『やっほーエンデヴァー!忙しい所ごめんね?今大丈夫かい?』
「切るぞ」
反射的な防衛反応が口を突いた。
オールマイトの声はいつも陽気で、晴れやかで、心の表面をささくれ立たせる。
ここ最近は更にだ。
『NO!!判断早くない!?せめて要件聞いて!?』
「貴様と俺で有用な話が出来るとは思えん。そもそも何故直通の電話番号を知っているんだ」
『コネかな』
「死ね」
殺気が籠る声に、隣で事務作業をしていたオニマーがぎょッと眼を剥く。
しかしオールマイトは露骨な敵意を時候の挨拶のように受け流す個性を持っているので、『それでね、』と何とも無いように話を続けた。
『さっき燈矢少年とイレイザーヘッドが冬美少女を連れて帰ったから、その連絡をしておきたくてさ。冬美少女と燈矢少年についての報告もしたかったし。メッセージだと君読まないで削除する可能性あるでしょ?』
図星を当てられて舌打ちが漏れる。
冬美についての話は昨晩もコイツから聞いた。
体調不良か、単なる疲労か。冷の見舞いに行った帰りに冬美は貧血で倒れたらしい。
そこを偶然通りがかったナイトアイが保護したという。
家に送り届けるのではなく、東京のオールマイト宅まで連れて行ったのは意味が分からないが、此の男は燈矢を名乗る身元不明の孤児を保護している。
兄妹を再会させてやろうとでも思ったのだろう。押しつけがましい事だ。
「まだそんな世迷い事を宣うか。燈矢は死んだ。もう3年も前のことだ」
『彼女に怪我は無かったよ。倒れちゃったのは精神的な疲労が重なったせいみたいだね。燈矢少年がずっと傍に居てくれて落ち着いたみたい。そうそう、燈矢少年の写真送っとくよ。この1ヵ月間凄い頑張ってたからつい写真を沢山撮っちゃってさ』
この男は相も変わらずこちらの話を聞ききゃあしない。前頭葉に欠陥があるのだろう。
ピロン♪とマヌケな音と共に問答無用で写真が送られる。
見るつもりも無かった。写真を消すために表示した瞬間、燈矢に似ても似つかない子供の顔が画面に大写しになった。真剣そうな顔で真新しい教科書を睨んでいる。
醜い火傷だ。
目つきも悪い。
オールマイトは燈矢の顔を調べてもいないのだろう。
そうでなくてはこんなツギハギ顔の子供が、冷に似て美しい面立ちの燈矢と見間違える筈が無い。
写真を消して、次の写真を開く。
火傷の醜い子供がサポートアイテムを着て笑っている。
他にも、大きく口を開けて蕎麦を食べたり。
ポップコーン片手にアクション映画を観て拳を振り上げていたり。
エプロンを着て野菜を切っていたり。
若者が好むブランドのショッピングバッグを抱えて嬉しそうにしていたり。
脳を腐らせる能天気な写真ばかりが並んでいた。
胃の底に針山が突き刺さったようだ。
全ての写真をすぐさまに消した。気分が悪かった。
『個性訓練をしているのは東京都個性発電所っていう場所でね。雄英の先輩が所長をしているんだけど、強すぎる炎熱系個性の職員向けに個性訓練をしているんだ。燈矢少年は初日から凄い才能とセンスだって絶賛されていたよ。それでね、』
「こいつは燈矢じゃない」
電話を切った。
二度とあの男の声は聞きたくなかった。
数秒後に再び着信がかかる。
着信拒否をする。
LINEのアプリに着信がかかる。
ブロックする。
事務員にインストールされたインスタグラムが着信音を鳴らす。
アプリごと削除する。
ついでにスマホの電源を切る。
「エンデヴァーさん、オールマイト事務所から電話が来ましたよ。本人に話したいって」
「切れ」
「え」
「切れ」
「いやあの、事務所間連絡なんで緊急のチームアップとか、」
「もういい俺が切る」
受話器を取り上げると『焦凍君についての話を聞いた』と聞き捨てならない言が耳を突いた。
火花が散る勢いで舌打ちをする。実際に机上の書類がいくつか燃えて事務員が泡を吹いた。
「何の話だ」
『君が……焦凍君に虐待めいた訓練をしていると。冬美少女がね、食事も喉を通らない有様だと心配していたよ』
「バカなことを言うな。ただの個性訓練だ」
