────ポコポコ、ボコボコ。泡立つ音。
────ドクン、ドクン。脈打つ音
────サリ、サリ、シャリ。果物の皮が剥ける音
ファン、ファン、ファン、ファン
…………これは、何の音だ?
視界が薄暗い。
瞼が浮腫んでいて、視野が狭くなっていた。
必死にマバタキすると、狭い視野の中央に巨大なポンプが浮いている。ポンプには透明なチューブが繋がっていて、部屋の四方へ伸びていた。
濁った淡黄色の液体がチューブを通り、巨大なポンプに吸い込まれ、ろ過され、透き通ったシトリンになって、再び循環している。
「───ケンタ君は凄いねぇ。もう個性が発現したんだ。まだ6週なのに早いなぁ……ユキコちゃんは焦らなくて良いからね。あんまり焦ると、ほら、ダイキ君の脳、ぷくぷくしちゃってるでしょ………子供はゆっくり大人になるべきだと僕ァ思うんだよ……」
「……う、」
「さてお楽しみ今日のニュース。エンデヴァーの新作カレンダーが発売だって……キララちゃんはエンデヴァー嫌い?でも、タイガ君はエンデヴァーのファンだって。だからそんなこと言っちゃァいけないよ……」
「、ぅ、ごッ、ハぁ……」
「……そうだねアオバ君。うん、難しいんだ。ならどうすれば良い?」
「……ァ、は。、?」
「そう、産まれた瞬間に死ねば良い。賢いね。そうすれば苦しまない。争いは起こらない。最初から最後に居れば、最初なんて要らない───結局、それが平和なんだと僕は思うんだよ……」
眼を覚ますと手術室のように清潔で広い空間の真ん中に居た。
周囲を見回すと、卵状の丸いガラスのようなものが何百と並んでいる。
その大きさは掌に収まる5cm程度のものから、数mはあろう巨大なものまで様々である。
卵にはチューブが繋がっていて、淡黄色の液体をポンプで循環させていた。液体には、何か、肉の塊のようなものが浮かんでいる。
その肉に燈矢は産まれたばかりの焦凍を思い出した。
母のおっぱいに吸い付く焦凍はシワクチャのサルみたいな顔をしていた。
幾つかのガラスの中に浮かぶ塊はあの頃の焦凍によく似ていた。
しかしそうではない肉の塊も多い。
殆どはもっと冒涜的である。
拳大の脈打つ眼球。
虹色に回転する4つ又の蛇の首。
3秒毎にラテン文字が浮かぶアポロニウスのギャスケット。
虫を吐く8つの口を持つ福音書。
無数の眼球で覆われた4輪の塊。
どう見ても成人男性の体躯にくっついている、どう見ても赤ン坊の頭。
そんな肉が卵の中に浮かんでいる。
壁を見れば、広大な一面を丸々使って『トムとジェリー』のアニメがプロジェクターで映されていた。
大小さまざまな肉塊はジェリーを追いかけるトムを観ながら楽し気に脈打っている。
悪魔の増産現場としか思えない有様だった。
ハーッ、ハーッ、と短い息を繰り返しながら、部屋を見回す。
手を伸ばせば届くだろう位置にロココ調のテーブルセットがあった。
テーブルにはやはり卵型のガラスが置かれていて、中には大きな眼球が浮かんでいる。
猫足の椅子に深く腰をかけた男が一人、ティーカップを傾けながら、リンゴをうさぎ形に剥いていた。
「あ、お早う、燈矢君。目が覚めた?」
「ッ、は、」
「リンゴ食べる?ア、無理はしないでね。軽い麻酔薬だから大丈夫だと思うんだけど、ちょっと嘔気が残ってるかもしれないから……」
タハハハ、と男は申し訳なさそうに笑った。
お父さんに見捨てられるとか、3年間昏睡状態だったとか、そこらの高校生よりロクでもない目に遭った自負はある。しかし生理的な怖気で体が震えるのは初めてだった。
こちらを優しく見つめる男は刺身のツマみたいなツラをした男だった。
ホラー映画の殺人鬼みたいに目が血走っている訳でも、狂気的に笑っている訳でもない。リーマンらしく若干皺の寄ったシャツを着て、ルイジボレッリのネクタイをプレーンノットで締めている。
