地獄より我らが父へ   作:XP-79

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序 疑似家族編
No.1 轟燈矢:オリジン


 

 

 

 

 火葬場に行ったことはあるだろうか。

 

 俺はある。

 父方の曾祖母が亡くなった時のことだ。

 

 父に似て目尻も言葉尻も尖りに尖った曾祖母だった。トンデモなく気が強くて、寝たきりになっても部屋の掃除に文句をつけていた。

 そんな曾祖母が棺桶に横たわる姿はサイレント映画に似ていた。

 モノクロ色の服に囲まれて、棺へ詰めた花の首と、枕元に置いた愛用の眼鏡だけが鮮やかだった。

 

 お別れの挨拶をする時間が終わると曾祖母はでっかい竈門にコンベアーで移された。

 それから骨になるまで1時間。

 加えて温度が冷えるのに1時間。副葬品に冷えにくい金属製の眼鏡があったせいでかなり長くかかったらしい。

 

 当時はポケモンGOの全盛期で、俺は冬美ちゃんと一緒に火葬場の周りでポケモンを捜し歩いた。

 お母さんは乳飲み子の夏くんを抱えて祖母と話していた。祖母は数十年にわたる曾祖母への愚痴を延々と吐き続けていて、お母さんはずっと相槌を打っていた。 

 お父さんは精進落としの寿司をつまみ、偶然通りがかった他人みたいな顔で2人の会話を聞いていた。

 

 平均寿命を優に超えて周囲に迷惑をかけまくった年寄りの大往生なんてそんなもんだ。

 悲しみより「ようやっと死んだわあのクソババア」みたいな雰囲気の方が強かった。

 

 そうして2時間。

 ようやく納骨できると放送があり、暇を持て余していた親戚一同はわーっと集まった。

 職員の人は慣れた様子で説明をして、銀色の箸を差し出した。受け取った人から順に辿々しい手つきで骨を摘んで骨壺に入れた。まだ幼かった俺はそれを黙って見ていた。

 曾祖母は治安がクソの煮凝りみたいな時代を生き抜いた女傑であったので、骨は長年の栄養失調と過労で細く萎びていた。

 

 最後に曾祖母が一番可愛がっていた父が喉骨を置いた。

 黒く焦げた眼鏡フレームはその場に残された。

 

 あのフレームは今の自分に似ている。

 

 

 

 気付けば3年が経っていたらしい。

 街灯テレビを見る限り変わった事と言えば税率と総理大臣の顔くらいで、No.1ヒーローの顔とNo.2ヒーローの顔は共に微動だにしていない。

 しかし自分個人で言えばかなり変わった。

 中学生だった自分は今や小卒の無職で、顔も喉も焼け爛れて見る影もない。

 

 だがそれでも、あの孤児院が見るからに怪しい場所だと分かる程度に脳ミソは無事だった。

 あのサンサン晴明とかいう男は、どう考えてもヤバい。

「騙すならもうちょい気張れや……っ」

 ガキを舐めるな。孤児院の優しい院長先生がパソコン越しに会話するヤバそうな男と関りがある訳ねぇだろ。

 それと髭を剃れ。髪(?)は毟れ。

 

 愚痴を吐きながらコンクリート舗装の道路を歩く。

 爛れた素足で路上を歩くなど普通なら拷問だろうが、痛くはない。神経が死んでいた。

 道標を見上げる。自宅近くまで3kmとあった。

 

 死ねってか、チキショウ。

 

 既に足裏が裂けて血が出ていた。痛みより体力の低下がキツイ。

 しかし家に帰らなければならない。お父さんが待っている。

 

 タクシーという現実的な案が思い浮かんだ。

 金は、マァ、家に帰れば誰かが払ってくれるだろう。

 しかし母は3年前は専業主婦だったけれど、今はそうじゃないかもしれない。家にいない可能性がある。

 冬美ちゃんと夏君は学校だろうし、まだ10歳にもなっていない焦凍は財布のある場所が分かるかどうか。

 

