地獄より我らが父へ   作:XP-79

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No.5 冬の女

 

 

 

 

 

「………児童誘拐ですか」

「違う」

 そう言われても、中学生女子に抱き着かれるスーツ姿の中年男というのは絵面が最悪だ。

 しかもその女子は白い肌が透けるような美少女で、中年男は身長2mの体躯を生地の厚いスーツに包んでいる。

 

 どう見ても事案である。

 中年男がナイトアイでなければ相澤は即座に通報していただろう。

 

 ナイトアイはしがみ付く女子一人分の体重などものともしない様子で玄関に入った。

 「おじゃまします」の一言もない。なんならこの家の家長みたいな風格すらある。

「この家は私が手配したものです。必要経費も私が予算から捻出したもので、燈矢君の医療サポートも私の方で手配しました」

「何も言ってませんが」

「ちなみにこの任務における貴方の給与額も私が決めています」

「どうぞお入り下さい」

 腰を低くしてスリッパを差し出す。

 完全実力社会のヒーロー業界とはいえ、やはり体育会系の集まりである。新米ヒーローの立場は低い。

 老舗かつ業界最大手のオールマイト事務所が屋台骨ナイトアイと比べると相澤なんぞ吹けば飛ぶような馬の骨でしかないのだ。

 

 その更に上に君臨しているがオールマイトなのだが、彼はちょっと格が違い過ぎるので気にしないことにしている。

 本気で彼の立場を気にしたら喋りかけることすら出来やしない。

 

 ナイトアイは若干態度を改めた相澤を一瞥し、抱き着いたまま微動だにしない少女へ別人のように柔らかい声を出した。

「冬美さん、こちらはプロヒーローのイレイザーヘッドですよ。イレイザー、こちら轟冬美さんです。燈矢さんに会いたいとのことで連れて来させて頂きました」

「………それはつまり、エンデヴァーの、」

「え、冬美ちゃん!?」

 冬美という単語を聞いてキッチンに居た燈矢がパタパタと走って来る。

 冬美はぱっと顔を上げてエプロン姿の燈矢を見た。顔も声も別人のように変貌した兄に困惑して目を見開いたが、しかし「冬美ちゃん」と柔らかく呼ぶ声に顔をくちゃくちゃにした。

 

 ナイトアイにしがみ付いていた手を離して、涙をバタバタ垂らしながら燈矢に駆け寄る。

 そのままの勢いで抱き着く妹を燈矢はぎこちなく抱きしめた。体は随分と冷えていた。

「どうやにい!!」

「おう。久しぶり……」

「あいだがった!!」

「ン」

「ッ、でも、会いにいぐゆうきが、なくて!!」

「うん」

「あい、あいだがったよう、」

「……ン」

「ごめん、ごめんねェ」

「ン、いいよ」

 いいよ、と繰り返して冬美の頭を撫でる。

 

 記憶にある妹より大きいが、声はあんまり変わらない。性格は甘ったれのままだ。

 なんなら最後に会った時より幼くなっている気がする。

 ぐずぐずと鼻を鳴らして「う゛う゛う゛う゛」と唸る妹は傷ついた野良猫みたいな有様だった。

 

「冬美ちゃん、そんな大泣きするような事じゃねぇだろ……」

「死んだと思ってた燈矢兄が生きてたんだから泣くよ!!泣き喚くよ!!」

「ヤ……そりゃそうだけどさ」

 にしたって泣き方が可笑しい気がする。

 自分とそっくりの髪質を撫でながら、「いや、うん……」と眉を顰めた。

「お父さんに何か言われた?」

「違う」

「じゃあ焦凍に何かあった?つか、焦凍は無事かよ。お父さんにボコボコにされてねぇ?」

「じょうど……」

「おう」

「焦凍、しょうとが、」

「うん」

「じょうどがぁあ、」

 「あ゛ー!」とだみ声で泣き始めた妹に、これは暫く収まらないだろうなぁと会話を諦めた。

 感情が降り切れた轟の人間は止まらないし止まれないと身をもって知っている。

「……まぁ取り合えずご飯食べようぜ。すぐ用意できっから。オールマイトの分もこれからあっためるし」

「オールマイトは北海道と大阪と鹿児島の事件に呼ばれている筈ですが」

「さっき事件解決したってツイートされてたからそろそろ帰って来るでしょう」

 そう言い終えると同時に玄関扉が開く。

 

 一般住宅の玄関に居るオールマイトってどう見てもコラ画像だな、と相澤はちょっと失礼なことを思った。

「夕張メロンとたこべえと薩摩芋タルトをお土産に貰った私が帰った!」

「貰った?」

「よく地元の名産品とか貰うんだよ〜」

 

 玄関先を見れば「早いですね。お疲れさまでした」と当たり前みたいな顔でナイトアイが居る。

 オールマイトは首を傾げ、そして燈矢に抱き着く冬美を見た。

「彼女は?」

「轟冬美さんです。轟冷さんが入院している病院の近くでお会いしました。燈矢君にお会いしたいと言われたのでお連れしたのですが……オールマイト、連絡した筈ですよ?」

「ごめん、スマホ見てなくて……」

 大量の荷物をその場に置いて、オールマイトは燈矢に抱き着いたままの冬美の横に膝をついた。

「いらっしゃい轟少女」

「う゛」

「……燈矢君に、驚いたのかな」

「ん゛」

 違うらしい。

 歯を食いしばった顔を見る。死んだと思っていた兄と劇的な再会を果たした少女にしては顔色が悪い。

「まずはリビングに移ろうか。ここは寒いだろう。それにもうこんな時間だし、お腹空いただろ?」

「ん゛!」

「これどっちかな。ご飯作り置きしてるから、あっためるだけで食べられるからね。燈矢君と、ちょっと待っててくれるかい?」

 少しの間を置いて小さな頭は頷いた。

 