休日には愛車のワゴンで家族を海にでも連れて行っていそうな丸い顔だ。
それが地獄の底みたいな光景にあると酷い不協和音がする。
手足は椅子に拘束されている。しかし縛っているのはゴミを纏めるのに使っていそうなビニール紐だ。簡単に燃やせる。
しかしどうやっても個性が発動しない。男がウフフ、と卵型のガラスを撫でる。
「無駄だよ。ケンタ君が見てるからね」
「っ、ケンタ?」
「そう。相澤消太のお子さんだよ。ほら御挨拶」
「こんにちわー!」と、幼稚園の先生がするように元気な挨拶をしながら男は眼球の入ったガラスを掲げた。
個性を発動した相澤と同じように、眼球が赤く光っている。
「、ハ………う、嘘ついてんなよ。その、その眼球が?……ありえねェ……つか、あいつはミスってガキこさえるタイプじゃねぇだろ………」
「どんな経緯であれ生まれた子供をミスって呼んじゃダメだよ。子供には何の罪も無いんだからネ……マ、ホントのことを言っちゃうと、彼ってば近接戦闘がメインだから病院のお世話になることが多いんだよ。ソコで拝借した彼の遺伝子情報と、中国の奴隷市場で買った『眼球』っていう個性の娘の遺伝子情報が運命的な出会いを果たした結果がこの子さ。瞳がおっきくてキュートでしょ♡」
「………気持ち悪ぃ」
「そんなコト言っちゃだめだよ───僕はね、“僕の子供達”への悪口は禁止にしてるんだ。原罪を持たない人間にきちゃない言葉を与えたくないのさ」
男はガラスを机の上に優しく置き、人好きのする笑みを浮かべた。
「さて、もう気付いているだろうけど、僕がレザーフェイスだ。妻が一人、子供は沢山。趣味は美術館巡り。年齢は41歳で仕事は産婦人科医。以上、自己紹介終わり。社会人の自己紹介ってロシアンルーレットみたいだよね。殆ど自殺行為なんだから」
「此処は何処だ」
「うん、実は君のコトは大体知ってるんだ。だから僕達はもうお友達だよ。友情ってコカインだから定期的に摂取しないと禁断症状で頭がおかしくなるんだ。コカインサーバーのお友達は大切にしなきゃネ……」
会話が通じない。
レザーフェイスは燈矢の言葉を古びた洗濯機の騒音みたいに聞き流して、「分かってる。君のお母さんだろう?」と唐突に話し始めた。手の中では器用に動くナイフがリンゴの皮を剥いている。
お母さん。燈矢の眼がカッと開いた。
「っ、テメェッ、お母さんに何をした!!」
「仕事の依頼を受けた。僕は仕事を問題無く終わらせて、その報酬を貰った。オーバー?」
「仕事!?テメェの仕事……っ、て、」
声が失速する。周囲を見る。
異形の胎児の群れが人工子宮の海を泳いでいる。
コイツは、あの眼球は相澤の子供だと言った。『抹消』に『眼球』の個性を掛け合わせたのだと。
それがコイツの個性で、コイツの仕事なら。
お母さんの「仕事の依頼」は。
焦凍は。
「うん。君の予想通り、僕の仕事は注文通りの『個性』を持つ受精卵を作製すること。ご希望があれば母体に移植することも出来ますし、プラス180万円(税込)で出産までこちらでお育てするサービスもございます。凄いよね。『ガタカ』っていう映画知ってる?」
「………ぁ、」
「イマドキの子は知らないよねェ。古い映画だから」
神の御業を見よ。神が曲げたものを誰が直しえようか。
レザーフェイスは旧約聖書を謳い、「轟焦凍は僕が作成した子だよ。轟冷さんから依頼されてね」と喋りながらウサギのリンゴを皿に並べた。
シィンと静まりかえった部屋に、ジェリーを追い回す怒り狂ったトムの鳴き声が響く。
燈矢は静かに瞼を閉じて、一度呼吸を吸い、深々と吐いた。
カツカツと踵で床を叩く。
カツカツ、カツカツ。
ポンプがファンファンと鳴きながらガラス内部の溶液を濾過して、戻している。
ガラスの内側で胎児が踊っている。
あの中に焦凍があった。そうなるべくして作られた卵が敷き詰められている。リンゴの皮が床に無惨に捨てられる。
