今年もよろしくお願いします。
新年早々、こんなお話です。
これは硝子が高専四年生の時のお話
ある寒い正月明けの朝、食べて、寝て、少しだけ飲んで、そんな静かな年度末が終わりを告げた。
その日、家入硝子はなんとなく体重計に乗ってみた。
次の瞬間、表示された数字に目を疑い、ほんのわずかに口元が引きつった。
「……嘘でしょ」
呟いた声はやけに静かで、重い。
正月のごちそうとだらけきった生活が、まさかここまで牙を剥いてくるとは思っていなかった。
硝子はもう一度、体重計の数字を見た。
じっと見つめる。まばたきすら忘れて。
「……これ、私じゃ…ないよ、ね?」
そう言いながら、ゆっくりと体重計から降りる。
再び乗る。
数字は変わらない。
「……うん、たぶん…壊れてるんだよね」
そんな呟きとともに、今度は片足で乗ってみる。
もう片方もそっと浮かせてみるが、数字は微動だにしない。
「いやいや、さすがにそんなわけないよ。これは…うん…あれ、重力の問題?」
意味のわからない言い訳を口にしながら、再び両足で乗る。
またしても変わらない表示。
「……っ、あは……」
その場に、ぺたんと座り込んだ。
煙草を取り出そうとして、ふと「いや、今吸ったら負けだよね……」と手を止める。
現実逃避の隙すら与えてもらえない事態に、膝を抱えて小さくなる硝子。
「……ちょっとだけ、餅が美味しすぎたってだけだよね……?」
言い訳は誰に届くでもなかった。
とりあえず着替えようと思った硝子は、制服のスカートを引っ張りながら鏡の前で小さくため息をついた。
「……入るには入るけど……なんか、ピチってない?」
ウエストあたりがいつもより少しきつい。
ボタンも油断すれば飛んでいきそうな気がする。
気にしすぎだ、そう思い込みながらも彼女は髪を整えて寮の談話室へ向かった。
正月明け、みんなで集まろうという話があったのだ。
龍山千鬼、夏油傑、五条悟、いつもの三人組だ。
気まずさと警戒心を胸に硝子は扉を開ける。
「よっ、硝子! 餅あるぞ、食うか?」
「遅かったね。こっちはもう食べてるよ」
「さすがに飽きてくると思ったんだけどな。やっぱり千鬼の焼き餅はレベチだ、進む進む〜」
部屋の中は、予想外の光景だった。
テーブルには焼き餅、きなこ餅、ずんだ餅、磯部餅など、さまざまなバリエーションが所狭しと並んでいる。
千鬼が餅を網で焼きながら、手際よく皿に盛りつけていた。
「……あんたら、正月始まったばかりの自覚ある?」
硝子は呆れたように言いながらも、香ばしい匂いに喉が鳴った。
「おう、けじめってやつだよ。大晦日を完全に締めて、そして正月に綺麗に移すためのな。
腹一杯餅食わねぇとな」
五条が笑いながら答え、きなこ餅を皿に盛って食べ出す。
「……もう充分腹いっぱいだったんだけどね」
そう呟いた硝子は、目をそらした。
スカートのウエストが、きゅっと締まる感覚。
(ここで食べたら……本当に戻れない気がする)
そんな予感を、香りとぬくもりがゆるやかに塗りつぶしていく。
「硝子は餅が好きだっただろう?」
にこやかにそう言いながら、夏油がどんどん餅を硝子の皿に載せていく。
ひとつ、ふたつ、みっつ……止まらず、最終的に六つ。見た目にもなかなかの量だ。
「……いや、そんなに食べないって……」
硝子はひとつだけ手に取ると、ゆっくり口に運び、もぐもぐと噛んだ。
確かに美味しい。けれどそれ以上は喉を通らなかった。
「もういいや。千鬼、食べる?」
「いいのか? ありがとう!」
千鬼はにっこりと笑い、まるでそれが最初から自分の分だったかのように勢いよく餅を平らげていく。
それを見ていた夏油が不思議そうに首を傾げる。
「おや、いつもなら千鬼の焼いた餅をたくさん食べるのに、美味しくなかったかい?」
「いや、朝からそんなに食べられないだけ」
淡々と答える硝子。
その時、不意に五条が餅をくわえたまま、首を傾げた。
「そういえばさぁ硝子。ちょっとなんか変わった?」
ぴくり、と硝子の眉が動く。
「……それ以上追及したら、
低く、静かな声で、五条の耳元だけに届く音量。
その瞬間、五条の口から餅が一瞬で消えた。
文字通り、口も閉じた。
硝子はさりげなく周囲を見渡した。
千鬼、夏油、五条、みんな正月明けとは思えない体型を保っている。
特に千鬼は、むしろ正月前より引き締まって見えるほどだった。
「(……なんでだよ)」
その疑問をごく自然な口調に変換して、何気なく千鬼に聞いてみる。
「ねぇ千鬼。正月太りってさ……あると思う?」
千鬼はちょっと考えてから、いつも通り素直に答えた。
「あぁ、俺の母さんはなったことあるらしいけど……俺はないなぁ。というか俺あんまり太らなくて困ってるんだよね。体質のせいか食っても全然つかなくて」
——ザシュッ。
音もなく、硝子の心にダメージが入った。
目には見えないが、確実に深く。重く。
「……そう、そっか」
無理やり微笑んで返したその瞬間、ボタンが「ぷちっ」と微かに鳴ったような気がした。(多分錯覚)
餅を口に運びながらも、まったくペースの落ちない千鬼を横目で見ていた硝子は、ふとした衝動に駆られて手を伸ばした。
「…ちょっと失礼」
ぽん、と軽く千鬼の腹を触ってみる。
「ん?」
下手な遠慮もなく、思い切ってもう一度触れる。
ゴツッとした感触。明らかに筋肉。
