「一体何なんださン……僕は何も知らないさン。確かに家出する子は居るけれど、人身売買なんて有り得ないさン」
「嘘」
「お金なんて要らないさン。子供達の笑顔の方がずっと大事さン。ヒーローとして当たり前さン!」
「嘘だな」
「僕はあの子達の父親代わりだといつも思っているさン。おねむり君は特にケアが必要な子で、居なくなってからずっと心配してたさン………」
「これも嘘」
「AFOとかレザーフェイスとか知らないさン!早く帰して欲しいさン!子供達がお腹空かせちゃうさン!」
「すごいなコイツ。ずっと嘘しか言わない」
『───以上が塚内警部からの報告だ。オールマイトから情報共有の指示があったので一応伝えておく』
「孤児院はAFOとレザーフェイスの両方に繋がってたって訳ですか」
3年間もそんな孤児院に居てよく無事だったものだ。
オールマイトに保護されていなかったらと思うと相澤は肝が冷えた。あと少しでも遅れていれば、どこぞに売られていたか、バラされていたか。いずれにせよ碌な末路ではなかっただろう。
『とはいえ、塚内警部の個性では「嘘」かどうかしか判別が出来ない。細かい内容を自白させるのは難しい。が、あまり突っ込んだ質問をすると』
「『嘘発見器』という個性がバレてだんまりを決め込まれるかもしれない」
『そうだ。リスクを負うよりは長く拘留して、口が緩むまで徹底的に喋らせる方がより確実だと判断した』
「……そりゃあしょうがないですが」
今この時にも犠牲になっている子供がいると考えると歯痒い。
「孤児院の子供達の調査は」
『もうしている。しかし尻尾が中々出ない。一応、罠は張っているが』
「罠?」
『詳しくは言えん。オールマイトは貴様を信用しているようだがな』
お手本のように嫌味ったらしい溜息が耳を突く。
ミステリー小説だったら序盤に殺される見本例のようなヤツだと思った。
『オールマイトには人を見る目がある』
「はァ、左様で」
『彼が信用できると判断した人物はほぼ間違いなく信用出来る。的中率は100%。オールマイトはここぞという時の人選を必ず間違えない』
「SKの人選には割と疑問がありますがね」
『だが、いくらそのオールマイトの判断とはいえ、貴様のような大して実績も無い新人を私が易々と信じることは出来ない』
「つまり?」
『………一度、貴様の予知をする。それで信じられると判断できれば全てを話そう』
喉奥にモノが詰まったような物言いである。
オールマイト事務所が抱える秘密は多い。相澤が今関わっているのはその中の一つらしかった。
「全てというのは、話に出て来たAFOとかいうヤツのことも含まれるんです?」
『さあな』
「煮え切らねぇな。オールマイトの秘密主義がうつりましたか」
『ヒーローにはユーモアが必要だが、多弁は禁物だ。アングラヒーローなら尚更ではないかな?』
プツリと電話が切られる。
相澤は唇を突き出して、ナイトアイの電話番号を「嫌味メガネ」の名前で登録した。
どうやってオールマイトはこんな嫌味ったらしいヤツと二人三脚で事務所を回しているのだろうか。四六時中こんな態度のSKとチームアップしていたら眼鏡を叩き割りそうだ。
単に自分と相性が悪いだけなのかもしれないけれども。
頭を掻いてXを開く。オールマイトが北海道でヴィランと戦っている動画が丁度アップされていた。
「この様子じゃ今日も帰って来れないか。トップヒーローの実体は社畜かよ。夢も希望もねぇ」
「あ、相澤」
「へぇへぇ。何だよ」
振り向くと、隣の部屋で勉強をしていた燈矢がスマホを握り締めて突っ立っていた。
明らかに困惑した様子で「どうしよう」と視線を彷徨わせている。
尋常な様子ではない。「どうした?」と声を柔らかくすると、「ヤ、大した事じゃねぇかもなんだけど、」と珍しく言葉を濁した。
