「────うーん、これは……個性因子に残った意識が増強しとるな。そのせいで自我が浮上したのじゃろう」
「治せるかい?」
「いや、下手に弄ると“ワープゲート”が使えなくなる恐れもある。もう奪ってしまったらどうじゃ」
「“ワープゲート”は白雲朧の体質あってのものだ。僕には使えないよ。複製した“個性”の方は順調かい?」
「そうさの、ジョンちゃんは順調に育っておる。泥ワープの方が使い勝手は良かろうが……それにしてもバグの原因が分からん。何時頃からおかしくなった?」
「轟燈矢を誘拐した時からかな。そういえばあの時、相澤消太と会敵して────」
相澤消太。
友達。マイク。山田ひざし。
雄英高校。平穏。夢。ヒーロー。
敵。アスファルト。崩壊。激痛。悲鳴。
落下。ラウドクラウド。耳鳴り。呼吸困難。出血
ストレッチャー。AED。救急車。サイレン。ご愁傷様です。
鈍色の景色が脈絡なく次々と翻り、瞼の裏に明滅する。
知っているような、記憶に無い様な、遠い昔に畦道へ落した忘れ物のような、そんな生温い感覚がある。
あんまり深く考えない方が良い。
そうと分かっていて、気にならずにはいられなかった。
忘れてはいけないことが混じっているような気がしたのだ。
これだけは、これだけは忘れてはいけないような、何か、酷く大事な────
「………」
「おい黒霧。どうした」
「………」
「マジでどうしたんだよ。ストライキか」「違うだろ。きっと熱中症だ」
「………」
「どうしました黒霧さん。スポドリ持ってきますか?」
「…………ンン、」
こちらを心配する丸い声に、瞼の裏に閃く景色が遠ざかる。
マバタキすると、今や生活に馴染んだ顔が3つ並んでいた。
それが揃って心配そうな表情をしているものだから不思議な気分になる。
歴としたヴィランが他人の心配なんてするものではない。
「………大丈夫ですよ。少し寝ていただけです」
「あ、起きた。おはようです」
「お前帰って来るなりグースか寝やがって」「一体何の仕事してたんだよ?」
「紫髪の派手メ美女に襲われてマした」
「あ?」
「おっぱいがくっつく距離までひっつかれて肋骨と腕をへし折られたんですよ。得難い経験でしタ」
「心配した俺達の時間を返せ」
スピナーが立ち上がって舌打ちする。
彼は此処の雑用係として、度々面倒事を押し付けられていた。そのせいで今や立派なツッコミ属性を獲得している。
その喋り方がおかしくって、「いえ、違うんデスよ」と、明らかに何も間違っていない言い訳の冒頭を吐いた。
「仕事を放り投げて逃亡したレザーフェイスを追って行ったら美女がイて、「あ、美人」と思っタ瞬間に頭ぶち抜かれたンです。物理的に。骨も折らレるしボコボコにされるしレザーフェイスには逃げられるしで最悪だったナ、良かったコトと言えばおっぱいぐらいだったな、年上のつよつよ美女っていいナって思っただけで、」
「世界有数の凶悪ヴィランの直属部下がコレですか。もうお先真っ暗ですね」
「次の就職先探すか」「タイミーって俺でも登録出来るかなぁ」
「つか死柄木は?あいつまた勝手にどっか行きやがって」
スピナーはどっかと言ったが、少なくともこのアジトの何処かには居るだろう。
此処はAFOのアジトであり、今は自分達の主な拠点でもある孤児院である。
表向きには“個性”のために親から虐待された子供達の保護施設であり、トゥワイスとトガ、スピナーはそう信じていた。
その実態は脳無の素体の保管所だ。
地下にはドクターの研究室がある。
だが誘拐された子供達はそんな事を知りもせず毎日元気にはしゃいでいる。
さっきまで子供達の遊び相手をしていたスピナーは散々に髪をぐちゃぐちゃにされて不機嫌だ。男子中学生らしく、彼は身だしなみに拘りがあるのだ。
「またドクターのトコですかね。レザーフェイスさんが居なくなってから入り浸ってるようでスから」
「ヤベェ実験でもされてんじゃねぇだろうな!?」「次の実験体は俺らだ、さっさと逃げちまおう!」
「そろそろお夕飯ですし迎えに行きましょウか」
「今日の晩御飯は何ですか?」
「ゴロゴロ野菜のカレーでス。チーズも乗せましョ」
カレー♪カレー♪、と手を繋いで即興ダンスを披露するトガとトゥワイスにスピナーは呆れ顔であるが、彼も微妙に口角が上がっている。