 

 

 

 冬美と、当然のようにナイトアイの分もオールマイトは準備して、ナイトアイも当たり前の顔で夕食の席に着いた。これだけで普段の力関係がなんとなく分かる。

 その隣で冬美はぐずぐずと鼻を鳴らしながら燈矢の膝に乗っていた。一瞬でも離れまいと必死な顔でしがみ付いているので引き剥がすのも躊躇われた。

 燈矢は赤ン坊返りした妹に首を傾げながらも、膝に抱っこしたまま夕食を摘んで口元まで持って行く。冬美は差し出された肉野菜炒めをあぐあぐと齧った。

「おいしい?」

「……おいし」

「そうか。これはオールマイトが作ったヤツ。あっちのホイル焼きは俺が作ったの」

「燈矢君は魚を焼くのが上手だよねぇ」

「高火力なら任せろ」

「壁は焼くなよ」

「もうやんねーよ。いつの話してんだ」

「……燈矢兄のホイル焼き食べる」

「おう。ほら」

 鱈の身を崩して口に持って行くとぱくりと咥える。

 なんだか幼い頃を思い出す。冬美は甘えん坊で、よくお母さんにくっついては何かとお菓子をねだっていた。

「……おいしい」

「そうだろ。しめじも食え」

「きのこ嫌い……」

「じゃあ相澤にやる。冬美ちゃんはにんじん食え」

「甘やかすな」

 文句を言いながらもしめじを摘んで自分の皿に乗せるのだから人が良い。

 冬美の様子がおかしいことに気付いているのだろう。何も気にしていませんよという顔をして相澤は注意深く少女の様子を観察している。

 

 にんじんを緩慢に咀嚼しながら、冬美は寝ぼけているような顔で食卓を見ていた。

 冬美を除いた4人中3人が肉体労働をしている成人男性なので、一品一品がバカの量を盛られている。10合炊きの炊飯釜はみるみるうちに減っていくし、山のように積まれていた肉野菜炒めは見る間に消えた。

 この食卓に慣れているのだろう、燈矢は驚く様子もなく小さくほぐした白身魚を冬美と自分の口に交互へ運び、「味噌汁も飲むか」と聞いた。緩慢に頷く。

 

 人の作った食事は美味しい。オールマイトの味付けは男の料理らしくちょっと濃い目で、優しい味がした。

 根菜ばかりの味噌汁を啜る。白味噌である。

 

 

 お母さんの味噌汁は赤味噌に白味噌が少し混ざっていた。自分も同じ味噌を使っているのにお母さんと同じ味にはならない。

 そう呟きながら、母のご飯の味を覚えていない夏男と2人きりで毎日ご飯を食べている。

 子供2人分の食べる量なんて微々たるもので、立派な座卓は半分以上が空いていた。

 

「……今日」

「おう」

「味噌汁と、炊き込みご飯と、から揚げ作るつもりだったの…」

「?お手伝いさんは」

「もうずっと前に辞めちゃったよ」

 燈矢の服を皺になるくらいに握る。

 

 腹があったかくなると、頭が冷えて不安になった。

 今、夏雄はどうしているだろうか。焦凍はご飯を食べているだろうか。

 自分が居ない家は想像が出来ない。あの家で家族をやろうとしているのは自分だけだった。

 自分が頑張っていたからギリギリ家の形を保てていたけれど、自分が居なくなった途端に崩壊して、二度と戻らないように思えた。

 

「家に帰らないと……お父さんと、夏君と、焦凍の晩御飯。それに、掃除も。お洗濯も、しないと……」

「何を言っている。君は中学生だろう。疲れているのだから無理はしない方が良い」

 ナイトアイは眉間に深い皺を刻んでいた。正論を語る大人の顔だった。

「もう遅いんだから今日は泊まりなさい。エンデヴァーにはこちらから連絡をしておくから」

「でもご飯、作らないと」

「あのね、轟少女。子供にご飯を食べさせるのは大人の仕事なんだよ。君が毎日頑張っているのは分かる。素晴らしいことだとも思う。でも、そこまで頑張らなくても良いんだ。疲れているんだろう?」

「………お父さんはご飯の準備なんてできないよ。夏君と焦凍がお腹空かせちゃう」

「なら私が作って持って行くさ。大丈夫、ココから静岡まで30秒もかからない。エンデヴァーにも伝えておく。大したことじゃないよ」

 HAHAHA!と常識外れの男は笑いながらお茶のお代わりを注いでくれた。

 湯のみで指先を温めながら、オールマイトがそう言うのなら、そうなのかもしれないと思う。

 

 親に何も言わず外泊するなんて、実は、自分が恐れているほど大したことじゃないのかもしれない。

 

