ただ、契約の際に来たのはそのベビーシッターさんだったんですけどね。電話でご両親とお話はしましたが、『ベビーシッターに一任している』とだけ言われただけでした」
「……あ、実はマリンさんが1年生の時の担任の先生が、マリンさんのことをずっと気にかけてくれているんです。ご両親の
「マリンさんの話に戻りますね。ベビーシッターさんはご家庭に踏み込まず必要な仕事だけをこなす方だったらしく、マリンさんと仲を深めることは無かったそうです。そして小学生に上がってもそれは変わらず……2年ほど前、マリンさんが3年生の時にベビーシッターさんの利用をやめました。マリンさんは自分で買い物をはじめ炊事洗濯掃除など、家事を全て自分でするようになったんです。ご両親に伝え、それ以降ベビーシッターさんは利用していません」
その話を聞いて、キャンプでの調理でマリンが包丁の扱いに慣れていたことを思い出した。
「幸か不幸か、ご両親の事業は今に至るまで成長を続けていて、ほとんど家に帰ってこない状況は今でも変わりません。頻繁に全国や海外に出向き会社にいないことも多いらしいですし、更には会社に2人専用の仮眠室や簡易リビングを増設して、そこが事実上の生活拠点になっていたようです」
「……これは私と先生のいち意見でしかありませんが──」
「──マリンさんは、ご両親からの愛を欲しているのだと思われます」
胸が締め付けられる。
マリンの境遇に。
それと、マリンがアクアと母親の関係をどんな気持ちで見ていたかを想像してしまって。
「1年生の時、その先生が一度児童相談所に連絡してくれたようですが、軽い口頭指導のみで終わったようです。……暴力や暴言は全くなし、栄養状態は良好、ベビーシッターを利用、服装や病院の受診もちゃんとしている。だから、それ以上は対応できないと。そう考えるなら
「マリンさんはご両親の仕事を邪魔してはいけないと思っておられ、構ってもらうために何かをするようなことはありませんでした。例えば、嘘でも体調が悪いと言ったりとか、何かを壊したり荒れて不良のようになることも全くなかったようです。学校では勉強も運動も優等生で、家のことも全部自身でこなして……良い子として在り続けています」
「……ただ、マリンさんは唯一ご両親に求めることがありました。それは自身の誕生日についてです。……誕生日だけは、自宅でご両親に祝ってほしかったようです」
「小学校に上がる前まではご両親も予定を合わせて帰ってきてくれていたようです。しかし小学校からは帰ってきてくれなくなりました。ケーキは配達で用意されていたようです」
「小学4年の誕生日。彼女はご両親の好物を自分で作り、電話で伝えたそうです。そうしたらご両親は帰って来てくれたんですが…………あとから先生がご両親に連絡して知った情報によると、それはご両親の予定が偶然空いただけだったようです。……そのことをマリンさんは知りませんでした」
「そして今年、小学5年の誕生日……ついこの前のことです。これも先日先生より聞きました。今年もご両親の好物ばかりを作って待っていたようです。ご両親は『時間ができれば帰る』と伝えていたようですが……」
「……ご両親は帰ってきませんでした。マリンさんは日付が変わっても……自身の誕生日が終わっても、ずっと起きて夜中まで待っていました」
「明け方になってやっと電話が繋がったんですが、帰れないから自分で食べてと言われたそうです」
「……マリンさんは、自分が作った両親の好物の料理を一口も食べずに全て捨てたようです──」
~~♪ ~~♪
そこまで深尾が喋ったところで、彼のポケットのスマホが鳴った。電話だったようでそれを取った。
「はい。今行きますよ。…………もうトレーニング開始の時間ですね」
振り向いた彼はわざとらしく目を丸くした。
「あっ、スカーレットさん。もうすぐトレーニング始まるので、行きましょう」
「……あのっ!」
立ち尽くすアタシを通り過ぎた深尾に対し、アタシは花の方を向いたまま声を上げた。アタシたちは今、お互い背中を向けていた。
「マリンはアクアを……憎んでいたんでしょうか」
そんな経験をしてきたマリンが、アクアのことをそう思うのが自然な気がした。
「……何のことでしょう? ほらスカーレットさん、行きましょ──」
「教えてくださいっ!」
とぼけようとしていた深尾は足を止めた。
「……どうなんでしょう。私はマリンさんじゃないので分かりません。ただ、私的には少し違うかなと」
「え……?」
「マリンさんはご両親が好きで、同時に憎んでいたんだと思います。両親に対する不満や満たされない欲求が、ああいう形でアクアさんに向いたのではないでしょうか」
「……?」
彼の言ってることが分からない。両親への感情がアクアに向いたって……?
