パーマーと別れて家に帰ってきたら15時を回っていた。
喉を潤すためバスルームへ向かう前にリビングへ顔を出すと、眼鏡をかけてテーブルで何か書き物をしていた母が顔を上げた。
「だだいまー」
「おかえり。クラブ、どうだった?」
冷蔵庫を開けて冷たいお茶を口に含む。清涼感がのどから胃へと落ちていく。
「んくっ、ぷは。……最初だからかもだけど疲れたわ」
「でしょうね。どう? やっていけそう?」
「うん」
「ならいいんだけど。……あ、洗濯物出しておいてね」
「アタシやっとくよ?」
「ママの分もまだ洗ってないからいいわ。ありがとね。……それはそうとスカーレット」
「なに?」
リビングを出ようとしたけれど母に呼び止められて振り向いた。
「正英くんと喧嘩でもしてるの?」
「えっ……な、なんで……?」
「最近の正英くん元気なくて落ち込んでるんだって。正英くんのお母さんが言ってたわ。『スカーレットちゃんとも会ってないみたい、喧嘩してるんじゃないかしら』って」
「…………」
どう返したらいいのか分からず口を噤んでしまった。
アタシと正英は家族ぐるみで交流があって、母たちも仲がいいからこうやって情報が入ってくるのだ。
「それにここ最近、塾のない日に一緒に帰ってきてないでしょ?」
「……」
「珍しいわね。あなたたちが喧嘩なんて」
「……ママには関係ないでしょ」
「何があったのか知らないけど、早いこと仲直りしなさいよ。時間が経てば経つほど拗れるんだから」
「…………」
何も答えずアタシは扉に手をかけた、が。
「あ、あと」
「なに?」
「正英くん家にクラブに入ったこと秘密にしておいてってことだけど、どうして?」
母の言った通り、正英やその母親にはクラブに入ったことを秘密にしておいてほしいとお願いしていた。クラブに入ったのがアイツに彼女ができたからって思われたくなかったのだ。そんな風にもし思われたのなら余計惨めになるから。
母に伝えた時には、特に理由を訊かれずきょとんとはしていたけれど了承してくれた。
「…………別にいいじゃない」
「正英くんと何かあったのも関係してるの?」
「……うるさいっ! アタシの勝手でしょ! なんでママに話さなきゃいけないのよっ!」
「ちょっと、スカーレット!?」
「シャワー浴びるから!」
リビングを出て扉を勢いよく閉め、ずんずんと廊下を歩いてランドリールームへと向かう。
「なによもうっ」
アタシにだって聞かれたくないことだってある。喧嘩をしていると誤解したうえ聞き出そうと詮索してくる母に憤りを感じた。
だいたいデリカシーがないと思う。アタシだって高校生でもう子供じゃない。なんでもかんでも母に話す必要なんてないのだ。
「……ふんっ」
怒りを発散するかのようにランドリールームにあるカゴにウェアなどの洗濯物を叩きつけると、ちょっとすっきりした。
するとさっきの会話の中で気になる内容があることに気づいた。
──「最近の正英くん元気なくて落ち込んでる」──
「……?」
彼女ができたのになんで元気がないんだろう。……いや、違う。
「あんな可愛い彼女ができて浮かれてるだけよ。あんのバカ……」
元気がないのは幸せでボーっとしてるのを彼の母親が勘違いしただけだろう。そうに決まってる。
乾いた汗でベタついた肌を綺麗にするために、ランドリールームから脱衣所へと向かった。
◇
「で、なんの用?」
その日の夜、正英から電話がかかってきて窓を開けてアタシたちは対面していた。母から彼の話を今日の昼間に聞いたばかりだし、直接話すのは彼女がいると告げられたあの時以来なのもあって正直乗り気じゃなかった。
用件はまだ聞いてないが、彼女についての相談だろうか。『相談に乗ってあげるわ』なんて軽々しく言ったことを今更後悔していた。
「用というか、予定というか……」
彼は苦笑いをしながら言い淀んでいた。
「もうっ! はっきりしなさいよ!」
「えーっと……前の話だけど、俺スカーレットとの約束すっぽかしただろ? ほら、埋め合わせであの激辛カレー食いに行くって話」
「ああ……そんなこともあったわね」
先週ぐらいの話なのに、色んなことがありすぎて遠い昔のように感じた。
