冬の寒さが残る季節だが、東京都“個性”発電所は春めいて陽気である。
相澤は発電所の心臓部たる発電棟の内部をガラス越しに眺めていた。
正確にはガラスではなく熱可塑性シリカなんちゃらとかいう世界最先端の素材らしい。
予約すれば解説員同伴での見学も可能らしいが、テロ対策のため一般人は発電棟付近立ち入り禁止だという。
さもありなん。
東京都個性発電所は世界でも数少ない「炎熱系個性」に特化した発電所であり、東京都の消費電力の4割を担っている。
炎熱系個性による発電システムは個性研究のメインストリームである。
あらゆる資源を食い潰しかねない人類にとって、インフラや食料を個性で賄うシステムは急務であった。
だが“個性”は多様性が過ぎる上に、個々人の性格に依る部分が大きい。安定したインフラの供給には適さない場合が多い。
その点、炎熱系個性は従来の火力発電所を殆どそのままに活用可能であり、かつ母体数が多く、リターンが大きい。非常に研究し甲斐のある分野なのである。
この東京都個性発電所はその研究結果を余すことなく活用した世界最高峰の施設である。
超高火力に対応する発電システム、炎熱系個性指導員、超電導電力貯蔵装置まで備えた巨大施設なのだ。
つまり今の燈矢にとって理想的な修行場所であった。
「やっぱ個性って性格出るよな……」
アイスコーヒー片手に、ロケットにくっついているような小さい窓を覗く。熱で空気が蜃気楼のように揺らめいている。
両手から炎を噴出している“発電中”の炎熱系個性達が10人程度。
内部の音声は安全のため常時マイク越しに外へと聞こえるようになっており、欧米染みたテンションの高さは相澤に同級生を思い出させた。
「~~~~~HEYHEYHE~~~Y!!新人さん仕上がってる!!蒼炎仕上がってるよ!!」
「新人は生きた火力発電所かい!!」
「火力の調整「ヤー!!」と「パワー!!」だけでやってんのか!!」
「今日からテメェの名前は「真夏の太陽ジャンボリー」だ!!」
「Oh~レゲエ砂浜ビックウェーブ!!!」
「我らが東京都個性発電所!!」
「「「ファイヤー!!!!!」」」
「ウルセー!!」
「クソ暑苦しい」
氷の浮いたアイスコーヒーを啜る。
発電棟内部は殆どボディビル大会である。
揃いも揃って体格が良く、全員が謎にポーズを決めながら炎を噴き出している。
トドメにテンションが暑苦しい。エンデヴァーよろしく炎熱系個性の奴らは暑苦しい性格と体格がセットで不随しているらしい。
そんな筋肉ムキムキマッチョメン&ウィメンのど真ん中に立つ燈矢は随分と細く見える。
しかし両腕から放出する蒼炎の火力は群を抜いていた。天井のタービンは唸り声を上げながら回転している。
「周りに合わせな新人さん!!炎がお前を呼んでるのはよ~~~く分かるけれども!!」
「そう炎がお前を呼んでいる!!俺達も炎を呼んでいる!!」
「じゃあ抑える必要なくね!?」
「WooooooOOO!!そう!!無い!!」
「我々は常に最高火力の最大テンションで東京のインフラを支えている!!」
「我ら東京都個性発電所!!」
「「「ファイヤー!!!!!」」」
「お前ら教える気あンの!?」
大声で噛みつく燈矢であるが、周囲のマッチョメン&ウィメンは気にしない。
細かなことを気にするヤツが居ないのだ。
わいのわいのと賑やかな連中は全員が全身を覆う耐熱用サポートアイテムを装着している。
同じ格好をした燈矢の火力を個性的な語彙で称賛しながら、やれ右手と左手で火力を合わせろだの、最大火力の7割程度で炎を出し続ければ耐熱体質が向上するだの、徐々に火力を上げればある程度の火傷を防げるだの、軽い口調で指導をしている。