脂肪? そんなものどこにも存在しない。まるで石像のような腹筋。
「(……は?)」
内心で硝子は目を見開いた。
「(いやいや、いくら男でも正月に餅ばっか食ってこの腹はおかしいでしょ。何、隠れボディビルダー? 筋トレが趣味だっけ?)」
「……どうした硝子?」
不思議そうに千鬼が見下ろしてくる。
「あ、いや……よくそんなに食べてお腹出ないなぁって思って」
なんでもない風を装って言うと、千鬼はにっこり笑って、
「そうだよなぁ〜。俺、ほんとはあと5キロくらいほしいんだけど、全然つかなくて困ってるんだよね」
「……は?」
思わず口から出てしまったが、硝子は慌てて笑いに変える。
「なにそれ、贅沢すぎ〜」
だがその内心では、思いきり叫んでいた。
「(こっちは正月太りで制服パッツパツなんだよ!! その余らせてる代謝能力、今すぐ私に譲渡しろ!)」
「(なんなら私の体重を分けてやろうか!!)」
笑顔を保ちながら餅を頬張る千鬼の横で、硝子はひとつ深いため息をついた。
なんだかんだで美味しい餅の香りがまた誘惑してくるのがさらに腹立たしかった。
※
正月の衝撃から、硝子は人知れず行動を始めた。
談話室での一件のあと、夜な夜な寮の自室で軽い筋トレを始めた。
腹筋、スクワット、プランク。
とりあえずネットで「正月太り 解消」と調べて出てきたメニューをひたすら黙々とこなす。
途中、腕を震わせながら「なんで医者志望なのに筋肉痛にならなきゃいけないんだよ……」と呻いた日もある。
だが硝子は負けなかった。
餅パーティーのトラウマ、そして千鬼の「あと5キロほしい」発言が脳内でこだまし続けた結果、奇跡的な継続力を発揮する。
そして、開始から数日後
朝、ふとんから起き上がった硝子は、眠たい目をこすりながら体重計に足を乗せた。
数秒間、表示がぴぴっと点滅する。
硝子は無表情でその数字を見つめた。
次の瞬間、表示された数値に、心の中で爆発音が鳴り響く。
(……変わってない。1グラムも……!!)
顔には出さない。動揺も、悔しさも、見せない。
だが、その内心はかなりへこんでいた。
正直数日でキロ単位は痩せるとは思っていなかったが、グラム単位で全く変わらないとは思わなかったのだ。
(嘘でしょ? ここまで耐えて、餅も断って、筋肉痛も我慢して……成果ゼロ?)
静かにため息をつきながら体重計を降り、鏡の前に立つ。
鏡に映る自分の姿に、そっと問いかける。
「……これ、どの段階で間違えたんだろうね?」
鏡の中の自分は何も答えない。
だが硝子は知っていた。
餅が悪い。全部餅のせい。
そして少しだけ、千鬼の無邪気な笑顔にも八つ当たりしたくなった。
その日、任務の連絡が入ったのは硝子が再び体重計を睨みつけた直後だった。
相手は一級相当の呪霊。
ただし情報が不安定なため、補助監督が警戒して人員を増やしたいという判断。
同行するのは千鬼と五条。
「よりによって……なんでこのメンツ」
嘆きながらも、硝子は支度を済ませ、現場へと向かった。
現地に到着すると、思ったよりも冷たい空気が肌を刺す。
雪がちらつく中、件の呪霊が姿を現した。
「澪華出すか」
そう呟いた千鬼が手をかざすと、淡く冷気が揺れ、白い影、雪女の澪花がその場に現れた。
澪華は一歩、また一歩と進み、呪霊に手を翳す。
次の瞬間、空気が凍りつくような冷気が走り、
呪霊は氷漬けのまま砕け散った。
あまりの早さに、五条が目を見開く。
「……やっぱ千鬼のとこの澪華、容赦ないな」
「そりゃ氷みたいなやつだからな」
千鬼は淡々と応じ、周囲に気を配るように視線を走らせる。
「まだ残ってるかも。
五条、少し周囲見るぞ。硝子、澪華に守るように言ってあるからここで待っててくれ」
「了解」
硝子は頷き、澪華と二人きりでその場に残される。
硝子はふと、横に立つ澪華に視線を向けた。
無表情。沈黙。だが、どこか凛とした佇まい。
そして、自然と目線が彼女の腹部に移る。
(……痩せてる。ていうか、無駄がなさすぎる)
着物を着ているのでそう見えるかもしれないだけだが、それでも分かる氷の彫刻のような完璧なボディライン。
くびれすら寒さで凍っていそうなほどだ。
呪霊とはいえ、これは反則レベル。
(……なんで、呪霊の方が美意識高いんだよ)
澪華は何も言わない。ただそこに立ち、風を受けているだけ。
だが硝子はじっとその腹を見つめながら、どこにもぶつけられない悔しさを静かに積もらせていた。
すると、澪華の腹を見つめていた硝子はふとつぶやくように問いかけた。
「……ねえ、あんたって体重とかあるの?」
澪華は少しだけ視線をこちらに向けると、静かに答えた。
「あります。ですが私は“雪女”や“雪山”などの恐れから生まれた呪霊ですので、基本的にこの体を維持する性質です」
硝子は一瞬、理解するのに時間がかかった。
つまり、澪華は呪霊なので人間の恐怖を元に形を与えられている。
そしてその中には雪女はこんな感じだろうというイメージも含まれている。
ゆえに、その姿は一定で変わらない。
こういうことだと理解した。
「(ずる…それって、太らない体質とかじゃなくて……存在の仕様じゃん)」
「……じゃあさ、試しに、興味本位でいいんだけど。体重って、どれくらいあるの?」
澪華は一拍の沈黙のあと、淡々と告げた。
「〇〇キロです」(デリケートなので表示できません)
ザシュ!!