「来週のゴールデンウィークさ、土曜部活休みなんだ。だから土曜、カレー食べに行かないか?」
「…………はあ?」
思いもしないことを彼が言い出した。
「……アタシたち2人で?」
「そうだ」
何を言ってるんだこの男は。
自分に彼女がいるのを忘れてしまっているのか。色々疎くて鈍い男だと昔から知ってはいるが、流石にこれはない。
「あのね、アンタは彼女がいるわけでしょ」
「? ああ」
「彼女がいるやつが、彼女以外の女子と2人きりで出かけるとかあり得ないから」
「……え」
全く想定外の返答だったのか、正英はきょとんと目を丸くしていた。
「でも俺たち幼馴染だろ?」
「幼馴染とか関係ないから」
「……なんか最近、俺たち全然話してないし。だから──」
「アンタねえ! もう一回言うわよ。幼馴染だろうが彼女以外の女子と2人で出かけるのは駄目だって言ってんの。彼女に悪いとか思わないわけ? アンタそこまで無神経なやつだった?」
彼女の気持ちを考えない、更には失恋した女に向かって無神経な誘いをかけてくるこの男に対して沸々と怒りが湧いてきた。
同時に、そんなことを言われたらまだアタシにもチャンスがあるかもなんて一瞬でも考えた自分がいることに気づき、嫌な気持ちになった。
──アンタのことを考えないようにクラブにも入ったのよ。失恋した女に希望を持たせるようなことするの本当にやめてほしい。
でも、彼とこうして向かいあっていると……どき、どきと鼓動が高鳴るのを感じる。
やっぱり、今でもアタシは彼のことを──
(……ずっと好きだったんだもの。簡単に変われるわけ、ないわよね)
どこかで聴いた失恋ソングみたいに、いつか彼を忘れて違う人を好きになれる日なんて訪れるのだろうか。そんな日、今は想像もつかない。
「アンタと連絡とったり話したりしないのも、アタシが気遣ってやってんの。とにかく2人で出かけるとかないから」
「考えすぎじゃないか? ちゃんとあの子には話しとくし、たぶん大丈夫だと──」
「付き合ったばっかで何考えてんのっ! ……あの子のことを一番に考えてあげなさいよ! どうしてそんなことも分かんないのよっ!」
アタシが語気を荒めるのを見て彼は驚いたように肩をピクっと震わせていた。
「それにね、アンタが言うカレー屋にはもう行ってきたわ」
「は!? ひ、一人で行ったのか?」
なぜか彼はあからさまに動揺していた。
「2人で行ってきたけど」
「誰と? クラスのやつ?」
「だからなんでアンタに誰と行ったか言わないといけないわけ? アタシたちなんてたまたま隣の家に生まれただけの他人なんだから言う必要ないでしょ」
「……そんな言い方……」
「大体、土曜日にはアタシ予定あるんだからどっちにしろカレー屋には行けないわ」
「え、何のよて──」
「だから! 他人のアンタに教える必要ないって言ってるでしょ!!! せっかく部活が休みなんだから、あの子と2人で楽しくデートしてくればいいじゃない! ……用件はそれだけ? それじゃさようなら! おやすみ!」
「ちょ、待っ──」
引き留める正英を拒絶するように窓とカーテンを勢いよく閉めた。
「なによ、もう……」
ベッドへ倒れこんで顔を横に向けると、壁にかけてあるコルクボードが目に入ってきた。コルクボードには写真がいくつも留めてあり、両親や姉妹と一緒に撮った写真に交じって正英と一緒に撮った写真もあった。
目に留まったのは小学生低学年のときに川へ遊びに行った時に撮った写真だった。2人ともカメラへ向かって白い歯を見せてピースをしていたけど、正英なんかは写真で見える範囲で乳歯が2本抜けていてなんかちょっと可愛く見えて、お気に入りの写真だった。
「……強く言いすぎちゃったかな…………」
いくらアイツが無神経とはいえ、あんな言い方しなくても良かったかもしれない。
感情に任せて言ってから後悔する。昔からアタシはこんなのばっかだ……
「……土曜に予定あるのは本当だし……」