 おずおずと冬美はオールマイトの顔を覗き込んだ。

「その、お父さんに連絡してくれますか?あたしからの連絡は、お父さん、無視しちゃうから……」

「ヒーロー協会経由で連絡先は知っているよ。彼が心配しないようしっかり伝えておく」

「アイツは心配なんざしねぇよ」

 嫌味っぽく鼻で笑った燈矢は、しかし俯く冬美を見て「悪い」と首を振った。

「冗談だ。いくらアイツでも冬美ちゃんのことは心配するさ」

「……燈矢兄は」

「俺は帰らねぇ。此処の方が居心地良いし。和風建築ってクソ寒いだろ?」

 耐冷体質の兄は見え透いた嘘を言いながら、ところで、と話題を変えた。

「冬美ちゃん、お母さんの見舞いに行ってたんだろ。どうして道端で座り込んでたんだ?」

「あ、」

「体調不良?」

「いや……あ、エト、」

 口ごもる。

 

 

 兄が抱く焦凍への異様な嫉妬心は記憶に染みついている。

 それは偏に焦凍が父の息子で、最高傑作であるからで、もし、焦凍が父と血が繋がっていないかもしれないなんてコトを知れば、どうなるのか。

 予想もつかない。ただ碌な事にならないのは分かる。

 

 

 数秒の思考の後に冬美はおずおずと口を開いた。

「……お母さんの病状が、良くなくって」

「入院してるとは聞いてたけど、そんなにかよ」

「ン……壁に頭を打ち付けて、血が出てた」

「ハァ!?」

 箸を取り落とす。「お母さんが!?」と大声を出した燈矢は冬美の肩を掴んだ。

「それ大丈夫だったのかよ!?脳出血とかなってねぇよな!?」

「割とあることだから大丈夫だよ。自傷の中じゃ軽い方だし……」

「いやテメェの頭打ち付けんのは軽くねぇだろ!!」

 母が心を病んで入院したとは聞いていたが、思ったより酷い。

 その原因の一端が自分にあると思うとやりきれない。

 

「……それって、俺が死んだからそうなったのかよ……だったら俺が会いに行ったら良くなるんじゃねぇか?俺もお母さんに会いたい。会って謝りたい」

「それは止めて。何が起こるのか本当に分かんない。もっと症状が酷くなるかもしんないんだよ」

 冬美の視線が鋭くなる。介護に疲れた女の顔だった。

 一瞬で十も二十も歳をとってしまったような顔に息を飲み、しかし歯を食いしばる。

「でも………今のまんま放っておける訳ねェだろ。3年ずっと入院生活なんて頭がおかしくなっちまう……夏くんと、冬美ちゃんと、俺で、一回会いにいこうぜ。そしたら、もしかしたら、良くなるかも……」

「ダメ!!ようやく良くなってきたんだよ!?そりゃあ、今日はちょっと、調子は良く無かったけど……でも最近は本当に良くなったの。あたしが変なこと言ったからおかしくなっただけで、普段は本当に良くなったんだから!」

「ちょっと調子崩したら頭打ち付けるンなら駄目じゃねえか!」

「燈矢兄には分かんないよ!あたし、あたしが、あたしがずーっと、ずーっと一人でなんとかしてきたんだから!!燈矢兄は口出ししないで!!ほんっとそういうとこお父さんそっくり!!」

「っ、ンだとッ」

「ま、まぁまぁ」

「2人とも落ち着いて」

「お前もそういう、自分で全部決めようとするトコがホンットにお父さんそっくりだわ!!絶対いつか手に負えなくなって「あたしは見ない!」とか言い出すぜ!!」

「言う訳ないでしょ!!そこまでお父さんになんて似て無いモン!!」

「いーや言うね!!何故なら俺達の中で一番お父さんに似てるのは冬美ちゃんだから!!次点で焦凍!!」

「しょうっ……」 

 

 冬美の顔から全ての表情が抜け落ちて、燈矢の膝にすとんと座った。焦凍、と口の中で小さく繰り返す。

 瞳孔がバツンと切れた裸電球みたいに揺らめいている。

「……燈矢兄」

「何だよ」

「どうしよう、お母さん、なんか、ホントに、おかしくなっちゃったかもしんない」

「………最初からそう言ってんだろ」

 落ち付かせるように背中を撫でる。冬美は「分かんないの」と小さく息を吐いた。

「あたしには、もう、お母さんが何考えてるのか……レザーフェイスとか、なんとか、言ってたけど………」

 

 

 

「「「レザーフェイス?」」」

 

 

 

 黙って兄妹を見守っていたプロヒーロー達が椅子を蹴っ飛ばして立ち上がった。

 あまりの勢いに冬美が体を強張らせた。燈矢も思わず硬直してマバタキを繰り返す。

 

 強張った子供達の顔に3人は纏っていた緊張を解いた。しかしあまりに今更で、空気は少し張っていた。

 オールマイトはその空気の中を緩慢に泳ぎ、強張る冬美の前に膝を付く。

「驚かせてしまってごめんね、轟少女。その……」

「知りません。あたしは何にも知らない」

 

 頑なに首を振る様子に、これは何も喋らないだろうとオールマイトは即座に話の方向を変えることに決めた。

 

 そもそも轟冷の口からレザーフェイスの名が出たという時点で轟家の暗部に焦点が当たる。

 中学生の女の子に口を開かせるには問題があまりに暗い。

 