彼は家族から愛情を注がれて育った、この孤児院では少数派の普通な少年だ。
彼の存在は死柄木が『普通』の感覚を取り戻す鍵となった。ゲーム趣味が共通する彼が来てから、死柄木は言葉数が増えた。
ドクターの研究室がある地下へ向かう。
冷えた空気を浴びながら、彼らのことを考える。スピナーの次に死柄木がよく喋るのはトゥワイスである。
彼は共感性が高過ぎるせいで周囲に影響され易く、態度に一貫性が無い。
子供達がはしゃいでいたら一緒にはしゃぐし、スピナーが疲れた顔でいると隣で疲れた顔をするし、死柄木が不機嫌だとちょっと言動が荒くなる。
良くも悪くも子供なのだ。
死柄木はトゥワイスを通じて、他人に配慮し、己を客観視することを覚えた。
逆に何があろうと周囲に流されないのがトガである。
外見が変貌する“個性”故か、彼女の自我は恐ろしく強く、他人の言動をイチイチ気にしない。
そして他人の顔色も一切気にしない。
AFOや自分ばかりと接してきた死柄木にとって、不機嫌になろうが苛立って言葉を荒げようが、お前の機嫌なんぞ知った事かとふんぞり返る年下の女の子なんて宇宙人に見えたことだろう。
トガと接するようになってから、死柄木は強さを知った。
ついでに男が可愛い女の子に勝つ術など存在しないことも学んだ。
「………私は死柄木を護れているノでしょウか」
以前よりよっぽど死柄木は良い顔をするようになった。生活に喜びを得るようになった。物事について深く考えるようになった。
確かに成長はしている。
しかし結局はAFOの掌の上だ。何時かは握り潰される。
死柄木は研究室の隅に居た。レザーフェイスの研究成果の保管場所だ。
胎児達に刺激を与えないため、部屋は足元も危うい程に暗い。人工子宮は卵パックに詰められた生卵のように整然と並んでいる。
だが没個性的なガラス球の群れに一つだけ仲間外れがあった。
他とは引き離され、厳重に管理するためだろう、投与した薬剤の記録が側面にべたりと貼られている。
死柄木はその仲間外れの真ん前に座り込んでいた。
肌の罅割れた彼は、そうやって黙っていると廃墟に置き去りにされたぬいぐるみに見える。
足音を立てながら近づく。赤い目がじろっとこちらを睨んだ。
「………何」
「そろそろ帰りまショう。もう夜ですよ」
そう声をかけると、死柄木はそっぽを向いた。立ち上がる気配はない。
その隣に腰を落ろした。タイルの床は冷たい。
「今日はずっとココに居たのでスか」
「いや、さっきまで仕事してた」
「そうでスか」
「ガキを護ろうと抵抗した親をぶん殴る仕事」
「………ええ」
「先生には殺せって言われたけど、殺さなかった。そしたら一緒に来てた脳無が殺した」
「…………」
「ガキは俺を恨んでるだろうな」
拙い声で喋る。部屋が広いので僅かに反響して聞こえる。
「なあ」
「何でしょう」
「こいつらって先生がレザーフェイスに作らせたのか」
「ええ」
「『オールマイト』の量産型だって、お前は知ってたんだな」
「はい」
勿論、知っている。
何なら、自分はAFOがこの胎児達をどう利用するつもりなのか知っている。
「どうして黙ってた」
「知らせる必要は無いと言われましタので」
「先生が?」
「ハイ」
死柄木は酷く平らな顔をして、灰色の息を吐いた。
「お前は脳無だから、先生の命令には逆らえないんだよな」
「エエ。私はある程度自律的な行動を許され、知能も高めに設定されテはいますが、基本的には他の脳無と同じ。命令によって動く死体に過ぎナイ」
「お前が俺に優しくするのも先生の指示なの?」
「私の役割は貴方を導くコトです」
「………あいつらを連れて来たのも、先生に言われたから?」
「貴方の更なる成長には私以外の介入が必要だと判断シマした」
仲間外れの人工子宮の方を向いていた死柄木が、ふとこちらに視線を向ける。
座っていると目線は大体同じだ。瞳の表面が僅かに潤んでいた。
「───もう俺達に近寄らないでくれ」
「………」
「先生は俺を救けてくれたよ。でも、俺以外の奴らは救けてくれないって、やっと分かった」
「………」
「イヤなんだよ。利用されるためだけの赤ん坊を作るのも。俺達とおんなじような境遇のガキを攫って、バラして、脳無にするのも」
「………それは、」