スマホを手にしてFKBの全体LANEを開く。今日の昼に深尾が送ってきた“1泊2日でトレーニング&BBQ&キャンプ”なるものが来週ゴールデンウィークの土曜日から日曜日に行われるのだ。後から貼られた情報によると、トレーニングとキャンプの対象者は基本的にスクールの小中学生とクラブの高校生、場所はFKBから車で一時間ほどかかる山奥とのこと。
公園でパーマーと2人でいる時にこのLANEを見た。彼女は元から参加する予定だったそうで、アタシも面白そうだし参加しようと話していた。彼女がクラブへ入ったのは昨年のゴールデンウィーク以降だったので初参加になると。
こんな感じでFKBでは季節ごとにイベントが催されるらしい。
深尾との個別LANEを開いて、そこに『キャンプ参加します』と送った。母にはまた後から言えばいいか。
「……今日は疲れた」
ベッドに寝転んでいると体の疲労感がはっきりと感じられた。微睡みに身を任せそうになったが、歯磨きやスキンケア、尻尾のブラッシングなど何もかもしてないことを思い出した。体を起こし頬をぺしぺしと叩いて眠気に負けそうな自分を奮い立たせ、体を勢いよく起こして自室を出た。
◇
窓とカーテンの向こうに消えた幼馴染の女の子を呆然と見送った。彼女に遅れて窓を閉めた俺はベッドへと腰を下ろした。
「……マジか……」
彼氏が出来たのか?
だとしたら流石に早すぎないか? 先週まで男の影なんて一切無かったのは、一番近くにいた俺がよく分かっている。絶対に間違いない。
普通に考えたら女友達だが、2人というのが気になる。今のクラスの交友関係にそこまで詳しいわけではないが、彼女にサシで行くような女友達はいただろうか?
三己か? ……いや、幼馴染という関係ではあるが、あいつら2人が一緒に出かけるなんて一度も無かったはず。俺たち2人と三己は小中同じとはいえ、友達のグループは別だったのだ。今は時々昼を一緒に食べている仲らしいが……それで仲良くなったのか?
……そもそもの話、三己なら普通に言えばいいだけではないか? でも、家が隣なだけの他人だとスカーレットが思っているのなら、確かに俺に話す必要はないのかもしれない。
「…………」
『アタシたちなんてたまたま隣の家に生まれただけの他人なんだから』
今更ながらあの言葉は本当に効いた。胸を抉られたような感触がした。
「…………」
思いもしなかった言葉だ。絶対にそんなこと言われたくなかった。
でも…………おそらく、どこかで、俺はその言葉を望んでいたのかもしれない。もしそうだったなら、救われた気持ちになるから。
だが同時に、
「……やめだ。やめ」
思考が泥沼にはまりそうだったので、考え事を元に戻すことにした。
目下の話題はスカーレットとカレー屋に行った人物についてだ。
本当に彼氏なのか?
「いや考えすぎだ。普通に女友達かもしれないし…………でも、もしマジで彼氏だとしたら……」
壁にかかったカレンダーへと目をやり、付き合ってからの日にちを数える。
……
「……長いな」
スカーレットとカレー屋に行くこと自体は全く問題ない。あの子に許可なんていらないし、むしろ知り合いの誰かに見てもらった方が後の話を進めやすいまである。
ただ、彼女があんな反応をすると思わなかったのは、俺の至らなかった点だ。もう少し誘い方を考えるべきだったし、彼女の反応を見て誘い文句を言うべきだった。
だが付き合っているという感覚があまりにも薄いので、そこまで考えが行き着かなかった。
「はあ……」
頭によぎるのは、付き合うことになった日の前日のこと。
スカーレットとカレー屋に行く約束をすっぽかした日のことだ。
◇
「……えっと、話って?」
金曜日の部活を終えると、突然マネージャーに校舎裏の目立たない場所に呼び出され、着替えを終えてから彼女に指定された場所まで行った。
……大体、どんな話かは想像がついている。
今日はこの後、新入生の1年の相談に乗ってやる予定なので早く切り上げないといけない。相談に来た1年はサッカーにおいて俺と似た境遇だったから、実は入部した頃から気にかけていた奴なのだ。第一、
……その結果、スカーレットとの約束を反故にしてしまっているわけだが。なんだか含蓄のある童話みたいに思えるが、その実何の教えにもならない、面白みのない話だ。