『うん、分かるよ。私も吐き過ぎて喉が爛れるまでぶん殴られたりした。でももう時代が違うだろう。あんな訓練を子供にするのは良くない』
「焦凍のために最適化した訓練をしている。虐待など……」
いや、と口を閉じる。
炎熱系個性の訓練とは心の訓練に他ならない。
これは個性黎明期から変わらない、炎熱系の宿命である。
己を徹底的に焼いて、焼き尽くして、憎悪だろうが執着だろうが、とにかく己を燃やす火種を掴むことが炎熱系個性の真髄であり、炎の制御に最も必要な訓練になる。
こればかりはオールマイトですら理解し得まい。筋力増強系個性と炎熱系個性は根本的に性質が異なるものだ。
増してや氷冷系個性ともなれば思考の根底からして違う。冬美の眼には焦凍の訓練が虐待のように映っていてもおかしくはない。
なんなら半分が氷冷系個性である焦凍も理解出来ないかもしれない。
燈矢だけはあの訓練が最適だと理解していた。
体質が合っていなかっただけで、あの子の精神の根底は全くもって炎熱系そのものだった。
「炎熱系個性でない貴様には分からん。あれは虐待ではなく焦凍にとって最適な訓練だ」
『君の言葉を信じたいよ。でも子供が食事も摂れなくなるような訓練が本当に最適とは思えない』
「自分の炎で焼かれて死ぬよりマシだ。炎の制御のためには可能な限り火力を上げる必要がある」
『筋力増強系個性だと力の制御の訓練が最優先だよ。火力上げを優先してしまうと身体の方がぶっ壊れる』
「筋力増強系と炎熱系は性質が異なるのだ。貴様には死んでも分からん。いい加減に切るぞ」
指の腹で停止ボタンを擦る。
───あのねぇ。
オールマイトの声が耳元で掠れた。
声に、ほんの僅かに、苛立ちが混じっていた。
所以の無い寒気が走る。
唐突に、鼓膜がチューニングの合っていないテレビのようにザァザァと喚いた。
そういえば此の男は、その気にさえなれば、いつでも己を殺せる男であった。
その事実が頭上から降って来て全身をすり潰した。
『あんまりな状況なら、君に反対されても4人をウチで保護するからね』
暗い崖の向こうで、ずっと背を向けていた男が僅かに振り向いていた。
足元にへばりつく虫でも見るような顔だった。心底興味が無さそうに、崖を渡れない自分を見下ろしていた。
全身から炎が噴き出す。
喉の奥が熱い。苛立たしい。しかし、何が苛立たしいのかも分からない。
口惜しい。
「焦凍を連れて行くつもりか!!許さんぞ貴様!!」
大声に反応したSK達が振り返る。ごうごうと揺らめく炎が受話器を溶かす。
電話線が焦げて晴れやかな声にノイズが混じる。
そのせいで、遙か遠くでオールマイトが嘲笑っているように聞こえた。
『許さないって───許さないのなら、君は私に何が出来るんだい?』
「────あくまで問題なのは虐待疑惑な訳で、私がどうこうって話じゃないだろう。そりゃあ他人の私が子供達を預かるってのは変な話だろうし、君が心配するのは分かる。だからまずは燈矢君と話を……」
バツン。
ツー、ツー。
………
もう一度エンデヴァー事務所に電話をかけた。
繋がらない。
眼をバッテンにしてオールマイトは立ち尽くした。
何故エンデヴァーが怒ってしまったのか、全く分かっていなかった。
「……き、切られちゃった」
顔をしわしわにするオールマイトにナイトアイはもみじ饅頭を齧りながら「わざと煽ったんでしょう?」と呆れた。
「そ、そんな訳ないよ。燈矢少年との面会を取り付けようとしただけだよ」
「どこからどう聞いても煽っていましたよ。貴方の他人のプライドを逆撫でする癖はそろそろどうにかなりませんかね」
「言葉強くない?」
「事実です」
溜息を吐いて顔を覆う。
エンデヴァーと話す時はいっつもこうである。
自分が何か下手なことを言ってしまって、エンデヴァーが怒って、何もかもが有耶無耶になる。彼と5分以上会話が続いた試しがない。
自分が悪いのだろう。しかし何が悪いのかも分からないので直しようも無い。
「でも前よりはマシになったでしょ。昔は挨拶しただけで殴られそうになってたんだから」
「マシになったのはエンデヴァーが大人になったおかげです。貴方の煽り芸はむしろ酷くなっていますね」