「分かった。ただ、レザーフェイスの名前をお母さんが知っていた。それだけだね?」

「……はい」

「……これ以上、私は何も聞かない。ただ、もし君が話したくなったら、いつでも私達は話を聞く。それだけは覚えていておいてくれ」

 神妙な口調のオールマイトに冬美は戸惑いながらも頷いた。

 

 燈矢はそれを開いた瞳孔で眺めていた。

 

 

 

 

 

 ■  ■  ■

 

 

 

 

 

「エンデヴァーは?」

「冬美少女が貧血で倒れていたから保護したとだけ伝えたよ。明日の朝に送るともね」

「夏雄君と焦凍君の世話についてはなんて?」

「『貴様の手など絶対に借りん!!』って切られた。一応彼のサイドキック達にも話は通しておいたから、放置は無いだろう」

「一応、後で家の方に電話を入れときましょう。冬美さんからも弟さんに連絡するよう伝えましたし、何かあれば連絡をするように伝えて置きます」

「………それで、」

「うん、レザーフェイスの件だね」

 

 冬美は燈矢と同じ部屋で眠っている。

 大人3人だけが居間に残って顔を突き合わせていた。

 オールマイトは、「あいつかぁ……」と心底嫌そうな声を出した。

「またか……またかぁ……」

「またかって、以前にもレザーフェイスが起こした事件に関わりが?」

「関りがあるどころじゃない。オールマイトは今までレザーフェイスを8回逮捕して3回刑務所にぶち込んでいる」

「……8回逮捕して3回?いや、それで何でまだシャバに居るんですか?脱走の常習犯か?」

「全て正規の手続きを踏んで釈放されているよ。胸糞悪い事にね」

 珍しく苛立っているオールマイトの横でナイトアイが眉間に皺を寄せた。

「ちなみに刑務所にぶち込まれなかった5回の内、4回は不起訴処分。1回はオールマイトによる不当逮捕扱いだ。君はレザーフェイスの事はどの程度知っている?」

「思い通りの個性を持つ子供を作れる、とかなんとか。精子ドナーと卵子ドナーを利用して強個性の子供が欲しい夫婦に受精卵を売ったり、異形型個性の両親から普通の外見の子供が生まれるよう受精卵を選別したりしていると聞いたことがあります」

 

 相澤は直接にレザーフェイスと関わったことは無い。しかし手広く商売をしていることもあってアングラでは有名なヴィランであった。

 それも、比較的良い意味で。

 

 レザーフェイスは子供が欲しい夫婦に望み通りの「個性」を持つ受精卵を売ることを生業にしている。

 料金は良心的で仕事の腕も良く、一般人相手でも見くびることがない。

 ヤクザや他犯罪組織との関連は無い。顧客情報を漏らしたことも無い。

 貴重な個性を持つ男女から精子、卵子の提供を求めることはあるそうだが、当人に怪我をさせた事例は一度も無い。

 

 犯罪行為を行ってはいるが明確な被害者が居ない、珍しいタイプのヴィランである。

 このことから一部界隈では崇め奉られ、熱烈な支持者(スポンサー)すら居るらしかった。

 

「それを聞いてどう思った?」

「そうですね。まぁ、違法行為ですからそりゃあヴィランでしょうけど。でも悪質かと言うと……」

「うん。そこだけ切り取れば今後の個性社会においてはむしろ善行とすら言えるのかもしれない。子供の個性事故が多い昨今では殊更だ。しかし、ヤツは狂っている」

「狂ってる?」

「あいつは、人間とは生まれた瞬間が最も美しく、その後は劣化するばかりの肉塊だと言って憚らない」

「………そりゃ、狂ってますね」

 頭を掻く。そりゃあヴィランなだけあって善良な一般市民のような思考回路はしてないのだろうが、思うだけなら問題はない。

 オールマイトはそんな相澤の考えを見透かすように首を横に振った。

「君の想像を超えるくらいには狂っているんだよ。ちょっと形容し難いタイプのヴィランだ。常識的な話は一切通じないと思って良い」

「いや、だとして、どうして釈放されてんですか?」

「ヤツは政界に顧客が多い」

 ナイトアイは忌々し気に舌打ちした。紳士的なこの男にしては珍しい仕草だった。

「ヤツの個性は『デザイナー・ベビー』。精子と卵子の組み合わせから、産まれてくる子供の個性を予測することが出来る」

「『予知』と似たようなものですか?」

「いや、レザーフェイスが予知出来るのは「生まれる子供の個性」のみだ。但し触れる必要は無く、精子と卵子のペアを見るだけで分かる。ヤツに優れた個性を持つ子供を作成させたがる政界の大物は多い。公安はレザーフェイスを目溢しするようヒーロー事務所へ通達すらしている」

「……ブリーディングみたいですね」

「正に、その通り」

 思いきり眉を顰める。

 

 そりゃあ親ならば子供には余計な苦労をしないで欲しいものだろう。

 我が子が異形型個性に生まれて石を投げられたり、無個性として一生を蔑まれるなんて耐え難い苦しみだ。そのくらいは子供の居ない相澤にも想像できる。

 犯罪だと理解した上でヴィランに縋る親の気持ちも、多少は分かる。

 

「しかし、その、轟冷さんがレザーフェイスの名前を知っているということは……」

「考えたくは無いが、そういうことだろうね」

 深く頷いたオールマイトに、「そうですよね」と溜息を返した。

 燈矢、冬美、夏男、焦凍の4人の子供達の内、レザーフェイスによって作成された子供がいるのだろう。

 