無言のダメージが、硝子の心臓を貫いた。
「(こっちは“朝は食べてないし”とか“水分かな”とか言い訳しながら…それを余裕で超えてるっていうのに…!)」
「……ふーん、意外とあるね」
笑顔を作ってみたが、口元が引きつっていた。
さらに澪華が追い打ちをかけるように続ける。
「衣装の重さを含めるともう少しありますが、本体は軽い方だと思います」
(本体と衣装で分けられる余裕!? なにその発言、モデルかよ!)
硝子は心の中で机をひっくり返すような勢いでツッコみながら、視線を遠くにやった。
澪華は変わらず無表情。冷たい空気が余計に硝子の内面を冷やしていく。
「(千鬼、もう戻ってきて。早く、お願い…メンタルが氷点下だわ)」
その後、呪霊の掃討が終わり、任務も無事完了。
いつもなら歩いて補助監督の場所まで、行くところだが、
「なぁ千鬼、たまにはさ、歩き以外で行くのも風情あると思わね?」
五条が、悪びれもせずキラキラした顔で言い出した。
「……お前が言うと風情じゃなくてワガママにしか聞こえないな」
千鬼は呆れ顔だったが、結局は断りきれずに呪霊を出す。
闇の中から姿を現したのは、白銀の巨大な狼。
滑らかな毛並みと鋭い双眸、堂々たる一級呪霊の風格を漂わせていた。
ちなみに名前は夏油が考えた【
何度か千鬼が地上での移動で使ったことがある呪霊だ。
「よし、こいつで帰るか」
千鬼は手を叩き、まず硝子に乗るよう促した。
「ほら、先に」
「ん、ありがと」
硝子は軽く礼を言って、狼の背に乗り込む。
その時だった。
狼が、ふいに後ろを振り返った。
その視線の先には、乗ったばかりの硝子。
「…?」
千鬼が眉をひそめて尋ねた。
「どうした? 何か違和感あるか?」
狼は一瞬間を置いてから、静かに首を振った。
「…いえ、なんでもありません」
「ならいいけど」
千鬼が他の準備に移る中、硝子の中ではひとつの考えが稲妻のように走った。
「(ま、まさか……前に乗ったときより重くなったって思われた!?)」
呪霊にまで気を遣わせているかもしれないという妄想が加速する。
無言の後ろ振り向き、あの一瞬の間、
今までで一番重かった沈黙。
「(いやいや、違う……きっと毛並みに変なクセがあったとか…尻尾を誰か踏んだとか…)」
必死に自己弁護するも、心の奥では確信に近い何かが囁いてくる。
「(やっぱり正月太りってバレてる……!?)」
その瞬間、吹き抜ける冷たい風がやけに身にしみた。
呪術師としての心のダメージはゼロでも、
乙女心にはクリティカルヒット。
「…くっそ、今度から乗る前に体重バランスとか気にする…」
硝子は小さくそうつぶやきながら、狼の背中でじっと固まった。
その後ろで、何も知らない五条が「俺、風受けたいから千鬼が一番後ろなー!」とか言ってはしゃいでいた。
白狼に乗り、風を切って駆けていく三人。
目指すは補助監督の待つ駐車場
冷たい空気の中、オオカミの足音だけが響く山道を越え、やがて補助監督のもとに到着。
任務報告を簡潔に済ませた後、車に乗り、呪術高専へと戻っていく。
途中、街中へ差しかかると人通りが増え、賑わいが広がっていた。
そんな中、ふと、電光掲示板のモニターに流れる広告が目に飛び込んでくる。
《正月太りのあなたに! 今なら初回無料!衝撃の-5kgをあなたに!》
カラフルで眩しい演出と共に、モデル風の男女が笑顔でポージングを決めていた。
「……うわ、出たよ」
五条がにやにやと笑って画面を指さす。
「ねえ、硝子〜? こういうの、試してみたら? 意外と効いたりして〜?」
助手席からニヤついた顔で振り返ったその瞬間。
「う る せ え」
硝子が低く、そしてドスの利いた声で唸るように一言。
「……はい、すみませんでした」
五条は即座に沈黙。すぐに硝子の視界から消えるようにした。目も合わせない。
千鬼が苦笑しながら、
「女子にそういうこと言うもんじゃないだろ。お前、繊細なとこ本当気づかないよな」
「いや、冗談のつもりだったんだけどねー」
五条はぼそっと言い訳するが、聞こえないふりをされていた。
一方、沈黙していた硝子の視線は、さっきの看板にちらりと戻る。
「(あんなサプリで痩せられたら、苦労しないんだよ……)」
内心では冷めたツッコミを入れつつも、もうひとつの感情が頭をもたげる。
「(でも……今より1キロでも減るなら試す価値、あるかも……)」
悩ましげな乙女の葛藤が続いていた。
※
数日後の昼下がり、診療の合間にふと休憩を取ろうと、硝子は医務室の窓を開けた。
カップに注いだ温かいお茶を手に、何気なく外へ視線をやると——
「……ん?」
視界の先、グラウンドの中央で土煙が舞っていた。
その中に見えたのは、千鬼の姿。
自らの呪霊たちを引き連れ、まるで実戦さながらの激しい訓練を行っていた。