「分かってる。ヒーロー共に勝つためには必要なんだろ?分かってるさ。でも、イヤなんだ。それじゃあ、お父さんと一緒だ。俺を救けてくれなかったヒーローと、一緒だ………」
死柄木は口を掌で覆って蹲った。
感情を口の中に押し込めて我慢する子供の泣き方だった。
「そういうのがイヤで、そんな事ばっかりの世界をぶっ壊したかったのに、なんで俺はこんな事をしてるんだ」
「貴方は何も悪く、」
「悪いとかどうとかじゃねぇよ。イヤなんだよ。先生も、先生に言いなりのテメェも」
感謝はしてる。
死柄木は豆粒みたいな声を絞り出した。
「先生が居ないと俺はとっくに死んでた。俺を救ったのは間違いなく先生だ。お前も、」
「死柄木、私は」
「でも、お前らの言いなりにはなりたくない。トゥワイスも、スピナーも、トガも」
「………」
「アイツらは、自由に生きたいから俺の元に来た。誰にも俺達の邪魔はさせたくない。先生にも、お前にも」
こちらを睨む死柄木の顔は若い。幼いと言っても良い。
そりゃあそうだ。彼はまだ、中学生だ。
本当なら親元で暮らして、毎日友達と遊んで、学校に行って、近所のゲーセンに通っていてもおかしくない。
夏休みより先の未来なんて、そう、自分は考えなかった。
あの頃は夢ばかり見ていた。
利用される子供達なんて、社会の被害者なんて、考える隙もない程に毎日が楽しかった。
「───この社会では誰もが、大なり小なり我慢をして生きています。完全な自由なんてものは、この世の何処にもありません」
「でも俺達は、」
「『もっと自由になりたい』ですか。それとも『自由に生きられない社会をぶっ壊したい』ですか」
「………壊したい」
「なら、壊しなさい。しかし壊した先は?貴方が利用したくないと言った子供達は、貴方が壊した社会でどうやって生きていくのですか」
「んなの、」
「社会を壊してしまったら、ヒーローは居ない。政府は機能していない。食べ物は?水は?インフラは?病院は?貴方のトモダチはどうやって生きていくんですか。社会を壊して、壊しっぱなしで死ぬつもりですか。それは量産型『オールマイト』とどう違うんですか」
「………」
「貴方が喋る自由というのはね、子供が好きな時に癇癪を起こせる自由というのと大差ありませんよ」
死柄木の肩を掴む。まだ成長期の最中にある子供の身体は薄い。
「貴方は幼過ぎる。それに弱い。考えも浅い。経験も無い。何かを決断するのに、貴方はあまりに早過ぎる。まずは大人になりなさい。何もかも、それからでも遅くはない」
「でも、俺はもう嫌なんだ」
「私が何とかします」
小さい顔は眼を大きく見開いた。
そうだろう。自分でも困惑している。
脳無がAFOに逆らうなんてことは有り得ない。
「私に近寄って欲しくないのなら、もう近寄りません。しかしそれでも私のすることは変わらない」
「何を、」
「護ります」
「私が、必ず、貴方達を護ります」
では、私は、何だ。
■ ■ ■
他人の個性に干渉する“個性”は珍しい。
燈矢を3年間保護していた孤児院に、『個性の強制発動』という珍しい“個性”を持つ10代の少女が居た。
ナイトアイは、1年以内に彼女が突如として“個性”を失うという『予知』をした。
近々1年が経つ。
対応を練るために開かれた会議は、気が滅入るものだった。
「今回の作戦では、相澤君が鍵だ」
「………」
「黒霧の自我に揺らぎがあることはレディ・ナガンの報告で明らかだ。それが、」
「白雲かもってことですよね。分かってます。分かってますが───しかし、本当に意識が残っているのかは怪しいでしょう」
「OFAの例からも“個性”に故人の意識が残る可能性は否定できない。“ワープゲート”は白雲君の個性と体質を利用して作成されたものだし、脳無は生前の人格を多少有している」
「さらに黒霧には知性があり、ある程度の自立行動が認められる。生前の人格が残されていてもおかしくはない」
「ギャンブルかよ」
「そうだ。我々の命運を賭けたギャンブルだよ。しかし燈矢君のおかげで勝算は高い」
“個性の強制発動”を持つ少女は、郊外の一軒家に住む若い夫婦の里子になっていた。
この夫婦には一人息子が居る。随分と難産で、幸い母子共に無事であったものの、2人目は諦めた方が良いと医者から告げられていた。
一人っ子は寂しいだろうと少女を里子に迎えたのが数ヵ月前。