頑固でプライドの高い燈矢の性格を加味しての事だろう。個性指導に慣れていることが分かる。
パンフレットに眼を落とすと『当施設では熟練の職員が個性指導を行っています』という一文があった。
炎熱系個性には火傷が付き物で、個性が強力であるほどに個性事故を起こしやすい。
一番大きく声を上げているマッチョな男は顔の皮が植皮のためにツギハギで、燈矢を注意深く観察している女性は片手が火傷で潰れていた。
体質と強力な個性が噛み合わず、全身に火傷の痕を残す子供を見る目は暖かい。
「やったれ新人~~!!」
「黙れ!!!」
外に出た燈矢は顔を真っ赤にして「シャワー!!」と叫んだ。
「くっそ汗びしゃびしゃで気っ持ち悪っっ!!クソ暑いし蒸れる!!」
「水いるか?」
「いろはす!!」
ペットボトルを投げると分厚いスーツを脱ぎながら一気に飲み干す。
大量に汗をかいているし肌は火照っているが、火傷はない。
最新のサポートアイテムのおかげだろう。東京都の電力を支えているだけあって設備には多額の税金が投入されている。
そのまま職員用のシャワー室へ大股で去っていく燈矢を見送った。
息を吐く。蒼炎という強力な個性の訓練にどうなる事かと思ったが、ここまでおあつらえ向きな施設があるとは。
「オールマイトのコネ様様ってか」
鼻を鳴らす。此処は東京のインフラを支える重要施設だ。そこらの、ちょっと個性に困っている一般家庭の子供では使用許可なんてまず下りない。
燈矢は運が良かった。運が悪い子供はそこらに幾らでも転がっている。
燈矢を待ちながらボーっと発電棟内を見ていると、「どうも」と年嵩の男が近づいて来た。
炎熱系の個性なのだろう。鼻も耳も火傷で潰れている。頭に髪は一本もない。深い皺もあって梅干しのような顔をしている。
首から下げた名札を見れば「東京都個性発電所 所長」とあり、相澤はすぐさま腰を上げた。
「、これは、御挨拶が遅れまして、」
「そのままで大丈夫ですよ。オールマイト……八木から話は聞いています。イレイザーヘッドですね?」
「はい。燈矢の付き添いで来ました」
「そうですか。ご苦労様です。ヒーローなんてお忙しいでしょうに」
「仕事ですので」
当たり障りのない答えを返すと「御謙遜を」と笑われる。
これだけの巨大施設の所長だというのに新人ヒーローの域を出ない相澤にも腰が低い。
しかし弱弱しい感じは一切なく、むしろオールマイト以前の時代を生き抜いた余裕が柔らかな声に滲んでいる。
「八木から貴方のことを聞きましたよ。有能な同僚だと……ああ、八木は雄英時代の後輩なんです。突然子供の個性指導をお願いしたいと連絡があった時は驚きましたよ」
「それは、申し訳ありません」
深く頭を下げる。子供の個性指導なんて発電所の業務範囲外にも程がある。
「いえ、こちらも八木には返しきれない恩があるんで、それはいいんです。学生時代からメチャクチャなヤツだったし……」
懐かしむような声でオールマイトの名前を呼ぶ。
メチャクチャだったという言は本当だろう。むしろ平凡なオールマイトというのは想像がつかない。
所長は発電棟を横目に見て苦笑した。燈矢がいなくなって幾分か火力が落ちていた。
自分達でも気づいているのだろう、内部で発電する職員達は笑いながら「新人さんにイイトコ見せろ!」「心を燃やせ!」と大声を上げている。
「あの子の火力は凄いですね。ウチも助かります。バイト代でも出したいくらいだ」
「そうですか。俺は炎熱系に詳しかないのでよく分かりませんが……」
「桁違いですよ。コントロールのコツを掴むのも早い。この分ならすぐに上達して火傷もしなくなるでしょう」