「何だよ」
「気のせいかもしんねぇし……」
「別に気のせいでも良いさ。ソコで止められると俺が気になる」
ン?と顔を覗き込む。燈矢は視線を迷子にしながら、つっかえつっかえ口を開いた。
「そ、れが、冬美ちゃんから……お父さんがお母さんに会いに行ったってLINEがあってさ。しかも、レザーフェイスの事、お父さんに言っちまったって」
「……マジかよ」
「イヤ、でも、普通に見舞いに行った可能性もあるだろ?なら俺が動いてもアレじゃん。邪魔にしかなんねぇかもだし……」
そうであって欲しいという懇願が声に滲んでいる。
急な事態に唇を噛んだ。轟冷とエンデヴァーは、轟冬美の様子からしてあまり良好とは言い難いのだろうが、それでも夫婦である。
夫が入院している妻を見舞うのはおかしなことではない。
しかしレザーフェイスの名前が出たというのが嫌な感じがした。
「エンデヴァーはこれまでお母さんの見舞いに行った事はあんのか」
「冬美ちゃんは無いって言ってた。でも冬美ちゃんが気付かなかっただけかもしれねぇし、分かんねぇ」
「冬美さんは何て?」
「電話したけど出ない。LINEは既読も付かない。夏君はトモダチん家に居るから全然事情が分かんねぇらしいし、家の電話には誰も出ない……なぁ、相澤」
「何だ」
「夫が入院中の妻を見舞うのって、フツーだよな。そう分かってんだけど、でも、でもさ。なんか、マジ、すっごい嫌な感じがするんだけど」
春とは思えない寒気に燈矢は体を震わせた。単なる気のせいだと相澤には言えなかった。
気のせいと流すには状況が不穏過ぎる。燈矢のスマホに着信は無く、LINEの陽気なトーク画面は微動だにしない。
燈矢はスマホをポケットに押し込んだ。そもそも待つのは性に合わない子だ。
周囲の状況が勝手に改善されるのを期待するより、瀬古杜岳ごと炎上しようが、着の身着のまま裸足で実家まで走ることになろうが、レザーフェイスに誘拐されることになろうが、取り合えず特攻を選ぶのが燈矢だ。
この3か月で精神的に成長してはいるが、泳ぐのを止めたら死ぬマグロみたいな生態は何一つとして変わっていなかった。
「お母さんにはさ、俺、ヤな事言って、それで終わりになってて……このままは嫌なんだよ」
何を言いたいのか察した相澤は時刻を調べた。この家から静岡の轟冷が入院している病院まで1時間強。面会時間にはギリギリ間に合う。
「夫だけじゃなくって、子供がお母さんを見舞うのも当たり前だよな」
「そうだな」
「冬美ちゃんはああ言ったけどさ」
「うん」
「───俺、お母さんのお見舞いに行きたい。今すぐに」
今度は振り切ったりしないからさ。
そう付け加えて、もう燈矢は玄関に向かっていた。
■ ■ ■
■ 轟家
焦凍の訓練最中、訓練場に冬美が乗り込んだ。
今までに無い事だった。
地べたに這いつくばって嘔吐している焦凍の真正面に立ち、「話があるの」と霜の下りた声を出す。
「今は焦凍の訓練をしている。後にしなさい」
「今じゃないとダメなの」
「後にしろ」
「イヤ」
淑やかな冬美には珍しい、頑なな態度だった。
「……何かあったのか?夏雄か、冷か、」
「違うわ。話しがしたいの。それと、焦凍にもうこんな訓練はしないで欲しい。もう見てらんない」
「緊急の要件じゃないなら後にしなさい」
「後って何時?どうせ焦凍の訓練が終わったら仕事に戻るか、ご飯食べて寝るかのどっちかでしょ。今、私は、お父さんと話したいの」
「次の休暇に時間を取る。今日は駄目だ」
「じゃあこのまま訓練を続けて。私はお父さんの炎で死ぬだろうけど、気にしないで続ければ良いわ」
背筋をパリッと伸ばして冬美は焦凍の前に立ち塞がった。
焦凍は穏やかな姉の突然の変わり様にぱかりと口を開けている。
エンデヴァーも思わず冬美の顔をまじまじと見据えた。