それから程なくして、息子が街中で個性事故を起こし、母親の足が吹き飛んだ。
父親はAFOに息子の個性を献上した。
「それで無個性になった息子が荼毘に接触した。妹も自分と同じように無個性にされるかもってさ」
「細かい日時まで分かったのはその息子のおかげか」
「オウ。社会の被害者として動画に出演したのが嬉しかったんだと。父親のスマホからAFOとの連絡記録も確認済だ」
「こうも連続して子供の誘拐事件を成功させているのは黒霧の存在が大きい。今回も、ほぼ間違いなく黒霧による犯行だろう。他のヴィランはナガンが対応する。イレイザーヘッドは黒霧に専念してくれ」
会議では他にもコマゴマとしたことを決定したが、大本は変わらなかった。
つまり、所詮は死体でしかない脳無に前世の良心があることを期待して、未来を託す。
とても控えめに表現すれば狂っている作戦だと思う。
だが時間が無いのだ。
自分がオールマイトを殺すまであと数ヵ月しか無い。
決行当日、夜。
相澤は何も知らない父親と、里子の少女が居るリビングの天井裏で待機していた。母親と息子は違う部屋で眠っている。
AFOが何も感づいていないのなら、戦力を招集する必要もない。恐らく実行犯は黒霧一人だ。
「………ヤバいヴィラン相手にヒーロー達が大集結、俺達もそのメンバーってね」
ぼやきながら鼻を鳴らす。本当に黒霧は覚えているのだろうか。
レディ・ナガンの報告書は読んだがどうにも信じられない。
黒霧が本当に白雲の意識を保っているのなら、児童誘拐なんてする訳が無い。
時刻が近くなり、目下で動きがあった。時計を見上げた父親が「大丈夫だからね。痛くはないってあの子も言っていたから」と少女を宥める。
あの子とは、息子のことだろう。AFOからの迎えがすぐに来る。
捕縛布を握り締めた。
「気付かないと思ったか?」
背後から声がした。振り向く前に巨大な拳にぶん殴られる。
「え?」
「ッ、きゃ、」
天井から1階まで叩きつけられる。咄嗟に受け身を取り、父娘の前に立ち塞がった。
ダメージは無い。フローリングにめり込んだ義足が軽い電子音を鳴らして怒っているくらいだ。
父親は降り注ぐ木材から少女を庇い、蹲っている。
ヴィランは彼らに眼もくれずニタニタ笑っていた。
「……マスキュラー」
「おっと。俺ァ入りたての新人だってのにもう知ってやがンのか」
「連続快楽殺人犯だろうが。知らねぇヤツの方がどうかしてる」
「オイオイ、俺ァちょっと血を見るのが好きなだけだぜ………ついでに力いっぱい遊べりゃ最高だ!」
マスキュラーは腕に大量の筋線維を纏わせ、勢いのままに殴りかかって来た。
しかし巨大な腕は“抹消”で急激に萎む。
「あ゛ン?」
同時に踏み込む。伸ばされたままの腕を捻り上げて、巴投げの要領でぶん投げた。
大男が弧を描きながら廊下まで跳ぶ。
「ナガンさん」
『了解』
自分が瞬きすると同時に、腕は再び巨大化した。
しかしこちらに殴りかかるより先に付け根から弾け飛ぶ。
「ッ、てぇなあ!」
『おう。根性あるな』
マスキュラーは、しかし、痛みを感じていない速度で階段から大きく退いた。
ナガンは2階から射撃し、銃弾は弧を描いて着弾している。
斜めにフローリングが抉れていたことでマスキュラーも気付いたのだろう。
「撃てますか?」
『あの位置じゃあ捕捉出来ねぇから無理だな。まあ母親と息子は私が護る。そっちは頼んだ』
「はい」
怯える父と、その腕の中に庇われた少女を見る。
その後ろに黒霧が立っていた。生前は決して好まなかっただろう、どこかAFOに似た固い服装をしている。
彼は長身を屈めて、少女の小さな手を紳士的に掬い上げた。
「大事になってしまい申し訳ございまセン。これは我々にとっても不本意な展開でスので、どうか気分を害さレないよう」
「あ、」
「すぐ、すぐに帰って来るんだろう!?これでもう俺達の家族には関わらないでくれるんだろ!?」
「ええ、勿論でスよ。“個性”を抜くだけなので、お嬢さんは痛くも痒くもありまセン」
止める間もなく少女は霧に飲まれて姿を消した。
残った黒霧が漸く視線をこちらに向ける。
「………テメェ、」
「そう心配せずとも、彼女は戻ります。そちらノ父君のおかげで」
地面に這い蹲る父親は震えていた。