神の御業を見よ。
「───そうかよ」
「思ったより驚いてないね」
「………ヤ、驚いてる」
素直に言葉を吐いた。取り繕う余裕が無かった。
しかし、納得もしていた。
「そうだよな。半冷半熱なんて奇跡的な確率だ……4回ガチャ回しただけでSSRが出るかってんだ。そう……そうだな」
うん、うん、と頷く。
焦凍を産む前の、死人より顔が白いお母さんの顔を思い出した。
あれだけ追い詰められて、3人も産んで、次が自分みたいな失敗作だったらお父さんに何をさせられるか。あと何回続けなければならないのか。
想像を絶する恐怖であっただろう。命の危機を感じただろう。
金を出せば確定ガチャを引けるってンなら、そりゃあ、縋ってもしょうがない。しょうがないだろう。
そう。その程度なら、しょうがないと思えてやれる。
「僕の方が驚いた。メチャクチャキレると思ったのに」
「……だって、お母さんが自分で、自分の子じゃないのを産むって決めたんなら……」
「ん?」
「……つまり、アンタが卵子を用意して、お父さんの精子と掛け合わせたんだろ。それをお母さんに売って、お母さんの胎で育てたんだろ」
そう。それなら、それはお母さんの自己責任だ。自分には関係無い。
焦凍がお父さんの子供であることが変わりないのなら、諸々の問題はお母さんの罪悪感だけに集約される。
その程度なら「まだ」許せる。
「焦凍が俺の弟ってコトに変わりはねぇんだ。なら、俺には関係無い」
「~~~~っぷークスクス」
レザーフェイスは女子中学生みたいな仕草でコショコショ笑った。
心底不快感を煽る笑い方だった。
「っあーオモシロ。そうか、そうか、つまり君はそんな奴なんだな。ねぇ、普通は母体より父親の方に行くモンだけど、思考にブレーキが掛かってる?認めたくないというよりそもそもの発想が無い感じ?」
「何が言いたい」
「いや、いいのよいいの。早めに精神科受診なさいね。僕に言われちゃうってかなりヤバいよ君」
何を言われているのか分からないが、しかしバカにされているのは確かなようである。
「何が言いてぇんだ」と恫喝するより先に、さてさて、と男は果物ナイフを握り締めて立ち上がった。
そのまま燈矢の太腿にナイフを突き刺す。
「、ッア?」
「君みたいな絵画を知ってるよ。五尋の深み。好きな絵だ。だからきっと僕達は良い友人になれる。安っぽい青春映画みたいに。楽しいね?」
レザーフェイスは鼻歌を歌いながらナイフを引き抜いてジップロックに仕舞った。
パタタタタッ、と刃先から落ちた血が床に滲んだ。どこか遠くで、自分の喉がヒューッ、と変な音を立てて軋むのが聞こえた。
痛みと言える程に鮮烈な感覚は無い。刺された太腿がジーンと焼け付くように痺れている。
しかしジーンズの隙間から真っ赤な血が噴き出ているのを見ると足が痙攣して止まらなくなった。
冷や汗がシャワーみたいに滴り落ちる。視界がきゅうっと狭まって、部屋が2段階は暗くなった気がした。
「、、さ、刺ッ、ハ、え……え?」
「?うん。刺したね。あ、リンゴ食べる?」
レザーフェイスはウサギのリンゴを燈矢の口の中に押し込んで、「そろそろだなぁ」と疲れた声を出した。
「気が滅入るよ。僕、出不精だからさぁ。人見知りもするから旅行はあんまり好きじゃないんだ。家じゃない場所に泊まるのが何となく嫌」
「っ、エッ、は、」
「燈矢君も同じタイプだと思うんだけど、分かる?なんか安心できないんだよねェ」
止血しないと。
そう思うが、手足は縛られていてどうしようもない。何より力が入らない。
そこまで酷い出血ではないし、痛みもそこまで酷くはないのに、震えが止まらなかった。
何故か目から涙が出た。
パタタタタ、と、無表情のまま涙を落とす燈矢の横で、レザーフェイスは唇を嫌そうに突き出した。
「あ~そろそろ来るなァ……いや早いしコワ」
