何人たりとも立ち入れぬバリアに覆われた異空間に存在する呪われた城、魔王城……その最新部にある玉座の間に、多数の魔族が集う。
大魔王へと続く道の両脇に黒い人影がズラッと立ち並ぶ。ザッと数十人はいるようだ。目だけが赤く光っており、正確な姿を見る事は出来ない。魔王軍十二将もこの中に混ざっていると思われたが、それ以外の者もいるようだ。
各地域を任された支部長クラス、それに仕える副長、末端の兵士を統率する小隊長……魔王軍のありとあらゆる階級の幹部が、ここ玉座の間に招集されていた。
彼らの主たる大魔王アザトホースはフワフワと宙に浮かんでおり、全ての目がグワッと開いている。「オオオッ……」と呼吸音か唸り声か分からない言葉を常時発している。
大魔王の左脇に城の警備隊長であるオークロードが立っており、ビデオデッキのような横長の四角い鉄の箱を両手で抱え込む。箱には小さな穴が空いており、そこから部屋の壁に向かって光が照射された。
光が当てられた壁に、長方形の大きな映像が映し出される。映像は鮮明で、ヌルヌルと滑らかに動く。幹部達はそれを食い入るように見る。さながら映画の上映会だ。
壁に映し出された映像……それはザガートのこれまでの戦いを記録したものだ。彼の存在を脅威とみなした大魔王が、部下に命じて何らかの方法で撮らせたのだ。
大魔王が彼の存在を知覚したのは最初にケセフが撤退した後なので、それ以前の記録は残っていない。
ヒルデブルク城でのレッサーデーモンとの戦いに始まり、極大魔法『隕石群落下』によるオークの大群十万の殲滅、森でのスライムとの戦い、その他多くの下級魔族との戦いから、魔王軍十二将との対決に至るまで……それらの映像が一秒も漏らさずに紹介される。
映像は亡霊ケルベロスが倒された所で停止し、上映会が終わった事を告げるように光の照射が途切れる。
「……以上が、これまで部下に集めさせた魔王ザガートの詳細な記録となります」
映像が終わると、オークロードが話をまとめるように口を開く。役目を終えた鉄の箱を一旦部屋の隅に置くと、再び元の場所へと戻る。
「この私の見立てが正しければ、魔王ザガートの魔力は上級悪魔本来の強さであるアスタロト様のおよそ十倍……いや二十倍はあると思われます。敢えて無礼を承知で言わせて頂くなら、アザトホース様と互角に渡り合える力を持つ猛者だと感じました」
魔王の強さについて私見を述べる。主君の不興を買う恐れがあったとしても物怖じせず、ありのまま分析結果を話す。かつてザガートに倒された大悪魔の名を引き合いに出して、魔王がどれほど力を持っているかを分かりやすく伝える。
「アスタロトの二十倍……だとぉ!?」
豚頭の発言に謁見の間が俄かにざわつく。それまで静かだった場が一転して騒がしくなる。
「魔界大公爵の二十倍は大袈裟すぎではないか?」
「だが映像を見た限り、嘘だとは思えん……」
「魔界No.2のバハムートが倒されたのも頷ける話だ……」
「異世界から来た魔王という肩書きに偽りは無いという訳か」
「我々はそんな相手と戦わねばならんのか……」
隣にいる者同士が互いに顔を見合わせて、ヒソヒソと小声で話す。魔王の強さを知らされて皆が戦々恐々となる。
オークロードの発言を一笑に付すのは簡単だ。以前の彼らであれば、そうしたかもしれなかった。
だが今彼らは魔王の強さをまざまざと見せ付けられたのだ。それは豚頭の言葉に信憑性を持たせるものだ。魔王軍十二将のうち既に四人が倒された事も、彼の言葉が真実かもしれないと思わせるのに拍車を掛けた。