呪霊たちの連携。
鋭い読みと咄嗟の回避。
加えて、肉体を酷使する動きの連続。
その光景はどこか殺気立ってすらいて、見ているだけで息が詰まりそうになる。
「……なにあれ、マジの殺し合い……?」
硝子は目を細めながら、ぼそりとつぶやいた。
その動きのキレ、瞬発力、持久力のすべてが桁違いだった。
(あれだけ動けば……確かに太る暇なんかないかも)
ぽつりと思ってしまった自分に内心で小さくツッコミを入れる。
(いや、無理無理……まずあんな動きできないし……)
呪霊相手に延々と走り回って回避して殴ってって、もはや戦闘というよりアスリートの訓練に近い。
しかも呪力まで全身に回してるんだから、消費カロリーは想像もつかない。
「羨ましいな……多分、ああいう訓練してるから太らないんだろうなぁ……」
ぼそっとつぶやいたその言葉には、少しだけお門違いな嫉妬が滲んでいた。
(ていうか、そういうのに耐えられる肉体してる時点でずるいんだよ)
千鬼のかけ声が風に混じって届いてきた。
硝子はお茶を一口飲みながら、そっとカーテンを閉じた。
「……風呂に入る前にストレッチだけはやるか」
まるで誰にも聞かせないように、ほんの少しだけ前向きな決意を口にした。
夕方、談話室に派手な袋を両手に抱えて、五条がテンションMAXで登場した。
「今日は超絶ハッピーな日だろ!? パーティしようぜパーティ!」
「……何が“超絶ハッピー”なんだい?」
夏油が訝しげに眉をひそめる。
「俺が今日、お菓子コーナーで大勝利したからだよ! 新作チップスに限定チョコ、海外のグミまでフルコンボだぜ!」
「理由が軽いな……」
千鬼は苦笑しながらも、すでに菓子の袋を手にしていた。
「いいじゃないか、こういうのもたまには楽しい」
夏油も席に腰を下ろし、缶ジュースのプルタブを開ける。
そして、談話室の一角にお菓子が並びはじめ、ちょっとした即席パーティが始まった。
「……んで、硝子も来たら?」
五条がテーブルに並ぶスナックを見せつけるように招いた。
「はあ……まぁ、少しくらいなら」
硝子は一歩、二歩と躊躇いながら近づく。
目の前には、チョコレートの艶めき、ポテトチップスの香ばしい匂い、グミのカラフルな誘惑。
(……ヤバい、これは罠だ)
心の警報が鳴る。
「ほら硝子、これ美味いぞ。期間限定って書いてあった」
千鬼が自然にグミを差し出す。
「ん……ありがと」
受け取って、思わず口に入れてしまう。
(……うまっ)
その瞬間、理性がぐらつく。
元々甘い系は苦手だが、甘いものや菓子を制限している硝子には効果抜群だった。
次々に封が開かれ、楽しそうに食べている男子たちの姿。
五条はポテトチップスを2枚口に挟んで、「アヒル〜」と遊んでいた。
「こいつら、なんで太らないんだ」
呟いた硝子の声は、小さな絶望に近かった。
(いや、今日は…お付き合いだし、明日から調整すれば……)
そう自分に言い聞かせつつ、気づけばスナックに手が伸びていた。
その夜、硝子はベッドの上で仰向けになりながらぽんと自分のお腹を軽く叩いた。
「……グミひとつで理性が崩壊する私って、マジで呪われてる」
天井を見つめて、深いため息をついたのだった。
※
翌朝——
ある部屋の片隅、いつものように誰もいない時間帯。
硝子は、静かに体重計の前に立っていた。
足取りは重い。
昨日のお菓子パーティの記憶が、頭の中でフラッシュバックしてくる。
「(いや、グミにチップス2、3枚?いや袋?
それと、チョコ……箱でいったかな??)」
思い出そうとするが、どのくらい食べたか記憶にない。
重く息を吐き、そっと片足を計測面に置いた。
「(いやいや、いける。たぶん増えてても誤差、誤差!)」
一縷の希望を抱いて、もう片方の足を乗せる。
ピッ…ピッ…ピッ…
数字が点滅し、確定する。
その瞬間。
「ッ……ッはあぁぁぁぁぁっ!?」
声が漏れた。出るまいと口を押さえていたのに、喉の奥から反射的に湧き上がるように。
「……うそ、でしょ…昨日の今日でこんなっ!」
数字は確実に、そして無慈悲に増えた数字を表示していた。
「努力した時はグラム単位しか減らないくせに! なんで太る時は一晩でキロ単位に近いんだよっ!!」
苛立ち混じりに髪をぐしゃぐしゃと乱し、硝子は壁にもたれかかる。
そして、じわじわと怒りの矛先が浮かび上がってきた。
「全部…全部あのクズのせいだ……」
思い出すのは、満面の笑みでスナックを配っていた五条悟。
ポテチを口に挟めて「アヒル〜」などとふざけていた姿。
「五条……今ここにいたら胃袋とってやる」
低く、静かに、心底からの恨み言をぽつりと呟いた。
その後、制服のボタンを留めようとして、硝子はふと手を止めた。
(ん?)