「ねぇ今日は言葉強い日なの?」
肩を落とす。
昔っからエンデヴァーのことを尊敬しているのに、どうにも彼とは上手くいかない。
エンデヴァーの努力と才覚はデビュー当時から凄まじかった。
ヒーローとして頭一つ抜きん出た実力のみならず、多くのSKを育成し、事件を効率よく解決する体制は当時のヒーロー業界にとって革命的とすら言えた。
そして更にその上で、彼は己の家庭を築き上げたのだ。
師匠ですら信念のために我が子を手放さざるを得ず、自分も家族を持つ選択を選ばなかった。偏に、家族を護る自信が無かったからだ。
それなのに彼ときたら、ヒーローとして素晴らしい活躍をしつつ、夫として妻を護り、父として子を育てている。
自分には想像も出来ない偉業だ。
ワンマンな自分よりよっぽど未来を見据えている、次世代ヒーローの手本のような男だと畏怖の念すら抱いていた。
「………でも色々と煮詰まっている感じが強い。奥さんが入院してから冬美少女が母親代わりをしているみたいだけれど、まだ中学生の彼女には負担が大きすぎるよ。外部の人間を入れて一回落ち着いた方が良い」
「ええ。エンデヴァーはみみっちい男です。家族の話は聞かずとも児童相談所なんかの意見には耳を傾けるでしょう───しかし生憎、時期が宜しくない」
ナイトアイは眉根を顰めた。
「燈矢君は孤児院の大量児童誘拐事件と関わっている。加えて政府御用達のレザーフェイスの名も出て来て、父がエンデヴァーだ。公安はヒーローのスキャンダルを嫌う……各所に手を回してくるのは間違いないでしょう。児相が対応してくれるかどうか」
「だから冬美少女、夏雄少年、焦凍少年も暫くウチで面倒を、」
「『お忙しいお立場なのに子供達の面倒を見るなんて出来るのですか?そもそもオールマイトは独身で養子を持つ権利はありませんよね。公安の方で全員預かりますね』とでも言ってきますよ、奴らは」
ナイトアイの冷えた声で訥々と言われると何も反論が出来ない。
そう。今は時期が悪い。
4人だろうが100人だろうが普段なら権力でゴリ押しして事務所で保護出来るが、今ばかりは難しい。
「だからまずはエンデヴァーと話し合いをしたかったんだよ。彼の同意があれば4人全員を一旦ウチで預かる条件がオールクリアになる」
「ならばもう少し相手の立場になって考えてみては?」
これまでの人生であらゆる人々から百回は言われた小言である。
ちなみに内7割はナイトアイの口から出ている。彼はオールマイトを心から尊敬し慕っているが、それはそれとして口が悪い男だった。
もみじ饅頭の残りを口に放り込んで、ナイトアイは報告書を机に広げた。
「それと、例の孤児院に行って来ました」
「ああ、冬美少女を保護する前に調査しに行ってくれていたんだよね」
「はい。院長のサンサン晴明に特に不穏な点はありませんでしたが、孤児院で暮らしている子供の未来を『視て』来ました。強力な個性の子です」
「どうだった?」
「クロでしょうね。確証はありませんが」
ナイトアイは一枚の写真をオールマイトに見せた。
まだ10代前半の女の子だ。
「この子は近々孤児院を出て里親に引き取られるのですが、突如として個性を失います。眠っている間のことでしたので詳細は分かりません。この子は無個性になったことに動揺しますが、里親は『あの方が気に入ってくれて本当に良かった』と喜んでいました」
「個性は?」
「『個性の強制発動』です。他人の個性に干渉する個性は珍しい。イレイザーヘッド並みに貴重だ」
「時期は?」
「凡そ1年後」
多少は前後するでしょうが、と付け加えてナイトアイは顔を顰めた。
「レザーフェイスの関与も疑うべきでしょう。ヤツはAFOと面識がある」
■ ■ ■
「レザーフェイスって、誰。お母さんと何の関係があんの」
古ぼけた壁に背を預けて相澤は「その話がしたくて付いて来たのか」と頭を掻いた。
冬美を家に送り届けてから、久々だから家の周りを見て回りたいと燈矢が言った。
どうせ午後まで何の予定もない。特に異議も無く、相澤は先を歩く燈矢の後をついて回った。