冬美は春先の雪のように美しい顔をしている。気性は冷に似て穏やかで、女らしく家族を支えることを喜びにする聡明な子である。
常に愛想良い顔をして、家事を厭わず、質素で謙虚。父親ながら今時珍しい良い娘だと思っている。
その冬美の淑やかな白い顔が、今は眼が吊り上がり、鮮烈に瞬いていた。
燈矢のような顔だ。冬美はこのまま焼かれても本望だと言わんばかりに毅然と背を伸ばしていた。
「………分かった。焦凍、訓練は後だ」
「ッ、」
今迄緊急要請以外で訓練が中断されたことは無い。
安堵するよりも先に焦燥が湧いた。今度は姉が父に殴られるのではないかという危惧が頭を過る。
しかし姉は鼻を鳴らし、「最初っからそう言いなさいよ」と小声で文句を言っていた。
「焦凍と夏君を連れてこの家から出て行きます」
部屋を移すなり、冬美は切って捨てるような口調で吐き捨てた。眉を顰める父に鼻を鳴らして図太い態度で座布団に座る。
普段の冬美とはあまりに態度が違った。反抗期にしては急すぎる変化だ。
思えば先日、オールマイトの所で燈矢を名乗る不審人物と会ってから冬美の態度はおかしかった。
良からぬことでも吹き込まれたのだろう。過酷な訓練から焦凍を助けるべきだとか、一度家から出た方が良いとか。
所詮は実態を分かっていない外野の意見である。しかしいくらしっかりしていても、幼い冬美が他人の無責任な言葉に翻弄されるのはしょうがない事でもあった。
「………家から出て何処に行くつもりだ。学校には行かなきゃならんだろう」
「おばあちゃんに聞いたら暫く居候しても良いって。学校は、2人には転校してもらう。私はお婆ちゃんの家の近くに進学する」
「母さんか」
父が死んでからの母は祖母に扱き使われていたが、祖母の死後は人が変わったように陽気になった。
最近では旅行だ趣味だと自由気儘に暮らしている。
「母さんは殆ど家に居ないだろう。保護者の居ない未成年が3人だけで暮らすのか?危険だ。何かあったらどうする」
「焦凍を虐待するだけのお父さんしか保護者が居ない家よりマシよ」
「虐待ではない。個性訓練だ。焦凍の個性は強い。己の個性を把握することは最優先事項だろう」
「そうなの?個性訓練って、お友達と放課後に遊んだり、家で安心して過ごしたり、毎日美味しくご飯を食べたりする事より優先するべきなの?焦凍、一度だってお友達と遊んだ事が無いんだよ。喉が爛れて碌にご飯も食べられてないんだよ」
「雄英に進学すれば同級生も焦凍に釣り合うレベルになる。わざわざ今の小学校で友達を作る必要はあるまい。時間の無駄だ。食事は、お前のおかげで必要な栄養は摂取出来ているだろう」
「友達って必要だから作るの?ご飯は生きるのに必要だから食べてるだけなの?……だったらお父さんがオールマイトに勝つ必要だって無いでしょ。オールマイトに勝てなくっても、お父さんは生きていけるんだから」
「………お前には分からん」
「だったら説明してよ!!お父さんが焦凍を虐待する理由を、私でも納得できるように、ちゃんと言葉で言って!!」
甲高い声はまるで燈矢のようだった。
親の都合を無視して、己の言い分を通そうと声を荒げる子供を前にすると、やはり苦手だと思う。
ちゃんと諭さなければならないと分かってはいる。しかし父親として自分は不器用過ぎた。
だから燈矢への対応を冷に頼んだのだが、彼女も子供の癇癪を宥めるのが得手な女ではなかった。
そのせいで燈矢も、冷も、ああなってしまった。
今度は冬美があの惨状を再現しているようで脳の裏側が重たくなる。
普段であれば父の機嫌を察して言葉を和らげるだろう冬美は、しかし今はつらつらと己の言い分ばかりをまくし立てた。