ほんのわずか、昨日よりキツくなっている気がした。
留まらないわけではない。だが、しゃがんだら苦しい。
そんな微妙な違和感。
「まさかこの一日で?」
現実を直視したくない気持ちを抱えながら、制服を羽織る。
鏡の前で軽くポーズをとってみても、明らかにラインが違う。
(あっはは……私、こんなに呼吸浅かったっけ……)
へこみきったまま医務室に入り、椅子に座って大きなため息をつく。
朝の空気は静かで、まだ誰も来ていないはずだった。
「おはよ、硝子。なんか顔色悪くない?」
扉を開けて現れたのは、千鬼だった。
穏やかな笑顔で手を軽く挙げながら、いつものように朝の挨拶をしに来たようだ。
「……千鬼」
その姿を見た瞬間、硝子の視線は自然と彼の腹へと吸い寄せられた。
制服越しにもわかる引き締まったライン。姿勢もよく、隙がない。
「(……うそでしょ、マジで何も変わってない)」
言葉が出ないまま、硝子はふらりと立ち上がり、無言のまま千鬼の元へ歩いていく。
「ん? どうした?」
千鬼が不思議そうに首を傾げるがその時、
「……」
硝子の両手が、制服越しに千鬼の腹部を包むように置かれた。
「えっ……?」
軽く触れたと思ったら、
次の瞬間、もはや揉む勢いで腹筋の感触を確認し始める硝子。
千鬼は固まった。
「(ど、どういう状況!?)」
目の前の彼女は真顔。というより、無の表情。
その手つきは真剣そのものだった。
「……変わってない…変わらなすぎる」
ぽつりと硝子が呟く。
千鬼は混乱しつつも、彼女の手が自分の腹でわしゃわしゃと動くたびに、どうしていいかわからず顔が赤くなっていく。
「ど、どうした、硝子? 俺、なんかした?」
「…いや、うん。いい腹筋だね…ほんと……理不尽なまでに」
そう言って硝子は、ふっと力が抜けたように千鬼の前で椅子に崩れ落ちた。
「……ああ、この世は不公平でできている」
乾いた笑みを浮かべながら遠い目をしてつぶやく彼女の心の中は、すでに嵐だった。
「(なんで……なんで変わってねーんだよおおおおお!!!)」
医務室に、今日もまた静かな絶望が流れ込んでいった。
千鬼はいつも通りの調子で
「硝子、今日ちょっと遠くの任務行ってくるから」
と軽く言った。
硝子は椅子に座り、雑誌をペラリとめくりながら、
「へー……がんばってねー」
と完全に棒読みの声を返した。
「うん、まあ、行ってくるわ」
苦笑しながら千鬼が返そうとしたそのとき、
医務室の扉がコンコンと叩かれ、補助監督が資料を持って入ってきた。
「ここにいましたか、龍山特級術師。
今回の任務の概要説明を」
と手早くファイルを開く。
「今回の現場は、郊外の住宅地。
最近、周辺住民や窓の非術師たちが、急に“激痩せ”するという現象が相次いでる。栄養失調みたいな症状のようです」
「…ふーん」
千鬼が顎に手を当てて少し考える。
「呪力が吸われているわけではないから、相手の栄養とか“脂肪”とか、そういうもん吸い取るタイプの呪霊か?」
そうつぶやいた瞬間——
ピクッ
後ろで雑誌をめくっていた硝子の耳が明らかに反応した。
千鬼が「まぁ、弱そうだし、さくっと祓ってくるかー」と軽く言ってドアの方へ向かおうとした、そのときだった。
「待って!」
硝子の声が響いた。
思わず千鬼が立ち止まり、振り返る。
硝子は立ち上がり、真剣な目で千鬼に詰め寄った。
「その呪霊、調伏して。絶対に祓わないで」
「えっ、えぇ? でも、能力も弱そうだし危険性は等級にしては低いって補助監督も言ってたし」
千鬼が少し戸惑いながら言うが、硝子はさらに一歩詰める。
「いいから。私は研究したいことがあるの」
その目は真剣そのものだった。
「もし、その呪霊が人間の脂肪や栄養を選んで吸い取ってるんだとしたら、その原理を調べれば、もしかしたら医療や栄養学にも応用できる。
少なくとも、私はその可能性を無視したくない」
「えっ、なんかいつもよりやたら熱くない……?」
千鬼がやや引き気味に言うと、硝子は一歩踏み出してさらに念を押す。
「これを逃したら、どれだけの被害者が出るか。
どれだけ“可能性”を無駄にするか。理解してる?」
千鬼は数秒、硝子の目をじっと見つめた。
そこにあったのは、「痩せたい」とか「恨み」とか、そういう感情よりももっと複雑なものだった。
「……わ、わかった。じゃあ調伏してちゃんと連れて帰ってくる。な、なんか今日はこえぇな、硝子」
「よろしい」
そう言って硝子は、まるで執刀前の医者のような真剣な表情に戻った。
千鬼と補助監督は背中に少し冷や汗をかきながら、逃げるように任務地へ向かっていった。
「(……やばい、今日の硝子は圧がある)」
「(俺なんかしたかなぁ?)」
そんな千鬼の背中を見送りながら、硝子は小さく呟いた。
「“脂肪を吸う呪霊”か……やっと時代が私に追いついてきた」
※
そして、帰ってきた千鬼の話によると、その呪霊は、痩せ細った体に異様なほど大きな口を持つ、まさに【
目はギラギラと輝き、何かを求めるように口を開けたり閉じたりしていたが、千鬼は調伏に成功した。