「一時的にそんな感情がアクアさんに向いたのかもしれません。妬ましいって気持ちもあったのかもしれません。ですが……」
「……マリンさんは、アクアさんを本当に好きなんだと思いますよ。昔からずっと……今も、ね」
深尾はそう言い残して、今度こそ歩みを進めて去っていった。
アタシの視線の先では、人目につかないこの場所で咲き誇っている薄い桃色の野花が風に揺れていた。
◇
目の前でゲートが開き、レースは始まった。全員で11人。距離は
(…………なんで……)
わたしは中団からやや後方で、何もせずに走っていた。ただ走っていた。
『スタートはみんな上手に決めました~。ゼッケン10番の子が先頭に立つようです』
スピーカーから実況担当の女の人のおっとりとした声が聞こえてきた。
読み通りにゼッケン10番の青毛ポニーテールの子が逃げた。ゼッケン2番の芦毛ロングの子はわたしのすぐ目の前で、ゼッケン7番アクアと並んでいる。ゼッケン4番の手足の長い鹿毛の子は最後方となっている。
中団の後方のわたしは大体8番手あたり。
レース前の作戦では、まずはゼッケン2番を潰すために動かなきゃならないのに。アクアを勝たせるためにやらなきゃならないのに。
(アクア……)
目の前のアクアの姿を見ると、頭と体がなぜか動かない。わたしはただ周りに合わせて追走しているだけ。
──母親に抱きしめられて幸せそうにしているアクアが視界によぎる──
バ群はホームストレートを進んで、青毛の子が1コーナーへ入ろうとしていた。
『第1コーナーへと入っていきます!』
(早く……早く動かないと……!)
1・2コーナー中間にゼッケン10番青毛の子が入っていく。2番手の子とは3バ身離れていて、リズムよく走ってる。
2番手以下は固まっていて、5番手ぐらいにアクアと芦毛の子。わたしは8番手。最後方1人離れて手足の長い子は頑張って追走してる感じで、あまりリズムが良くなさそう。この感じなら最後方の子は放っておいても大丈夫そうだけど……
2コーナーから向こう正面に向かって、アクアを含めた周りのウマ娘たちが大きく膨れながらコーナーリングしていく。周りに合わせて、わたしも膨れながらコーナリングする。
『みんな上手にコーナリングしていきますっ』
そんな実況が聞こえてくる。
(……上手、か…………)
このレースに出てるのは地区で強いウマ娘たちばかりだ。確かにこの歳で、このレベルのウマ娘なら上手にコーナリングできていると思う。
でもわたしからしたら……
(わたしが本気でコーナリングしたら…………あっ、違う! こんなこと考えるんじゃなくて、アクアのサポートを……)
アクアは2コーナーから向こう正面に入ると内ラチ沿いにポジションを取った。わたしはその3バ身ほど真後ろを追走している。
動かないと。
アクアを勝たせるために。
アクアの夢を叶えるために。
別れるのは淋しいけど、そうしないと。
──母親に抱きしめられて幸せそうにしているアクアが、また視界によぎる──
(──────)
気づいたのは小学2年の3学期ごろ。それは突然訪れた。
スクールの模擬レースで、軽く走ってるのにアクアが全然追いつけないことがあった。普段はアクアが勝つことが多かったから、最初はアクアの調子が悪いのかと思った。でも何回も走っていくうちに
スクール内の模擬レースとはいえ、負けるたびにアクアは母親に怒られていた。
わたしはそれから本気で走るのをやめた。
アクアはわたしに勝つようになって、わたしの目の前で母親に褒められていた。
何度も、何度も、何度も。数えきれないほど褒められて、アクアは幸せそうに喜んでいた。
大切な友達のアクアが喜んでくれて、わたしも嬉しかった。
……でも──
──本当はアクアはわたしより遅いのに、なんで褒められてるの?
──わたしはパパとママに褒められたことなんてないのに。
──パパとママは、わたしが走ってる姿1回も見たことないんだよ。
──走るのが速くたって、わたしの欲しいものは何も手に入らない。
──こんなの、いらないよ…………
──なんで、なんで……わたしと違ってアクアは…………っ
アクアは何も悪くない。こんなこと考えるのはいけないこと。
手を抜いてるのも、パパとママに見てもらえないのも、わたしのこと。
分かってる。分かってる。分かってる。でも……
『向こう正面を過ぎて、ゼッケン10番の子が第3コーナーへと入っていきますっ』
実況の声が聞こえてきて、考え込んでいた頭がレースに戻ってくる。
バ群が3コーナーへと入っていく。
(……わたし、何にもしてない……)
レース前に考えていたアクアのサポートを何もしないまま、レースは終盤へと入っていた。
勝負どころの3・4コーナーに入った皆はスピードを上げてコーナリングしていく。だから皆さっきの1・2コーナーより大きく膨らんでる。
目の前で内ラチを走っていたアクアも、皆と同じように大回りでコーナリングしていく。
アクア。
母親にずっと見てもらえて、愛されて。
褒められて頬を赤くしてるアクアは、本当に嬉しそうで。
パパとママに見てもらえなくて、ずっと独りで。
誰もいない家で、ずっとパパとママを待っていて。
……思い出さないようにしてたのに、この前の誕生日を思い出してしまう。
パパとママのために作った料理を並べて、夜中までテーブルでずっと待っていた
帰って来てくれなくて、泣きながら料理をゴミ袋に捨てた惨めな
逆に、ずっと幸せそうなアクア。
わたしばかり…………わたしばっかり、なんで……っ!