子供の頃によく行ったというアイスクリーム屋でバニラアイスを買ってやって、よく遊んだという公園のブランコで並んでアイスを舐めた。
通っていた小学校の花壇に咲くパンジーを眺めながら轟家から少し離れた繁華街まで歩くと、白い頭は細い路地を曲がった。
その後をついて行ったらコレだ。
「しょうがねぇだろ。オールマイトは秘密主義で、ナイトアイはアイツのSK。選択肢がテメェしかねぇ」
「俺なら口が軽いだろうって?」
「あんたは少なくとも俺を見下しはしてないからな」
「オールマイトもお前を見下してる訳ではねェだろ」
燈矢は「その程度は分かってンだよ」と眉を顰めた。
「そういう意味じゃなくて………オールマイトにとっての俺は保護が必要な子供で、害になりそうな情報を渡せるだけの信頼は無ェンだろうが。テメェは『相澤君』なのに俺は『燈矢少年』だしな」
「当たり前だろ。あの人はお前の養父だ」
「でもお前は違うだろ」
挑発する口調だが確信めいた響きがあった。
確かに相澤は燈矢の護衛兼家庭教師で、保護者ではない。
必要なら圧倒的に格上のオールマイトですらぞんざいに扱うし、要保護児童の燈矢を小馬鹿にするようなことを言う。
口が軽いと思われてもしょうがなかった。心外ではあるが。
「アンタがここで口を割らなくてもどうせ俺は調べる。手段は問わない。冬美ちゃんにも情報を共有する。その方がそっちとしちゃあ面倒くせぇンだろ?」
「クソガキだなぁ」
相澤はいっそ感心した。
ガキの浅知恵ではあるものの脅迫の口調に躊躇いが無い。口端は吊り上がっている。
非日常を楽しんでいるのだ。これはエンデヴァーの教育によるものではなく、先天的なものに違いなかった。
個性はその人間の性質に大きく影響する。
この考え方は差別的と看做されているため公の場では誰も口にはしない。
しかしマイクがDJをやっているのも、ジーニストが趣味でヴィンテージジーンズを集めているのも、ギャングオルカが海水浴を好むのも、生まれ持った個性の影響であろう。
自分だってそうだ。『抹消』の個性のせいか、要らない家具なんかがあると捨てたくなる。合理的でないものは消したくなる。
そうして考えると『蒼炎』から燈矢の傾向はそれなりに分かる。
炎熱系個性の奴らは総じて暑苦しい。常識や理屈より己の情熱を何より優先する傾向がある。
執着心が強く、自己主張が激しく、行動力がある。
火遊びを好み、危険を恐れない。
相澤はつまらない漫才でも耳にしたように肩を竦めた。
同時に視線を四方に走らせる。可燃物は無いが、監視カメラも無い。路地裏は歓楽街に続いている。逃げられれば土地勘のない自分は不利だ。
「別に構わない。好きに調べりゃいいさ。どうせすぐに分かる」
「調べりゃ分かるようなヤツか?」
「さあな。マイナーなヴィランだから出て来ねぇかもしれねぇが、マ、よく居る小物ってことだよ」
余裕綽綽といった態度に燈矢は目を細めた。
この物言いだと、ネットで調べる程度ではレザーフェイスの情報は出てこないのだろう。
重要な情報は一般人から伏せられているのか。それとも本当に小物か。
否、昨晩の反応からしてそれは考え難い。
子供2人を前に、あのオールマイトが動揺を見せた時点で、絶対に小物ではない。
「……どうしてお母さんがそんなヤツと関わったんだ」
「言いたかないが、轟冷さんは精神病棟に長く入院している。ネットで見ただけのヴィランの名前が偶然頭の中に残っていて、不安定な時に口から出ただけの可能性だってあるだろ」
「それなら冬美ちゃんはどうしてあんなに動揺してたんだ」
「俺も分からない。でも家のことを全部一人でやってるらしいじゃないか。疲れもあるだろう」
それは無い。
昨晩の冬美ちゃんは同じ布団の中に潜って、自分にずっと抱き着いていた。クシクシ目を擦って瞼を腫らし、口から何か零れないように白い唇を噛み締めていた。
そりゃあまだ中学生なのに家の中のことを全部やって、お母さんのお見舞いもやって、焦凍は毎日ボロボロだし、負担は相当だ。
でも冬美ちゃんはそれだけであんな風に泣き腫らす女じゃない。
氷冷系の個性を持つヤツは我慢強いのだ。中でも冬美ちゃんはコレと一度決めたことにしがみ付く炎熱系の執念を受け継いでいる。