数日後、高専の一角。
千鬼が試しに「ちょっと協力してくれ」と夏油を呼び出す。
「どうしたんだい?人体実験?」
と軽口を叩きながらも、興味津々でやって来た夏油。
千鬼が軽く説明し、「この餓鬼、栄養吸うらしい。ちょっと体重計乗ってからやってみて」と促す。
夏油が体重計に乗る。表示された数字を確認してから、千鬼の合図で餓鬼が夏油に近づき、数秒だけ能力を使用。すぐに止める。
「……終わった?」
「終わった。乗ってみて」
再び体重計に乗った夏油の目が、明らかに見開かれる。
「……ちょっと待って、2キロ減ってるんだけど?」
「マジ? そんな即効性あるのか」
さらに夏油は自分の腕をじっと見て思わず声を上げる。
「ちょ、見てくれ! 腕少し細くなってない!? ねぇ!? 鏡鏡!」
「へー、意外に使いようによっては強いかもな、この餓鬼」
と、千鬼が感心したように呟く。
少し離れた場所でそのやりとりを見ていた硝子は目を輝かせながら心の中で叫んでいた。
「(き、来た! ついに私のもとに希望の術式の呪霊が現れた!)」
それと同時に押し寄せる新たな葛藤。
「(でも、どうやって貸してもらおう。太ったから貸してとは死んでも言いたくない。いや、むしろ貸してくれって言った時点で察される!)」
硝子は腕を組みながら思案を巡らせる。
「(研究目的……いや、もう通じないか。任務のため……いや、誰に使うんだって突っ込まれる)」
視線の先では夏油が鏡を見ながら腕を触り、千鬼が「また鍛え直しだなー」と笑っていた。
その様子を見ながら硝子は、ひとつ決意した。
「(こうなったら、いっそ無言で借りるか! 夜中に……)」
彼女の中で、医療とは違う意味での“研究計画”が、静かに、しかし確実に始まりつつあった。
※
その日の夜、硝子は静かに男子寮は侵入し、千鬼の部屋に侵入する。
合鍵は持っていたので簡単に入れた。
中に入ると、見張りなのか巨大な二級呪霊の蛇が千鬼のベッドの近くにトグロを巻いていた。
その赤い目が、部屋に入った硝子を即座に捉える。
「ッ」
次の瞬間、蛇が身を持ち上げ、威嚇の姿勢をとる。
牙を剥き、喉奥で警戒音を鳴らそうとした、その時。
硝子は一歩踏み出し、静かに、しかし鋭く低い声で言った。
「静かにして。私は千鬼の恋人。つまり、あんたのご主人様みたいなもんだよ」
蛇の動きが一瞬止まる。
「今、とても大事な場面なの。千鬼には絶対に内緒。いい? 内緒」
蛇はまだ警戒を解かず、頭を少し傾ける。
「……喋れないのは知ってる。
でももし千鬼にバレたら、ホルマリン漬けにするぞ」
真剣な目と冷静な威圧。恋人としての立場。
すべてを総動員した硝子の言葉に、蛇は目を細めると、スルリとトグロを緩めて再び静かに伏せた。
「……よろしい」
呟いて部屋の奥に進みながら硝子は内心で深く息を吐く。
「(ふぅ緊張した。でも、第一関門突破!)」
蛇が静かになったことに安堵した硝子は目を光らせて周囲を探る。
「(よし、あとは餓鬼を探し出して)」
どこを見渡してもあの呪霊の姿はない。
「……は?」
思わず声が漏れる。
「(おかしい、どこにもいない)」
その瞬間、 硝子は思い出した。
まず、千鬼の呪霊装術は夏油と同じように呪霊は基本的に千鬼が出さない限り、千鬼の中にいる。
今いる蛇のように、“千鬼が出さない限り”基本的にこの場にはいない。
カチン、と音を立てるかのように思考が停止した硝子は、ゆっくりとベッドの方へ顔を向け、そして心の中で叫んだ。
「(やっっっっちまったーーーーー!!)」
ドサァッと、その場に膝をつき、両手で顔を覆う。蛇が何ごとかと首を持ち上げるが、硝子はそれどころではなかった。
「(つまり起こさないと出てこない、起こしたらバレる……詰んだ!)」
目の前で安らかに寝息を立てている千鬼の寝顔を見つめながら、硝子はしばらくその場で悶えた。
「(でも起こしてもいいんじゃない? 研究って言えば……)」
いや、それだと「なぜ今」「なぜ深夜」「なぜ合鍵で勝手に入ってきたのか」という三連コンボで詰められる未来が見える。
「ダメだ……詰んだ……」
そのつぶやきが、真夜中の千鬼の部屋にぽつりと響いた。
しばらく床に膝をついて悶えていた硝子だったが、ふと顔を上げた。
「(いや、待て……まだ手はある)」
目線の先にはベッドで寝息を立てる千鬼。
どこまでも無防備で、愛しい恋人で、そして今、彼女が“どうしても欲しい呪霊”を持っている男。
「(起こしたらバレる……でも、寝たままなら……)」
硝子の脳裏に、今まで診てきた術師たちの“寝言”が思い浮かぶ。
彼女は立ち上がる。
そっと、ベッドの傍にしゃがみ込み、千鬼の枕元へ顔を寄せる。
恋人としての理性と羞恥をどこかに置き去りにして、硝子は静かに、はっきりと囁いた。
「……餓鬼……」
千鬼はピクリとも動かない。
「餓鬼……餓鬼……」
リズムよく、まるで呪文のように。
「……出して……餓鬼……」
寝返りを打つ千鬼。
