『こらーっ! またアンタたちはまーくんをいじめて!』
『うわやべ“鬼”が来たぞ』『にげろにげろ!』『女に守ってもらうとかよえーんだよ!』
『うう……すーちゃん、ありがとう』
『そんなのいいわよ。だいじょうぶ?』
『うん。……あの、すーちゃん。ごめん』
『なによごめんって』
『おれ、すーちゃんにめいわくかけてる…………おれなんかのために、ごめん…………』
『ばかっ!』
『え』
『アタシがまーくんを助けたいからやってるのよ!』
『…………でも、おれのことばっかでスーちゃんは──』
『おたんこにんじん! そんなうじうじしたまーくんはきらい!』
『……』
『…………まーくん、もしかしてアタシといっしょにいるのいやになった……?』
『えっ? な、泣いて……!? そ、そんなことない! おれはすーちゃんがいっしょにいてくれるならうれしい! ずっといっしょにいてほしい!』
『……ほんとう?』
『うん。ほんとうっ!』
『ぐすっ……、ふふっ。アタシもよ』
◇
「……ぎりぎり、かしら」
あれだけ泣いて起きた次の日の朝、酷い顔になってないか絶望しながら部屋にある鏡を見た。
確かにちょっとだけ目の周りは腫れているものの、自分でもよく見ないと分からない程度だった。
いつも通り尻尾の癖毛と格闘してから朝の準備をする。
着替えて身嗜みを整え、朝食のためにリビングへ降りるとアタシの顔を見た母が心配そうにしていた。
「……もしかして調子悪い? 熱は?」
「別にそんなんじゃない。大丈夫」
「そう? でも顔色あまり良くないわよ」
「本当に大丈夫だから」
朝食をとったアタシは母から逃げるようにすぐ家を出た。
◇
今日の学校もつつがなく終了した。
顔のことで何かクラスメイトに触れられるかと思ったがそんなことは無かった。表面上は何の問題もなく学校生活を終えた。
いつもより周りからの視線を感じたが、おそらくただの気のせいだろう。自分が神経質になっているだけだと思う。
校門を出たアタシは駅へ向かって歩き出していた。
今日火曜日は塾が無い日で、普段なら部活後の正英と待ち合わせをして帰る日だ。
「……もう、そんなこと出来ないわよね」
もう正英には彼女がいるのだ。いくら幼馴染だからって女のアタシが一緒にいるのはやめた方がいいだろう。本人的にも、他人的にも。
「だからってこのまま帰るのも……」
正英を待つために学校や図書館、塾で勉強して時間を潰すのだが、今日は勉強する気に全くなれなかった。
でもこのまま家に直帰する気にもなれない。母はアタシが火曜日に正英と一緒に帰ってくるのを知っているので、余計な詮索をされそうだし……
そんなことを考えるうちに駅前の広場に着いた。とりあえずいつも彼を待つベンチに座った。
「はあ……」
走りに行きたくなるかもしれないと一応運動靴をカバンの中に忍ばせているのだが、普通に歩いて駅前まで来てしまった。
駅前には道路を挟んで4階建てのショッピングモールがある。そこで時間でも潰そうかと思いつつ何となくスマホを取り出すと、あることを思い出した。
「……あ。そういえば……」
LANEのアイコンをタップ、その後パーマーとのトーク画面を開いた。
「…………」
出るかどうかは分からないけど、数秒逡巡してから電話のマークを押して発信した。
数コールの後、あの快活な声がスマホから聞こえてきた。
『もしもしスカーレット?』
「え、ええ」
『どうしたの? もしかして来てくれる気になった?』
「えっと……その……」
まさしくその通りだが、積極的な理由ではなく、何かで気を紛らわせられたらという消極的な理由だった。だからパーマーには後ろめたさを感じていた。
「そうね。……その、今から行ってもいいかしら?」
『全然大丈夫だよ! 今日はあのチビッ子たちもいるし、もちろんコーチたちもいるからさ!』
「分かった。じゃあ今から行くわね」
『うん。みんな待ってるよ!』
