──どうして泣いてるんだ? 文美
あれは真島が幼稚園の年長のときのことだった。
リビングの隅で膝を抱えていた自分のもとに父がきて、今日はいったい何があったんだ、と気遣わしげに上から顔を覗き込まれた。
嗚咽を洩らしながら真島は答えた。
幼稚園で長い時間ブランコに乗っていた女の子を注意した。母の迎えを待っていた帰り間際のことだった。
真島の通っていた園ではブランコが一番人気の遊具で、独り占めする園児が現れないよう、ブランコを漕げるのは一人につきニ十回までというルールが設けられていた。
真島は同じあさひ組に所属する実久という子と二人で親を待っていたのが、そのとき彼女がルールを破ってニ十回以上ブランコを漕いだので、それはとてもいけないことだと指摘したのだ。
だが、実久は真島の注意を無視してブランコを漕ぎ続けた。だから真島は、その動きを両手でとめて相手を無理やり台の上から引きずり下ろした。
すると彼女は激昂し、顔を真っ赤にして真島を叩いた。
あやみちゃんなんて嫌い、という涙まじりの声が、家に帰ってきてからも真島の頭を離れなかった。
──ルールはまもらなきゃいけないって、おとうさんいつもいうでしょ。せんせいだっていってるよ。なのに、なんで? あやみはわるいことしてないのに
──そうだなぁ……
娘と目線を合わせるようにしてしゃがみ込み、慈愛に満ちた黒い瞳をゆるりと細めて父は言った。
──まず、ブランコから人を無理やり降ろそうとするのはいけないことだ。された子も、文美自身も怪我をするかもしれないからね
──……
──それと、たしかにルールを守るのは大事なことだけど、本当に大事なのはそのルールができた理由を考えることなんだよ
──りゆう?
警察官の父の、大きくてかさついた手が真島の頭をやさしく撫でた。
真島はじっと父の顔を見つめ、その言葉の続きを待った。
──ブランコを漕ぐ回数が決まってるのは、だれかが独り占めをするとブランコで遊びたい他の子が悲しい思いをするからだろう? そのとき他にブランコの順番を待ってる子はいたのかな
──……いなかった。あそこでおかあさんまってたの、あやみとみくちゃんだけだったから
──文美は乗りたかった?
──ううん
──なら、実久ちゃんはだれにも悲しい思いはさせていないね。だから先生も何も言わなかったんじゃないかな
──……そっか
父の言葉がすとんと胸の中に落ち、真島はぱちりと目を見開いた。
自分はまちがっていたのか、と反省した。
たしかに、動いているブランコから無理に相手を降ろそうとするのは危険なことだ。あのとき他にブランコで遊びたい子はいなかったのだから、実久はだれかを困らせたわけでも、傷つけたわけでもない。
明日みくちゃんに謝ろう、と真島は思った。
こんなことを自分に教えてくれるお父さんはやっぱりすごい、とも。
──でも、ニ十回漕いだら交代というルールにはどうにも公平性が欠けている気がするな。ゆっくり漕いだら結局次の人を待たせることになるし、大きく漕げる子とそうでない子で満足度に差が出ないかも心配だ
──?
──よし、文美。いまからお父さんとふたりでできるだけ多くの子が納得するようなブランコ使用のルールを考えてみるか
──! うん、やる!
──ちょっとお父さん! 警察ごっこは結構だけど、あんまり文美を焚き付けないでよね!? その子がそれを幼稚園の先生に言って面倒な家庭だと思われたらどうすんの!
キッチンから顔を出した母に咎められ、父はびくりと肩を揺らした。
どんな凶悪犯にも勇敢に立ち向かっていく父が、母にだけは頭が上がらず弱腰になってしまう姿を見るのが、真島は昔から大好きだった。
(──ごめんなさい。ごめんなさい、お父さん)
真島は想像した。
自分がもし、友達や、教師や、その他の大勢の人々や、自分自身を犠牲にして、父の命をこの世に呼び戻したら。
父はきっと、怒るだろう。
怒り、嘆き、哀しみ、絶望する。娘にそんな選択をさせてしまった自分自身を酷く責める。生き返ったことに喜び、残された妻と再び人生をやり直そうだなんて思わない。
母だってそうだ。夫を殉職で失いだれより辛いはずの状況で、ただひとりの娘のため気丈に振る舞おうとする彼女が、そんな未来を望むわけがない。
「だから私は──」
わかっていた。父を殺したのは犯人の少年であって、父が掲げた正義ではないのだと。
本当の正しさとは何か。わからない。わからなくなってしまった。
これから先いくら考えてもきっと答えは出ないだろうし、だれもが納得する正しさなんて、この世に存在しないのかもしれない。それでも。
父の娘である自分が、父の正義を信じること。
大切な学校の、大切な人たちの命を奪わない選択をすること。
少なくともいまこの瞬間は、それ以上に正しいことはないと思うから。
「蘇生魔法なんて……使わないっ……!!」
足元の散らばる大量の破片。
元は林檎の形をしていたそれは、たったいま真島がこの手で叩き割った、父に対する裏切りの残骸だった。
驚いたように振り向いた目の前の少年をまっすぐに見た。
流星のように降り注ぐ幾千もの光の下。いまだ見慣れぬ紺色のローブがばさりと舞う。
(──小津佐くん)
真っ直ぐな黒髪をはらりと揺らし、出会ったときと同じ、穢れのない黒い瞳をふっと細めて彼は笑った。