Fate/IDOLM@STER   作:白山羊クーエン

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天海春香の運命

 

 

 

 

 子どもの頃、アイドルに憧れた。テレビの中でキラキラ輝いて、楽しく、皆を笑顔にさせる存在。歌声が、ダンスが、表情が、全てが美しく見えた偶像。

 それを追い求めてしまうのは仕方のないことだと思う。だから、だから今、私は――――まだそれに縛り付けられている。

 

「あ、さ……」

 目覚まし時計の音で目を覚ます。瞬間寒さが押し寄せてきて身体を震わせ、ぼうとカレンダーを眺めた。1月14日、今日は学校を休んで音楽番組の収録に向かわなければいけない。

 寝覚めは良いほうだ、だからすぐに伸びをして動き始める。何故か涙を流していて不思議に思った。カーテンを開けると青空が広がっている、今日も良い日になりそうだ。

「春香、何時に出るの?」

 お母さんの言葉に大体の時間で答える。収録までに時間があれば学校に行ってもよかったけれど、予め先生には伝えてしまっている。ゆっくりさせてもらおう。

 午前10時、家を出る。服装は地味目、寒いので厚手のコートは必須だ。マスクで喉を守り。ミネラルウォーターとのど飴は準備万端。

 頭の両側に結んだリボンが風に揺れる。表情には出さないけれど、正直ウキウキだった。だって今日は、有名な音楽番組だったから。

 天海春香、17歳。アイドルになって初めて、全国放送のゴールデン番組に出ます。

 

「春香、体調はどうだ?」

「万全ですっ、もう楽しみで楽しみで!」

 そうか、と言って笑うプロデューサーさんは20代半ばの男性だ。眼鏡をかけ、柔和な顔立ちをしている。私とほぼ同期のこの人はとても親身で、どんなことでも相談できる兄のような存在だ。一応アイドルなので、そういうことにしておく。スーツ姿、かっこいい。

 プロデューサーさんが運転する車の中で、私は今日歌う曲のイメージを練り上げていく。レッスンもたくさんしたし、心の準備も万全だ。今日はとても良い歌が歌える気がしてならない。胸に手を当てると心臓が緩やかに動いていた。内ポケットにある膨らみも確認できた。

「頑張れ、私……」

「そうだ、頑張れ春香」

 目当てのテレビ局が見えてきた。着いたら挨拶に行かなくっちゃ。

 

 

 ***

 

 

「よろしくお願いします!」

「お疲れ、春香」

 大御所さんへの挨拶が終わり、扉を閉めるとほうと息を吐いた。この瞬間を見られると恥ずかしいけれど、流石に緊張せずにはいられない。私は新米のアイドル。全てのことが評価対象になるし、基盤になる。基礎が大事、とはプロデューサーさんの言葉だし私もそう思う。幸いなことに今回の司会を担当する方は心が広いことで有名だし、実際挨拶にも朗らかに応対してくれた。こっちを緊張させまいと振舞ってくれているのがわかってホッとした。

「やっぱり、今日はいける気がします!」

「あぁ、俺も今の春香なら大丈夫だと思うよ。っと、次が最後だ」

「えっと、誰でしょうか?」

「新人だな、春香の後輩だ」

「え、後輩の子が出るんですか!?」

 意外な事実にびっくり。私が苦労して苦労して獲得したこの番組の出演機会。それを私の後輩の子までゲットしていたなんて。よっぽど才能に恵まれたのか努力したのだろう。これは先輩として負けていられない。

「後輩の子を笑顔にしてこそ先輩、ですよね!」

「ははは、そうだな。――ここだ」

 そして控え室の前にたどり着く。珍しいことにこの番組はどんな出演者にも個室の楽屋を用意できるらしい。すごい。扉の前には札が掛かっており、そこに名前が書かれているので間違えることはない。さて、記念すべき私の後輩の子は――――

 

「――――――――――――え」

「失礼します」

 プロデューサーさんが開け放った扉の向こうには、一人の少女が椅子に座って譜面を眺めていた。呆然とする。蒼く長い髪、凛々しい顔つき、しなやかでスレンダーな身体。身体は机を向きながら顔だけこちらを仰いだその少女は、スローモーションのようにゆっくりと立ち上がった。

「失礼しました。こちらから伺わずに」

「いえいえ、いいんですよ。癖みたいなものですから」

 頭を下げる少女にプロデューサーさんが気さくに返答する。本来、後輩である少女が私に挨拶に向かうのが礼儀だが、私も挨拶回りに出る立場だ。すれ違ってしまったのだという。

 

 ――そして、私は彼女と出会った。真っ直ぐな瞳が見つめていた。

 

「――如月千早です。よろしくお願いします、天海春香さん」

「――――こちらこそ初めまして。よろしくお願いします、如月千早さん」

 

 