今となっては、魔王が大魔王と互角に渡り合える力の持ち主である事を疑う者はいない。
「……嘆カワシイモノダナ」
皆が魔王に恐れを為していると、それまで沈黙を貫いていたアザトホースが言葉を発する。何処に口があるかも分からないのに、部下に失望したように「フゥーーッ」とため息を漏らす。目を閉じたまま首を左右に振って、見るからにガッカリした様子をあらわにする。
「ケセフガ最初ニ逃ゲ帰ッタ時、オ前達ハ奴ヲ侮辱シタナ。ニモ関ワラズ、ソノ体タラクハ何ダ? コレナラ、魔王ニ戦イヲ挑ンデ討チ死ニシタ奴ノ方ガ余程マシトイウモノダ。今ノオ前達ニ、奴ヲ笑ウ資格ナド無イ……ソノ様デ、ヨクモ魔王軍ノ幹部ガ名乗レタモノダ」
かつて仲間を侮辱した行為を引き合いに出して、配下の臆病ぶりに心底落胆する。魔王と戦って討ち死にしたケセフの勇ましさを褒め称えて、その勇気すら持てない彼らを激しく糾弾した。
「……」
主君に罵られて、部下達は一言も言い返せない。以前は魔王の存在を軽く見ていたのに、その強さを知った途端手のひらを返した事を指摘されて、ぐうの音も出ない。
上司の皮肉にあれこれ言い訳したりもしなければ、魔王の討伐を勇ましく志願する者もいない。誰もが親にイタズラを叱られた子供のように顔をうつむかせて口をつぐむ。
魔王になんて勝てる訳が無い……そんな無力感が場に漂う。
「誰モ……魔王ヲ討タント名乗リ出ル者ハ居ナイトイウノカ」
大魔王が失意の言葉を口にした時……。
「ホッホッホッ……何ですか貴方達は。揃いも揃って、情けないですねぇ」
何処からか笑い声が発せられた。声が聞こえた方角に一同が振り向くと、謁見の間の入口に一人の男が立つ。影に包まれてハッキリとは姿が見えないが、かなりの小男だ。
男は遅れてこの場に駆け付けた訳ではない。ずっとそこに立ったまま話を聞いていた。
「最初から力だけで挑もうとするから、圧倒的な力の差を知らされて臆してしまうのですよ。策を弄すれば、格上の相手を倒す方法などいくらでもあるというのに……」
男は持論を展開しながら歩き出す。魔王を倒す手段をドヤ顔で力説しながら、大魔王へと続く道をのっしのしとガニ股で歩く。
部屋の中央まで来ると、それまで影に包まれていた男の姿があらわになる。
男はトランプのジョーカーのようなピエロの格好をしていた。背丈も、顔も、声も、口調も、ケセフに瓜二つだ。
一見彼が生き返ったようにも見えた。だがよく見ると服の色が違う。ケセフが赤色の服を着ていたのに対して、男は緑の服を着ている。ゲーム風の言い回しをするなら『色違いモンスター』と言った所か。
「大魔王様、お久しゅうございます……その魔王ザガートを討つ任務、私にご命じ下さい。絶対に彼奴めの首を持って帰る事を約束しましょう」
ケセフそっくりの格好をした男は、大魔王の前まで来ると、丁寧な物言いで挨拶しながら頭を下げる。自信に満ちた口調で魔王討伐を志願する。
「オオッ、オ前ハ……ヨシ、良イダロウ。魔王討伐ノ任、貴様ニ託ス! 必ズヤ吉報ヲ持ッテ参レ!!」
男の言葉を聞いて、アザトホースが目を輝かせた。配下が魔王討伐を志願した事に気を良くして、邪魔者の抹殺を強い口調で命じる。
上司の命令を受けて、ピエロ風の男がニヤリと笑う。胸の内に策謀を秘めたようにククッと声に出す。
「必ずや使命を果たしてご覧に入れましょう……このケセフの弟、カフカめが!!」
◇ ◇ ◇
城塞都市グラナダから遠く離れた山奥、その更に深き森の果てに、名も無き村があった。ザガートが旅していた場所から随分と離れており、宝玉がある事を示す×印も無かったため、一行が立ち寄らなかった場所だ。