通話は切れた。自分で電話しておいてなんだが、あまり気は進まなかった。
そんなことを思うなんて自分が悪女にでもなった気分だった。……もしアタシが悪女なら、正英を取り返そうとか思ったのだろうか。
「はあ……」
今日何度目か分からない溜息をつきながら運動靴に履き替える。靴ヒモをしっかりと締めて、足が靴の中でズレないか確認をする。
駅前から走るなら30分もかからずに到着するはずだ。
「……ふっ!」
立ち上がって鞄を背負い、走り出した。
◇
例の住宅街の道を通りグラウンドへとたどり着いた。あの時の寸分違わない位置にFKB Racing School及びFKB Racing Clubの看板が立っていた。
以前訪れた時とは違い、駐車場には車が何台も停まっていた。そしてグラウンドのコースには何人ものウマ娘が走っていた。20人ぐらいはいるだろうか。小学生から中学生ぐらいのウマ娘が半分、あとの半分は大人といった構成だった。その中にパーマーの姿もあった。かけ声も聞こえてきて活気があった。
誰か気づいてくれないかと思いつつ、そろそろと歩いてグラウンドに向かった。するとパーマーが気づいてくれたようでこっちに大きく手を振ってきた。アタシに気づいたであろう幼いウマ娘たちも声を上げながら手をぶんぶんと振ってくれていた。
アタシもそれに小さく手を振り返していると、シャツにハーフパンツ姿のパーマーがこっちに向かってきた。
「スカーレット! 来てくれたんだね! 会いたかったよ!」
「うん……」
遅れて幼いウマ娘たちもやって来た。
「スカーレットちゃんやっと来た! こんにちは!」
「こんにちは。みんなも元気そうね」
足元に集まって来た幼いウマ娘たちを相手していると、グラウンドから更に2人こちらにやってきた。
1人は丸眼鏡をかけた大人の男、もう1人は褐色の肌をしたウマ娘だった。2人ともタブレットやファイルを脇に持ち、青を基調とした同じジャージを着ていた。胸にFKBと刺繍してあるので、おそらくこのクラブのジャージなのだろう。
「どうもはじめまし……アンナさん、電話で話していたら初対面にはならないですかね?」
「えーっと、どうなんでしょうね……?」
その男の声から、彼が電話で出た男だと分かった。
「以前電話でお話させていただきました、改めましてこのクラブの運営兼コーチをしている深尾渡と申します。パーマーさんより詳しい経緯を伺いました。先日はご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした。また、この子たちを守っていただいてありがとうございました」
「いえいえそんな。……ダイワスカーレットです」
深尾は深々と頭を下げてきた。
電話での声と見た目の印象は同じような感じで、物腰も柔らかく温和そうな男だった。年齢はアラサーぐらいだろうか。
「私はコーチ補佐を務めているアンナです。あのトラブルについては私からもお礼を言わせてください。本当にありがとうございました!」
アンナというウマ娘は褐色の肌に澄んだ青空のような青い瞳が印象的で、頭髪は鹿毛の髪を編み込み後ろで纏めていた。右耳には赤と青の宝石が1つずつついたチェーンピアスと車輪のようにも花のようにも見えるシルバーのピアスをつけ、左耳にはイヤリングが3つあり、色は上から順に黒、赤、黄となっていた。
人当たりが良さそうで親しみやすそうな女性だった。年齢は若そうで20代前半ぐらいだろうか。
「あ、コーチ! スカーレットちゃんすごいんだよ! 悪いウマ娘たちをやっつけたんだ!」
「めっちゃ速かった! ぎゅいーんって!」
「凄いですねえ。私もぜひ生で見たかったですよ~。っと、ここで立ち話もなんですし事務所の方へいらしてください。アンナさん、トレーニング任せますよ」
「分かりました。さ、皆さんトレーニングに戻りましょうね」
「ダイワスカーレットさんはこちらへ」
「は、はい」
深尾の後に続いて仮設住宅のような見た目をした事務所へと入っていった。
