「さっき同僚と言っていたが、つまりライアスの職員なんだろ。新参の私なんぞより、メイが行った方が喜んだんじゃないのか。メイについて、信天翁が何やら言っていたぞ。たしか――メイ、ヌーシュ――何たらと言っていたな」
「そりゃ、アタシのことじゃない」
そのメイは酒って意味だと言いながら、メイが紙巻煙草に火をつけた。
そして紫煙をくゆらせながら、詩だと付け加えた。
「戀人よ、満たせ、さかづき、この日より、すぎし悔、後の怖をぬぐふなり。明日はとや、その明日こそはわがよはひ、昨日(きそ)の日の七千年のわれならし――アイツは中東の詩が好きでね」
「あんな危なっかしいところで、愛人でも待っているのか」
私の率直な感想に、メイが左目だけ見開いた。ヒトを小馬鹿にする際によく見せる、嘲笑の顔だ。
「いかにも野暮天だね。修の字は。惚れた腫れたって意味じゃないんだよ」
「酷い言い草をするな。あんな風に世を捨ててまで待つなんて、一体全体どんな相手なのやら」
野次馬するもんじゃない――と言って、メイが外方(そっぽ)を向いた。応える気がないのだろうか。フォンウの話によると、メイという女は、確証のないことは口外したがらない性質をしているらしい。付き合いが短ければ、なおさらに口が堅いのだとか。
未だ信用が足りないのだろうか、疎外感に少しだけ気分がふさいだ。
「すねるでないよ。仲間はずれにするつもりはない」
心の内を読んだかのようなメイの言葉に、私はギクリと返事を詰まらせた。色素の薄いメイの瞳によって、のど元を抑えられているかのような心地だ。
「お前さんの言う通り、信天翁はMMトリオンの一員だ。本業じゃないけれども、古龍に関する研究員として務めてもらっているんだ」
「兼業ってことか」
「そう。アイツの本業は、王立古生物書士隊の研究員だもの。フィールドワークによって集めた情報を元に、素晴らしい論文をいくつも発表していてね。無理を言ってライアスでの研究も兼任してもらったんだ」
無宿者然りとした外見からは、豊かな学識を感じることはできなかった。酒を飲み、詩を詠み、神域を眺めることだけに時間を費やす日々。仙人のように浮世離れした今の暮らしは、おそらく王立古生物書士隊の頃とは、まるで異なるに違いない。何が信天翁を、そこまで変えてしまったのか。
遠く神域を望む信天翁の姿を想起して、私の思考が不意に飛躍した。
「古龍か」
私の呟きに、メイが挑発的な微笑みを寄越した。続けろと言っているかのようだ。
「神域には古龍がいるんだな。いや、古龍がいるから、神域として指定されているのか。ああ。どっちでも良い。劣悪な環境も、古龍の存在だけで説明がつく。信天翁は古龍研究の一環で、神域に足を踏み入れてしまった。そこで遭遇する。天災のような怪物に」
古生物書士隊は、主に気球で各地を移動していると聞く。多くのモンスターが、他生物に比べて巨躯であり、かつ踏破能力に長けていることから、上空からの観測が主流なのだそうな。信天翁もまた、神域上空の暗雲の中で古龍と遭遇したのかも知れない。
「超自然的な怪物を目の前にして、信天翁の胸に去来したものは、例えば死への欲望、とか」
それまで黙っていたメイが、瞳に好奇の色をにじませて口を開いた。
「修の字が、精神分析を学んでいたとは意外だ」
「かじった程度だけどな。門外漢だから詳しくはないが、古龍と対峙するという限界状況と、その状況からの生還という経験が原因で、信天翁はアンビバレンスな情動を抱くようになったんじゃないだろうか。つまり生と死、両価的な欲望を。幸か不幸か、助かったことによって生への充足は得られたが、死への欲望に取り付かれてしまったとしたら。そして、今も信天翁の胸中に巣食っているとしたら」
「信天翁は、あそこで古龍に殺されるのを待っているってのかい?」
私は首肯した。破壊の権化である古龍の眼前から生還した経験が、生きていることの実感を強烈に喚起したに違いない。そして、それは同時に、生命を奪われなかったということでもある。万に一つの確率で命を拾った反面、路傍の石のごとく、取るに足らない矮小なモノとして、古龍に捨て置かれたという可能性がある。だから。
