夜の海。
ただ波が静かに揺れているだけのはずの場所に、
重く、黒い気配が満ちていた。
艦娘たちの戦線から少し離れた、その海域。
ヴァルキューレと泊地棲鬼は、真正面から向かい合っていた。
誰もが、息を呑む。
泊地棲鬼は、黒煙を纏いながら、
深海の怨嗟をそのまま形にしたかのような姿で、無言のまま立っていた。
ヴァルキューレは、全艤装を展開し、
その瞳で、ただまっすぐに敵を見据えていた。
互いに、一歩も動かず──しかし、空気だけが、重く張りつめていく。
「これで終わり」
ヴァルキューレが、ふっと呟いた瞬間、
地を蹴り、海を割るように飛び出した。
泊地棲鬼もまた、まるで反射のように反応。
その巨体を信じられない速さで躍動させ、
巨大な艤装砲塔を振り上げた。
──ドォン!!
双方の砲撃が、ほぼ同時に炸裂。
轟音と爆煙が、夜空に弾ける。
空中で反転し、ヴァルキューレは戦艦モードの主砲を再装填。
同時に、左腕の補助砲でカウンターを放つ。
泊地棲鬼はそれを防御しながら、巨大な黒艤装を振り下ろしてくる。
ヴァルキューレの視界に、全てがスローモーションで映る。
それほどに、
ただ一発のミスも許されない戦いだった。
ズガァン──!!
ヴァルキューレの突撃が泊地棲鬼の胸部を直撃。
その巨体が一瞬だけ、仰け反った。
その時だった。
「……ナゼ、ワタシハ……タタカッテ……イル……」
低く、軋むような声。
「……カナシイ……ノニ……」
ヴァルキューレの動きが、一瞬止まる。
その声は、敵のものとは思えないほど、
──人間らしかった。
「……あなたは……」
問いかけかけたその時、
「──オマエハ……ワレラノ……コエヲ……ソウカ…ソウイウコトダッタノカ…」
その言葉の続きを、ヴァルキューレは聞き取れなかった。
泊地棲鬼の艤装が、暴走したかのように赤黒い光を放ち、
周囲の海が裂けるように波紋を走らせた。
海の中へ、静かに沈んでいく黒い艤装。
夜空には、再び静寂が訪れた。
「(勝った…)」
海面は静けさを取り戻し、その場に残されたのは、静かに漂うヴァルキューレの姿だけだった。
彼女の艤装はところどころ焦げ、装甲の一部は損傷している。
それでも、立っていた。
──まだ、意識はある。
「(消耗が激しい…形態変化は控え目にするべき…かな)」
「……敵艦隊、消失……!」
神通の通信が、提督の無線に届いた。
「みんな、無事か!?」
提督が叫ぶ。
「全員……生存してます!」
睦月が涙声で応える。
「長門と陸奥、飛龍と蒼龍も中破で踏みとどまってます!」
明石の報告に、提督は息を吐いた。
そして、誰よりも心配だった存在の名を呼ぶ。
「──ヴァルキューレは!?」
しばらくして、海の向こうから一つの影がゆっくりと戻ってきた。
艤装の噴射音。
波しぶき。
その姿を見た瞬間、
食堂で待機していた妖精さんたちが「ワー!!」と一斉に飛び上がった。
ヴァルキューレは、
ほとんど無言のまま、鎮守府の甲板に着地した。
「……ただいま、戻りました」
その声はいつも通りの冷静さだったが、
その目だけは、わずかに揺れていた。
すぐに夕張と明石が駆け寄ってくる。
「ヴァルキューレちゃん! ほんとに無事だったんですね!」
「よかった……!」
二人の声を聞きながら、
ヴァルキューレは静かに言った。
「艤装、問題なく稼働しました。すばらしい性能でした」
「う、嬉しいけど……顔が、あんまり嬉しそうじゃないよ?」
夕張が、そっと問いかける。
だが、ヴァルキューレは答えなかった。
その時、提督が近づいてくる。
「おかえり、ヴァルキューレ。……よくやった」
その言葉に、ヴァルキューレは初めて、
小さく、小さく頷いた。
「……でも」
彼女は言った。
「……泊地棲鬼は、最後、何かを伝えようとしていた気がします」
「私……彼女の声を、どこかで聞いたことがあるような、そんな気がしたんです」
提督は目を細め、静かに彼女を見つめた。
「……それは、思い出しかけてるんじゃないか?」
「君が、どこから来たのかを」
ヴァルキューレはその言葉に、少しだけ肩を震わせた。
夜。
ヴァルキューレは、一人、岸壁に立っていた。
遠くの海を見つめる。
耳を澄ます。
──聞こえるはずのない声が、
まだ、どこかで揺れている気がする。
「……ウミヘ……カエレ……」
風の中に混じったその声が、
彼女の中で、波紋のように広がっていた。
(……私は、誰?)
答えのない問いを、
彼女はただ、胸の奥にしまったまま、目を閉じた。