事務所の中は中央にあるテーブルを取り囲むようにソファが設置されており、奥の方にはデスクが2つ置かれていた。壁際の棚には書類を挟んでいるであろうファイルが並んでいた。
誘導されソファに腰を下ろすと、大きな窓ガラスからコースが一望できた。今まさにウマ娘たちが走っていた。小学生から中学生のウマ娘たちはアンナが指導しているようで、今はカーブを曲がる練習をしていた。みんな笑顔で楽しそうに走っていた。
……本当に楽しそう。
「どうぞ」
目の前のテーブルに緑茶が入ったカップと袋に入ったお菓子が出され、深尾に頭を下げた。
彼はアタシの正面のソファに座った。
「まずは改めて。……先日はご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」
深尾はまた深々と頭を下げた。
「そんな、謝られるようなことは何も──」
「いいえ。今回のことは大人がいない状況でコースを開くという軽率な判断をした私の責任です。それにあの場にいたのがパーマーさんだけならどうなっていたか分かりません。……どんな経緯であったにしろ、怪我人もなく済んだのは間違いなくダイワスカーレットさんのおかげです」
「……アタシは自分のやりたいようにやっただけです」
幼いウマ娘たちにウッドチップを飛ばしたり、パーマーに酷い言葉を吐いたのが許せなかっただけだ。穏便に済まそうとかは何も考えていなかった。今振り返っても、アタシも短絡的な行動をしていたのは明らかだ。
「これ、受け取っていただければ幸いです」
「あ、ありがとうございます……」
深尾から紙袋を渡された。中には長方形の包装された箱が入っていた。たぶんお菓子だ。
「あの、ひとつ話しておきたいことが……」
「なんでしょう?」
「その不良たち、“クロヒョウ”を探してるって言ってました」
「ああ、そのことですか。私もパーマーさんから伺ってます」
「実は彼女たちにアタシが“クロヒョウ”だって勘違いされたみたいで」
「え、そうなんですか?」
どうやら彼はパーマーからそこまで話は聞いていなかったようだ。
「クロヒョウって何者なんですか」
「……そうですね。私の知っている範囲で話しましょう」
彼はそう前置きして、クロヒョウについて話し始めた。
「かれこれ1年前ぐらいですか。ここら一帯の市や町で、フリースタイルレースの場に突然現れて勝負を挑んでくる……道場破りみたいなもんでしょうかね、そんな正体不明のウマ娘が現れたんです。黒いフード付きのコートと黒手袋に黒ズボン、顔は黒い目出し帽に黒いマスクとサングラスで、髪の毛や尻尾どころか肌まで完全に隠していて喋らなければ名乗りもしない。ただスタートラインで挑発のジェスチャーをして相手を焚きつけレースをする。全身黒ずくめで凄まじい速さから彼女についたあだ名がクロヒョウ。レースは連戦連勝、1度も彼女に土をつけた者はいない。これは単なる噂ですが、レース会場にいた出走者全員を相手にしても勝ち切ったとか」
その話が真実だとすると只者ではないのは確かだった。ただなぜ正体を隠しているのか気になった。
……もしくは正体を明かせない理由があるのか。また別の目的があるのか。
「おそらくメンツを気にする血の気の多いレースチームのウマ娘たちは気に入らないんでしょう。実は市内にある他のレーシングクラブにも以前からガラの悪いウマ娘が現れているという情報が入ってきまして」
「そうなんですか?」
「はい。でも今回のように直接的な手段は取ることなく、周りをウロウロして練習風景を見ているだけだったらしいです。今思えばクロヒョウと思われるウマ娘を外から見て探していたんでしょうね~」
深尾はずり落ちたのか丸眼鏡を指でクイッと上げた。
「……スカーレットさん。身の危険を感じたらすぐに110番してください。連中があなたをクロヒョウだと勘違いしているなら、何かしらのアクションはあるはずです」