でなければあんなクソみたいな家で、「普通の家族」に憧れ続けるバカな真似はできやしない。
周囲に視線を走らせる。近くに可燃性のゴミは無い。
だが路地の奥に眼をやると新聞紙をひっかぶったホームレスがたむろしていた。
「レザーフェイスって名前は聞いたことがある。ここの路地裏に蹲ってた小男が言ってた」
「……何て?」
「「レザーフェイスさんとこ持ってきゃ売れるかな」ってさ……人身売買やってるヤツ?それとも児童買春?ソイツと関りあるってことはさ、お母さんはお父さんのDVで溜まったストレスをガキ買って発散してた訳?」
「違う」
「あ、それは本当っぽい」
相澤の顔の影が深くなる。
一歩下がった。途端に両方の瞳が赤く染まった。
「帰るぞ燈矢」
「イヤだね。情報を寄越せ」
「……オールマイトが心配する」
さも当たり前のような声色である。
心配する。そうだろうか。お父さんですら心配してくれやしなかったのに。
しかし、オールマイトは……オールマイトはお父さんじゃない。
オールマイトはマイトタワーで自分を見て、お父さんを殺したいと言った自分を膝に乗せて、「うん」と言った。
彼は真っ直ぐに自分を見ていた。
振り切るように鼻で笑う。
ウジウジとしかけた自分の思考を歯で磨り潰すように笑った。
「じゃあオールマイトがすっ飛んでくる前に片付けようぜ」
イヤそうに舌打ちした相澤の両眼を凝視しながら笑う。
戦闘服ではなく、ゴーグルはしていない。
じりじりと対峙した数秒の後、生理的な反応として瞼が一瞬閉じる。
その瞬間に蒼炎をその場に放り投げた。
種火も無く、長く燃えやしない。目くらまし程度にしか役立たない炎だ。
しかし万年ドライアイには良く効いた。
「チッ!!」
「今度ヒアレイン買ってやるよ!!」
至近距離で超高温の壁に遮られた相澤は一瞬よろめいた。
その隙に真っ直ぐ路地裏を駆ける。
ゴミやらホームレスやらを飛び越えて、炎の壁が消えるまでの間に細い路地を4回曲がった。
近接戦闘が主体の相澤はどう考えても身体能力が高い。3年間寝たきり生活を経てリハビリ真っ只中の自分じゃあそう長くは逃げられない。
しかしあの小男はレザーフェイスのトコに連れて行くといった。
路上生活をしている小汚い男でも子供一人を引きずって行ける程度には近い場所に居ることは間違いない。
背後から相澤の声が聞こえたが、土地勘が無い場所の、しかも細い路地で逃げる子供を追うのは容易いことではない。
しかもそこら中にホームレスが居て、店の看板やらポリバケツやら粗大ごみやらが道も視界も塞いでいる。
「クソッッどこ行った!!!」という声が背後で上がるのを聞きながら、気配を消してさらに路地を曲がり、リバーシブルのアウターを裏返して、予め用意していた帽子に髪を詰め込んでマスクを付ける。
GPS付きのスマホの電源を落として背中を丸めれば細身の身体は路地裏の薄暗がりに紛れる。
さて、ここからだ。
燈矢は足を踏み入れたことも無いアングラな雰囲気に気を引き締めた。
相澤があんな提案に頷かないことは予想していた。情報を落としてくれたらラッキー程度で、プロヒーローが易々と子供に舌を滑らせるなんてハナから期待していない。
あくまでアイツは何かあった時の保険だ。
オールマイトから自分が3年間過ごした孤児院がヤバい場所の可能性があるとは聞いた。
そもそもあの頭サンサン野郎と画面越しにナメた口を叩いた野郎がヤバいヤツであることは言われなくても分かる。あんな口調で話すヤツがヤバくない訳が無い。
そこから逃げて情報をオールマイトに流した自分が、何らかの危険な目に遭う可能性が高いことも、分かっている。
そもそも子供を売ろうとするホームレスが普通に居るような場所だ。未成年の自分がこんな場所に近寄るべきじゃないなんてバカでも分かる。
しかしそれでも、何も知らないのは嫌だ。護られるばかりも嫌だ。
家の中で言われた儘に行動するのも性に合わない。
それで大人しく出来るような性格ならそもそも瀬古杜岳を焼いちゃあいないのだ。