無論この地にも魔王の噂だけは届いていたが、魔族の脅威にも晒されていないため、英雄の活躍を目にする機会も無い。この先用が無ければ、永久に彼らが立ち寄らないかもしれない、そんな地だ。
村は閑散としており、人の通りは少ない。時折子供達が追いかけっこして遊んだり、男性の百姓が紐に繋がれた牛を引いて歩く姿を見かけるだけだ。畑仕事を終えた老婆達が草むらにシートを敷いて座り、雑談しながら弁当を食べている。
ポカポカ陽気に当てられた牛が呑気にアクビをする姿が、村が平和である事を印象付ける。牛の尻にトンボが停まると、尻尾を動かして払う。
家屋の少なさは限界集落を思わせるものだったが、村人がその事に悲嘆する様子は無い。皆がこののどかな風景を享受し、楽しんでいた。
農村の一角にある二階建ての木造小屋……その一室にて、二人の男がテーブルを挟んで向かい合ったまま椅子に座る。テーブルにはガラスのコップと瓶に入った極上のブランデー、それから一丁のナイフが置かれている。
男の一人はある目的のために村へとやってきた魔王軍の幹部カフカだ。
もう一人は四十代半ばに見える中年の男性だ。体は筋骨隆々としており、加齢による衰えを全く感じさせない。日焼けか地色かは分からないが、ワイルドな褐色肌をしており、男性的なたくましさを感じさせる。服装は黒のタンクトップに紺のジーンズ、膝下に金属製のブーツを履く。両腕には同じく金属製のガントレットを嵌めている。
黒い髪はボサボサしていて、額には濃い緑色のバンダナを巻く。視力を失ったのか、左目には黒い眼帯を付けている。体のあちこちに古傷があり、歴戦の傭兵を思わせる風貌だ。
「……アンタかい? 俺に仕事を頼みたいってのは」
男は用件を切り出すと、コップに注いだブランデーをゴクゴクと飲み干す。来客を前にしているというのにお構いなしだ。ただ酒に強かったのか、いくら飲んでも酔い潰れる気配は無い。その事が男の豪快な荒くれぶりを印象付ける。
「ええ……この村に住む『隻眼の傭兵ギース』と呼ばれる男なら、金を積まれれば魔族の依頼でも受けると聞いてやって来ましたよ」
カフカは男の態度を気にかける様子も無く、質問に答える。自分が魔族であった事、そんな魔族の依頼を受ける男を探してやってきた事を明かす。
「如何にも俺がそのギースだ……で、頼みたい仕事ってのは何だ?」
男は自分が目的の傭兵である事を伝えると、早速仕事の話へと持っていく。
「……前金で金貨百枚、成功報酬で更に二百枚上乗せします。これで噂の異世界から来た魔王を始末して頂きたい」
カフカはそう言うや否や、金貨がギッシリ詰まった袋をテーブルの上にドサッと置く。袋の紐を緩めると、中に入った金貨が数枚テーブルに零れ落ちて、ガラガラッと金属音が鳴る。
「ははっ、こいつは凄えや……こんだけありゃ、十年は遊んで暮らせらぁ」
大量の金貨を前にして、ギースが目を輝かせた。法外な額の報酬を提示されてテンションが上がりだす。上機嫌になったあまり金貨の一枚を手に取ってガブリと噛み付いたが、もちろん本物の金なのでメッキが剥がれたりしない。
「良いぜ……その依頼、受けてやるよ。俺が魔王を仕留めてやる。どんな手を使ってでもな……ってえ事で、せっかくだからオメエも一杯どうよ」
道化師の依頼を二つ返事で承諾する。顔をうつむかせたまま目だけ正面を向いて、ギロリと悪魔のような笑みを浮かべた。
標的が最強の魔王である事を恐れる様子は無い。それどころか成功を確信したような自信に満ち溢れる。最後はコップに注いだ酒を相手に突き出して飲むように勧める。