 なら自転車でもかっぱらうかと路上に放置されている自転車を物色するも、軒並み鍵がかかっていた。鍵を燃やすにしてもタイヤが溶ける方が早い。

 

「嬢ちゃんなにしてんだ?」

「……呼吸」

「ケケケ、そりゃあ偉いな」

 いつの間にか路地裏に入り込んでしまったらしい。

 振り返ると汚れたシャツを着た小男がすきっ歯を晒して「ケケケ」と笑った。路地裏の雰囲気に溶けて紛れているので一瞬気付かなかった。

 小男は猫でも呼ぶように手を振った。

 

「こっち来いよ嬢ちゃん。酒くらい奢ってやらァ」

「酒はいらねぇから自転車くれ。金でも良い」

「やる訳ねぇだろ。金なんて俺が欲しいわ」

「家に帰るのにタクシー代要るんだよ……もう真面目に歩くより強盗した方が良い気がしてきたぜ。なあ、ここら辺に家を丸ごと燃やしても罪悪感が湧かないクソ野郎の家とかねぇか?」

「ヤべぇなテメェ」

「ムシャクシャするから派手に燃やしたい……」

 男の隣に腰を下ろして指からしゅぽしゅぽ蒼炎を出す。

 

 もしこの場に木材か、紙束か、なんでも良い、可燃性のものがあれば火を点けてそこらの家にぶん投げるのに。辺りには空き缶しかない。

 元から倫理観より己の感情の方が遙かに大事な性質なので、3kmも足の皮を減らしながらチマチマ歩く気なんてとっくに失せていた。他人から金を盗む方が楽だし、何より気分がスカッとする。

 

 地べたに敷いたダンボールに座った男は酒臭い息を吐きながら「いや嬢ちゃん。盗みはダメだぜ」と賢しらな顔で道理を説いた。

「んなコトしたら空からメリケン野郎が飛んで来るからナ……このご時世で前科がついたら就職先がなくなる。俺みたいに」

「メリケン野郎より家に帰れねぇ方が怖ぇよ。お父さんが待ってんだ」

「おうちに連絡して迎えに来て貰えや」

「電話番号覚えてねぇ。そもそもLINEばっか使ってたし」

「スマホの弊害だねェ……まぁいいや。なら良いバイトがあるけどどうだ?」

 稼げるぜ、と男は指を輪っかにして口の前で前後に動かした。

 

 それがあんまりにも下品で言葉が詰まった。

 家柄の良い連中ばかりを集めた学校に通っていたので、こういう類の連中と関わった事が無かったのだ。

 しかし負けん気が強く、侮られる事が何より嫌いな性質は黙って顔を俯かせるのを良しとしなかった。

 

 む、と胸を張って鼻で笑う。

「このご時世にンな誘い文句で飛びつくバカが居るかよ」

「時給2万で何にもしなくて良いんだぜ。ちょーっと寝っ転がってりゃすぐに済む」

「テメェが広瀬すずに転生したらこっちが金払ってやるよ。失せろ」

「顔の傷がなぁ。マァでもまだ子供だし……レザーフェイスさんとこ持ってきゃ売れるかな……?」

 男は随分と酔っていた。黄ばんだ爪が素足を掴んで青痣を作る。

 生まれて初めて他人から無遠慮に触られて、ぞっとした。

 男への恐怖ではない。己の足首の細さに絶望した。

 

 3年間寝たきりの体はどこもかしこも薄っぺらい。

 お父さんと訓練をしていた時の身体はどこかに行ってしまって、残ったのは眼鏡の金属フレームみたいに細っこい骨と皮ばかりだった。

 

 それがあんまりにも悔しくって喉がキリキリと痛んだ。叫びたかった。

 しかし一度叫んでしまえば、それが事実であることを認めてしまうような気がして唇を噛み締めた。

 

 突然顔を歪ませた燈矢に、それが自分に怯えているとでも思ったのか、小男は「マァマァ」と嫌がる乙女を宥めるように丸っこく喋った。

「いや、ホント。悪い話じゃねぇよ。レザーフェイスさんはきっと優しくしてくれる……」

 ナメたことを口走る男に向けて眼球がグルンと動く。指先が燃えて蒼炎を灯した。

 冗談じゃなかった。

 

