九十九が現れたのを見た脹相は、自身の体に疲労感が襲ってくるのを感じる。
「九十九……」
「ナイスファイト、あとは任せて!」
親指を立てた九十九を見た脹相は、ゆっくりと地面の中の結界に沈んでいった。
「泥くさい男も好みだよ」
「…それに比べてあんたは嫌いだ」
九十九は羂索を睨みつける。
その目には怒りだけでない、憎しみも混じっていた。
「羂索、これからお前のことを叩き直すんじゃない」
「“叩き潰す”」
「それ以上……蒼真の体で好き勝手させない」
そんな九十九に羂索は微笑む。
空気がわずかに緩んだ。
「由基」
鼓膜を撫でるような柔らかさ。
その一瞬だった。
九十九の視界がほんの刹那、過去へと引きずられる。
神凪の声色。あの頃と寸分違わぬ抑揚。
その瞬間、羂索の気配が消えた。否、消えたのではない。
視界から外れた。
九十九の背後。
気づいたときには、もう遅い。
腕が絡みつく。
締め上げる力は強引ではない。
逃げ場を塞ぐだけの、計算された拘束のようなもの。
背中に感じる体温。
神凪蒼真の肉体の温度。
「……っ」
九十九の呼吸がわずかに乱れる。
耳元に吐息。
近い。
「まだそんな顔をするんだね」
低く、穏やかで、懐かしい声音。
指先が九十九の手首を押さえ込む。
「強くなった。随分と」
囁きが鼓膜の奥に落ちる。
九十九の記憶の中にある神凪の声だった。
「でも君は変わらない」
「感情をまだ切り捨てられない」
九十九の奥歯が鳴る。
それはあの時、神凪を手にかけられなかったことへの悔しさかそれとも悲しさか分からない。
「……黙れ」
声は低い。
だが震えはない。
羂索はわずかに笑う。
「私はね、由基」
「君に否定されたことが、一番堪えたんだ」
背後からゆっくりと囁く。
「君だけは分かってくれると思っていた」
「君だけは、私と同じ景色を見ていると」
耳朶にかかる息が温い。
「覚えてるかい?」
「二人でこれからの世界を語ったあの時を」
「君は言った。呪力なんてなくなればいいって」
腕の拘束が、わずかに強まる。
「私は思ったよ」
「ならば私は呪力を極めようと」
「君が壊すなら、私は積み上げる」
静かな笑い。
「私達は同じだった」
九十九の瞳が、鋭く揺れる。
羂索はその変化を感じ取る。
「止めなかったんだ、君は」
「止められなかったんじゃない」
甘く、優しく、決定的に残酷な声。
「君は私を見ていた」
「そして選ばなかった」
沈黙。
薨星宮の結界が低く軋む。
羂索はさらに顔を寄せる。
「今からでも遅くない」
「由基、私の隣に立て」
「一億人の呪いが生まれる瞬間を、一緒に見よう」
その声は、本当に神凪蒼真だった。
懐かしい声色。
かつて隣で笑った男の声。
「君は特別だ」
「君だけは、私の世界を理解できる」
九十九の瞳が、ゆっくりと閉じられる。
一瞬の静寂。
そして。
「──気持ち悪いな」
目が開く。
そこにあったのは、揺らぎではなく、懐かしさでもない。
“怒り”と“覚悟”
九十九の肩がわずかに沈み、次の瞬間。
羂索の視界が、跳ね上がった。
まるで体に質量が加わったかのような感覚を感じた瞬間、床が砕ける。
背後から抱え込んでいたはずの身体が、逆に地面へ叩きつけられているのだ。
そして羂索を見下している九十九のその目に、もう迷いはない。
「甘い言葉を使うなら、最後まで演じろよ」
静かに吐き捨てる。
「蒼真はね、そんな顔で笑わなかった」
「それに私と理想が同じじゃないからって、いちいち堪えることはなかった」
「私と蒼真は、互いの理想が同じじゃないことも分かってたからだ」
羂索の額から、血が一筋流れた。
だがその口元は楽しげに歪む。
「なるほど」