──ぷつっ、と。何かが切れる音がして、またどす黒いものが全身を満たした。
(もう、いいや──)
このどす黒いものに、わたしは全てを任せることにした。そうすると、すっと体が楽になった。
(──好きに、走ろう)
『3・4コーナー中間。4コーナーに入っていきますっ。さあ、みんなここも上手にコーナリングしていきますっ』
先頭は変わらずに青毛の子だが、2番手の子が差を2バ身まで縮めていた。アクアもポジションを上げて、2番手の子のすぐ後ろにつけている。
未だにみんなは大回りにコーナーを回っていて、内ラチ沿いには誰もいなかった。
(このスピードのコーナリングで、なんでこんな膨れるのかな……)
どうやって走るかイメージをした。
がらりと空いた内ラチを見ると、ゴールドシップの皐月賞*1を思い出した。
けどイメージ的にはちょっと違う気がした。あれは荒れたバ場を突き進んだだけだし。ああいう走りじゃなくて──
──アクアの背中が目に入って、あるレースが思い浮かんだ。
(……あ。オーギュストロダンのBCターフ)
小さいときに2人で買ったセットになっているぬいぐるみのキーホルダー。アクアがオーギュストロダン、私がキングオブスティールだった。
ぬいぐるみの2人について何も知らなかったわたしは、後から2人のレースを調べて動画で見た。その中でオーギュストロダンが勝つアメリカのBCターフ*2が一番好きだった。彼女は4コーナーまで中団後ろにいたのに、ほとんどスペースのない内ラチ沿いをコーナリングし、前のウマ娘を4コーナーだけで全員抜いて勝ちきった。
アメリカの芝コースは小回りでカーブもきついらしい。それを内ラチぴったりにあのスピードでコーナリングして前のウマ娘を全員抜くなんて衝撃的だった。
(……わたしなら、できる!)
考える前に脚が動いていた。
みんなが大回りになって3人分ぐらい空いている内ラチとのスペースにわたしは飛び込んだ。加速して、内ラチと数センチになるギリギリまで体を寄せてコーナリングしていく。わたしが一番小回りでコーナリングしてるのに、ダントツで一番速かった。
『えっ!? ゼ、ゼッケン1番の子、1人だけ最内をコーナリングしていきますっ。速すぎ……あっ失礼しました、ものすごいスピードですっ!』
1人、3人、5人と、みんなをまとめて交わす。
そして6人目、2番手に上がっていたアクアも並ぶ間もなく交わす。
わたしが交わしたとき、一瞬だけアクアと目が合った。アクアは驚いているようだった。
(……ねえアクア。あのぬいぐるみだけど、わたしがオーギュストロダンを持つべきだったと思う)
(だって……)
「……キングオブスティールより、オーギュストロダンの方が、圧倒的に強いでしょ?」
「はっ、くっ、マリンっ!?」
もうアクアとは目を合わせなかった。
そして先頭を走る10番の青毛の子を難なく交わして先頭に立った。
『なんと4コーナーだけでごぼう抜きです! 1番の子が先頭で直線に入りますっ!』
直線に入ってからは、何もなかった。
みんなの足音があっという間に遠くへと離れていった。
『独走ですっ!!! コーナーだけでなく、直線もものすごいスピードです!!! 5バ身、8バ身……もう10バ身以上は離れていますっ!!!』
直線半ばで脚を緩めた。でも、足音はどんどん離れている。
わたしの緩めたスピードより、他のみんなの本気のスピードの方が遅いから。
『いったい何バ身差で勝ってしまうんでしょうかっ!?』
ゴールが見えて、体を起こして緩めたスピードで駆け抜けた。息はほとんど切れていなかった。
『1番、約20バ身差つけて、ゴールインッ!!!!!』
レースを見ていた人たちのざわめきが聞こえてくる。
足を止めて振り向くと、まだみんなはゴールしていなかった。もう息は整っていた。
『1番の子に遅れて、2着は7番。3着は半バ身差で10番です』
わたしから大きく遅れて2着でゴールしたアクアが、膝に手をついて下を向いて荒い息をついていた。
「…………」
「はあっ、はあっ、あぐっ、マリ……マリン……?」
わたしはアクアに近寄った。苦しそうな顔でアクアはわたしを見上げた。
──こんなこと、言っちゃダメだ。
「わたしのこと、見下してたでしょ。じゃないと1着にならないといけないレースで、一緒に走ろうなんて言わないもんね」
──言っちゃダメだ。言っちゃダメだ。
「……そうだよ。今までずっと手加減してたんだ」
──言っちゃダメだ言っちゃダメだ言っちゃダメだ。
「嬉しかった? 楽しかった?」
──言っちゃダメだ言っちゃダメだ言っちゃダメだ言っちゃダメだ言っちゃダメだ言っちゃダメだ。
「手加減したわたしに勝って、褒められるのは」
──幸せそうなアクアと、惨めな
「ずっと思ってたよ。遅いって」
アクアは苦しそうな表情のまま、目を見開いていた。
そう言った直後、わたしの周りに他の有力クラブやスクールのコーチが殺到した。