 男から性的に見られているとか、児童誘拐されかかっているとか、そんなことはどうでも良い。

 そうではなく、この自分が……あの轟炎司の息子で、あのエンデヴァーに育てられたこの自分が、こんな路地裏に住み着くカビの生えたネズミみたいなヤツに、あろうことか、下に見られているという事実に、我慢がならなかった。

 

 

「───私が来た!!」

 

 空から声がした。比喩ではない。

 咄嗟に天を見上げる。巨大な金色が舞い降りた。

 

 画面越しでも現実味が無い男だったが、目の前に現れるとさらに非現実的だった。

 正義とか平和とか慈愛とか、そういうキラキラとした美しいものだけを厳選して詰め込んだように発光している。

 なんというか、もう、ほとんど神様だった。

 

 オールマイトは「準強制性交等罪未遂!」と、あっという間に小男を指2本で摘まみ上げた。

 動きが完全にアニメだ。呪術廻戦とかBLEACHじゃなくて、トムジェリとか、ルーニー・テューンズの方の。

「そして君」

 くるりと顔がこちらを向く。

 

 青い視線が出来たばかりの青い痣を見て、細い棒きれみたいな体を見て、火傷まみれの顔を見た。 

 大きな体が目の前で屈む。

「遅れてごめんね。まずは病院に行こうか」

「い、いらね……」

「酷い怪我だよ。大丈夫。私が来たからね」

 

 こちらの事情も何も知らない癖に身勝手なことを言う。

 いらねぇと再度叩きつける前にオールマイトの手が体を支えていた。

 

 

 

 

 ◾️ ◾️ ◾️

 

 

 

「捜索届なし。戸籍なし。指紋は火傷のせいで判別不明。下顎骨に損傷あり歯牙照合は困難」

「熱傷の治療はどこで?」

「3年前に蛇腔総合病院で治療されたようですね。その後は昏睡状態で関連施設の孤児院で保護されていましたが、目が覚めて逃亡……混乱したのでしょう。無理もありません」

「エンデヴァーは?」

「息子は死んだの一点張りです」

「………そっか」

 全てのヒーローが清廉潔白だと思っている訳ではない。

 しかし長年信頼していた人物が家庭に問題を抱えていたというのは、少しばかりショックだった。

 

 

 個性発生前の時代と比べると、虐待事件の件数は悍ましい程に増加している。

 強い個性の赤ん坊を奴隷として売り払ったり、弱い個性だから要らないとゴミ袋に詰めて捨てたり、期待した個性が出るまでブリーディングを繰り返したり。

 彼らはそれを当然として悪びれない。

 自分の子供を、自分とは別の人格を持つ個人ではなく、自分が所有権を持つ個性として見る親は現代ではあまりに多い。

 

 そんな親から何千人という子供を救ってきた。

 間に合わなかったこともある。

 命は助けられても、精神、肉体共に酷い後遺症を残す子供も多い。

 血の繋がりは無条件の愛を意味しないのだ。

 

 轟燈矢からはそんな子供達と同じ印象を受けた。

 そしてこういう時の自分の勘は絶望的なまでに当たると経験から知っていた。

 

「ちょっとあの子に会いに行って来るよ」

「少しは休憩なさったらどうですか」

「HAHAHA!助けた子供の顔を見る以上の休憩は無いさ!」

 ウィンクすると「終わったら直帰して下さい」とナイトアイが溜息を吐いた。

 

 

 オールマイト事務所は東京は六本木にあり、子供が入院している病院は静岡県にある。

 つまりひとッ跳びだ。山梨に寄って桔梗信玄生プリンを買っても3分はかからない。

 