レザーフェイスはスマホを取り出して、何やらぶつくさ文句を言いながらポチポチ入力し始めた。
そうして数分もしない内に「これで善し」と笑って、その場に仁王立ちになる。
「ここらへんかなァ……トムとジェリーってさ、ハンマーでたたき潰されてペラペラになってもすぐに戻るよね。あれって何でだと思う?」
「ふ。う、ぐ、」
「燈矢君よりアキコちゃんが早かった!そうだね、アニメだからだね。ホント、羨ましいよ。僕もアニメの住人になりたいもんだ……」
そう言って笑った次の瞬間に扉がぶち破られた。
鍵ごと扉を破壊したのは相澤だった。
相澤は部屋に飛び入って、そのままレザーフェイスの真正面へ跳躍し、横っ面をぶん殴った。
レザーフェイスはオモチャみたいにぶっ飛んだ。
そのまま卵状のガラスに顔面から激突する。
卵状のガラスが砕ける音が響き渡り、床に淡黄色の液体と蠢く肉片が零れ落ちた。
のた打ち回るレザーフェイスを相澤は一瞥もせず、椅子に縛られた燈矢に駆け寄った。
「燈矢。おい、おい。しっかりしろ!怪我は?」
「っ、う……あ、足、あ、、さ、さされ、刺されて、」
「止血するぞ、耐えろよ」
相澤はポーチから取り出した捕縛布で太腿の刺し傷を思いきり縛りつけた。
それが刺された時よりも遙かに痛くて、「ゥア゛ッ」と腹の底から大声が出る。
燈矢が落ち付くように相澤は背中を撫でてやりながら、全身を確認した。
「他に傷は?」
「な、ない。多分……」
「救急車呼んだからな。もう大丈夫だ。動くなよ」
背中を若干乱暴に撫でられると、ずっと荒く短かった呼吸がゆっくりと落ち付く。
そこで漸く燈矢は全身が酷く強張っていたことに気付いた。信頼の出来る大人が助けに来たことで、極度に緊張していた身体が解けたようだった。
そうすると太腿の痛みが酷くなる。傷を締め付けていた筋肉が緩んだのかもしれない。
「い、痛い、相澤、痛い……」
「うん、うん。手足解くからな。痺れてるか?」
「し、痺れてる、足、足が、動かね、」
「拘束されてたせいだ。大丈夫、すぐ治るよ。俺はあのクソ野郎を捕まえてくる。すぐに戻るからな。ちょっとだけ此処で待ってられるか?ン?」
小学生を相手にしているみたいな優しい口調に心底安堵する。情けないなんて思う余裕は無かった。
首を縦に振ると、相澤は「良い子だ」と柔らかに笑って頭をくしゃくしゃに撫でた。
そして燈矢に背を向けると途端に温度の無い顔になる。
相澤は地面に突っ伏して痙攣していたレザーフェイスの腹を蹴って仰向けにした。
レザーフェイスは頬とコメカミにガラス片を突き刺したまま「キャハハハハ!」と、甲高い声で笑った。
笑い声が部屋に反響して、ガラスの中の肉塊が怯えるように震えて縮こまる。
「ッあー凄い。やっぱ僕って頭悪いなァ。気付けなかったなんて……AFOは手回し良いよ」
「………レザーフェイス。本名、幸綱螺旋だな。傷害の現行犯だ、言い訳効かねぇぞ」
「?僕は何も悪いことはしてませんよォ?」
きょとんと無垢な子猫の顔で、レザーフェイスは床に落ちたリンゴを齧った。
途端に突き刺さっていたガラスの下から肉が盛り上がる。動画を逆再生するようにガラスを身体の外に排出し、傷跡も残らない。
「この部屋にカメラは無い。燈矢君に怪我は無い。それがどうして現行犯なんです?」
相澤はリンゴを見た。次に燈矢を見る。
「……燈矢、リンゴ食べたか?」
「あ、ウ、うん」
「そうか。後で病院で検査しような」
「酷いな、悪いもんじゃァないです……キララちゃんの個性でね、3分以内に受けた怪我を治す効果を食べ物に付与できるんですよ。てな訳で、燈矢君がリンゴを食べる前に怪我をしていたかどうかなんてのは悪魔の証明になっちゃうってコトで……」
「アイツの足にべったり血がついてんだよ」
「そのくらいならそちらのお嬢さんがどうにでもォ」
「───動くな」