「それなら良かった」
相澤としては、燈矢が自分の炎で焼死する可能性が低くなるならそれで良い。
しかし所長は緩く微笑み、小さく首を振った。
「それでも、時間稼ぎにしかなりません。このままでは貴方の危惧している事態は必ず起こる」
「……どういう事でしょうか」
「炎は嘘を付かない。あの子の炎は火種を燻らせた色をしている。何時かは自身を薪にするでしょう」
不穏過ぎることを断言している割に口調は楽観的だった。どこか楽し気ですらある。
顔を顰める相澤の目の前で所長は指先にコイン大の火を灯した。
火は緋色の雫型をしていた。空気の流れで揺らめくことすらない。
「炎熱系個性は黎明期から存在が確認されている古い個性です。シンプルで分かり易く、扱い辛い。安全装置もカーナビもスマートシステムも無いマニュアル車みたいなものです。故に、ちょっとしたことで暴走する」
「燈矢は自滅しかねない程に不安定な子だと?」
「子供であるかどうかは関係がありません。これは炎熱系個性に産まれた全ての者が抱える熱情の問題です。小手先のテクニックで心は誤魔化せない。炎のコントロールとは、つまりはハートの問題なんです」
穏やかな口調だが言葉の内容は精神論めいている。
個性因子の存在が医学的に証明され、個性訓練は合理化、効率化に突き進む昨今では時代遅れの考え方ですらあった。
言ってしまえば単なる根性論だ。迷信に近い。
個性の発動にメンタルの関わりを感じた事の無い相澤は鼻で笑った。
「そりゃあアイツは精神的には未熟なヤツです。個性の制御ができなくって悲惨な目にも遭った。しかし進んで自分を焼くような事はしませんよ。そもそも、意味が無い」
「理性的に考えればね。貴方の『個性』では理解できないのも分かる。しかし……」
所長は掌を閉じた。炎は掌の中に消えた。
「我々炎熱系は、ロマンのために燃えているのです。つまりは情熱のために。そのためなら、己の人生程度、薪にしてやってなんにも構わないんですよ」
梅干しのような顔から出たとは思えない澄んだ声だった。
「………理解できない話だ」
「でしょうね。八木にもそう言われました。まぁアイツは別方向に狂っていますが」
「それは同意します」
深く頷く。
所長は、ではそろそろ、と頭を下げた。
「今日はお会い出来て嬉しかったです。有能で頼り甲斐のある若手を見つけたと八木から聞いていたので一度お会いしてみたかったんですよ」
「過大評価です。身に余る」
「いえ、ちょっとお話しただけでも分かりました。貴方は善い人だ」
じ、と見つめられると居心地が悪い。
オールマイトといい、この世代の雄英卒業生は遠慮会釈なく真正面から人の顔を見ることに躊躇が無いのだろうか。
内面を見透かされるようでどうにも落ち着かない。
「燈矢君は難しい火種を抱えている。八木はいいヤツですが、人の心の複雑なところは苦手分野だ。きっとあなたが頼りになる」
「俺が?」
「ええ。きっと」
火傷で引き攣れた口角を所長は緩やかに持ち上げた。
■ ■ ■
「あーすっきりした。飯行こうぜ、メシ。がっつり喰いてぇ気分」
「………おう」
「?どしたよ」
シャワーから戻ると相澤が心底疲れたような顔で廊下に座り込んでいた。
こちらの姿を認めるとノロノロと顔を持ち上げて、「此処の所長に会った……」と死にそうな声を出す。
散々に炎を出させられた燈矢よりよっぽど疲れた顔をしている。
「所長って、あのモブっぽい梅干し顔のオッサン?俺も挨拶したけど別に変なヤツじゃなかっただろ。ザ・モブって感じ」
「いや……そうか、」
何かを言いたそうに口をもごもごさせた後に噤む。