空気が再び重く沈む。
「よくもまぁ、お前は私の地雷を踏んでくれるね」
そう言った九十九の心情はまるで火山のように熱く煮えたぎっている。
目の前の神凪、否、羂索という存在は、
自分の唯一の同期を弄ぶ外道。
信頼し合えた恋人を利用してくるクズ。
そして神凪の理想を捻じ曲げている。
九十九が怒るには十分すぎるほどだ。
羂索の身体が床を滑る。
砕けた石片が宙を舞い、薨星宮へ乾いた音が反響した。
だが次の瞬間にはもう立っている。
反転術式で裂けた筋肉を修復しながら、袖口から数枚の札を抜き放つ。その動作に迷いはない。紙片は呪力を帯び、空中で幾何学的に配置される。
空間が軋み、鉄塊がせり上がる。
分厚い鋼鉄の壁。
呪力で強化された多重構造。
物理衝撃にも呪力干渉にも耐える即席の防壁。
九十九は止まらない。
一歩踏み込む。
その足元から凰輪(ガルダ)が丸くなる。
巨大な質量が空気を押し潰し、薨星宮の結界が微かに震える。
九十九はそれを“蹴った”。
まるで軽い球を扱うような所作。
だが蹴り出された瞬間。
ガルダに仮想質量が上乗せされる。
空間が歪む。
鉄壁と凰輪が衝突した。爆ぜる音ではない。
潰れる音。
鉄が折れ曲がり、圧壊する。層が重なり合いながら内側へめり込み、全てが粉砕された。
羂索は後方へ跳躍し、破片を避ける。
静かに息を吐く。
その目がわずかに細まった。
「……ああ」
神凪蒼真の記憶が浮かぶ。
九十九由基の術式。
自らに仮想の質量を付与する術式。
理不尽な暴力。
一撃の重さ。
速度に比例しない破壊力。
理屈を踏み潰す、純粋な出力。
そして何より。
“躊躇がない”
羂索は面倒そうに肩を回す。
「やっぱり、君は厄介だな」
口調は軽い。
だがその目は計算している。
真正面からの削り合いは非効率。
長期戦になれば、自分の準備が整う前に崩される可能性がある。
羂索も神凪の記憶から九十九の術式は知っていたが、正直ここまでとは思わなかった部分もある。
粉塵の向こうで、九十九が歩いてくる。
「君は理屈より先に殴る方が得意だね」
九十九の足取りは一定だ。揺らがない。
「訂正しとけ」
低い声。
「私は殴る前にちゃんと考えてる」
見えない質量が薨星宮の床を軋ませる。
羂索の額にわずかな汗。
“防御無視に近い打撃”
自身の本能が警鐘を鳴らす。
「(めんどくさいな、本当に)」
内心の独白とは裏腹に、羂索の口元は笑っている。
「なら、もう少し頭を使わせてもらおうか」
羂索は自身の両手の裏側を合わせ、指を重ねるようにする。
「【領域展開
九十九は目を見開く、本来お互いが警戒してもっともう少しあとから領域展開をすると予想していたからだ。
だが羂索にとっては、相手の術式が厄介なのに領域を展開しないのは、領域の押し合いに自信がないと言っているのと同じ。
「!(このタイミングで……!)」
「天元!」
九十九は急いで天元に合図を送る。
天元も予想よりも早く領域を出されたことに驚いたが、それでも領域の解体に取りかかろうとしていた。
計画では、羂索が領域を展開した時に天元がそれを解体。
そのまま術式が焼き切れた羂索を九十九が叩く予定だった。
だがこの計画で誤算があった。
それは領域を速く展開されたことではない。
さらに天元はあることに気づいて汗を流す。
「(この領域は渋谷で宿儺が見せた……結界を“閉じない”領域!)」
これによって解体すべき外殻がなくなり、領域の解体ができない。
だが天元もただ呆然とするわけではない、すぐに必中効果範囲の縁を外殻と仮定して、自身の空性結界ごと領域を消していく。
九十九も簡易領域を発動。
すぐさま羂索に迫る。
だが、
バリバリバリ!