目を閉じたまま、何かをもごもごと呟いた。
「え?今なんか言った?」
希望の光が胸にともる硝子。
少し興奮気味に声をひそめながら続ける。
「餓鬼……出して……餓鬼……」
すると、千鬼の眉がピクッと動いた。
「……が……ぎ……」
硝子の心臓がドクンと跳ねた。
「そう、それ! 餓鬼、餓鬼出して……」
「……うーん…餅もっと……」
「はぁ!? なんで餅なんだよ!!」
思わず本音が漏れたがすぐにハッとして口を押さえる。
蛇が驚いてまた頭を上げたが、鋭い睨みで静止。
深く息をつき、最後の賭けに出る。
「……千鬼、餓鬼出して……餓鬼、召喚……」
その時、部屋の空気が一瞬だけピリ、と呪力に揺れた。
「……来る……?」
と硝子が身構えた瞬間——
「……ぅぅ……硝子ぉ……好きぃ……」
「あーもうダメだこりゃ!!」
ベッドの脇に崩れ落ちた硝子の叫びは、さすがに蛇も目を逸らすほどの虚無を帯びていた。
その後、硝子は崩れ落ちた体を引きずるように立ち上がり、深くため息をついた。
「(くそ、ここまでやってダメか)」
悔しさと疲労感を胸に抱え、そろりそろりと千鬼の部屋のドアへ向かう。
だが、ふと足を止め、まだ同じ位置でとぐろを巻いている蛇に視線をやった。
「……あんたさ」
蛇のガラス玉のような目が硝子を見つめる。
「なんか痩せる系の術式とか持ってないの? 脂肪燃焼とか、新陳代謝促進とか、ないの?」
蛇は無言のまま、ほんのわずかに頭を傾ける。
まるで「は?」と言っているかのような雰囲気を全身から放ち始めた。
「……ないんかい……」
硝子は眉間にシワを寄せ、肩を落とした。
「……センスねー……」
蛇は目を細め、あからさまに「理不尽な八つ当たりだ」と言いたげな空気を漂わせるが、硝子はもう気にする余裕もなく、ドアをそっと開けて部屋を出ていった。
そのまま自室に戻り、薄暗い照明の中、制服も脱がずにベッドへダイブ。
「ぅあー!!なんでこうなんの!」
枕に顔を埋め、悔しさを吐き出す。
「(あとちょっとだった、千鬼の寝言が餓鬼じゃなくて餅じゃなければ!)」
そのまま枕を抱きしめながら、じわじわと瞼が重くなっていく。
最後に、心の中でぼそっと呟いた。
「(……今度こそ……次こそは……絶対出させる……)」
そう決意しながら、悔しさを抱いたまま、硝子は眠りについたのだった。
※
翌日、硝子がどうにかできないかと考えていると、医務室に弱々しいノックが響いたかと思えば、ドアが開く音。
硝子が顔を上げると、そこには痩せこけた人物が立っていた。
「た、助けてぇ〜」
かすれるような声。
だが、あの見慣れたサングラスと、白髪、そしておそらくこの世で1人だけだろうその六眼。
「五条!?」
硝子は思わず立ち上がり、駆け寄って支える。
「うわ、あんた、何そのゾンビみたいな体!」
「し…しょくぶつの…標本にされる夢を見た…」
「いいから黙って寝て!」
すぐにベッドへ寝かせ、慣れた手つきで点滴を準備する。特製栄養剤をぶすりと腕に刺すと、五条は「助かるぅ……」と呟いて意識を薄く保ったまま目を閉じる。
そこへドタドタと千鬼が駆け込んでくる。
「やっぱりここか!五条、マジで悪かった、お前があんなに吸われるとは思ってなかったんだよ」
硝子は手を止めて、千鬼をにらんだ。
「あんた、何やったの?」
「いや、アイツまた任務中にふざけててさ。
俺が真面目に注意したんだよ。そしたら“めんごめんご〜”とか言いやがってさぁ」
「一発だけ餓鬼で“ちょっとだけ吸ってやるか”って触れたら、気持ちいいくらいに吸えちゃって……」
「気持ちいいとか言ってる場合じゃないでしょ! これは下手したら事故っていうか殺人未遂レベルだよ!?」
「だよなぁ……」
千鬼が頭をかきながらうなだれるが、その横で硝子は何かを思いついたように手を止めた。
「あんたさ、餓鬼、ちゃんとコントロールして使えるように練習してみたら?」
千鬼は目をぱちくりさせた。
「え、今でもある程度は……」
「“ある程度”じゃなくて、“正確に”だよ。
たとえば“300グラムだけ”とか、“脂肪率〇%分だけ”とか……そういうの。そうしたら、万が一五条に触ってもまたこうはならないでしょ?」
「まぁ、そうだけど……」
「それにさ、そういう技術があれば将来的に何かに応用できるかもよ」
硝子は何気ない風を装いながら、目をそらして言う。
千鬼はしばらく考え、ぽんと手を打った。
「おお、確かに!それ、面白いかも」
五条がベッドの上でか細く呻く。
「……おれは……もう……実験台になりたくないです……」
「「黙って寝てろ」」
二人に同時に言われ、五条はベッドに沈んだ。
硝子は微かに笑いながらも、心の中で静かに決意する。
「(……よし、次こそ……!)」
※
〜しばらくして〜
千鬼は餓鬼の使用練習を、五条や夏油、時には任務先で遭遇した呪詛師相手にも試しながら、調整技術を磨いていた。
そしてある日の夕方、硝子は千鬼の部屋を訪れる。
「ねぇ、ちょっとお願いがあるんだけど」
「ん?」