そりゃあ若手ヒーローのイレイザーヘッドからすれば、これだけの巨大施設の所長ともなればメチャクチャに目上の人だろう。この様子だと相当に気を遣ったらしい。
他人に気を遣う相澤なんて想像もできないが、こんな傍若無人野郎でも一応は社会人だ。相応の相手には相応の対応をせざるを得ない場面もあるのかもしれない。
「此処に就職した訳でもねぇんだから気にすんなよ。つか、さっさと飯行こうぜ」
「……おう」
「この近くにレビュー高いうどん屋あんだよ。そこが良い」
「分かった……割り勘だな」
「ガキに出させんなよ。モテねぇぜ」
皮肉っぽく笑う顔は数日前と比べると随分とすっきりとしている。
相澤から見るに、オールマイトと夜の散歩に出かけてからの燈矢は年相応に明るい顔をするようになった。
買い食いをしただけだと聞いたが、そうとは思えない。エンデヴァーについての話をしたのだろう。
あの夜から燈矢は異常なまでにエンデヴァーの情報に固執するのを止めた。少なくとも相澤の目に付く程に執着するのを止めた。
同時に勉強にも積極的になり、捻くれた言動は少なくなった。今日も初対面の者達から個性訓練を受けて晴れ晴れとした顔をしている。
あまりに大きな進歩だった。
それが、所長の言に引きずられるのではないが、相澤にはあまりに早すぎる成長のような気がしてならない。
人目につかない奥の席を陣取ってオールマイトに個性訓練終了のメールを送る。
燈矢はタッチパネルで天ぷらうどんとおにぎりのセットを勝手に注文していた。
「アンタは何にする?」
「日替わりセット」
「へぇへぇ」
ポチポチ注文すると燈矢は「この近くレビュー高ぇ店多いんだぜ」とスマホをこちらに見せた。飲食店のインスタ投稿が画面に並んでいる。
「発電所の職員は多いからな。それ目当てで店も多いんだろ」
「知ってんなら早く言えや。俺が言ってなかったら今日もコンビニ弁当買ってただろうが」
「でも安いだろ。それにお前、メシは食えりゃ良いみたいなヤツだと思ってた」
「あ~まぁなァ」
むっつりと唇を真一文字に引き結ぶ。
喋る言葉を口の中で並べているように見えたので、相澤は気にしていないフリをしながらタッチパネルを眺めていた。
暫く待っていると店員が「お待たせしました~」と間延びした声を出しながら2人分の注文を机に置く。
天ぷらを齧りながら言葉を並べ終えたらしき燈矢は、「違う事も考えなきゃなってさ……」とポソポソ喋り出した。
「違う事?」
「俺はいつかお父さんと殺し合いをする」
「……ふぅん」
「ヒーローの反応がソレで良いのかよ?」
ニヒルに笑う燈矢に肩を竦めたが、平静なのは表面だけだ。
内心では「嘘だろう」と頭を抱えている。
燈矢の言葉は間違いなく比喩でも冗談でもない。
この子供が殺し合いと言うのなら、それは派手な喧嘩なんて域のものではなく、文字通りの殺し合いになる。
しかし燈矢は発言の殺伐さにそぐわない穏やかな顔でうどんを啜っている。相澤は「それで?」と、可能な限り平坦な声で促した。
「でもさ、その後も考えなきゃなって」
「その後?」
「そう。マ、俺がお父さんに殺されたらそれまでだけどさ。でも生き残る可能性もあるし。そうしたら俺はその後、お父さんのいない世界で、お父さんを殺した人間として生きていくわけじゃん」
「……おう」
「そしたらさ、ご飯くらいは美味しく食べて生きていきたいなって」
おにぎりを齧る。むっと眉間に皺を寄せて、「梅じゃん」と食べさしを相澤の皿に乗せた。
「おい」
「こっち鮭だろ。交換しようぜ」
「しょうがねぇな……最近勉強も頑張り始めただろ。それも殺し合いの後のためか」
