『守銭奴と怪力乱神』
深い山の稜線をかすめるように帳が落ち始めた頃、ある一人の術師がそこにいた。
一級術師、冥冥はここにくる前のことを思い出す。
最初、この山で確認された呪力の痕跡は微弱。
階級は二級相当。ならば十分対処可能。
二級術師が単独で派遣される。
夕刻には寒さが牙を剥く山道を、その術師は静かに登っていった。
それが最後の報告だった。
連絡は途絶えたまま。携帯の故障か、道迷いか。
だが術師が呪霊任務中に消息を断つ
──この一点は、どんな言い訳も許さない。
高専内の空気が変わった。
「報告に誤差があった可能性がある。呪霊の階級が違うまたは呪霊が厄介な術式を持っている」
救援を送るべきか。
追加戦力を編成すべきか。
しかし、面倒なことに現場は人気のない山奥で近くにめぼしい術師はいない。
広域捜索には人員も時間もかかる。
下手に半端な術師を送り込めばさらに被害が拡大する恐れもあった。
「単独で確実に片をつけられる術師が必要だ」
そう判断された瞬間、ひとりの名が浮かぶ。
報酬次第でさまざまな任務を請け負い、実力は折り紙つき、特級を祓っている実績もあるので十分だった。
〜応接室〜
任務説明を受けた冥冥は、長い髪を揺らしながら、椅子にもたれかかる。
「二級呪霊のはずが音信不通…嫌な匂いしかないけど」
淡々とした声音。
焦りも緊張もない。あるのは計算のみ。
「で、いくら?」
高専側が提示した報酬額を聞いた瞬間、冥冥のまぶたがわずかに持ち上がる。
「ふぅん。悪くないじゃないか」
口元に微笑。だがその目は、利益の光だけを反射していた。
「その任務、受けよう」
それだけ言い残し、立ち上がる。
「さっさと片付けて、帰りに何か食べようかな」
冥冥は軽く肩を回して歩き出した。
これによって冥冥の派遣が決定された。
※
向かう先は、“名もなき怪物”が潜む場所。
山道は、獣の息さえ凍りつくような静けさに包まれていた。
冥冥は足元の葉を踏みしめながら、淡々と歩みを進める。
呪力の痕跡は微か。
だがそれは“弱い”という意味ではない。
呪力のON OFFがうまい、つまり強力な呪霊の可能性がある。
「……面倒なタイプだね」
独り言のように呟いたその瞬間。
山奥の空気が、不意に震えた。
──ドゴォン。
大地を殴りつけるような轟音。
山肌が揺れ、木々の枝がざわりと震えた。
冥冥は斧を引き抜き、音の方角へ視線を向ける。
「……随分と派手じゃないか」
一歩。
また一歩。
視界が開けた場所に奇妙な光景が広がっていた。
岩山の斜面に、黒い影がひとつ。
いや影ではない。
“呪霊”だった。
背丈は人に近い。だがその体から立ち上る呪力は、明らかに最初に判断された“二級”の枠を超えている。
それは巨大な岩肌に向かって無心に拳を叩き込み続けていた。
ドゴォン。
ドゴォン。
ドゴォン。
岩は砕け、抉れ、粉塵が舞う。
ただ破壊だけを目的とするような、異様な執念。
冥冥は目を細める。
「何を?」
その視線が、岩肌の“下”に止まった。
血肉が飛び散り、骨が砕け、元の形をとどめていない、ぐちゃぐちゃになった死体。
様子から察するに昨日派遣された二級術師だろう。
岩に叩き付けられ、繰り返し潰されたのだ。
冥冥の表情が、僅かに陰った。
怒りではなく計算。
「なるほど。確かに派遣ミス(これは一級案件は確実だね)」
その声が届いたのか、呪霊が拳を止めた。
ゆっくりと振り返る。
砕けた岩の粉塵をまといながら、獣じみた笑みを浮かべる。
赤黒い瞳が冥冥を捉えた。
「ん?」
一拍置き、
「おお!新しいのが来たな!」
呪霊──
嬉しそうに。
戦いを待ち望んでいたかのように。
冥冥は斧を肩に担ぎ、無表情に言った。