硝子は一瞬言葉に詰まりつつも、意を決して言う。
「私に、餓鬼使ってみてくれない?」
千鬼は即座に眉をひそめる。
「ダメだ。もしものことがあったらどうすんだよ。五条みたいになったら」
「だからこそ、私にかけて“もしものことが起きたら”、それは“まだ使いこなせてない”って証明になるでしょ?」
硝子の表情は真剣だった。だけどそれが、“痩せたい”という一心から来ていることを千鬼はまだ知らない。
「……」
しばらく悩んだ末に、千鬼は小さくため息をついて頷いた。
「わかった。でも、絶対に無理はしない。少しだけだぞ」
「それで……えっと、何キロくらい減らす?」
「女子にそういうの聞くか、普通」
「あ、そっか。じゃあ逆に今の俺の感覚で“何キロくらい減らせばちょうどよさそう”か言ってみるか?」
硝子は内心「やめろやめろやめろ!」と全力で叫んでいたが、口では
「……うん、いいよ。当ててみて」
と言ってしまった。
千鬼は真面目に硝子を見つめ、少し考えながら
「んー……じゃあ、7キロくらい?」
その瞬間、硝子の表情が固まった。目の奥が一瞬で曇り、乾いた笑みを浮かべてぽつり。
「へぇ……そんなに、ね……」
「えっ、違った?」
「ううん、べつに……想像より多いなぁって……」
「(それ、私がここ数ヶ月でなんとか落としたいって目標にしてた体重……千鬼にバレてないはずなのにドンピシャで当ててくるって何!?)」
「ご、ごめん?」
「いいの、やって。もう。さっさと」
「う、うん……」
そして、千鬼が餓鬼を腕に纏い、慎重に呪力の流れを調整しながら硝子に触れる。
手からふわりとした呪力が流れ、ほんのわずか、体の中の“余分”なものだけが削ぎ落とされていく。
「……」
硝子の体がほんの少しだけ軽くなった。
「どう?」
硝子は感覚で分かった。
「……完璧。これで五条にやったときみたいな変化もないし、ちゃんと“希望通り”減ったよ」
「……そっか、それならよかった」
千鬼はホッとした様子で微笑むが、硝子はその横で目を伏せて、もう一度だけ心の中で叫んだ。
「(ほんとなんでドンピシャなんだよ千鬼ぃぃぃぃ!)」
※
数日後
医務室のドアが軽くノックされ、「入ってるよー」と返す、珍しく庵歌姫が顔を覗かせた。
「硝子、ちょっといい?」
「歌姫先輩? どうしたんですか、珍しいですね」
硝子は椅子を回転させながら少し驚いたように微笑む。
怪我はしていないようだ。
普段あまり来ない歌姫の訪問に内心興味津々だった。
歌姫はちらりと周囲を見てから医務室のドアを閉め、硝子の目の前に椅子を引き寄せて腰を下ろす。
「ちょっと聞きたいことがあって」
「はい?」
「……いいダイエット方法、ある?」
その一言に、硝子の表情がピタリと止まった。
まるで時が止まったかのように固まり、
次の瞬間
ふぅ……とため息混じりに言葉をこぼす。
「ああ、全部察しました」
「うん、そういうこと……」
歌姫はそっと目を逸らす。
「それで、ないかしら?」
「……まあ、あるにはあるんですけど」
硝子はゆっくりと腕を組み、真剣な顔で続ける。
「実は千鬼がいい呪霊持ってて、それが一番効果がありますね。即効性もありますし」
「問題は、どういう理由で使わせるかなんですよ。あれ、調伏してから私が頼み込んで(さまざまな試行錯誤)やっと調整して使えさせるようになったやつなんです。簡単には使えません」
歌姫は困ったように苦笑しながら、小声で言った。
「私も“太ったから使ってくれ”なんて言いたくないし」
「でしょうね」
沈黙。お互いにプライドと羞恥心が邪魔をする中、硝子がぽつりとつぶやいた。
「“呪力の流れが滞ってる気がする”って言い訳にしてみます?」
「それ、あり?」
「私が“呪力の流れ改善のため”って診断出します。あとは千鬼にそれっぽく伝えれば……」
「完璧じゃん、それ」
歌姫と硝子は、妙な連帯感を覚えながら視線を交わした。
かくして、“脂肪を呪力と一緒に削ぎ落とす裏ルート”が、密かに女性術師の間で広がり始めるのだった。
もちろん、千鬼には内緒で。
※
〜数日後〜
訓練後のグラウンドを歩きながら、千鬼はふと呟いた。
「なあ、硝子。最近さ……なんか女性術師とか補助監督によく話しかけられる気がするんだけど、なんかあった?」
硝子は歩調を崩さず、平然と答える。
「さあ? 千鬼がイケメンだからじゃない?」
「え、そうかなぁ?」
「……調子乗るな」
「はい、すいません」
一瞬で沈黙する千鬼を見て、硝子は心の中でクスッと笑った。
「(本当の理由? アンタの中に“決戦兵器”がいるからに決まってるでしょ)」
千鬼には言えない。いや、絶対に言えない。
でも硝子はちょっとだけ誇らしかった。
今日も餓鬼は静かに、しかし確実に、美と執念の最前線で働いていた。
そんなことを知る由もない千鬼は、呟いた。
「……でもまあ、なんか怖いんだよな、最近の女子の目つき」
硝子は笑ってごまかした。
「気のせいじゃない?」
次からは死滅回游の続きです。お楽しみに