「はい」
「私もあのあと警察に相談しまして、周辺のパトロールを増やしてもらえることになりました。ま、それで万事解決したとは思っていませんが」
こう話していると、彼に対する頼りない大人という第一印象は消えていた。ちょっと抜けたとこがありそうだが、しっかりした人という印象が強くなった。
「私が得た情報もあなたに伝えることにしましょう。連絡先を教えていただいてもよろしいですか? ……あ、嫌ならパーマーさん経由でもいいですよ」
「いえ、アタシのアドレス教えます。……アタシとしても、情報頂けるのはありがたいです」
「分かりました。では……よっと」
彼は立ち上がってデスクから何かを手に取って戻ってきた。
「これ、私の名刺です。電話番号もメールアドレスもLANEのQRコードも載せてます。どれでもいいのでまた後から連絡ください」
名刺には名前と連絡先、そして“FKB Racing School FKB Racing Club 代表 コーチ”と肩書きがあった。裏面をひっくり返すとプロフィールが書かれていた。
どんな経歴なのかと目を通してみると──
「ヒルエスタ・アカデミー……!」
──その単語があった。どうやら何年かヒルエスタで働いていたようだ。
「あ、ご存じですか? 過去の話ですが、数年ヒルエスタで働いていましてね」
彼は少し自慢げに茶を啜った。
「……実はアタシ、昔ヒルエスタの施設で走ったことがあって」
「ぶふっ! げほっ、こほっ」
「大丈夫ですか!?」
お茶が気管に入ったようで深尾は咽ていた。
「ど、どういうことですか? レース経験はないって話じゃなかったですっけ? なぜヒルエスタで……」
「どうしてかはあまり覚えていないんですけど……突然連れていかれて、一度だけ練習で走ったことがあったんです」
ヒルエスタのコーチやスタッフから熱心に誘いを受け、それを断ったことは話さなかった。
「なるほどそういうことでしたか。ヒルエスタは全国からウマ娘をかき集めてますからねえ。たしかにスカウトされるなら速いのも納得です。……話はこんな所でしょうか。今日はご足労いただきありがとうございました」
「アタシの方も、ありがとうございました」
「あ、お菓子の方ぜひ食べてください。頂き物ですけどおいしいですよ」
食べないのも申し訳ないと思ったので、目の前にあった手のひらサイズの菓子の袋を破った。中にはパウンドケーキが入っており、口にするとしっとりとしていて濃厚なバターの風味が鼻から抜けていった。本当に美味しかった。
「…………」
パウンドケーキを咀嚼しながら、何の気なしに窓の外へと目をやる。
パーマーは大人たちと混じって走っていた。走っているときはみんな真剣で、走っていないときは楽しそうに談笑しているウマ娘もいれば、1人で体を休めているウマ娘もいる。それぞれがそれぞれのペースで走りに取り組んでいる。
視線を移すと子どものウマ娘たちは隊列をなしてゆっくりと走っていた。ただ走っているだけなのに、みんな生き生きとしているのがガラス越しにも伝わってきた。
なぜか彼女たちから目を離せないでいた。
「ウチは明るく楽しくがモットーなんです」
深尾もコースにいる彼女たちを見ていた。
「……走っていかれますか?」
「あ、いえ……」
その提案に惹かれないと言ったら嘘になる。だってアタシの脚がうずうずしているから。
目の前の視界いっぱいに走るウマ娘たちがいる。どのような形でも、彼女たちは“走ること”を選んでいる。
アタシは──
──また浮かんできたのは正英の顔。
『えっ? な、泣いて……!? そ、そんなことない! おれはすーちゃんがいっしょにいてくれるならうれしい! ずっといっしょにいてほしい!』
「……」
もうアタシの隣にはいない幼馴染の男の子。
「……あの」
「はい。なんでしょう?」
深尾の眼鏡の奥を真っすぐに見据えて口を開いた。
「アタシも、このクラブに入りたいです」