カフカは手を左右に振って男の一杯を断る。
「私は下戸ですので結構……それよりも貴方が受けた依頼を絶対にしくじらない、地上最強の傭兵だという噂は本当なのでしょうね?」
相手を訝るような目で見ながら、念を押すように問いかけた。
彼は魔王を殺せる可能性のある人物を探して、あちこち駆け回った。苦労の末に男の噂を聞き付けて、ここへやって来たのだ。その噂が間違いだったとすれば大問題だ。
「左目を失ってから十年……一度も仕事を失敗した事は無ぇ。勇者候補と目される人間だって、これまで二十人殺した。もし俺に殺せない標的がいるとしたら、他の誰を雇ったってそいつを殺す事なんか出来やしねえよ……ハハハッ」
ギースが道化師の懸念を笑い飛ばす。何を馬鹿な事をと言いたげに「ガハハッ」と大きな声で笑う。コップに注いだ酒を勢いに任せるようにグビグビ飲み干す。
これまでの仕事ぶりを口にして、自分以上に依頼をこなせる適任者はいない事を饒舌な口調で伝える。
「そうですか……その言葉に嘘が無いと信じて、仕事を任せるとしましょう。期限は多めに見積もって二週間……その間に結果を出して下さい。朗報が届くのを期待していますよ」
カフカがしぶしぶ納得しながら立ち上がり、ドアノブに手をかけて部屋から出ようとした瞬間……。
ヒュンッと風を切る音が鳴り、飛んできたナイフが道化師の頬を掠めた。
ナイフはドスッと音を立てて、木製のドアに突き刺さる。
カフカが恐る恐る目をやると、彼の真横に大きなスズメバチがいて、ドアごとナイフに貫かれていた。苦しげに手足をバタつかせていたが、やがて糸が切れた人形のように動かなくなる。
もし男がナイフを投げなければ蜂に刺されたであろう状況に、カフカが内心肝を冷やす。それと同時に、何杯も酒を飲んだのに手先が狂わない男の実力にも驚嘆した。
「悪ぃな、驚かせちまって……この辺りは蜂が多いんでな」
ギースが皮肉めいた謝罪をしながらニヤリと笑う。
◇ ◇ ◇
用事を済ませたカフカが男の家を後にする。急いで帰る事も無いと思い、ワープせずに村の中をトボトボ歩く。
空を見上げると日が沈みかけており、周囲が暗くなり始める。家に帰ろうとする子供達と、空を飛ぶカラスの群れが、夕暮れの景色を演出する。時計の針は四時を回っていた。
カフカはしばらく歩き続けた後、後ろを振り返り、男の家をじっと眺める。傭兵の強さに思いを馳せた後、懐から黒いガラス玉のようなものを取り出して、数分ほど見つめる。
「彼の強さを信用しない訳ではありませんが……万が一失敗した時の保険ぐらいは用意しておいてもバチは当たらないでしょう」
そう口にすると、黒い玉を懐にしまい村の出口に向かって歩き出す。
◇ ◇ ◇
……カフカが立ち去った後、ギースは椅子に座ったままひとり物思いに耽る。酒を飲む手を止めて、テーブルに両肘をついて手を組んだまま気難しい表情になる。眉間に皺を寄せて「フーム」と声に出して唸る。
魔王の攻略法についてあれこれ考える。これまで得た情報を頭の中で整理する。
(聞いた噂じゃ、ヤツは最初のうちは本気を出さねえ。相手の実力を確かめるためにワザと攻撃を出させて、敵の強さの限界を知って、それから殺しに掛かる。特にタイマンだとそれが顕著だと聞く……ま、小説のラスボス様によくある舐めプってヤツだ。付け入る隙があるとすりゃあ、そこしか無ぇ)
人伝てに聞いたザガートの性格に思いを馳せた。少しでも戦いを楽しもうとする魔王の悪い癖、強者ゆえの余裕から生まれる驕りと甘さ、それだけが唯一勝機を掴むチャンスだと結論付ける。