「……二級じゃないね、確実に」
天逆毎が拳を握りしめたその瞬間だった。
ズゥン。
空気が沈む。
山の温度が、一気に数度下がったように感じられる。
見えない圧が、冥冥の肌を刺す。
呪力が跳ね上がった。
先ほどまでとは別物。
荒々しく、重く、底が見えない。
「……は?」
冥冥は瞬時に計算する。
身体強化、密度、圧力、呪力総量どれをとっても、
──特級相当。
間違いなく、並の術師が触れられる領域ではない。
「全く…これは聞いてないんだけど?」
視線は天逆毎から逸らさずに、肩を竦める。
呟きは愚痴。でも声は静かでぶれない。
そして小さくため息。
「追加報酬。絶対に上乗せしないと」
その言葉と同時に、冥冥は斧を構える。
天逆毎は嬉々とした声で吠えた。
「(前来たやつとは違ってビビらねぇ…)いいな!やっと面白そうなのが来た!まずは小手調べだ!」
地面がひび割れる。
天逆毎が前傾姿勢で踏み込み
「ああ、はいはい」
冥冥は片手で髪を払う。
「割に合わせてもらうよ」
次の瞬間、天逆毎が爆ぜるように飛び込んできた。
冥冥も一歩踏み込み、斧を振り上げる。
天逆毎の踏み込みは、爆発にも似ていた。
地面が砕け、石片が跳ね上がる。
その中心から迫る拳。
冥冥は一歩、つま先で弾くように後退し、拳を紙一重で避けた。
ゴッッッ!
彼女の背後で岩壁が陥没する。
拳が掠っただけで、岩が丸ごと抉れた。
「これで“準備運動”ってわけ?」
冥冥は斧を肩で回し、軽く体勢を整える。
呼吸は乱れていない。動じてもいない。
天逆毎は楽しげに笑った。
「おお!避けるか!面白ぇ!」
今度は横薙ぎ。
腕の風圧だけで木々を薙ぎ倒す勢いだ。
冥冥は地面を蹴り、瞬発力だけで間合いを外した。
同時に斧を回転させ──
シュッ!
刃が天逆毎の肩口を斜めに裂く。
肉が裂け、血が勢いよく出てくる。
「ははっ!痛ぇな!いいぞ!」
しかし、肩を裂かれてなお天逆毎の動きは止まらない。
むしろ勢いを増して迫ってくる。
冥冥は眉をひそめた。
「小手調べ…加減してこれとは、タチが悪い」
彼女は間髪入れず、脚で地面を蹴り上げる。
斧の柄を支点に、体を回転──
ドンッ!
踵が天逆毎の顎を跳ね上げた。
衝撃で天逆毎の体が宙に浮き、わずかに後退する。
だが着地した天逆毎はそのまま笑う。
「いいじゃねぇか!もっとやれ!」
拳が雨のように降り注ぐ。
ドドドドドッ!
冥冥は斧で弾き、滑らせる。
一撃でもまともに受ければ粉砕される。それが理解できる圧。
斧が衝撃で軋むたび、腕に痺れが走った。
「(腕が持たないねこれ)」
天逆毎がさらに踏み込む。
その動きは速い。
だが、どこか無邪気で粗い。
冥冥は気づく。
“まだまだ全力じゃない。”
「(もしかして実力の半分も出してない?)…遊んでるつもりかい?」
鼻で笑うと冥冥は斧を振り抜いた。
軌道は低く、鋭く。
刃が天逆毎の腹部を深々と裂いた。
肉が開き、血が飛び散る。
それでも天逆毎は一歩前に出た。
「まだまだぁ!」
拳が冥冥の視界いっぱいに迫る。
冥冥は斧を逆手に構え、身体を半身に絞る。
「これは……本気を見たらただじゃ済まないね」
次の瞬間山全体が揺れた。
特級の“戯れ”。
それでもなお、殺意に等しい破壊。
冥冥は悟る。
真正面からやり合えば、文字通り押し潰される。
天逆毎は笑う。
「まだまだやれるよなぁ!?」
冥冥は静かに、斧を構え直した。
「悪いがこっちは遊びじゃない。仕事なんだ」
岩壁を裂く衝撃音が何度も響き、冥冥の斧が銀色の弧を描く。
「──はぁっ!」
鋭い一撃が天逆毎の肩口を狙う。
最初は確かに刃が肉を裂き、血飛沫が散った。
しかし──
バキィッ!