「ヤバくなっても近くに相澤いりゃなんとかなるだろ。エンデヴァーにも勝てるとか大法螺ふいたんだし」
ぼやきながら、まずはと手近に居た立ちんぼの女に「すみません。レザーフェイスって知ってますか?」と、母似の自分の顔が美しく見えるよう首を傾げながら囁いた。
女はハズレだった。ムカデのタトゥーが入った指で煙草を咥えて、「ガキは家に帰んな」と鼻で笑った。
隣の路地に蹲っていたホームレスの男はアナグマの頭をしていて、「名前は知ってるけど居場所は知らねぇ」とぼやいた。
バーの前で死にそうな顔をしていた未成年の女は「知るかよ」と呻きながら殴られていた。
そいつを殴っていた両腕が蛇の男は「アイツ嫌い」と子供っぽく唸った。
次もハズレ。
次の次もハズレ。
6人目に大当たりが来た。ソイツは草臥れたジャケットがよく似合う中年だった。
スクランブル交差点を見回せばドッペルゲンガーが5人は捕まりそうな顔だ。刺身のツマみたいな男である。
男はレザーフェイスについて聞くと「あ、私、これからレザーフェイスの所に行くんです……」と後ろめたそうな顔でもごもごと応えた。
内心ガッツポーズを決めながら、「一緒に行っても良いか?」と如何にも心底困っている少年らしい顔を作った。
「レザーフェイスに聞きたい事があるんだけど、一人で行くのは不安で。場所もよく分かんねぇし」
「あ、ええ、ええ!そうですよね!そうです。僕も不安でしょうがなくって。此処は治安が悪いし、空気も悪いし………場所は分かるんですけど、それまでに襲われやしないかって………」
「じゃあ一緒に行こう。2人の方が何かあった時に安心だしな」
胸を撫で下ろした男は如何にも十把一絡げのリーマンらしく、怪しい感じはしない。
ふにゃりと無害な子供らしく顔を緩めると男の顔は呑気な印象を強くした。
「君は子供なのにしっかりしてるなぁ。僕ァどうにも、暴力はからっきしで……」
ウフフフ、と気の抜ける笑い声を漏らしてポテポテ歩く男の後ろをついて行く。
男は臆病そうな声の割に身長は高かった。
足元を埋める空き缶やら雑誌束なんかを危なっかしい足取りで避けながら、路地の奥へ進む。
奥に進めば進む程に路地の両端に並ぶ店は薄暗い雰囲気を帯びる。
肌の露わな女がガラス窓越しに手を振る風俗店。立派な門構えの割に薄汚れたバー。蜘蛛と埃に圧し潰されそうなアンティーク雑貨店。罵声。痴話喧嘩。嬌声。
以前はこういう店への規制も厳しかったそうだが、個性社会の発展と共に人間の欲は多様化した。
そうなると当然、欲を発散する場所も多様化の一途を辿る。ニッチな需要は違法スレスレの店を表社会から庇護し、市場規模は拡大し続け、現在は日本各地に歓楽街があるらしい。
レザーフェイスもそんな店の中の一つとして人々の需要を満たしているのだろう。
頭が痛くなるような空気を吸いながら何分歩いただろうか。男は明日にでも倒壊しそうなアパートと、密造酒でも売っていそうな酒屋の間で口を開ける隙間の前で漸く足を止めた。
死にかけの蟻みたいに弱弱しい声を出す。
「ここだって聞いてるんだけど……この、下に……暗いなぁ」
「俺が先に行く」
掌に蒼い炎を灯す。隙間を照らすと地面の下へ向かう階段があった。
カビとアルコール臭にウンザリしながら降りる。黒い木製の扉が白熱電球に照らされて暗闇に浮かんでいた。
「アンタは後ろを警戒しろ。変なヤツが居たら教えてくれ」
「う、うん」
扉の向こうに気配は無い。監視カメラも、確認出来る限りでは無い。
ノブを捻る。蝶番が錆びているのか、扉は軋みながら開いた。
扉の内側はこざっぱりしたアパートの一室だった。隣のアパートの地下にあたる部屋らしい。
壁も床も清潔感のあるリノリウムで、靴箱の上には手指消毒用のアルコールがある。
その隣には『御用のある方はこちらに御記名をお願いします』とピンク色のポップが壁に貼られていた。アンパンマンの顔がついたボールペンと、飾り気のない記名用紙が置かれている。
うらびれた路地の奥と知らなければ市内の歯科医院かと思っていただろう。
燈矢はポップを無視して中に入った。
次の瞬間に意識を失った。