疲労に浸かった声だった。
レザーフェイスが演技染みた挙動で一礼する。
扉から入って来たその女に相澤は眼を見開いた。燈矢もテレビ越しに見たことがある女だった。
「レディ・ナガン。おい、何で」
「………こいつは公安の協力者だ。傷害罪はそちらの方だ、イレイザーヘッド」
ぴゅい、と場違いな口笛が呑気に響く。
レザーフェイスを睨むレディ・ナガンの顔は死体に似て白かった。
■ ■ ■
燈矢と相澤は病院へ搬送された。
精神的に不安定な燈矢のためにイレイザーヘッドへ同道を命じたとのことだが、アングラヒーローという面倒な相手を引き剥がしたようにも思える。
レザーフェイスは留置所で拘留。
レディ・ナガンは取調室で事情聴取となった。
塚内は通り一遍の質問を受けるレディ・ナガンを取調室の隅から見ていた。
平坦な声で質問をする取調官の顔は知っている。公安の下っ端だ。
ヒーローへの取り調べということで態々派遣されたらしい。
男は淡々と調書を取っているように見えて、意識はこちらへ向いている。カメラの位置を気にする俳優のようだと思い、それはあながち間違いでもなかった。
「ハッ」
小さく笑った塚内に2人は演技を止めてこちらを見た。
「いや、失礼。続けてくれ」
口を掌で覆う。ここまであからさまだと笑うしかない。
大量の人工子宮でデザイナーベビーが量産されていたという、ショッキングな事件が発覚した直後とは思えないくらいに署内は平穏である。
いっそ普段よりも大人しい。嵐が過ぎ去るのを待つ小動物のように惨めったらしい有様である。
レザーフェイスに関して上層部から緘口令が敷かれているせいだ。
じろりとレディ・ナガンを睨む。女の瞳には何の力も無い。
取調官が退席すると、彼女はパイプ椅子の背もたれをギシギシ揺らした。
菖蒲色のびろうどのような美人がそうすると妙な迫力がある。
「………轟燈矢への傷害については何の証拠も無い。加えてレザーフェイスは政府からの依頼を幾つも抱えている。時間の無駄だったな」
「あれだけ血がべっとり付いてて証拠が無いだと?それにあの部屋は何だ。あんな悍ましいヤツを放し飼いにするのが公安のやり方なのか?」
「あの場所は生殖医療提供可能な医療機関として申請が通っている。幸綱螺旋は医師免許と産婦人科専門医資格を持っていて、人工子宮の使用に関する法令は日本には未だ無い。つまり、全て合法だ」
「イレイザーヘッドの遺伝子から作製した胎児が居たというのは?彼は精子提供をした覚えは無いと証言している。これは生殖医療法に抵触する」
「あの胎児が本当にイレイザーヘッドと遺伝的な関係があるかは遺伝子検査をしなければ分からない。そしてあの胎児は………重篤な先天性疾患だ。消化器官も、呼吸器官も、脳も無い。人工子宮の外に出されれば数秒ともたずに死ぬ。倫理的に考えれば遺伝子検査は不可能だ。つまり、証明が出来ない。ならば違法とは言えない」
平坦な声に舌打ちする。
ヒーローに対して悪感情は抱いていないつもりだった。
しかしこうまでヒーロー業界の裏の面を目の当たりにすると怒りが滲む。
「貴女はヒーローでしょう。それもチャートトップ10の常連だ。何故あんな奴を庇う。とても貴女の本意とは思えない」
「ヒーローの仕事はヴィランの拘束まで。罪の量刑は範囲外だ」
「そんな話はしていない!」
塚内は机を殴ってレディ・ナガンの顔を覗き見た。
パテでも塗りこんでいるようにのっぺりしている。ファンサが手厚いイメージは無いが、少なくともメディアの前では笑って手を振る程度の愛想はある女だと思っていた。
今は無様の一言に尽きる。
「………ヒーローの中には公安からの出向が混じっていると噂で聞いたことがある。貴女がそうなのか」
「『個性』の特性上、警察と協力する機会が多いだけさ。裏切り者のように言われるのは心外だよ」