次の瞬間、斧がまるで鋼鉄に当たったかのような手応えを返す。
傷は最初よりも浅い。
「いいぞいいぞ。もっとやれ」
天逆毎は楽しげに笑い、殴りつけた岩山の破片を踏みつぶしながら一歩、また一歩と前へ進む。
その全身から噴き出す呪力は、先ほどより明らかに濃く重く、まるで獣の咆哮のように空気を震わせていた。
冥冥は素早く距離を取り、呼吸を整える。
「(……強化系。時間が経つ、または攻撃のたびに自動で肉体が底上げされているってわけかい?
厄介だね)」
斧を握る手に汗が滲む。再び踏み込み、低い姿勢から足元を狙って斬り上げる。
キィン!
刃がわずかに触れたが、さらに浅い。
皮膚が硬質化している。続けざまに横薙ぎ。
ガンッ!
今度は完全に弾かれた。
「ほらほらどうした!」
天逆毎は腕をぶん、と振る。
僅かな動きだけで生じた風圧が、冥冥の髪を大きく揺らす。
その体はもう先ほどとは別物。
筋肉が膨張し、皮膚は岩のように分厚く変質している。
呪力は唸りをあげ、地面が震える。
「……冗談だとよかったんだけど」
冥冥は一瞬だけ斧を見下ろす。
頼れるはずの武器が、まるで木の棒のように思えるほどだった。
そして──
ドンッ!!
正面から天逆毎が踏み込む。足が地面に沈み込むほどの一歩。
「どうした? もう終いか?」
挑発めいた声。愉悦を隠しもしない笑み。
冥冥は口角を引きつらせて吐き捨てた。
「……追加報酬、期待するしかないね」
こんな時でもやはりこう考えてしまうのが彼女のいいところでもあるのだろう。
だがそれは無事に帰れたらの話。それを嘲笑うように天逆毎の拳が音を置き去りにして迫った。
戦況は完全に転じていた。
斧が届かず、力が通らない。
岩肌に反響する金属音が途絶え、冥冥の斧が完全に止まった。
その様子を見て、天逆毎は愉快そうに鼻を鳴らす。
「これで終わりか?なら──」
ぐっと拳を握りしめ、口角を吊り上げる。
「こっちも少し力込めていくぞ!」
次の瞬間。
ドゴッッ!!
鋭い衝撃が冥冥の腹を抉った。視界が一度白く弾け、肺から息が強制的に絞り出される。
「──ッッ!!」
声にならない悲鳴とともに、冥冥の体が勢いよく宙へ弾き飛ばされた。岩壁へ向かって一直線に。
だがぶつかるより早く。
「遅ぇ!」
飛ばされる先にもう天逆毎がいた。
ガシィッ!!
巨大な手が冥冥の頭部をがっちりと掴む。
次の瞬間──
バゴォォン!!
地面が陥没するほどの勢いで叩きつけられた。土煙が爆ぜ、石片が四散する。
頭蓋に響く鈍痛。
滴る赤い血。
意識が一瞬揺らぐ。呼吸ができない。
「(……まずい)」
本能だけが警鐘を鳴らす。
冥冥は反射的に斧を横へ振り抜いた。
ガキィィン!
刃が天逆毎の手を弾き、拘束が外れる。
その隙に冥冥は地を転がり、なんとか距離を取った。
「ハァ……ハァ……っ……!」
膝に力が入らない。視界が揺れる。
だが、立ち止まった瞬間──
ガッ。
足首を掴まれた。
「まだ逃げんのか?」
振り返るより早く、世界が回転する。
ぶんッ!!
巨力に振り回され、冥冥の体が遠心力ごと空へ放り投げられた。
「──ッ!!」
空中で体勢も整えられないまま、地面が迫る。
天逆毎の声が追い打ちのように響いた。
「もっとやろうぜ、術師!!」
無慈悲な重力が冥冥を叩き落とす。
地面に叩きつけられた衝撃がまだ全身に残り、冥冥の指先は小刻みに震えていた。
なんとかそばの岩壁に寄りかかるも、そこへ天逆毎がゆっくり近づく。
「おいおいおい」
足音が一歩、また一歩。
愉悦を含んだ声が降ってくる。
「これでお終いかぁ? なぁ術師」
冥冥は息も荒い。返事もない。
だが、
その視線だけは、天逆毎とは別の方向を見据えていた。
天逆毎は眉をひそめる。
「なんだ? 負け惜しみの空でも眺めて──」
言葉が止まった。
冥冥が見ている先は天逆毎の背後の空一点。
そこに黒い影が一羽。
烏が静かに羽ばたいていた。
冥冥の唇がかすかに吊り上がる。
「……言っただろう」
ガクンと片膝を立て、ゆっくりと顔を上げる。
「仕事は“確実”にやるって」
天逆毎が振り返ろうとしたその瞬間。
【“
次の刹那。
ゴォォォンッ!!