 いや、もう分かっている。

 末子であり、半冷半燃という貴重な個性を有する焦凍こそがレザーフェイスによって意図的に作成された最高傑作である可能性が非常に高い。

 

「受精卵状態で売買するんなら母親が轟冷とも限らないんですよね」

「そうだが、単にエンデヴァーと轟冷さんの配偶子を厳選しただけの可能性もある。一度検査してみないと何とも言えない。憶測でものを言うのも憚られる問題だ」

 慎重とも、他人事とも受け取れるオールマイトの言に相澤は頭を振った。

「どうしてそこまでして……いや、そりゃあ半冷半燃の個性は強力でしょうが、もしエンデヴァーに内緒でやってんなら、バレたら……」

「彼女にも事情はあるんだろう。それに第5世代の子は個性が強い。一生を己の個性に振り回される子も居る。子供に良い個性を与えたいという親の願い事態は悪いものじゃない………だが、そんな親の心情を利用するレザーフェイスは許せるものではない」

「でも、そのレザーフェイスに救われてる親も多いんじゃないんですか。ここまで聞く限りだと個性事故が多い現代ではある程度容認せざるを得ない活動に思えますが」

 オールマイトは眉間に皺を寄せながら頭を振った。

 

「最後に逮捕した時、ヤツは受精卵を数百個鍋で煮て、ザルに上げて喰っていた」

「ッ、失礼、今なんて?」

 聞き間違いだろうか。

 しかし「事実だ」とオールマイトは明確に応えた。

「小さな粒を噛み潰しながら、「人間は産まれる前に死ぬのが一番幸福なんだ」と笑っていたよ。これは慈悲だと。あいつは狂っている。放置はしておけない」

「な、何故捕まえても釈放されるんですか?殺人でしょう」

「殺人罪は胎児が母体から出生した時点から成り立つ。出生どころか着床もしていない試験管ベビーはいくら殺しても罪にならない。同様の理由で妊娠22週以降に成立する堕胎罪も適応されない」

「………イカレてやがる」

「全くだ」

 深く頷く。オールマイトの言がよく分かった。

 どれだけ社会に貢献していようがそんな狂人の存在は容認できない。

 容認するような社会はクソッタレだ。

 

 だが、社会には己の子が個性事故や個性差別で苦しまないよう願う一般市民が多く居る。

 そんな人々にとってはレザーフェイスの性格も、産まれることすら出来なかった数百の子供達もどうでも良い事だ。

 

 一般市民と協力関係にあるヴィランの犯罪は立証が難しい。そして現代の日本において、立証が難しい案件は確実に不起訴処分となる。

 レザーフェイスは何度逮捕しても意味が無い、ヒーローと相性の悪いヴィランだった。

 

「俺の方でも情報を集めておきます。アングラ関係なら知り合いもいる」

「頼んだよ。私の方も情報を集めておく。以前捕まえた時のヤツの身辺を洗っておこう」

「警察には私の方から話を通しておきます。児童売買とレザーフェイスは競合相手だ。何か情報があるかもしれない」 

 全員がプロなので話が早い。

 レザーフェイスは長くヴィランをやっていて、スポンサーも多く、潜伏するのが上手い。

 下手に近寄るのは悪手だ。まずは情報収集が重要だと3人共が心得ていた。

 

 

 燈矢は勿論、そんなことは知りもしなかった。

 

 

 

 

 

 ■  ■  ■

 

 

 

 

 

 朝食作りに参加したいと冬美は手を上げた。

 世話になりっぱなしというのは性に合わず、人がセコセコと働く様子を傍から見ているだけというのは居心地が悪かった。根っからの働き者なのだ。

 

 馬鹿な量のバターをフライパンに落とすオールマイトに眼を丸くしながら、冬美はキャベツを丸々一つぶち込んだ寸動鍋を混ぜる。

 トーストをホイホイ焼いて行くオールマイトの手際は良いが、端っこがカリッカリに焦げていた。「焦げてますよ」と小さく呟く。

「あ、ホントだ。ありがとう冬美少女」

「いえ……お料理、よくされるんですか?」

「燈矢少年が来てからするようになったけどね、それまでは全然。全部見様見真似だよ」

「そうなんですか」

 昨日の今日なのでまだ緊張が強い。しかしそれは、あのオールマイトだからではなくて、無償で一宿二飯を提供してくれた親切なオジサンへの緊張だった。

 テレビに映っていないオールマイトは静かで、存外に普通だ。

「その、ヒーローって沢山食べるんですね。お父さんも結構な量を食べるから、やっぱり沢山食べないと体がもたないんですか?」

「ううん。私って燃費良いからそんなに大食漢って訳でもないんだ。普通の一人前くらいで大丈夫」

「そうなんですか?そんなに体が大きいのに?」

「うん。ただヒーローって忙しい日はご飯を食べる暇も無いからね。食べる時間がある時に出来るだけ食べてるってだけ」

 当たり前みたいな言葉に、そりゃあ人間なんだからヒーローにだって食事も睡眠も、休憩だって必要なんだな、と今更ながらに思った。

「食べ溜めは体に悪いですよ」

「分かってはいるんだけどねぇ、忙しいのはどうしようもないから。ゼリー飲料やカロリーメイトとかに頼っちゃう時が多いんだよ」

「……じゃあ、ヒーローになるんなら子供の内くらいはちゃんと食べた方が良いですよね」

 