「この家の掃除と洗濯をしているのは私。食事を作ってるのも私。お母さんのために本やお菓子やオムツを差し入れてるのも私。焦凍がお父さんに殴られたり焼かれたりして、病院に連れて行くのも私………私、私、私!ねえ、私達が暮らすのに、お父さんって要る!?」
「……金は稼いでいる」
「そうだね。お金は沢山稼いで貰ってる。お父さんのおかげでお金に困った事は無いよ。ありがとう。感謝はしてる。これからも稼いで私達を養って。で?」
「で?、とは」
「お金を稼いで私達を養うだけしか役割が無いなら、お父さんが家にいる意味は無いでしょ。私達3人だけで暮らして、一体何が問題だって言うの」
何を言っても反論が返って来ると分かっていたので、黙っていた。
未成年の子供3人だけで暮らすなどという非常識なことを言う冬美に、何を言っても意味は無いように思われた。
無言のままの自分に痺れを切らした冬美がぱっと立ち上がる。
「無言ってことは、問題無いってことで良いんだよね。じゃあもう明日には引っ越すから」
「バカを言うな」
「毎日殴られてる焦凍を放っておいた今迄の方がバカだったわ」
「あれは個性訓練だともう言っただろう。どうしたんだ冬美。お前らしくもない。もっと論理的に話しなさい」
「何が個性訓練よ。あれは焦凍のための訓練なんかじゃない。お父さんが焦凍をオールマイトより強くしたいだけなんじゃない。お父さんが、焦凍をオールマイトに勝たせたいから、焦凍から友達を作る時間も、ご飯を食べる楽しみも奪ってるんでしょ!」
ヴィランみたいよ。冬美は唇を噛みしめて、昏い顔でこちらを睨む。
その顔に燈矢が重なった。
似ている。
「……とう、」
「お父さんはオールマイトに勝つために努力したんだよね。時間も、楽しみも、全部犠牲にしたんだよね。凄いと思うよ。でも、どうして私達がお父さんの代わりに犠牲を払わなきゃならないの?それって本当に家族って言える?それとも家族だからお父さんのために犠牲を払い続けなきゃいけないの?」
冬美の言は真実の一端を掠めている。
しかし決して全てではなかった。自分だって家族を大事に思っている。
だが、喉が動かない。何か言って、冬美が押し黙ってしまうのが怖かった。冬美の女の子らしい甘い声が波長の狂った汽笛のように響き、それが最後に聞いた燈矢の声に似ていた。
もっと聞いていたいようで、しかし今すぐ黙って欲しいようで、肋骨の裏を鷲掴みにされたように苦しくなって、声が出なかった。
「私達に親を選ぶ権利は無いけど、親を見限る権利ならあるわ。こんな家族もう要らない。もううんざりよ」
「っ、見限る権利だと?焦凍は俺の子供だ。見限るなんて出来る訳が無い。焦凍ならオールマイトを超えられる。俺しかあいつをオールマイト以上に鍛えられないというのに、」
「いつ焦凍がオールマイトを超えたいって言ったの!?そんなこと頼んでない!!燈矢兄だって頼んでない!!私だって、お父さんに………お父さんにッ、焦凍を作るための試作品で作って欲しくなんて無かった!!」
冬美の声に呼ばれたように、瞼の裏で燈矢の姿がちらついて見えた。
俺をつくって良かったって思うから、と、白い髪を力任せに引き抜いてまき散らしながら、燈矢が泣いている。
冷が蹲っている。焦凍が怒っている。
どうして子供の声というのはこんなにも耳を突くのだろうか。
「分かってるよ!!分かってる!!私だってバカじゃない!!ずうっと前から、本当は、分かってた!!」
他に選択肢は無かった。
燈矢のためにもヒーローを諦めさせるしかなかった。
しかしあの子は炎熱系個性らしく、一度執念を燃やすと他を見ることは出来ない性格で、あれはもう、どうしようもなかった。
「お父さんは焦凍だけが大事なんでしょ!焦凍だけがお父さんの子供なんでしょ!?あたしも、夏君も、燈矢兄も、ただの失敗作なんでしょ?……なのにあたしは、それでも家族になれるって、失敗作としか思われてないって、分かってて……アァ、馬鹿みたい……」