空気が裂けた。
カラスが弾丸のように天逆毎の背後へ突進し、呪力が一点に集中して爆ぜる。
天逆毎の身体が前のめりに揺らぎ、目には驚愕が写る。
「なっ!?」
冥冥は立ち上がり、斧を構え直した。
その目は、さっきまで倒れていた術師のものではない。
鋭く、冷静で、獲物を仕留める狩人の目。
「舐めないでくれ」
低く、静かに。
「君に私の終わりを決める権利はない」
風が吹き抜け、天逆毎がゆっくり顔を上げる。
その姿を見て冥冥は息を呑んだ。
右側の上半身が肩口からごっそり消えている。
肉片が飛び散り、骨すら半分欠けていた。
呪霊であっても致命傷と言っていい破壊。
だが──
「……っ」
天逆毎は倒れもせず、ただゆっくりと首を回す。
そして。
「……はっ」
口角が吊り上がり
「いいね……」
血肉を撒き散らしたまま、両目が狂気に光る。
「良いねいいねぇ!!」
声が弾ける。
痛みは感じる。だが焦りも、怒りも、怯えもない。
あるのは純粋な歓喜。
天逆毎は残った左腕をぶらりと振りながら一歩ずつ冥冥へ向かう。
「やっと満足いくのがきたじゃねぇか! もっとやれよ! もっと壊してみろ!!」
その視線は、冥冥だけを真っ直ぐに射抜いている。
愉悦。期待。興奮。
獲物を追う獣ではない。戦いそのものを味わう化け物の目だ。
冥冥の心臓が強く跳ねた。
「(……仕留めきれなかった)」
神風は一撃必殺を想定した攻撃。
あの距離、あの威力で倒せない相手を冥冥は今まで知らない。
ましてや体を逸らされたからと言って、この技を受けているはずなのにピンピンしている相手は初めてどころかおそらくこれから出るかもわからない。
喉がかすかに鳴る。
「(まずい)」
初めて明確な焦りが胸を刺した。
天逆毎は肩を揺らし、笑い続ける。
「もっと戦おう!術師ィ!」
ズシンッと大地が踏み抜かれる。
冥冥は歯を食いしばり、斧を握り直した。
手のひらは汗で滑る。呼吸が乱れる。
──神風ですら足りない。
──この化け物、どこまで強くなる?
背中を冷たい感覚が走る。
冥冥は歯噛みしながら一歩後退した。
「(一撃で通らない……なら数で押す)」
空が黒く散った。
バサバサッ!!
三方向から、三羽の烏が舞い降りる。
天逆毎の肩、頭上、背後に配置され、瞬時に陣形を構築する。
天逆毎は片眉を上げる。
「お? 増えたな」
冥冥は低く呟いた。
【神風】
次の瞬間、三羽が同時に閃光のように飛び出した。
上から、左から、背後から。
三方向同時攻撃。
回避しても死角ができない精密な殺意。
空気が悲鳴を上げるように裂けた。
ドンッ! ドンッ! ドンッ!!
冥冥は息を詰めた。
まるで祈るかのような確信。
「(これなら……)」
しかし、くぐもった笑い声が響いた。
「……ふっ、ははっ」
天逆毎が足元の地面を蹴った瞬間、
ゴッ!!
冥冥の視界の端で、一羽の烏が殴り飛ばされた。
羽と呪力が霧のように散る。
「まず一つ!」
続けざまに、身体をひねって跳躍。
「次ィ!」
ガシィッ!!
二羽目を空中で掴み、そのまま地面に叩きつける。
ドシャッ!!
呪力が潰れたように霧散した。
そして最後の一羽も
「見えてんだよ!」
ズバッ!!