 ぽそりと呟く。小さな女の手が鍋をかき回す。

 細く白い指に形の良い桜色の爪が乗っていた。男殺しの手だ。

 

「体が大きくなる時期には無理し過ぎない方が、良い、ですよね」

「そりゃあね……焦凍君かい?」

 こくりと小さな頭が頷く。

「お父さんには、そろそろ、いい加減にしてもらわなきゃならないんで」

 別人のようにキッパリした声だった。

 

 切り落とすような物言いに思わず見下ろす。

 冬美は、まさか子供とは思えない怜悧な顔をしていた。

 これから人でも殺すのかという顔でガスコンロの赤い火を見下している。

 

 オールマイトの視線を察した冬美は、しかし、「あ」と元の働き者の少女の顔に戻った。

「その……すみません。オールマイトさんに、こんなこと」

「大丈夫だよ。何か私が力になれることはあるかい?」

「いえ、本当に。家の問題なんで……ただ、燈矢兄は暫くオールマイトさんの所でお願いしたいです。父を何とかするまではウチに戻っても嫌な思いをするだけでしょう」

「それは勿論。それにこの家は広いから、もし良ければ君たちも、」

「オールマイトさんは家事が出来る男の人ですけど、やっぱり父親って仕事をしてお金を稼ぐとか、力仕事とか、そういう家長としての役割が強いと思うんですよね」

 

 オールマイトの言葉を叩き割るように言い放ち、冬美は口端だけを釣り上げて笑った。

 十分に煮えたことを確認してガスのコンロを切る。

「母親が家の中で子供達に愛情を与える存在なら、父親は安心を与える存在ですよね。家の外で金を稼いで家族を護る、精神的な支柱みたいな役割を負っていると思うんです」

「……冬美少女」

「外敵から家を護ってくれる、一番危険な立場を請け負ってくれる人でしょう、父親って。だから、家の中で多少大きな顔をしても許されると思うんです。私が古い家で育った女だからかもしれませんけど……アラ、トースト、また焦げてますよ」

 冬美はもう一つのコンロも切った。

 オールマイトを見上げて冷えた顔で笑う。

「だから、家の中のことをお父さんに期待するのは、もう止めます。私が疲れるばかりだから」

「君が望むなら今すぐにでも、」

「法律的に無理なんでしょう?調べたんです。私達は要保護児童の条件を満たしていない」

 言葉が詰まった。

 

 要保護児童とは、保護者のない児童、または保護者に監護させることが不適当な児童のことである。

 保護者のない児童とは、孤児、保護者に遺棄された児童、保護者が長期拘禁している児童、家出した児童等。

 監護させることが不適当な児童とは、被虐待児童、非行児童、ネグレクト、虞犯等。

 

「燈矢兄は父が遺棄したってことになるでしょうが、私と夏君は暴行された訳じゃない。金銭的な不自由も無いからネグレクトでもない。焦凍は………ギリギリ個性訓練の範囲に入るでしょう。個性事故の予防のために過激な訓練をする家庭なんて今じゃ珍しくも無い」

 俯く冬美の言はその通りで、SNSで「#個性訓練」とでも打ち込めば、我が子に虐待染みた個性訓練をしている世界中の動画が見られた。

 あまりに強い個性を持つ子は多少過激な訓練を課してでも己の個性を制御する必要があると世間は暗黙の裡に了解している。

 むしろ個性訓練をかまける方が虐待扱いになる時代だ。

 

 なにせ、強力な個性を持つ子は一歩間違えれば容易く人殺しになってしまう。

 故に後遺症が出かねない厳しい個性訓練であろうと、焦凍のような強い個性の子供は被虐待児と認定され難い。

 

 さらに彼は親が社会的信用度の高いNo.2ヒーローである点も問題を難しくしている。

 エンデヴァーが一言、「息子の強い個性が人を傷つけないよう厳しく訓練していた」と言ってしまったら、行政は動けない。

 

 

 ヒーローは世論に弱い。法律にも弱い。暗黙の了解にも弱い。

 だからレザーフェイスのようなヴィランがのさばっている。

 力でどうしようもない相手にヒーロー制度は無力だ。

 

 

 ───故に、メディア露出をしているヒーローが多いのだった。

 ヒーローであれば法制度の限界を誰もが知っている。

 

 現代において、法制度に立ち向かう手段を練っていないヒーローなんかがチャートランキングの上位に食い込むことは有り得ないのだ。

 

「私ってNo.1ヒーローなんだよね」

「?はい」

「しかも25年以上ずっとNo.1なものだから、社会的信用度なんてもう首相より高くなっちゃってさ。あと警察とのコネもあるし」

「……ええ」

「だから私が『これは虐待だ!この子達は要保護児童だ!』って警察に一言言ったら、問答無用で君達を全員ウチで保護できるよ。なんなら今、この時からでも」

 オールマイトは焦げたバタートーストを皿に盛った。

 冬美は絶対不動の地位にあるNo.1の顔を見て、それが冗談でも何でもないことを悟った。

 今、ただ一言、「助けて欲しい」と言えば、この人は間違いなく助けてくれる。

 

 冬美は息を呑み、顔を伏せた。

 自分の隣に立つ人はただの親切なオジサンではなかった。

 この人は父より強い、地球上で唯一のヒーローだった。

 