「どうしてレザーフェイスを庇う。確かに理想の『個性』を持つ子供が欲しい夫婦にとっては重要人物だろうが、政府がそこまでアイツを囲い込む理由は何だ」
「知らないな。私は偶然その場に寄っただけだ。任務でも何でもない」
「それは嘘だ」
「根拠は?」
「私の個性は『嘘発見器』だ。少なくとも、「任務でも何でもない」訳ではないな?」
断定口調にレディ・ナガンは眉を顰めた。
「『個性』の使用による尋問は、」
「警察には認められていない。だから調書には書けない。しかしそれだけだ」
「───この部屋の中での会話だけだよ筒美君。私も彼も、公安を敵に回すつもりは無い」
扉を静かに開けて一人の男が入って来た。
オールマイトだ。
突然の大物にレディ・ナガンは弾かれたように立ち上がった。
「、ッハァ!?何故貴方がッ」
「そういえば君とこうして話すのは久しぶりだね」
緩やかに微笑んで、オールマイトはレディ・ナガンの真正面に座った。
促すと、眉間に皺を寄せて心底嫌そうに座り直す。
取調官や塚内を前にした時とは明らかに様子が違った。意図せずして最悪のトラップを踏み抜いた顔をしている。
「デビューしたての君と現場で会ったのが最後だったかな。君はいつも忙しいから」
「……貴方には負ける」
数回の呼吸で平静を装ったレディ・ナガンを見つめる。
こちらの視線に暫くは耐えていたが、数秒もすると唇を噛み締めて顔を背けてしまった。
それはこれまで幾度も見たヴィランと全く同じ仕草で、悲しくなった。
後ろめたいことがある人物は自分の視線を受けると頭と胸が痛くなるらしい。それが苦しくて、耐え切れずに眼を背けてしまうのだと。
背けたレディ・ナガンの美しい横顔を見た。
「うん。でも忙しさにかまけて君の苦悩に気付けなかった。それは私の落ち度だ」
「社会で起きる全ての問題は自分の責任だとでも思っているんですか?傲慢が過ぎる」
「自分の責任とまでは思っていないよ。ただ、私に出来ることがもっとあるんじゃないかと常に思っているだけさ。性分だよ」
「病気ですね」
「そうかもね。先天性のものだから治りようもない」
手をひらひらと振ってHAHAHAと笑う。
「君が公安に利用されているのは分かった。レザーフェイスを庇ったのも公安絡みだろう。それはそれとして、どうして燈矢君がヤツに捕まったタイミングで君があの場に居たんだい?」
「あの子供については偶然ですよ」
「嘘じゃないな」
塚内が頷く。
レディ・ナガンは忌々しそうな顔で塚内を睨み、渋々と口を開いた。
「公安は孤児院で頻発している人身売買について独自で調査を進めている。その過程で轟燈矢の身柄も、彼の安全のために確保したいと思っている」
「それは嘘だ」
「チッ……人身売買については慎重な調査が必要だ。大きな組織が動いているのなら、表立って動くのは余計な被害を生みかねない。轟燈矢を目立つ貴方の元で暮らさせるのは最善手とは思えない」
「そのために公安で囲い込みたいと」
「違う。エンデヴァーの元に戻せば良いだろう。少なくとも私はそう思う。公安の意図じゃない……薄汚い事件に子供を巻き込むなよ、ヒーロー」
煙草が欲しいと嘯いてレディ・ナガンは掌で顔を覆った。
「公安は轟燈矢に興味は無い?」
「全く無い訳ではない。しかし貴方の機嫌を損ねてまで動く程ではない」
「人身売買とレザーフェイスは関連があるのか?」
「知らん」
「どうして公安はそこまでレザーフェイスを護る。ヤツによる利益はあるにしろ、君という札を切ってまでやる事か?君が軽々に動いた結果、君が公安と繋がっているということが我々に知られてしまった。それを些事と流せるような事がヤツにあるのか?」
「……詳しくは知らない。本当だ」
塚内を見る。首を縦に振った。
「嘘じゃない」
「……君は公安に言われて動いただけで、レザーフェイスが公安に何の仕事を任されているのかは知らない?」
