風が強い日だった。
海沿いの坂道を、ひとりの少年が走っていた。
その日も、変わらず。
白い士官学校の制服。腰に巻かれた訓練用の模擬サーベル。
海軍士官養成学校・第49期生、予科最終年。
彼はまだ、名前も与えられていない「無名の士官候補生」にすぎなかった。
成績は中の上。
身体能力は合格ライン。
戦術学、歴史、統率、工学――すべて、平均より少し上。
誰もが言った。
「優秀ではあるが、突出してはいない」と。
ただ一つ、教官たちの目を引いていたのは、「艦娘との適性指数」だった。
ある訓練の記録。
「艦娘との連携テストにおいて、彼は5人の艦娘の行動パターンを即座に見抜き、指示系統を“信頼”で構築した」
「軍規に則った命令ではなく、判断の余地を艦娘側に与えたうえで成果を上げたのは稀有である」
「従来の“兵器としての艦娘運用”ではなく、“共同作戦”を可能にする可能性」
そう書かれていた。
本人にその自覚はなかった。
むしろ、彼にとって艦娘という存在は──
「不思議な存在だった。人間みたいで、人間じゃない。だけど、人間より“痛み”に正直で……」
そう呟いた日、隣にいた教官が言った。
「お前、いつか地雷踏むぞ。それ、軍じゃあんまり口に出すなよ」
「……でも、本音です」
教官はため息をついたが、それ以上は何も言わなかった。
ある日、海岸沿いのコースをランニングしていた彼は、
そこで“何か”を見つけた。
それが、“あの艦娘”との出会いだった。
誰にも言わなかった。
報告も、記録も、義務も、すべて無視して──
彼はそれを「拾った」。
寮の裏の納屋に寝かせて、
制服の予備を着せて、
名前も知らないその艦娘と、しばらく一緒に暮らした。
「……君、名前は?」
「……わかりません」
「何艦?」
「……わかりません」
「でも、“艤装”の痕がある。間違いなく艦娘だ」
「……そう、なんでしょうね」
最初は話しかけてもろくに返事がなかった。
表情も、感情も、空っぽだった。
だが、日が経つにつれて、
彼女は少しずつ、表情を取り戻していった。
その中で、彼はふと、こう呟いた。
「名前がないのも寂しいよな……うーん、どうしようか…」
「…ヴァルキューレ」
「え?」
「私の名前…なんか、そんな感じがします」
それが彼女の、“今の名前”となった。
「お前、卒業だってな。おめでとう」
「ありがとうございます、教官」
「行き先、決まったらしいぞ。お前には、ちょっと変わった鎮守府が……」
そのとき彼は、ある予感を感じていた。
「“変わった”?」
「……まぁ、“終わった”と言った方が正確かもしれんがな」
卒業式の夜、彼は校舎の裏でヴァルキューレと会った。
「……君、俺がいなくなっても、ひとりで大丈夫か?」
「私は、あなたの艦娘です。だから……どこまでも、ついていきます」
「そうか……なら、行くか。俺たちの戦場へ」
こうして──
名もない士官候補生は、
記録にも残らぬ形でひとりの艦娘と共に、
“再建不能”とまで言われた舞鶴鎮守府へと赴任することとなった。
正規の配属記録には、ヴァルキューレの名はどこにも記されていない。
彼女の存在は、“いないこと”になっている。
だが彼にとって、それは確かにそこに“いる”艦娘だった。
そして物語は動き出す。
荒廃した鎮守府、心に傷を負った艦娘たち、そして失われた“何か”を探す記憶喪失の少女。
これはまだ、すべてが始まる前の物語──