口をだらしなく開き、薄らぼんやりと雲海を仰ぐ信天翁(しんてんおう)の姿は、降り始めた雨の冷たさとあいまって、どこか忌まわしく私――加茂修次郎の目に映った。垢と埃にまみれた身体を、力なく樹木に預けている様子は、ともすれば打ち捨てられた死体のようにも見える。出来ることならば近寄りたくはない。係わり合いになりたくないが、仕事である以上、そうも言っていられない。
渋々と薄汚れた信天翁に近寄った瞬間――
彼方の空を、遠雷が走った。
「ジャーヴェダーニー、イーナスト――」
雷鳴に呼応するように、信天翁がか細い声でつぶやいた。内容も、その言語すらも判然としない。ただ、薄っすらと愉楽の色合いだけが感じられる。落ち窪んだ眼窩には、遠くの空を裂く稲光が魅力的に映っているのかもしれない。
雷の鳴り止まぬその地を、ヒトは神域と呼ぶ。
神域とは――
原因不明の天災が多発する、未踏破地区を指す言葉である。ヒトを含め生物が生息する環境ではないと言われており、絶えず雷鳴が空を埋め尽くし、溶岩が大地に溢れ、荒れ狂う暴風に氷塊が乱れ飛ぶとも聞く。神域すなわち地獄と書き残した手記は、血に濡れていたとの逸話まであるほどだ。
今、私はその神域から数十キロメートルほど離れた近隣区域にいる。いや正しくは、神域の近隣区域にて路上生活を続けている信天翁に、生活に必要な物資を届けるために、遠路はるばるバルバレから荷車に乗ってまかり越した次第である。
背後を振り返り、持参した荷を確認した。最低限の保存食と飲料水、そして大量の葡萄酒、その他もろもろが堆く積み上げられている。
くいと裾を引かれ、私は視線を戻した。見れば信天翁が葡萄酒を指差し、手のひらを見せる仕草を繰り返している。寄越せという意味合いだろうか。
「メイ、ヌーシュ、ケ、オムレ――」
「メイ? メイがどうしたって言うんだ?」
異なる言語に身振り手振りを交えながら、葡萄酒を手渡した。メイとは、王立先端科学研究所ライアス(Royal Institute of Advanced Science:RIAS)の所長であり、かつ私の雇い主である。本名はメイ・リオ・エムノートという。私は研究助手という立場ながら、メイの元で雑用――例えば今回の信天翁への物資搬送など――をさせられている哀れな小間使いだ。
自らの境遇に対する嘆きもそこそこに、私は葡萄酒の瓶を二、三本ほど信天翁のそばに置いて、山と積まれた荷を解きにかかった。距離があるとはいえ、危険地帯――恐れ多い神域の近隣に、長居をする道理はない。
雨に濡れぬよう木々の下に荷を並べ、早々に立ち去ろうとする私を、呼び止める声があった。信天翁だった。
「ホダーハーフェズ」
相変わらず何を言いたいのか分からなかったが、私は挨拶代わりに頭を下げて、その場を辞去したのだった。