 病院の受付を通ってICUに向かう。

 重病患者ばかりが並ぶ個室の並びを通り抜けた後に見ると、確かに子供は元気だった。

 ヴィランをぶっ飛ばすエンデヴァーの映るテレビに向かって「いけ!やれ!ぶっ潰せ!」と点滴のついた拳を振っている。

 興奮で顔を赤らめ、点滴の付いた拳を振る姿はワンパク小僧そのものだった。

 全身の火傷なんて些細なもので、そもそもの気が強いのだろう。

 

 あんまりにも楽しそうなので、オールマイトは液晶画面の向こうでエンデヴァーがヴィランを倒し、インタビュアーに向かって思いきり舌打ちして顔を背けるまで待った。

 ヒーローというよりヤクザの鉄砲玉みたいな態度だが、彼はいつもこうだ。もう一種のパフォーマンスのようなもので、女性インタビュアーは顔を赤くしてきゃあきゃあ小さくジャンプしていた。

 煙臭く角ばった男の色気のない対応は脳が痺れるくらいに格好良い。

「カッコいいねぇ」

「うん」

 笑って人々を安心させるのが自分のスタイルだが、彼の硬質な態度はヴィランを恐怖させるだろう。

 きっとどちらも正しい。自分のようなヒーローばかりが増えると雰囲気が緩み過ぎるし、彼ばかりになると空気が焼け付く。

 

 犠牲者ゼロでヴィランを倒したエンデヴァーの後姿に2人揃ってパチパチ拍手する。

 そこで漸く存在に気付いたように少年が振り返った。

「……それで、何。やっと退院許可が出たの」

「まだだよ。でもね、明日にはICUから普通の病棟に移れるって。お祝いに生プリン持ってきちゃった。柔らかいものなら食べられるってお医者様が言ってたから……顎の手術、本当によく頑張ったね」

「フン」

 子供は鼻を鳴らしてプリンを受け取った。

 隣で自分も一つプリンを手に取る。チタン製の骨が入った顎をギリギリ動かして子供はプリンを咀嚼した。

 

 その間にテレビは次のニュースを映している。

 動物園でパンダの赤ちゃんが産まれたというニュースを一緒に眺めた。

「エンデヴァーが好きなの?」

「うるせ」

「分かるよ。彼は本当に凄い」

「だろ」

 にっと笑う。火傷と手術で引き攣れた顔だけれど表情は分かり易い。

 子供が入院して1週間が経つ。その間にこの子は自らの事情を粗方説明してくれた。

 

 名前は轟燈矢。父親はエンデヴァー。

 3年前、瀬古杜岳の大火事で死亡したと看做されていたが実は生きていて、近くの孤児院で保護されていた。

 つい最近目が覚めて、家に帰ろうとしていたところをオールマイトに救助され、今に至る。

 

 説明は簡素で的確で無駄が無かった。頭の回転が速い子なのだろう。

 身元を保証するものは無いが、ナイトアイの調査と証言は一致している。この子が轟燈矢本人である可能性は非常に高い。

 しかしエンデヴァーはこの子との面会を拒絶していた。

 

「信玄プリン美味い」

「良かった。黒蜜美味しいよね」

 2人揃ってちゅるちゅるとプリンを食べる。

 既に食欲は十分にある。この分だと退院も近いだろう。

「お父さんには連絡取ってくれてるんだよな?」

「うん。でもちょっと忙しいらしくてね」

「そりゃそうだよ。No.2なんだから」

 燈矢少年は唇をひん曲げるように笑った。口の端を汚している黒蜜を拭う。

 

 この子にとって最善の選択肢は何だろう。

 ヒーローを30年やっていても明確な答えが分からないのは、父親というものが自分には分からないせいかもしれない。

 

 

 

 

◾️ ◾️ ◾️

 

 

 

 オールマイトは情報を小出しにする癖があるらしい。

 癖というよりテクニックだろうか。オールマイトは「お父さんに連絡した」とは言ったが、それに対して父が具体的に、どんなリアクションを返したのかは教えてくれない。

 