「………でも、御迷惑でしょう」

「何言ってんだい。人助けがオシゴトのヒーローがメディア戦略なんて大真面目にするのはね、君みたいな子供を助ける手段を確保するためでもあるんだよ。地位と権力と名声ってのは私欲のために求めるばかりのもんじゃないのさ」

「…………」

「冬美少女」

 大きな手が頭を撫でた。子供を撫でるのに慣れた手つきをしていた。

「今すぐには決断できないだろう。だから、今でなくても良い。ただね、もっと大人を信頼して欲しい。家の外は広い。家の中のことで、君に力を貸してくれる大人は外に沢山いるんだよ」

 冬美は唇を尖らせ、頭を捻り、暫く無言で立ち尽くした後に深く頷いた。

 

 

 

 

 

 

「俺、冬美ちゃん送ってくよ。家の様子見に行きたいし」

 朝食の後、相澤と並んで食器を洗いながら燈矢は当然のように言った。

 ちなみにナイトアイはリラックスチェアに座ってオールマイトの淹れたエスプレッソを飲んでいる。

 手伝おうという様子は全く無い。いっそ清々しい。

「燈矢少年、しかし」

「別に長居はしねぇよ。玄関先まで連れてくだけ。いいよな相澤」

「相澤の後に先生を付けろクソガキ」

「テメェが俺を呼ぶ時に様を付けたら考えてやる」

「クソガキ様の言うことも理解はできます。いくらエンデヴァーが認めていなくとも、彼には兄弟達に会う権利がある。一度様子を見に行く程度なら問題は無いでしょう」

「それなら私も、」

 

 続きを口にする前にオールマイトの携帯から緊急呼び出しのサイレンが鳴り響いた。

 無表情のままナイトアイがスマホを取り出す。

「緊急要請が3件同時。優先順位は埼玉、青森、広島。埼玉は土砂災害により一般市民が8名死亡、52名が重軽傷」

「ごめん後は頼んだよ!」

 鼓膜を叩く旋風に思わず顔を背ける。

 瞼を開くと既にオールマイトは居ない。掃き出し窓が大きく開き、白い雲に丸く穴が開いている。その向こうで彗星みたいに飛んでいく姿が小さく見えた。

 

 ナイトアイは窓ガラスを閉じて、「私もSKとしてサポートに入らなければなりません」と真っ直ぐに冬美を見つめた。

「そちらの相澤という小汚い男が貴女を自宅に連れて帰ってくれます。信頼は出来る男だと保証しましょう。しかし燈矢さんも一緒の方が安心出来るのなら、彼も一緒に帰っても大丈夫ですよ」

「ありがとうございます。本当に、色々と」

「感謝は要りませんよ。貴女のような方を護るのも私の仕事です」

 別人のように柔らかい顔で微笑むナイトアイに、「ソイツ三十路のオッサンだぜ」と燈矢は小声で冬美に囁いた。

 ちょっと顔を赤くしてむくれながら、冬美は「うるさい」と燈矢を小突く。

「ええ、その、燈矢兄にも一緒に帰って欲しいです。この時間ならお父さんはいないから夏君と……焦凍には、会ってよ。2人とも心配してるから」

「夏雄と焦凍は学校あンだろ」

「昨日連絡してサボっとくよう伝えといた」

 ぶい、と冬美はピースサインを作った。

 それが3年前と変わらぬ仕草で、思わず笑う。

「バレたら殴られるぞ」

「もし殴られたらそのまま警察とマスコミ行くよ。「No.2ヒーローに虐待されてますー!」ってね。炎上間違いないでしょ」

「……なんかキャラ変わった?」

「大人になったの!」

 燈矢に引っ付いて笑う冬美は、口調も顔立ちも変わっていないが、芯が太くなった気がする。

 父にも母にも似ていない図太さは、もしかすると自分に似たのかもしれなかった。

 

 

 

 

 

 

 車と新幹線で1時間強を要し到着した家は、1ヵ月ちょっと前と何も変わっていない。

 しかし3年振りに再会した弟の身長は素晴らしく伸びていた。

 髪と瞳の色以外は父親の生き写しと言ってしまって良いくらいに成長した弟は、まだ丸みの強い顔の中心にある口をあんぐりと開けていた。

「夏君おひさぁ。でかくなったねウラヤマ」

「……マジか」

「マジマジ」

 軽い口調で喋る燈矢だが、夏雄は衝撃を飲み込めない。

 

 放心状態の弟を置いて、死んだと思っていた兄は玄関で靴を脱ぎながら「あ、こいつ俺の保護者その2ね」と隣に立つ小汚い男を指差す。

 指差された男は「ヤ、俺は家に上がらねぇから。お構いなく」と一歩引いていた。

「え、いや、ど、どちら様………あ、兄の誘拐犯ですか?」

「プロヒーローのイレイザーヘッドだ。今は轟燈矢の保護をしている」

「どう見てもクソ怪しい外見してますけど」

「夏君が言ってる事めっちゃ分かるけど嘘じゃねぇんだわ。信じ難いけどヒーローなんだよソイツ。めっちゃ分かるけど。マジで360度どっからどう見ても不審者だよな」

「帰ったら覚えとけよクソガキ様」

「しかも意外に根に持つ」

 軽妙な笑い声は記憶にあるソレと全く違う。母に似て作り物のように繊細だった顔立ちは火傷のせいで見る影もない。

 しかし飄々とした態度と、母と同じ髪、父と同じ瞳は恐ろしい程に変わっていなかった。

 こんなヤツがこの世に2人も居る訳が無い。頭を抱えて蹲る。

「マジで燈矢兄じゃん……」

「マジマジのマジだって。何?本人確認する?夏君が幼稚園行きたくないって玄関で漏らして地団太した話でもした方が良い?」

「言ってんだよ全部!!」

 ギィー!!と、怒りを爆発させるオットセイみたいな声で呻きながらのた打ち回った。

 