あの日は酷く空気が乾燥していた。灰の積もった山はモノクロの地獄のようだった。
瀬古杜岳を捜索した。灰に埋もれて、呼吸すら忘れながら。
何日も徹夜で、捜索隊が撤収してからは独りで、積み上がる灰をかき分けた。
地獄に踏み込む自分を嘲笑うように灰の山が舞い踊った。
肺と眼がやられて病院に担ぎ込まれても、病院を抜け出してまた瀬古杜岳に戻った。
SKに泣きつかれても、事務所が実質的な機能停止に陥ろうとも、只管に燈矢を探した。
そうして焦げ付いた下顎骨の一部を見つけた。
小さな親知らずが骨の中に埋まっていた。それが歪な真珠のように見えて、摘むと、ころりと落ちてしまった。
「どうしてあたし達を見てくれないの!?焦凍もあたし達も、お父さんじゃないの!!お父さんが何を考えててもあたし達には関係ないのよ!!ちゃんとあたし達を見てよ!!」
その時からずっと、焦凍をオールマイトを超えるヒーローにするという決意が火種となって身を燃やしている。
エンデヴァーを引き継ぐ筈だった燈矢を、焦凍に引き継がせるために。
そうすれば燈矢の人生は無駄にはならない。
焦凍は最高傑作だ。半冷半燃の個性のみならず、ヒーローになりたいという強い意志がある。厳しい訓練に喰らいつく根性もある。
自分を慕っていた燈矢の思い出はいつも胸の中にある。
冬美と夏雄にヒーローの素質は無かったが、燈矢の死を乗り越えて強く良い子に育っている。
冷の病状は改善傾向にある。
全てが良い方向に向かっている。
普通とは言い難いかもしれないが、自分達は確かに家族だ。
問題があるようには思えなかった。
「分からない。お前は何が不満なんだ。俺が忙しいのは分かっているし、焦凍だってヒーローになりたがっているだろう。このままで何が悪いんだ」
「……………、ハ?」
「家事が負担なのか?確かにお前には苦労をかけているからな。事務所に頼んで信頼出来るハウスキーパーを選定させておこう。暫くは家事も学校も休みなさい」
つまりは、そういうことなのだろう。
冷が病院で一時的に不安定になったと聞いた。
元より家事で疲労が溜まっていた冬美がその場に居合わせてしまい、過労が祟って倒れてしまったのだ。
思えば未だ中学生の冬美に家のことを任せきりにしてしまっていた。遊び盛りの娘には酷な仕打ちだった。
来年度からは高校生になるのだから、家の事は気にせず友達と遊んだり、部活に精を出す時間を作ってやらないといけない。
最近では気軽に雇える家事代行サービスもあると聞く。信頼の出来る業者に頼めばすぐに手配出来るだろう。
元は淑やかで賢い娘なのだから暫く休めばきっと頭も冷える。
「じゃあ、もういいか?」
そろそろ焦凍の訓練に戻らなければならない。
ただでさえ時間が無いのだから、これ以上無駄な時間を使いたくなかった。
顔を上げる。表情を全て削ぎ落した彫像が佇んでいた。瞳に丸い穴が開いていて、それが痛い程の静けさを抱えて自分を見下していた。
胸の底が冷たくなる。これは誰だろうか。
そう思う自分の前で、冬美の形をした彫像は書類を2枚座卓に広げた。
「お父さん、自分の子供の血液型も知らなかったんだね」
「何?」
「焦凍の血液型はO型なんだよ」
「それが、」
どうした、と、言葉は続かなかった。
脳の裏側が白くなった。書類の文字だけが鮮明に見えた。
「AB型からO型の子供は生まれないんだよ。ねえ……お父さん」
カツカツとした冬美の声が鼓膜を素通りする。
書類を手に取った。自分の血液型の欄にはAB型とある。
焦凍の血液型の欄はO型。
「レザーフェイスって知ってる?」
書類の偽造か。
いや、冬美には無理だ。それとも冬美を騙すために誰かが作成した?