ここ数ヵ月で一生分の苦悩を体験したのだろう。顔は青く、深い皺がある。
「AFOに多額の支援をして下さった方でス。さらには傷一つなく返すことを条件に、息子さんと娘サンの“個性”を献上して下さッタ。なんと家族思いな方でショウね?」
「ッ、いや、違う、俺は、ヴィランの味方なんて、ただもう、こうするしか無くて、妻が、妻の足が……」
「脅して従わせただけだろ」
「しかし結果的に、彼の子供達は二度と個性事故を起こさナイ。母親のもう片方の足が吹き飛ばされるコトも無い。これもある種の父性愛では?」
懐に一足で入り込む。
レディ・ナガンから、黒霧は近接戦闘が不得手だと聞いた。
黄色い眼球に向けて拳を振り抜く。
「おっと、」
拳が霧を掃う。ゆらいだ体が消えて、見れば、黒霧は窓の外に居た。
「逃げるのか」
「戦う理由がありまセンね」
それはそうだろう。黒霧の目的は少女の誘拐で、それは既に果たされた。
黒霧を追って外に出る。同時に頭上から砕けた壁材が降り注ぎ、道路に飛び散っていた。
レディ・ナガンとマスキュラーの高笑いが響いている。
「………カノジョ、楽しんでません?」
「言うな」
眉を顰める。否定が出来ない。
レザーフェイスと接敵してからレディ・ナガンは随分と沈んでいた。
公安絡みか、それともレザーフェイスから何か言われたのか。
いずれにせよ易々と他人に相談出来ることではない。
そして彼女は直情型かつ脳筋というシンプルな構造をした女だった。ストレスを解消する手段が嫌な奴をぶっ殺すか、ヴィランをぶっ飛ばすかの2択しかないのだ。
何にも考えずぶっ飛ばせるマスキュラーの相手はさぞ楽しいだろう。
しかしマスキュラーは何故黒霧と行動を共にしているのか。
少女の誘拐だけなら黒霧で十分だ。戦闘要員は必要ない。ヒーローが待ち構えていたとしても、黒霧ならば即座に退避出来る。
「彼は監視役でスよ」
こちらの考えを読んだように黒霧は乾いた声を出した。
「監視役?何のために」
「私ノ監視です。いくらか、ええ、“不具合”があルようで」
肩を竦める。酷く人間染みた皮肉っぽい仕草だった。
「脳無に“不具合”が出ることなんてあンのか」
「ありますよ。所詮は死体でスからね。免疫が働いていない肉の塊なんて細菌より弱い」
「常温放置された生肉と比べたら頑丈に見えるがな」
「抗生剤をハチャメチャに投与してまスから。しかし私の“不具合”はそうじゃない」
「私はどうやら、白雲朧に近づいているようです」
「………信じられない」
「信じて下さイ」
男女の高笑いが響く。それに混じって少年の声が聞こえた。
悲痛な声で妹の名前を呼んでいる。
「私には白雲朧の記憶はナイ。実感もありまセン。しかし確実に、脳無の思考、行動かラ私は逸脱傾向にある」
「それはお前の主観的意見に過ぎない」
「AFOとドクターも同意見デス。だからマスキュラーを監視に付けタ。私が逃亡すると思ってのことデショウ。しかし私は逃げない」
「何故」
「私はまだ死柄木弔を護り切っていない」
銃声が軽やかに鳴る。
住宅地へ鳴り響く銃声を追うように、巨大な腕を持つ大男と、紫檀の髪の美女が、道路へ跳び下りてまだ遊んでいた。
興奮の極致にある監視役がこちらを気にも留めていない事を確認し、黒霧は早口に喋る。
「あの子はトモダチが出来た。そして成長した。他人と喋ることも出来る。配慮も、強さも手に入れた。普通の子供に戻ることもキット出来る」
「……だが、AFOが逃がすか?アイツはOFA7代目の孫なんだろう。オールマイトへの嫌がらせ目的にしろ、部下にするにしろ、そう易々と」
「手段はありマス。そして私は、AFOの計画の凡そを知ってイル」
黒霧は近付き、すらりとした白手袋を差し出した。
背筋は綺麗に張っており、革靴の踵を揃えてある。
白雲はこんなに紳士的な立ち振る舞いはしない。
それに計画を立てたり、敵の裏をかいたりするのが得意なヤツじゃなかった。
「イレイザーヘッド」
僅かな苛立ちを混じった声でヒーローネームを呼ぶこいつは、間違いなく白雲ではない。
味方ではない。
人間でもない。
しかしきっと、敵でもない。
遠くで道路を破壊する楽し気な男女の笑い声を聞きながら、手を握り返した。
黒霧の手は熱くも冷たくもなく、しっかりとした質量と密度があった。