いくら最強の傭兵と言えど、初手でいきなり最強魔法をぶつけられれば即死は免れない。バハムートを一撃死する技に生身の人間如きが耐えられる訳が無い。
魔王が戦いを引き伸ばそうとする人物である事は、男にとって幸運だった。
ギースは考えがまとまると、部屋の隅にあるタンスを開けて小さな木箱を取り出す。木箱の蓋を開けると、布で包まれた一本の金属針が入っていた。
(『妖精の針』……魔法金属オリハルコンを素材とし、鋼より硬いドラゴンの皮膚を豆腐のように貫くという幻の宝具。かつてアザトホースが勇者を暗殺する目的でダークエルフに依頼して作らせ、七百年かけてこれ一本だけが完成したという、正真正銘の一品物。オークションで高値で買い付けたまま使わずにいたが、遂にこれを使う日が来たか)
金属の針の由来と性能を思い起こす。一見何の変哲も無い、ただの金属針にしか見えないこの道具こそ、魔王を殺す切り札なのだという。
ギースは木箱の蓋を閉じると、紐の付いた大きな袋に入れる。次にタンスの横にある巨大な鉄の箱の錠前を外して、ギギギッと音を立てて蓋を開く。
中に入っていたのは様々な武器や防具、魔法の品らしき宝石……それらが整頓される事なくゴチャ混ぜになっていた。仕事に使う道具だと思われたが、パッと見ガラクタ置き場に見えなくもない。
男は道具の山に手を突っ込んで適当に掻き回した後、四つの品を取り出す。
トゲの付いた金属製の棍棒、一見何の変哲も無いオシャレな手鏡、オレンジ色の液体が入った透明なガラス瓶、市販のボウガンを改造した特注品……それらをテーブルの上に並べて、まじまじと眺める。
(どんな相手だろうと、念じた場所に吹っ飛ばす『ティタンのメイス』……どんな強力な魔法も一発だけ跳ね返す『ファクトの鏡』……魔法の全能強化と同じ効果を発揮する『ハイパードリンク』……最後に、妖精の針を矢じりにして発射する為のボウガン。こんだけありゃ、十分だろう)
一つ一つの道具について思いを巡らす。
四つの道具はボウガン以外、どれも貴重な品だ。男にとって決して安易に使える消耗品ではない。妖精の針も合わせれば、金貨三百枚を払っても元が取れるかどうか分からない。
報酬を提示された時喜ぶ顔を見せたが、大きな儲けのある仕事とは呼べない。負ければ当然死ぬし、勝っても勝者としての名誉と評判が得られるだけだ。
断っても後ろ指を指されるような依頼ではない。それでも男が受けたのは……。
(確かめたかったのかもしれねえな……『最強の男』相手に、自分が何処までやれるかをよ)
心の中でそう呟いて、フッと口元を緩ませた。
ギースは四つの道具を乱暴に袋の中に放り込むと、次に数日分の水と食料、路銀の入った財布を入れる。最後に紐をキュッと締めて、袋の口を固く閉じる。紐に片腕を通してリュックサックのように背負う。
鉄の箱に入っていた、鞘に収まった一振りの剣を取り出して、左腰に挿す。箱の蓋を閉じて鍵を掛ける。
旅の準備を終えたギースがふと顔を上げると、窓の外はすっかり暗くなっていた。日は完全に落ちている。子供達の遊ぶ声は聞こえなくなり、秋の虫がジリリリと鳴き始める。時計の針は七時を指している。
(もう夜になるが……明るくなってから外に出て、ガキ共にまた『変なおじさん』と声を掛けられるのも面倒だ。外が暗いうちにさっさと出ちまうか)
村の子供に見つからないようにする為、夜中の出発を決断する。
夜の闇に包まれた農道を男が一人歩いていると、視界の彼方から人影が歩いてくる。