拳が風を裂き、烏が弾丸のように吹き飛んで木々を薙ぎ倒す。
残骸のように呪力が散って消えた。
静寂。
冥冥の指先が震える。
「(三方向同時……全部破られた?)」
天逆毎は血のついた拳を見下ろし、ケタケタと笑う。
「いいじゃねぇか!面白ぇよ、お前!」
そして、嬉々として宣言する。
「もっと撃て!もっと殺しに来いよ!」
冥冥は唇を噛んだ。
「(……通らない)」
神風ですら、届かない。
冥冥の背中に冷たい恐怖が貼り付いた。
冥冥は無意識に一歩後ずさる。
足裏が土を擦る音が妙に大きく響いた。
「(……効かない)」
天逆毎は片腕だけの身体で、それでも大きく肩を揺らしながら笑い続けていた。
「もっと来いよ。まだ足りねぇって!」
楽しげに、期待するように。
まるで冥冥がもっと強くなるのを心待ちにしているかのように。
冥冥は喉を鳴らした。
カラカラと音がするほど乾いていた。
「(……なにこれ)」
自分が今まで祓ってきた呪霊たちとは次元が違う。
力も、耐久も、反応も、戦闘衝動も。
特級──そんな言葉でさえ、軽く聞こえる。
心臓が一拍大きく跳ねた。呼吸が浅くなる。
手の中の斧が汗で滑りかける。
ほんの僅かだが確かに。
冥冥の体が震えた。
「……っ」
自覚した瞬間、息が止まる。
これは寒さでも痛みでもない。
──純粋な恐怖
冥冥が戦闘で初めて感じた生々しい感覚。
背筋を氷の指でなぞられたような震え。
天逆毎がゆっくり顎を上げ、笑顔のまま冥冥を見据える。
「なぁ……まだ立てるよな?」
その声が妙に優しく聞こえたことが、冥冥の背をさらに強く締め付けた。
「(これはまずい)」
言葉にならない思考が、胸の奥で警報のように鳴り響く。
──逃げろ。
──勝てない。
──死ぬ。
理性はそう叫ぶのに動かなかった。
足がすくんだその刹那。
スッ
視界が一瞬、揺れた。
いや違う。
地面しかなかった。
「……っ!?」
呼吸より早く、天逆毎の姿が目の前に迫っていた。
そして。
ガシッ!!
冷たい衝撃が喉元を締め上げる。
太い指が、冥冥の首を完全に掴んでいた。
「──ぁ……っ!」
声にならない声が漏れる。
指は迷いも遠慮もなく、鉄の枷のように食い込み─
ズズズッ……
ゆっくりと、だが確実に冥冥の身体を持ち上げていく。
片腕だけの天逆毎が、軽々と。
足が地を離れ、宙に浮いた。
喉が圧迫され、呼吸が奪われる。
視界が点滅する。
天逆毎は愉悦の笑みを浮かべたまま、冥冥を見上げた。
「もう終わりだな」
指先にさらに力が込められる。
ギリギリギリ……
骨が軋む嫌な音が、耳の内側に響く。
冥冥は必死に斧を握ろうとするが、手が言うことを聞かない。
天逆毎は楽しげに言った。
「面白ぇな。強い奴ほど、それを壊す瞬間が楽しいんだ」
冥冥の瞳が揺れる。
恐怖が形になった。死がはっきりと近づいている。
足が宙を掻く。斧は地に落ちた。腕が動かない。
喉が潰れる。視界の端が黒く染まる。
「……ッ……ッ……!」
目の前が揺れる。輪郭が滲み、色が薄れていく。
(……ま、ず……)
思考が途切れた。
視界の端が黒く沈む。
意識が、水中に沈むように遠のいていく。
身体から力が抜け
手が垂れ──
瞳が半ば閉じかけた、その瞬間。
ヒュッ──!!
天逆毎が、突如として冥冥を手から放した。
「……ッ!?」
冥冥の身体が地面へ落ち、膝から崩れるように倒れ込む。
その瞬間、空気が鋭く切り裂かれた。
ズバァァッ!!