 嬉しい。勿論、兄が生きていたことは本当に、すごく嬉しい。

 しかしこの3年間にあったことがあんまりに濃すぎて素直に喜べない。

 

 何より燈矢は幸せそうで、元気そうで、今の保護者だとかいうイレイザーヘッドは燈矢のことをよく見ていて、しかもソイツはプロヒーローらしい。

 屈託なく笑った顔は晴れやかだ。この家でのことが無かったみたいに。

 

「……つか、燈矢兄はどうしてさっさと帰って来なかったんだよ。母さんがあんなことになって、焦凍はあのクソ親父に毎日瀕死になるまでぶん殴られてんのに。テメェが帰ってたらもっと早く……っ」

 自分だって地獄から抜けられていたかもしれないのに。

 舌の裏に隠した本音を見抜いたように燈矢は静かだった。

 

 そしてにんまりと唇を横に裂く。

 喉が詰まった。

 

 この家で地獄の底の泥を舐めていた頃の顔が、屈託のない笑みの下に、何も変わらないままに埋まっていた。

 

「俺が世界で一番愛するクソ親父が思った以上にステキな男になってたからさァ。帰ったら毎日殺し合いしちゃいそうで♡」

「…………ア、」

「そうしたら夏君は困っちゃうだろ?何?巻き添え喰らって死にてぇの?」

「………いや、」

「だよな?いや、俺はそれでも構わねェンだよ。悪いけど、夏君殺したらお父さん本気になるかもじゃん?でもWデートってあんまり好きじゃねェんだよ…………夏君なら俺の言う事、分かってくれるよな?」

 燈矢は耳元で低い息を吐いた。兄は火傷で引き攣った顔を崩すように笑っていた。

 

 顔をくしゃくしゃにして頷く。

 情けない事に安堵を感じていた。

 

 この家でのことは兄の中で全く無かったことになんてなっていない。

 兄は変わっていない。相も変わらず頭のネジが3本歪んで頭蓋に刺さったまんまだ。

 兄は狂っている。

 

 しかしそれでも、なんとか家の外で居場所を見つけて、マシにはなっているらしい。

 少なくとも今の会話を相澤に聞かれないよう小声で喋るくらいにはマトモになっている。そのことを「良かった」と素直に思った自分が居ることにまた安堵した。

 そうでなければ、「そうだ燈矢兄、焦凍に会ってってよ」という冬美の明るい声を遮って止めていただろう。

 

「………ヤ、それは、」

「………姉さんから連絡来て、学校サボって待ってたんだって。親父に殴られてもいいから兄貴に会いたいってさ」

「ン……それは、でも」

「焦凍、しょーとー!!燈矢兄帰って来たよー!」

「待って冬美ちゃん。俺、」

「……燈矢兄?」

 コトコトコト、と小さい足音が近づいて来る。

 

 燈矢が冬美を止める間もなく、小さなバイカラーの頭が廊下の奥に見えた。

 足どりは産まれたての小鹿より危なっかしい。疲労困憊なのだろう。眼の焦点をカチリとこちらに合わせて、ヨタヨタとよろめきながら寄って来る。手の皮は火傷でズルズルに剥けていた。

 

 そのあまりの小ささに一瞬呆然とした。

 

 いや、自分の感覚がオカシイというのは分かっている。

 身長2m越えのオールマイト、平均身長を優に超える相澤、マッチョばかりの東京都個性発電所の職員達に囲まれているせいで感覚が狂っているのだ。

 

 しかしそれ以上に「最高傑作」という印象が自分の中で過剰に肥大化していた。

 3年間家を離れて、エンデヴァー以外のヒーローに救われ、ヒーロー以外の職業に就く人々と接した今、「最高傑作」というレッテルの下にある焦凍の小ささがよく見える。

 

 喉を鳴らす。憎悪は未だある。自分でも驚くほどに、ある。

 小さく無垢な被虐待児だと認識している今でも弟が死ぬほど憎い。

 もし横にイレイザーヘッドが居なければこの場で殺していただろう。

 

 しかし現実には今、横にイレイザーヘッドが居て、自分を見ている。

 だから自分は弟を燃やせない。

 燃やさなくても良いと相澤が言い訳をくれている。

 

 

 焦凍は初めて真正面から向き合った長兄に何を言うべきか暫く悩み、もじもじと指を擦っていた。しかし冬美に背中を押され、小さな桜色の唇を開く。

「お、お、お帰り、とうやにぃ……」

 消え入りそうな言葉に燈矢は何度か口を開閉し、拳を握り、小さな息を吐いた。

 

 半分、自分と同じ色の瞳と髪が滲んで見えた。

「うん………うん、久し振り、焦凍」

 

  

 

 

 

 

 

 

 

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