齢八十代に見える体の小さい老婆は麦わら帽子を被り、両手に白い軍手を嵌めて、両足にゴム長靴を履く。右手には草を切るための鎌を持っている。首にタオルを巻いて、背中に大きな籠を背負う。籠には収穫したジャガイモが山のように積まれている。
見た目から察するにジャガイモ農家と思われた。顔は皺だらけだが背は曲がっておらず、歩く速度は速い。農作業で鍛えたのか、体が不自由という印象を与えない。
男と老婆は互いの顔が見える距離まで近付くと、共に足を止める。
「よお、トミ婆じゃねえか。元気そうで何よりだ……今収穫が終わったとこかい?」
先にギースが口を開く。旧知の仲であったらしく、親しげに言葉を掛ける。
「ああ、これから家に帰るとこさ。アンタこそそんな格好で、何処さ行くね? またアンサツの仕事に出かけるのかい」
老婆が明るい笑みを浮かべながら言葉を返す。旅に出る準備を終えた男の姿を見て、今から仕事するのかと問う。
老婆は男の暗殺稼業を知っている風であり、その事を恐れてもいない。相手が物騒な人殺しだったとしても、分け隔てなく接する。彼女の態度は、男が他の村人から避けられていない事実を悟らせるに十分だった。
「ああ……今度ばかりは冗談抜きで、生きて帰れねえかもしれねえ。それくらいヤバい仕事だ。ここで会ったのも何かの縁だ……トミ婆に頼みがある」
ギースが神妙な面持ちになりながら答える。次の仕事が真剣に命を落とす危険があり、そのため否が応でも表情が暗くなる。
「もし俺が死んだ報せが届いたら、家の中のモノは勝手に処分してくれて構わねえ。金目のモンは村のみんなで分けてくんな。鉄の金庫の鍵はタンスの裏に隠してある。死人には用の無ぇものだからな」
自分が戦死した後の家財道具一式の処分を依頼する。鍵の隠し場所を教えて、これまで溜め込んだ財産を村の住人で山分けして良い旨を遺言として伝える。
「ハハハッ! アンタが仕事を失敗するだなんて、面白い冗談言うようになったねぇ。ま、今のは話半分に聞いておくよ。それより今度の仕事が終わったら、ウチに食べにおいで。飛びっきりの料理をご馳走するよ。ウチのひ孫がアンタの事気に入っててね……仕事の話が聞きたいってせがむんだよ」
老婆が大きく口を開けて笑う。傭兵の実力の高さを知っているが故に彼が失敗するなどとは思っておらず、男の遺言を本気の言葉として受け取らない。適当に聞き流すと、自分の家に来るよう誘いを掛けた。
「冗談じゃねえんだがな……まぁ良いや。分かったぜ、トミ婆。無事に生きて帰れたらアンタのとこに行く」
ギースが困ったように苦笑いしながら、頭を手でボリボリ掻く。たとえ冗談だと見做されても遺言を伝えられたからヨシと自分に言い聞かせて納得する。最後は半ば諦め気味になりながら家に行く約束を交わす。
「約束だよ……絶対に来ておくれ。いつでも待ってるからね。それじゃ、お仕事頑張ってきな」
老婆は念を押すように言葉を掛けると、別れの挨拶を口にして、背を向けてトボトボ歩き出す。そのまま家のある方角へと去っていき、夜の闇に消えた。
老婆が立ち去ると、辺り一帯がシーーンと静まり返る。木に停まっていたフクロウがホゥーホゥーと鳴き、秋の虫がジリリリと鳴き始めて、夜の景色を演出する。時折風がビュウッと吹き抜けて、木の葉をカサカサ揺らす。
夜の農道に男は一人いつまでも立ち尽くす。老婆が歩いていった方角を名残惜しそうにじっと眺める。その表情は何処か寂しげだ。
「元気でな……長生きしろよ、婆ちゃん」
今生の別れを口にすると、村の出口に向かって歩き出す。
もうここには戻らないだろう……そう心の中で覚悟を決めながら。