何のために?
「お母さんがね、言ってたの。私怖くって、レザーフェイスって何なのかオールマイトに聞けなかった……でも、何となく察しはつくよね」
病院の検査結果なのだからカルテを見せて貰えばすぐに分かる。
そんなすぐに分かる嘘を何故偽装する。
そもそも何故、冷がレザーフェイスのことを知っている。
「もう一回言ってよ。何を根拠にお父さんは焦凍を自分の代わりにしているのか」
レザーフェイス。
注文された通りの『個性』を持つ受精卵を作成するヴィランだと聞いたことがある。
「言いなさいよ」
だがレザーフェイスと焦凍に何の関係がある。
「言いなさいって言ってンのよ」
────有り得ない。
「ッッ、言いなさいよ卑怯者!!お父さんはいっつも、自分が不利だって分かったらだんまりになるか、暴力を揮って黙らせるかなんだ!!いっつもそうだ!!卑怯者!!一回だって、お父さんはあたしたちを真正面から見た事なんて無いんだ!!」
「黙りなさい!!」
白んでいた脳が極彩色の赤に弾け飛ぶ。
全身を走り抜けた熱に任せて拳を振り上げ、しかし冬美に振り下ろす前に、咄嗟に座卓へ方向を変えた。
6人で食事を囲める大きな座卓が真っ二つに割れた。
向かう先を失った激情が炎に代わって、家族のための居場所と、2人分の血液型検査結果を燃え上がらせた。
冬美は悪くない。何も悪くない。
この子は、ただ疲れているだけだ。子供なのに、大人の代わりにずっと負担を強いられて、疲れて、限界を超えてしまっただけなのだ。
悪いのは───焦凍に熱湯をかけたのは、燈矢を止められなかったのは、冬美じゃない。
レザーフェイスに関わり、家のことを放って子供達に負担をかけているのは、冬美じゃない。
冷だ。
全ては冷が発端だった。
冬美は家を燃やす炎を己の“個性”でかき消した。足元に降り注いだ灰が凍り付く。
そのまま畳を凍らせ、柱を凍らせ、燃える父の足元をも凍り付かせた。
「わたしはお母さんじゃない!!だから黙らない!!殴られても黙らない!!何回だって立ち上がって、何回だって言ってやる!!」
冬美の細い指先が父の胸倉を掴んだ。
掴まれた服が凍っていく。霜の張り付いた肌が青紫に変色する。
「父親だからって理由に逃げないでよ!!子供だから、お父さんに何をされても許さなくちゃならないなんて、有り得ないんだ!!有り得ないんだよ!!家族だって言うンなら一回ぐらい真正面から立ち向かってみなさいよ!!」
「───冷に、」
胸倉を掴む冬美の指を包む。冷たく、恐ろしい程に繊細な作りをしている。無理やりに剥がすと骨が折れてしまいそうだった。
男を殺す手だ。自分のような男が勝てる女ではなかった。
眼を細めて、逃げるように身を引く。体格差で冬美はたたらを踏み、足元の氷は砕け散った。
「冷に、聞かないと、」
エンデヴァーは己を罵倒する冬美を置き去りにして車に乗り、冷の入院する病院へ向かった。
車の後部座席には息を潜めた焦凍が乗り込んでいた。