 夜の一般病棟で燈矢は街並みを眺めていた。

 静岡のど真ん中にある病院なので遠目に自宅が見える。和風の豪邸はビル群と違って灯りが少ないが、それでも敷地面積が広いので十分に目立った。

「……忙しいにしても連絡の一つもねぇっておかしいだろ」

 オールマイトにはああ言ったが、実父の態度が一般的に考えて非常識であることは分かっている。

 

 死んだと思っていた息子が生きていたなんて驚天動地の大事件だ。普通はそうである筈だ。

 仕事を放り出してすぐに駆け付けて当たり前で、いくら多忙なヒーローでも慌てて電話の一本くらいはするだろう。

 現にNo.2より忙しいNo.1はこの1週間で何度も来た。偶然拾っただけの子供のために時間を作って会いに来たのだ。

 

「連絡してねぇってコトはねえよな?」

 自問して、すぐに首を横に振った。

 オールマイトが嘘をつく必要は無い。

 

 しかし、嘘はついていなくとも、きっと何かを隠している。何か自分にとって都合の悪いことを。

 だが事実を自分の立場では確認できない。

 顔を持ち上げると遠目に家が見える。

 

 暗い夜に赤錆色の瓦が沈んで見えた。

 それが妙に近く感じた。薄暗い病院の部屋からでも手を伸ばせば届くような気がした。

 

 

 

 ───あ、その気になれば俺って帰れるんだ。

 帰りたいな。

 帰ろう。

 

 

 

 一度こうと決めるとブレーキが存在しないのが燈矢の欠点であり長所でもある。

 行動に一切の躊躇いが無いのだ。大型の野生動物と殆ど一緒の生態をしていた。

 

 点滴を引き抜いて地べたに足を着ける。隣のベッドに寝転ぶ男(酔っぱらって転倒して骨を折ったらしい)からジャケットと靴と財布を拝借した。

 時刻は深夜で、看護師は少ない。せん妄防止のために廊下もロビーも灯りを落としている。

 16歳にしては細い体は警備員の眼を逃れるのにうってつけだった。廊下の隅を小走りに通り抜け、1階の窓を開けて病院を抜け出る。

 

 夜の冷えた空気が炎症で火照った体に丁度良かった。病院前でタクシーを拾う。

 患者着をジャケットに押し込んで家の住所をぶっきらぼうに伝えると、運転手は「はいよ」と何ともない顔で返事をした。

 それから財布を開くと、なんと、3000円しか入っていない。チキショウと呻く。クレジットカードはあるけれど暗証番号が分からない。

「3000円で行けるとこまで」と伝えると、やっぱり運転手は「はいよ」と眠たげな声で応えた。

 

 自宅から若干離れた住宅街にタクシーは止まった。

 スッカラカンになった財布をジャケットに詰めて、でも見覚えのある街並みであることに息を吐いた。

 家までそう遠くは無い。懐かしい景色に胸がジーンと熱くなる。

 

 サイズの違う靴をカポカポと鳴らしながら、恐ろしいくらいに静かな住宅街を歩く。夜でも看護師が巡回する環境に慣れたせいで、真夜中の街は耳鳴りがするくらいに静かだった。

 そのせいで遠くからでも子供を殴る音が聞こえた。

 

 近づくと、くぐもった子供の悲鳴が聞こえる。まだ声変わりもしていない子供の声はよく響く。

 インターフォンは押さなかった。植木鉢の下に置いてある鍵は3年経っても変わらずあった。

 大仰な門を通り抜ける。お母さんと、夏君と、冬美ちゃんは寝ているのだろう。3人の寝室がある方向は静かだ。

 でも子供の悲鳴は間違いなく聞こえている筈だった。声を殺して聞こえないふりをしているように思えた。嵐が通り過ぎるのを待っている草食動物みたいな静けさだった。

 

 お父さんと訓練していた道場だけがけたたましい。

 蟀谷から嫌な汗が零れた。死にかけの犬みたいに短い呼吸が喉を引っ掻いた。

 砂利に這いつくばって訓練所まで行く。木製の扉が鳴らないよう爪の先まで神経質になりながら、内側を覗き見た。

 