何かが高速で飛来し、天逆毎の頬を掠めて岩壁に突き刺さる。
岩肌が爆ぜ、粉塵が舞い上がった。
天逆毎は笑みを消し、すっと横へ跳んで回避していた。
「……お?」
初めて、その目に警戒の色が宿る。
冥冥は地面に倒れたまま、咳き込みながら必死に呼吸を取り戻す。
喉が焼けるように痛い。
視界はまだぐらつき、まともに焦点が合わない。
だが天逆毎が視線を向けた先だけは、はっきりと見えた。
木々が揺れ、風が割れる。
そこにひとりの男が立っていた。
黒髪に鋭い目。
構えもせず、ただ真っ直ぐ天逆毎を射抜くように見据えている。
冥冥の瞳が大きく揺れる。
「……龍山君……」
龍山千鬼、その存在感は山の空気を一変させた。
天逆毎は口角をゆっくり吊り上げる。
「おいおい……いいなぁ」
興奮がまた戻る。
「もっと面白そうな奴が来たじゃねぇか」
息が痛いほど荒い中理解した。
ここから戦況が変わるのだと、千鬼は一言も発さずただ冥冥のもとへ歩み寄った。
天逆毎はそれを追わず口元に笑みを残したまま見送る。
「ほう? 仲間助けか? いいぜ、待っててやるよ」
千鬼は冥冥の肩に手を添える。
その手つきは乱暴でも強引でもなく驚くほど静かで丁寧だった。
冥冥はまだ息が荒く、声も出ない。
千鬼は冥冥の身体を軽々と抱え上げると少し離れた岩場へ向かう。
「っ……!」
抗う力はない。
だが千鬼の歩き方ひとつで冥冥は悟る。
明確な判断、戦闘不能と見なされた。
借りを作ってしまう悔しさと同時にほんの少しだけ安堵が混じった。
千鬼は窪地へ冥冥をそっと降ろし、目を伏せて告げた。
「冥冥さんは休んでてください」
それだけ。
振り返りもせず、再び戦場へ歩き出す。
冥冥は声にならない声で呟いた。
「ふふ……大きな借りだ……」
※
千鬼が再び陽の当たる岩場に戻ると、天逆毎は両足を肩幅に開いて待っていた。
体も完全に再生され、その気配は先ほどより濃く、禍々しい。
「よし。準備できたか?」
千鬼は無言。
ただ、指を軽く鳴らした。
空気が凍りつく。
千鬼の側に白い影が現れた。
「……っ」
天逆毎の目が大きく開かれた。
冷たい気配。絹のような白髪。氷の女。
特級呪霊、雪女の澪華だった。
続いて大地が低く唸る。
巨大な骨格が千鬼の背後に立ち上がる。
地を揺らす骸骨の巨影。
特級呪霊、がしゃどくろ。
二体の特級呪霊が千鬼に寄り添うように佇む。
呪力が千鬼の身体へ流れ込み、二つの特級の気配が融合する。
冷気と骨が体を包み、氷と骨の鎧姿が現れる。
兜の奥で千鬼の瞳が細く光る。
「行くぞ」
その瞬間、地面が砕け散った。
天逆毎が歓喜の声を上げる。
「来いよ!」
千鬼は低く構え、拳を握る。
冷気が拳に集まり、骨鎧に呪力を流して硬度を上げる。
螺旋を描き、千鬼の身体から噴き上がった。
遠くから冥冥は息を呑む。
天逆毎が地を蹴る。
千鬼も踏み込む。
天逆毎の拳が風圧ごと千鬼を襲う。
ドゴォンッ!!
がしゃどくろの鎧がきしみ、衝撃が全身の骨を震わせた。
硬度は引き上げているはずなのに拳が貫通する錯覚すら覚える。
千鬼は後退しながら息を吐く。
「……冗談みてぇなパワーだな(力だけなら伏黒甚爾よりも強い)」
だが天逆毎は逆に愉悦の笑みを浮かべていた。
「その鈍い痛みの顔!もっと見せろ!」
次の瞬間、天逆毎が地面を砕いて突進。
視界から消える速度。
バキィィッ!!!
千鬼は腕で受けたが、衝撃で肩が悲鳴を上げる。
鎧は割れなかったが内部の肉が確実にダメージを受けていた。
「硬ぇけど、中身までは完全には守れねぇだろ?」
楽しげに吐き捨てると天逆毎はさらに追撃。
千鬼も負けじと反撃に転じる。
氷刃を生成し、骨の槍と共に連撃を叩き込む。
シャッ!シャッ!シャァン!!