「うん。それはさ、マァ、考えたら……俺ってこれまでより、これから先の人生の方が長いんじゃん。なら仕事とか、趣味とか。そういうのも考えていく必要があるし。だったら少なくとも高卒資格は要るだろ」
「高校に行くつもりはあるのか」
「このご時世に中卒で割の良い仕事探すのはムリだろ。金はあるに越した事ねぇし」
実父との殺し合いを前提としているにしては健全なことを考える。
そう思っていたのが顔に出ていたのだろう。燈矢は「うるせぇな」と何も言っていないのに顔を顰めた。
「……俺はもうあの男の事ばっか考えんのは止めたいんだよ」
「そりゃあ……健全なことだな」
「うっせ。ま、無理なんだけどさ」
「無理なのか」
「そりゃお父さんと殺し合いして、お父さんに俺を見てくれねぇと人生なんにも始まんねぇってぐらいなんだし………でもまぁ、それって始まりなんだなって。そこで終わりじゃねぇって、もう分かったよ」
内容の割に口調はさっぱりしている。
何もかもを受け入れた男の声だった。大人になりかけている子供の声でもあった。
その声に相澤は、急すぎるな、と思った。
いくらオールマイトがこの子に良い影響を与えていると言っても、まだ1ヵ月と少ししか経っていない。
しかも虐待と3年間の昏睡によって健全な思春期の形成が阻害されている子だ。ちょっと扱いが面倒でクソ生意気なくらいが丁度良いのだ。
「燈矢、お前焦ってないよな?」
「そう見えるか?」
ぱちりと大きな眼が瞬く。捻くれた言動が鳴りを顰めると良家の子らしく上品に見える。
燈矢は鮭のおにぎりを齧りながら首を傾げた。
「お前にそう見えんならそうかも。さっさと強くなりてぇし」
「そうか。まぁ、あんまり焦んなよ」
「ン」
「………お前がどうしたってエンデヴァーと殺し合いしねぇと収まらねぇなら、俺はお前を止めないけどな」
「止めねぇのかよ。マジでヤベェヤツだな」
「そうしねぇとダメなんだろ。ならもうお前に何言っても無駄だろ」
梅のおにぎりを齧る。米の粒が柔らかくて美味い。
「でも、殺し合いは俺の目の届かない所でやった方が良い」
「そりゃ何で」
「俺が2人ともぶん殴って止めるから」
「デカく出たなぁ」
カラカラ笑う。その笑みは年相応なもので、相澤はにやりと笑った。
■ ■ ■
病院の廊下を歩く。
精神病棟はどこもかしこも白い。視覚情報を少なくして患者への精神負担を減らすためらしく、学校の指定制服を着た自分だけがクッキリと浮かんでいる。
母の病室に入ると、やはり室内のどこもかしこも白い。白い肌に白い髪の母はシーツの中に溶けて見えた。
「お母さん」
「………あら、」
顔は窓の向こうを向いたまま、瞳だけが横滑りしてこちらを見る。
その眼球の動きだけで今日はダメな日だと分かった。
母の精神状態は徐々に良くなっている。
しかしそれは憎悪と緩解を繰り返しながら全体的には緩やかに上昇しているという具合であって、日によっては会話すら儘ならない。
ある日の母は父と結婚する前の少女時代にあり、ある日は焦凍に熱湯をかけたその瞬間にある。
今日の母はどうだろうか。冬美はゆっくりとベッドに近付いて、「お母さん」と声をかけた。
「…………冬美」
「うん。お見舞いに来たよ。これ着替えと、保湿剤。それに本とお菓子も」
「そう、ありがとう」
袋を受け取った母は「燈矢は来ていないのね」と小さく首を傾げた。
自分の周りの空気だけがキンと張り詰めた。
「また今日も無茶な訓練をしているのかしら。怪我でもしてないでしょうね」
「……うん。大丈夫だよ」