「知らない」
「そうか」
つまりレディ・ナガンは公安、もとい政府の駒であって、殆ど情報は与えられていない。
息を吐く。自分の足元で年若いヒーローが利用されていたとなると業腹である。
「レディ・ナガン。君に私の助けは必要かい?」
「不要だオールマイト。貴方の貴重な時間は私より救われない人々のために使うべきだ」
声は素晴らしく毅然としている。背筋は凛と張っていて、キリリと音の聞こえる美しさである。
しかし3km先すら射抜く瞳は澱んでいた。死体の方がまだ生き生きとしているだろう。
「私は自分が救える範囲全てを救うつもりでヒーローをしている。今の私の視界には君より救われない人は映っていない」
「一応、私は自分が正しいつもりでやっている」
「私は自分が正しいとは思っていないよ」
塚内の懐に手を突っ込んで煙草を貰った。
「私が2秒遅れたせいで土砂災害に巻き込まれて死んだ少女。私が捕まえた後に獄中で自殺したヴィラン。私が摘発した犯罪組織で働いていた、ただの掃除夫。彼はその後就職も出来ずホームレスになった。眼を瞑るとそんな事ばかりを思い出す」
「傲慢極まりない人だ」
「そうかもしれない。私は傲慢な男で、正義ではない」
マールボロを一本差し出すと、レディ・ナガンは鬱々とした眼のまま受け取って口に咥えた。
「私は平和を求めている。正義の名の元であらゆる暴力が肯定されてきたことを考えると、暴力によって平和を求める私は、どうあっても正義だけは名乗れない。真の正義とは、きっと、力を行使しないものだと思う」
「………今日日幼児向けアニメの主人公でも暴力を揮うさ」
「そりゃあ勧善懲悪には暴力が一番分かり易いからね。ヴィランを暴力で倒すことを否定したい訳でもない。ただ、そうだね。自分に嘘は吐けないって話だよ」
指を強く擦ると摩擦で火が起きる。
レディ・ナガンは呆れた顔で「物理法則……」とぼやきながらも火に顔を寄せた。
白い顔で煙を吐く。
「自分が正義だと思っていないのなら、何故貴方は迷わない」
「人の役に立つのが嬉しいからだよ。正しいからやってるんじゃない。人を助けたいからしているんだ」
「ハッ、ホントに病気だな」
「うん。でも、多くのヒーローが私と同じ気持ちを持っていると、私は信じている」
レディ・ナガンは眼を細めて紫煙を見上げた。
そうして、ふ、と空気が抜けるように笑う。
「………米軍基地で事件が起こった時、貴方が許可無しで踏み込んで外交問題にまで発展したことがあったでしょう」
「HAHAHAHAHA!!あったね!!」
「あの時、キレた上層部がオールマイトの暗殺計画を練った」
よくある笑い話のようにぼやく。
暗殺という単語に何人かのヒーローの名前が脳裏に浮かんだ。
世間体に都合の良いタイミングで死亡し、事故死や殉職として処理されたヒーローを何人か知っている。
「まさか君は……何度も?」
「さあ。どうかな」
エッジの効いた美貌を崩すように笑う。
塚内を見る。静かに彼は首を横に振った。YesでもNoでもない誤魔化しに『嘘発見器』は作用しないらしい。
レディ・ナガンは煙草を握りつぶした。
「レザーフェイスについて、本当に私は何も知らない。ただ政府はヤツに何かを作らせている」
「何か?」
「多分、特殊な『個性』を持った胎児だ。間違いなくロクでもないヤツさ………私はそろそろ帰る。もう良いんだろう?悪いが仕事が溜まってる」
「筒美君、君には助けが、」
「貴方は社会に必要だ」
レディ・ナガンの人差し指がオールマイトの額を指す。
指はそのまま緩く開き、自らの胸を叩いた。
「そして、私も必要だ。オールマイト、貴方は私に成り得ない」
「………君はそれが嬉しいかい?」
「まさか」
細い肩を大袈裟に持ち上げた。
「絶望的だ。でも、これでも、私は未だ自分が正義だと信じていたいんだよ」