簡易領域がみるみる剥がされていた。
「(クソッ!急げよ天元!)」
対する羂索も自分の領域が解体されていることに気づく。
「……成程そういうことか、いかにも引きこもりらしい旧態依然な作戦だ」
「私は貴様と違い“生きて”たんだ」
羂索に着く前に九十九の簡易領域が全て剥がされる。
「千年続く!呪いの世界を!」
九十九は領域で押し潰されるように地面に叩きつけられる。
天元が羂索の領域を全て解体するのはそれよりもほんのわずかあとだった。
「空性結界ごと解体したか、年相応の意義は見せたな」
「だがもう遅い」
羂索の目の前には血だらけになって倒れている九十九の姿があった。
「せめて領域の押し合いだったら、ここまで退屈な結果には終わらなかった」
「天元を信頼した君が悪いよ、由基」
皮肉げに笑う羂索、だがその目にはあるものが写って目を見開く。
九十九の式神、凰輪が消えていなかった。
凰輪の攻撃を羂索はかわす。
「(まだ意識があったか、反転術式は使えるはず)」
「(君が回復している間に私も術式の回復を……)」
羂索が九十九の方を向くと
──蹴り上げてくる九十九の姿だった。
「(治せよ!)」
「(治さねぇよ!)」
凰輪が羂索に巻きつき、空性結界が崩れて脹相と夜蛾学長が飛び出してきた。
羂索に質量が加わる。
さらに呪骸に押さえつけられて動けない。
動けない羂索の目の前で、脹相は両手を合わせ、
「(見てるか、弟達よ!)」
「親殺しいきまぁす!」
穿血を放った。
羂索の頭から出血、やったかに思われたが、
「「「!」」」
「ドンマイ」
羂索は頭蓋を回転させて受け流すという芸当に出ていた。
だが3人は戸惑うことなく攻め立てる。
夜蛾学長と脹相が羂索を抑え込んでいる間に九十九は反転術式で回復。
だが羂索も反転術式で九十九の術式が甘くなった一瞬で抜け出した。
3人が向かい合う形になる。
「いやはや、ここまでやるとはねぇ」
そう言って笑う羂索の両脇に札が集まり、自らの分身を4体生み出した。
「(術式が回復した!)」
「(このままではさらに不利になる!)」
脹相と夜蛾学長はさらに畳み掛けるように、
「(ここまできて分身か!)」
九十九は内心舌打ちをしながらも凰輪を振り回すために握りしめたその時、
天元が姿を出した。
「全員避難だ。空性結界の崩れる隙を狙われた」
天元がそう言ってくる。九十九達だけでなく、羂索も頭に『なんのことだ?』と分かるような表情となる。
すると次の瞬間、
ザシュッ…
羂索の居た場所に何かがきた。
羂索は避けたが、分身は全員切られて札となってバラバラになる。
そしてその原因も姿を現した。
「なんて好機だ。呪術界をひっくり返すために天元を探していたが……復讐相手も見つかるとはな」
全員が視線を向けると、
男がいた。だがその男の目は八つ、さらに言えば下半身は巨大な蜘蛛だった。
「こんな時に…」
そいつを知っている夜蛾学長は苦虫を噛んだような表情になった。
だが羂索もめんどくさそうな表情になる。
「久しぶりだな神凪」
「さて、(他にもいるが、まずは天元と神凪)…どちらから殺すかな?」
そう言ってくる存在──土蜘蛛はまるで獲物を見つけた獣のような目、いや、絶対に殺すという意志を