だが天逆毎はそれらを拳で弾き、蹴り砕き、時に紙一重で回避した。
「効かねぇなァ!!」
肩口に氷が浅く刺さってもまるでかすり傷程度。むしろ嬉しそうに笑うだけ。
千鬼の表情が僅かに険しくなるが、少し笑みが浮かんでいる。
「……戦闘狂め」
澪華の呪力が膨れ上がり、千鬼の周囲に凍てつく世界が広がった。
瞬間、天逆毎の全身が白く凍りつく。
バキバキバキッ!
筋肉、関節、血液。すべてが凍り固まり動きを奪う。
完全に凍結したかに見えた。
しかし
メキ…メキィィィ……ッ!!!
天逆毎の身体が、氷の中で膨れ上がった。
凍りついた筋肉を無理やり動かし、氷ごと引き裂くように腕を広げる。
ドォンッ!!!
氷片が四散し、天逆毎が姿を現す。
その顔には狂気の笑み。
「小細工しても力ずくで動けるんだよ!」
氷が砕け落ちる音が、不吉な鐘のように響く。
千鬼は薄く笑みを浮かべる。
「……マジかよ」
「さぁ、次はお前の番だ」
踏み出された天逆毎の足が沈み込んだ瞬間
ドンッ!!!
爆発のような踏み込みとともに、弾丸のように千鬼へ突っ込む。
「上等!」
千鬼は咄嗟に骨の盾を生成し、前に構える。
バァンッ!!!!
瞬間、盾ごと吹き飛んだ。
衝撃が盾を歪ませ、押さえていた腕が悲鳴を上げる。
「っ!」
天逆毎の拳は止まらない。追撃が雨のように降る。
ドゴォッ! バキィッ! ズガァンッ!
骨鎧が軋み、ひびが入り、千鬼の体が地面を転がり岩を砕きながら吹き飛ぶ。
しかし千鬼は転がりながら立ち上がり即座に反撃
骨槍と氷刃の乱舞
数十本の骨と氷が同時に射出され、嵐のように天逆毎を襲う。
「ほんと面白いやつだな!」
天逆毎は全身に槍を受けながら突っ込んできた。
刺さっている。血も流れている。
だが止まらない。
バギィィッ!
天逆毎の拳が千鬼の腕を打ち折った。
骨ごと、容赦なく。
「っ!」
だが千鬼は顔を上げる。
「折れたくらいで止まるかよ」
氷で即席の固定をし、折れた腕ごと拳を握りしめ
渾身のストレートを天逆毎の顎へ叩き込む!!
ドッッ!!!
天逆毎の頭が跳ね上がり、地面がひび割れるほどの衝撃。
続けざまに千鬼は跳躍し、空中から氷の大剣を振り下ろす。
「砕けろォ!!」
ズガァァンッ!!!!
天逆毎の肩口から胸にかけて大きく裂け、血飛沫が弧を描く。
天逆毎が膝をついた。
荒い呼吸だけが響く。
千鬼は肩で息をしながら睨みつける。
「どうした……まだ笑えんのか?」
その瞬間
ゴゴゴゴゴ……ッ
天逆毎の背中が盛り上がり、裂けた肉が蠢き、再生が加速する。
口元が歪む。
「ハァ……ッ、ハァ……ッ」
──ニィィィ……ッ
狂った笑みが戻った。
「最高だ!こんなの初めてだ!」
天逆毎が立ち上がる。
裂けた傷が塞がり、折れかけた骨が戻り、筋肉が膨張する。
「お前との殴り合い…戦ってるって感じがすんだよォ!」
次の瞬間、今までとは桁違いの速度で迫り、視界から消える。
千鬼が目を見開く。
「 なっ!」
真横。
天逆毎がすでに拳を振りかぶっていた。
殺す距離。殺す速度。殺す一撃。
「死ねぇ!」
千鬼は紙一重でなんとか回避、からの反撃で殴る。
天逆毎も負けじと殴り返す。
千鬼の拳。
天逆毎の拳。
何十回、何百回とぶつかり合い、その度に衝撃で山が震える。
千鬼の氷と骨の鎧にはさらにヒビが入り、再生を繰り返しても欠片が飛び散る。
ドゴォォォォン!!!!