「…………」
俺の目の前には耳を真っ赤にして俯き、黙り込んでいるマネージャーがいた。いつも明るくサッカー部員の世話を焼いている彼女には似つかわしくなかった。
……このシチュエーションと彼女の態度から、想像は確信へと変わった。なぜなら、俺は他の女子と似たようなシチュエーションになったことが何回もあるからだ。
「松城、あの……突然で、驚かせるかもしれないけど…………っ!」
彼女は勢いよく顔を上げて、意を決したように口を開いた。その顔は耳と同じように真っ赤だった。
「私、あなたのことが好きです! 私と、付き合ってください!」
(……やっぱりか)
彼女が俺に好意を持っているのは前々から勘づいていた。だから
「部活、総体前で大変な時だけど、でも……でも、もうこの気持ち、抑えられなくてさ……」
「…………」
「あの……どう、かな……?」
こうして好意を持ってくれることも、勇気を出して告白をしてくれるのも素直に嬉しい。ありがたいことだと思う……なんてのは、少し年寄りくさいだろうか。
でも、同時にこうも思う。
──出会って1年程度しか経っていない彼女が、俺の何を知っているんだろう。
彼女にだけ特別思っていることじゃない。これまで俺に告白してきた女子たち……中にはほとんど会話したことのない女子だっていたし、逆に小学校から知り合いの女子もいた。だが、そんな彼女たちを見るといつも胸中に湧き上がる思いがあった。
──俺の何を知っているんだ? 本当に俺を見ているのか?
サッカーで世代別の日本代表候補になった俺。
ただただ謙虚に。周りに合わせ、顔色を伺いながら取り繕う俺。
彼女たちは……いや、彼女だけでなく周りの人間は上っ面の“松城正英”を見ているに過ぎないのに。
(…………)
自分の手のひらを見つめる。
ずっと熱の残っている手のひらを。
幼い頃の、何者でもなかった俺の手を引いてくれたのはあの女の子だけだ。
そして、こうして誰かに告白された時、いつも頭に浮かんでくるのはあの女の子の顔だった。
(…………)
……あの女の子にさえ、今は自身を偽っている自分に対して、やるせない気持ちになる。
(……はあ。さて……)
改めて今の状況と向き合う。マネージャーはまた俯いて俺の返答を待っていた。
答えは決まっている。どのように言うか考えたが、結局はシンプルに行こうと決めた。
正直言って、大切なのは今ではなくアフターフォローだ。彼女とは最低でも後1年部活で関わる相手で、サッカー部ひいては学校生活を円滑に進めていくためにも、その後彼女とどういう関係性や距離間でいるかが重要なのだ。
振ったり振られたりした相手や、彼氏彼女の関係から別れた相手が日常生活の近い位置にいたって人ならこの考えをちょっとは分かってくれると思う。
そんなことを考えつつ口を開こうとしたが、先にマネージャーの方がしびれを切らしたようで、彼女は顔を上げた。
「えっと……返事、今じゃなくてもいいから──」
「いいや。今、返事するよ」
「え……」
「ありがとう、そう思ってくれて嬉しいよ。でも、ごめん。その気持ちには応えられない」
「っ…………」
彼女はまた俯いてしまった。そして、すん、すんと鼻をすする音が聴こえてくる。
こういう状況も決して初めてではないが、やはり気持ちの良いものではない。告白するという行為にどれだけ勇気が要ることなのか、俺は分かっているつもりだ。
「……松城は、付き合ってる彼女とかいるの?」
俯いた彼女から聞こえてきたのは嗚咽交じりの声だった。
「……いない」
「そう、なんだ……」
俯いたままの彼女はハンカチで目元や鼻のあたりを拭ってから言葉を続けようとしてた。が──
「じゃあ好きな──「すまん。悪いけど聞いちまった」
「「!?」」
──校舎の物陰から突然声がした。そして俺たち2人の前に姿を現したのは、サッカー部のキャプテン……つまり、3年の先輩だった。
「なんでキミが……」
「……気になってな」
彼はこのマネージャーと家も近所で、俺とスカーレットみたく幼馴染という関係だった。
そして俺の見立てが正しければ……彼は彼女に対して好意を持っていた。