「命を獲る価値もないとみなされたと、信天翁は思っているんじゃないだろうか。神域に墜落した気球から命からがら這い出してみれば、古龍が唸り声を上げながら近付いてくる。緩慢に死が向かってくる。一人、また一人と仲間が命を落とす光景を、震えながら見る信天翁」
「だけど信天翁だけ殺されなかった」
「ああ。古龍の気まぐれかもしれんが、信天翁は偶然にも生き残った。いや、生かされた。しかし、たまさか拾った命は、その生かされたという事実によって、色あせてしまった。暴落してしまった。だからこそ、古龍に己を殺させることによって、たわんでしまった自らの生の価値を取り戻すことができる――と、信天翁は信じているんじゃないだろうか」
「天から古龍が舞い降りてくると信じていると。いやはや恐れ入るね。想像だけで、よくもそこまで飛躍したもんだ。でも両価的な欲求の片方が満たされたから、数年経った今も死を望んでいるってのは、少し無理がないかしら」
「抑圧された記憶として、信天翁の心に根強く残っているとも考えられる」
「心的外傷ってヤツね」
私の意見を吟味するように、メイが目を閉じた。
そして、しばし沈思黙考した後に、私に背を向けた。瞳の色を見られたくないのだろうか。
「最前の詩は、覚えているかい?」
「戀人よって、さっきのあれか」
「うん、それ。明日はとや、その明日こそはわがよはひ、昨日の日の七千年のわれならし。過去の中東あたりでは、世界の開闢から七千年が経っているって信じられてたんだよ。つまりこの世界の年齢だね。だから恋慕の詩というより、死んで土となり、この世界の一部となり、この世界と年齢を同一にするという意味で読まれているんだ」
「不二一元論か?」
「もうちょい西寄りの地域の思想だよ。世界に限らず、星だとか神だとか、そういった超越的スケールのモノとの同化が、あの詩の根底にはある。そして、それは古龍も然り。超越的な古龍との同一化が、信天翁の究極的な目的だと、アタシは考えてる。食われて、アルバトリオンの血と肉になることを望んでるじゃねーかなーって」
「待ち人はアルバトリオンと言うのか」
「発見者の信天翁が、そう名づけたんだ。MMトリオンの信天翁(アルバトロス)ってね。もう名前からして、既に同一視してんだよ。自分と」
私は夢想した。古龍と対峙した信天翁の瞳に、果たして何が映ったのか。相手は長年の研究対象である。生活の大半を費やして、四六時中、想いを馳せたに違いない。えてして研究者とは、そういうものだ。私の父がそうだったように、寝食を忘れ、家族もかえりみず、思慕するように古龍のことばかりに考えをめぐらせる。それは、まるで――
――まるで色恋沙汰じゃないか。
メイには否定されたが、私にはやはり惚れた晴れたの青臭い話のように思えた。ただ、私の推測よりもメイの見解の方が、幾分か真っ当ではなかろうか。結論はどちらも一緒だ。同じだが、過去に囚われていない分だけ、まだましなような気がする。気がするだけだ。
「メイ。煙草を一本くれ」
「もらい煙草は嫌われるよ」
言葉とは裏腹に、舶来ものの煙草が差し出された。メイが好んで飲む紙巻だ。青い装丁に、白抜きで踊り子が描かれている。
「悲痛感慨の刺激によりて常ならずなりたる脳髄を射て、恍惚の間にここに及びしを如何にせむ――って訳じゃねえのかな」
「アタシの知る信天翁は、そんなロマンチストじゃなかったけどね」
深く煙草の煙を吸い込むと、少しだけ目がくらんだ。
揺れる視界の端で、蒼穹を走る遠雷を見たような気がした。
参考:http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/962354
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