 そこは小さな赤い地獄だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大きすぎる革靴を引きずって歩く。 

 総合病院の看板は遠くで光っている。見下げるより見上げる方が同じ距離でも遠くに見えた。

 轟家と、病院の看板にも背を向けて歩く。

 

 頭の端っこに残った理性の部分が、ナーバスになってんな、と自分を小馬鹿にした。

 その通りだった。

 生存意欲がミジンコみたいに引き潰されていた。

 

 そうなると人間というものは本性が露わになる。 

 思考は妙に澄んでいた。

 己は冷静に、客観的に、轟燈矢の遺影に手を合わせながら、自分は死んだという事実を受け入れていた。

 

 オールマイトを超えるヒーローになりたいという望みはもう微塵も残っていない。

 それは結局、父親に見て欲しいという燈矢の願望で、燈矢はもう死んでいた。

 

 

 残ったのは黒々とした丸い塊だった。

 おとうさん、おとうさん。おとうさん大好き。なんて。もう16歳になった自分が路傍でクシクシと眼を擦っている。

 承認欲求だな、と理性の部分が嫌らしい声で笑った。

 16歳から20歳の間に人格が決定されるという説があるが、それは自分にとっては真実だった。

 おとうさん、おとうさん、と、本当に、今この瞬間が、燈矢の16歳のハジマリだった。

 

 そう、本当に………アァ、おとうさん。おとうさん。

 頭のどこかが壊れたレコォドみたいにつっかかっていて、もう、燈矢の残骸は、おとうさんのことしか考えられなくなっていた。

 

 澄んだ頭が、焼けた森の灰に沈んだ根源の欲求を掴み上げて、形が変わるくらいに握りしめている。

 地獄の底でもおとうさんが愛してくれたら───アァ、笑っていただろうに。

 大きな掌で撫でてくれれば。否、殴ってくれても良い。どれだけ怒鳴られても、罵られようと、自分はそこにお父さんの愛を見出すだろう。

 あの小男がしようとしたことをされても、きっと、おとうさんを愛するだろう。

 

 自分が産まれることを世界で一番望んでいたのは、紛れもなく父だった。おとうさんは自分が産まれた理由をキチンと用意してくれた。燈矢は、確かに、おとうさんに愛されていた。

 だから愛していた。愛している。今も、何も変わらず。何もかも変わった今でも。

 

 轟燈矢の愛は承認欲求の色をしている。

 

 それは、産まれたばかりの燈矢に与えられたおとうさんの愛は、見返りを求めていたからだ。

 

 

 しかし、愛が────愛の見返りを、用意できなかった。産まれた時に不具合があった。自分は柄の折れたマッチ棒だった。ちょっと弁明のしようもない不良品だった。

 でも黒い塊が、金属の眼鏡フレームが、まだ冷えず、まだ、こんなに熱が籠る。

 

 どうせ叶わないのならば。敵わないのならば────その焦燥が、笑っちまうくらいの諦観が、肌に張り付いた短慮が、16歳の今、人生を決めてしまおうとしていた。

 今この瞬間に自分が産まれたのならば。

 産まれた理由を、おとうさんへの愛が、再び、用意したのならば。

 

 

 

「探したよ」

 頭上から声がしても驚かなかった。

 そろそろ看護師が点滴を換える時間だったので、来るだろうと予想もしていた。

 

 急いで来たのだろう、部屋着姿のオールマイトが隣に並ぶ。彼は微塵も笑っていなかった。メディアには映った事が無いだろう、平らで冷えた顔をしている。

 良かった。

 もしほんの僅かにでも笑っていたら、自分が死んだことを笑われたような気分になっていたと思う。 

「寒いだろう。帰ろう」

「どこに?」

 横を歩くオールマイトを無視して歩く。ちらちらと雪が降っていた。絶望的に寒かった。

「私の家に」

 

 

 青白い子供の顔が振り返る。地獄の穴の淵に立つ未熟児の顔だった。

 オールマイトは屈んでその顔に目を合わせ、すくいあげるように手を取った。

「退院したら、私と一緒に暮らそう」

 

 

 

 

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