「なら良いのだけれど。ア、そうそう。そろそろ夏雄の授業参観よね。あのワンピースまだ着れるかしら。あの、燈矢の入学式の時に使った服……」
穏やかに微笑む母のベッドサイドで拳を握り締めた。
以前、母が燈矢兄はまだ生きているという妄想に取りつかれた日に、一度だけ、泣きながら燈矢兄はもう死んだと喚き散らしたことがある。
あの頃の自分は今よりもさらに子供で、家事を一手に任されるようになって、心底疲れていた。
疲れ過ぎていたせいで箍が外れた。
足を踏み鳴らし、自分の髪を引き抜いて、お母さんを怒鳴りつけた。
あんなに大声を上げたのは人生で初めてだった。
それでも白い顔は表情の一つも変えず、それが悲しくて、悔しくって、お母さんを怒鳴る自分の声はお父さんみたいに大きくなった。
それがまた悲しかった。
自分がお父さんになった気がした。
看護師に引きずられて病室を出ていく自分を見送りながら、母はやっぱり他人事みたいに微笑んでいた。
その日の夜に母は点滴のチューブで首を吊った。
冬美は掌に爪を食い込ませながら、「ああ、あれね」と何ともない声を作った。
「貝のボタンのやつでしょ。この前クリーニングに出しておいたよ。私が着たくって」
「あらそうなの。でも冬美にはちょっとデザインが古くないかしら。一応ブランド物ではあるけれど……」
「最近はああいうのがまた流行ってるんだよ。それに生地は凄く良いからさ」
「じゃあ冬美にあげちゃおうかしら。私はパンツスーツでも良いから」
やった!と無邪気な子供の声を出す。
柔らかく微笑んだ母に、冬美は震える手で一枚の紙を差し出した。
「それとさ、これ、焦凍の血液検査の結果。返って来てたからさ、確認しておきたいかなって」
心臓が五月蠅く鳴る。浅くなる呼吸を意図的に深く、ゆっくりと繰り返した。
薄い紙を受け取った母は視線を紙の上で滑らせて、「あら」と眼を丸くした。
「焦凍はO型なの。確かにあの子はおおらかというか、夏雄と比べるとちょっと呑気なところがあるわよね」
「血液型は性格に関係ないらしいよ。この前テレビでやってた」
「あら、まあ。私が若い頃は血液型占いなんてあったけれど、今はそんなの無いのかしら」
世間話みたいな声をする母に、「でもウチでO型なのって焦凍だけだよね」と言葉を続けた。
「────お父さんはAB型だから」
言ってから唇を噛む。
AB型の親からO型の子は産まれない。自分もこの血液検査結果を見た時にはそう思って随分と焦った。
「でも調べたらシスAB型とか隔世遺伝とかあるらしいから、きっと其れよね。焦凍ってば個性の遺伝的にさ、あたし達よりずっと複雑だから、そういうこともあるよね?」
可能な限り穏やかに喋りながら、不安と期待を込めて母の顔を覗き込んだ。
全て杞憂の筈だ。
杞憂でしかありえない事だった。
だって、だってウチは、それなりに、普通の家で……そりゃあお父さんはヒーローで、変わったところもあるけれど、でも、それでも、普通の、まともな家族になれる。
いつかはそうなれる。きっと。そう信じてやってきた。
今はタイミングが悪いだけで、このまま時が過ぎれば。いつかは。そう信じて、ずっと、頑張って来た。
頑張って来たんだ。
本当に、ずっと、頑張った。
またみんなで家族として暮らせるように。
「ね、お母さん。そうなんだよね」
母の薄い肌に縋る。
母はうすぼんやりした顔で、薄い紙を爪が白く変色する程に強く握っていた。
「………そうね」
「お母さん?」
「そう。でも、いえ……違うの」
「……おかあさ、」
「違うの。だって、そうしないと。燈矢、燈矢が────止めないといけなかったの。あんなに、痛くて、燃えてしまいそうな……だから、そう、レザーフェイスに……アァ、焦凍……」