最後の打撃が互いの顔面を貫き、二人の体が大きくよろける。
「っ、は……ははっ…!」
膝をついたのは天逆毎だった。
まだ笑っている。
だが体はもう限界だった。
再生ができず、筋肉が裂けたまま戻らない。
呪力が尽きかけている証拠だった。
千鬼は肩で息をしながら、拳を握ったまま前に進む。
折れた骨が痛む。鎧は砕け、氷は溶けかけていた。
それでも止まらない。
天逆毎は、血を吐きながら顔を上げる。
「おい…術師……」
その声には戦闘狂の笑いではなく、どこか満ちた色があった。
「……楽しかったよ」
千鬼は無言のまま手をかざす。
すると天逆毎の体が黒い渦に飲み込まれていく。
「ハハハ…ハーッハハハハハ!」
鼓膜が震えるほどの笑い声の直後に、黒い珠が千鬼の掌に落ちる。
調伏が完了したことを確認した千鬼は装備を解除しながらも深く息を吐いた。
「……バカみてぇな呪霊だ」
そしてその手で血まみれのまま呪霊玉を握りしめ、冥冥のもとへむかった。
岩陰で気絶している冥冥。
千鬼はそのまま呪霊玉を懐に収め、空を見上げた。
静寂が戻り、決着はついた。
天逆毎は敗北し、この瞬間をもって龍山千鬼の呪霊となった。
千鬼は肩で大きく息をつきながら、冥冥を支え直した。
気を失った彼女はぐったりとしているが、呼吸は安定している。
今すぐに死ぬような状態ではない。
そう判断すると、千鬼は牛のような呪霊を出してそれに冥冥を乗せて山道を降り始めた。
冥冥の髪が揺れ、微かに声が漏れる。
「……報酬……高く…つくよ…」
「寝言でも金の話ですか」
千鬼は思わず吹き出し、疲れた表情のまま前を向く。
山道を抜け、視界が開けたその先。
補助監督の姿が見えた。
「た、龍山さん!? 冥冥さん!? 大丈夫ですか!?」
千鬼は近づき、
「生きてはいますよ。すぐに高専に帰りましょう」
補助監督は慌てて車のドアを開ける。
「どうぞ!」
冥冥を車の後部座席に寝かせたあと、補助監督は恐る恐る尋ねた。
「等級は?」
千鬼は少しだけ間を置き、短く答える。
「特級」
その瞬間、補助監督の顔色が驚愕に染まる。
「……ほんと、やばい呪霊だった」
低く呟きながら、千鬼は車に乗った。
※
揺れる後部座席、冥冥は薄く目を開けた。
意識はまだ霞がかっている。体は鉛のように重く、喉は焼け付くように痛む。
それでも。
思考だけは妙に冴えていた。
「(最悪だね)」
自分は倒れた。完敗に近い形で、
そして龍山千鬼に助けられた。
あの瞬間、首を握られ持ち上げられ、意識が落ちかけていたとき。
自分の命を救ったのは自分の力ではなく──他人の介入。
冥冥は奥歯を噛みしめる。
借りを作った。彼女が最も嫌うこと。
“稼ぐ”ことを信条としてきた自分が“借り”を作った。
「(面倒な借りだね。本当に)」
借りは金で払えるなら安い。
だが命の貸し借りは違う。
それは人生そのものの負債。
しかも相手はあの馬鹿みたいな強さを持った学生。
冥冥は薄く笑う。
「(まあ、悪くはないけど)」
強者に借りを作るなら、いっそ見合った価値を返せばいい。
彼女はそこで、別の考えに切り替えることにした。
金。
死にかけた自分。
特級呪霊と遭遇した現場。
等級違いの任務。
冥冥の口角が上がった。
「(上から……たんまり絞れるね)」
危険手当。
特級対応費。
緊急派遣費用。
情報提供料。
そして命の危険による追加報酬などなど…
桁が変わる。
むしろ今こうして死なずに済んだことで、利益は最大化する。
「(ふふ、これは美味しい)」
借りは借りとして胸に留める。
だが金は確実に手に入れる。
冥冥はまた目を深く閉じる。
「(たんまりと上乗せ請求しようか)」
命は助かった。
だからこそ生きて稼ぐ。
そして、千鬼についての評価も更新される。
──あの年齢で、あの化物と正面から渡り合う。
冥冥は薄く笑う。
「(“借り”だとしても、これから化けるであろう術師との繋がりを持つのは悪いことじゃないさ)」
そう心の中で呟きながら、わざと眠ったふりをした。
その瞬間、彼女の表情には恐怖ではなく獲物を見据える猛禽の微笑みが浮かんでいた。