埃まみれの記録室の一隅。
新任提督は、灯りの下で一冊の厚い記録簿を開いた。
背表紙には、薄れて読みにくい字でこう記されている。
『舞鶴鎮守府 行動記録・提督報告文書(非公開)』
「……今の舞鶴からは、想像もできないな」
重い表紙をめくると、
黄ばみかけたページの中から、過去の光景があふれ出すように広がっていった。
そして──
視点切替:五年前、舞鶴鎮守府 “絶頂期”
海は青く、空は高く澄みわたっていた。
桟橋には整列した艦娘たちの姿。
全員が同じ方向を見つめ、整然と礼を取る。
その奥、司令部のバルコニーには、一人の男が腕を組んで立っていた。
“前任提督”。
冷静沈着。成果第一主義。容赦なし。
人は彼をこう呼んだ──「鉄の指揮官」。
「第三艦隊、出撃準備整いました!」
「今日中に敵制圧、残存艦は現地処理。損耗は構わん。撃破を優先せよ」
「……了解」
報告に応じたのは、白い髪の軽巡艦娘。
頬に小さな絆創膏。目元に疲れが滲んでいる。
それでも、命令には逆らわなかった。
逆らうという選択肢が、最初から存在しない鎮守府だったから。
桟橋の傍らで、控えの駆逐艦がぽつりと呟く。
「また今日も、出ずっぱりか……休み、いつだったっけ?」
「二ヶ月前の半日」
「……はは。そうだっけ」
互いに笑い合うでもなく、ただ日常の延長線でそれを受け入れていた。
それが、かつての舞鶴だった。
だが、一度狂い始めた歯車が、元に戻ることはそうそうない。
やがて、数字に異変が現れる。
艤装整備の記録が空白になる
精神診断報告が「問題なし」のテンプレートで埋まる
損耗率が、出撃ごとに静かに上昇
艦娘たちは――
声を失い始めた。
いや、「声を上げることをやめた」のだ。
そんな中で、ひとつの事件が起きた。
『駆逐艦 浜風、任務中に艤装暴走。民間施設に損壊。責任は艦娘にありとする』
『艦娘 浜風、除籍・解体処理』
これが、引き金だった。
静かだった鎮守府に、
それでも、ほんのわずかな“ひび”が走り始めた。
一人の艦娘が、こっそりと“日報”を外部に送りつけた。
「見てほしい。私たちは、“戦ってる”んじゃない。ただ、“使われている”だけだ」
その日報は、民間ネットワークに流出。
爆発的な拡散とともに、ついに大本営が重い腰を上げることになる。
そして──
抜き打ち監査、記録没収、司令官拘束、鎮守府封鎖。
あれほど誇りだった舞鶴鎮守府は、一夜にして“廃墟”となった。
多くの艦娘が解体処理を命じられ、
生き残った者たちは他所へ散り散りになった。
それはまるで、
“輝きすぎた星が燃え尽きる”ような、静かな終わりだった。
提督は記録を閉じ、静かに深く息を吐いた。
「……全部、知ってたわけじゃないんだな」
後ろから、そっと気配が近づく。
「提督……?」
ヴァルキューレだった。
彼女は、提督の隣に静かに腰を下ろすと、ぽつりと言った。
「私には、そのような、鎮守府で活動をしていた記録がありません」
「……え?」
「気がついた時には、海の上にいました。
名前も、艦種も、使命もわからず……
ただ、波に揺られていただけです」
彼女の表情に、悲しみはなかった。
それでも、どこか遠いものを見ているような眼差しだった。
「……怖くはなかったのか?」
「怖いという感情そのものも、よくわからなかった。ただ……あなたに拾われたとき、初めて“あたたかい”という感覚を知りました」
提督は、しばらく何も言えなかった。
やがて、彼は言った。
「君の記憶がどうあろうと、関係ない。君がここにいる限り、俺は――“ヴァルキューレ”という艦娘を、信じてる」
ヴァルキューレが、初めて少しだけ微笑んだ。
「ありがとうございます、提督。それだけで、私はもう……十分です」
月の光が差し込む記録室。
その穏やかな空間で、過去を知った提督と、
過去を持たない艦娘は――
“今”という時間を、確かに共有していた。