紙を投げ捨てる。細い指が頭皮に食い込み、ついでみたいな動作で髪をブチブチと引き抜いた。
リルケの詩のように美しい顔の真ん中で黒い眼球がぽかりと穴を開ける。
これはダメなヤツだ。
冬美は反射的にナースコールを押して、頭皮を掻きむしり始めた母の両手を押さえつけた。
「誰か!誰か来てください!」
「燈矢が、燈矢を、止めないといけなくって……私、あの子が、ただ、それだけで、レザーフェイスが、私、私は……」
「誰か!あァ……おかあさん、おかあさん!ごめん、ごめんね、違うの、責めたいわけじゃないの、」
「あの子の言う通り、私が悪かった。私のせいなの」
「ねぇ聞いて……」
「ああ、でも、でも、結局、ダメだった……ダメだったのね。焦凍、ごめんなさい、私が悪いの、ごめんなさい、私が悪かったの……」
ブツブツと口の中で言葉を繰り返しながら、母は白い壁に頭を叩きつけ始めた。
明日の天気でも話すように柔らかい声で喋りながら、小さな頭をメトロノームのように何度も壁に叩きつける。
止めようと抱き着くも、細い体のどこにそんな力があるのか、母は、穏やかな表情のまま裂けた頭皮から噴き出す血を白い壁に塗りたくった。
白い壁が炎のような赤に潰され、酸化して、焦げるように黒く染みついた。
それからすぐに看護師がやって来て、自分は病室から追い出された。
病院を出て、彷徨う。
外の空気は冷たく、息を吐くと白く濁った。久々に抱き着いた母の暖かさはすぐに雲散霧消した。
家には帰りたくなかった。マトモに焦凍の顔を見れる気がしない。
なんなら父とも平静を保って話せる気がしない。
ようやく今になって理解した。
あの家はマトモじゃない。
乾燥した風に晒されながら道端で足を止める。
────父のスーツを、クリーニング店に、受け取りに行かなければならなかった。
それは今や、絶望的に遠い世界のコトのように思えた。
それでも自分の家はあそこだ。いくらマトモでない家であっても、あそこにしか自分の居場所はない。
それに弟達もあの家でなければ生きていけない。中学生の女一人と小学生の男二人で自活なんて無理だ。
金銭的にも、法律的にも、社会的にも、自分達は父がいなければ生きていけない。
だから自分は何とも無かった顔をしてスーツを持って家に帰り、家族の食事を作らなければならないのだ。
そして家の掃除をして、スーツを父に渡して、焦凍の虐待を見ないフリをして、夏雄の……そう、夏雄はきっと家で一番賢い。ウチがマトモじゃないという現実を受け止めていて、その上で今の生活を渋々と受け入れている。
自分も夏雄のように賢くならないといけない。これまでと同じように、今日も明日も、明後日も。
「………嫌だぁ」
道端に蹲ってクシクシ泣いた。もうダメだった。耐えきれそうになかった。
胸が痛い。もう、死んでしまいたい。そこらを歩いている人からの視線が肌に痛いが、もう、どうでも良かった。
家に帰りたかった。燈矢兄が生きていて、母が優しかった、まだ普通の、幸せだった頃の家に帰りたい。
どうしてこうなっちゃったんだろう。何が悪かったんだろう。自分が悪かったんだろうか。
見て見ぬ振りをずっと続けていたからバチが当たったんだろうか。
「もうヤダよォ。お父さん。おとうさァん……」
No.2ヒーローを呼ぶ。
勿論、来てくれる筈が無い。
ヴィランをやっつけるのが父の本領で、それ以外の場面であの父はてんで役に立たない男だった。
代わりに見覚えのないヒーローが目の前で足を止める。
「……どうしましたか」
低い声に顔を上げる。
金のメッシュが入った緑の髪の男が立っていた。