「二人は同い年だから、もう少し話していてもいいんじゃないか? 俺はちょっと番組構成を確認してくるから」

 プロデューサーさんは何かを感じ取ったのか、早々と私を置いて出て行った。密室に二人きり、沈黙が私に降りかかる。

 でも、私はアイドルだから。

「えっと、雑誌で見たことあるよ! すごい歌唱力の持ち主だって!」

「ありがとうございます。私も天海さんを知っています、出身が近いですから」

 知ってる。

「え、そうなの!? じゃあばったり会うかもしれないね! えへへ、一つお願いがあるんだけど、いいかな?」

「何ですか?」

 首を傾げる。悪意も敵意もない。かわいい。

「同い年で地元も同じなら、敬語はやめてほしいな。私のことも春香で良いよ!」

「……いえ、天海さんは先輩ですから、敬意を払わないと」

「じゃあ先輩を立てると思って! ね?」

 手を合わせて拝み倒すと冷たい視線が降り注いでくる。う、つらい。しかしおそらく私の性格はわかったはずだ。やがてふう、と息を吐き、彼女は薄く笑った。

「――じゃあ春香。頭を上げてちょうだい」

「――うん! ありがとう千早ちゃんっ!」

「…………」

「あ……名前、まずかったかな……」

 ふるふると首を振り、構わないと言ってくれた。なんだろう、私とは違う不思議な魅力がある。ってそう言うと私にも魅力があるみたいに聞こえちゃうけれど。でもでも、アイドルなんだから魅力はないといけないよねっ。千早ちゃんを見つめると、ふいと視線を逸らされた。少しショックだけど、距離感は大事だよね。でも、これだけは言っておかないと。

「ねえ千早ちゃん。私ね、きっと貴女と仲良くなれる。そんな予感がするよ!」

 すると驚いたように千早ちゃんは私を見た。信じられないような顔は、でも呆れだとかそんなマイナスな感情は出ていなくて。だからだろう、彼女の次の言葉を、私は当たり前のように受け取った。

「――何故でしょうね。私もそう思うわ、春香」

 

 …………そうかな。

 

 

 ***

 

 

 いざ収録開始。千早ちゃんという思わぬ同属をゲットした私は笑顔を溢れさせながら時間を過ごせたと思う。笑顔過ぎて他の共演者さんに弄られる始末だ。そこを私の灰色の脳細胞が無難に乗り越えると(プロデューサーさんは頭を抱えていた。何故?)、いよいよ以って私の出番。座席を前に移して司会の人とトーキング。そこでせっかくなので千早ちゃんと仲良くなったことを報告すると司会者さんが千早ちゃんに水を向けた。彼女はお話が苦手らしく頬を染めて慌てる。かわいい。きゅんきゅんする私にはいかんせんパワーが宿ってしまうのだ!

 満を持して、ステージへ。私の一番有名な曲「I Want」を皆に送る。皆を笑顔にするために、私が笑顔でいられるように。サイリウムはないけれど、セットの演出は素晴らしい。もうアリーナライブをやっているかのようなテンションで、プロデューサーさんのガッツポーズも見ることができた。きっと私史上最高のステージだったと思う。共演者さんもノリノリで、千早ちゃんも恥ずかしげに、しかし確かに手拍子してくれていた。嬉しかった。

 さて、新米の私のトーク。本来なら時間的にカットされてもおかしくはない。でもきっと本放送では使われることだろう。それは今回のラストを飾る少女の存在が要因だ。

 大仰な紹介の後、青の歌姫が舞い降りる。

 

 ――如月千早、16歳。その小さな身体に秘められたとてつもない覚悟と力は、私の薄っぺらい現状を粉々に打ち砕いた。

 

「――――」

 声が、出なくなった。発声に必要な酸素が全て彼女に奪われてしまったかのような感覚。他の共演者も、ベテランの司会者も、全てを自分の空間に引きずり込んで離さない。表情は決して雄弁ではない、だがその代わりに決まっているはずの歌詞が彼女の全てを曝け出す。

『蒼い鳥』――彼女のデビューシングルにして、彼女という存在を世に知らしめた歌。怜悧な印象を与えながらも力強く、その存在を強調する歌唱力がなければ灰となってしまいそうな曲。その一音一音から感情が洩れ、圧倒される。

 そして――。

 ただ一つ。

 たった一つだけ、感情とは間逆の歌詞を歌った時――――私、天海春香はこの少女の親友になれると身勝手に確信した。

 

 

 ***

 

 

 沈黙の中、私の隣には歌姫がいる。あの後、収録以外の仕事がなかった私と千早ちゃんは自宅への帰路に着いた。プロデューサーさんが途中まで送ってくれたのでそこまで距離はない。だけどその少しの時間が私は欲しくて、意外なことに千早ちゃんも望んでくれた。

「……どうして、一緒に帰ってくれたの?」

「え?」

「あ、いや、ごめんね……初めて会ったのにいきなり誘っておいてなんだけど、多分断られるんじゃないかなーって、えへへ……」

 頬を掻く。冷たい風が心地よいと感じるほどには私の体温は上がっている。緊張と困惑は、多分私と同じ立場の人なら納得してくれるはずの当然の感情だ。そんな私をじ、と見つめ、千早ちゃんは真面目に答える。

「春香が、私に似ている気がしたから」

「……私が?」

 ええ、と言ったきり、千早ちゃんは前を見続ける。河川敷は遮る物がないから風が強く吹き付ける。本来なら私が通らない道、だけど千早ちゃんは毎日通っている。その風を無感情に、無感動に受け止めながら。

 乾いた土の上を跳ねる靴は、少し古臭い。歌以外に興味がないという本人の言葉を証明するかのよう。コートだって随分くたくただ。きっと世間の考えている歌姫の姿とはかけ離れていることだろう。私には、それが彼女本来の姿だと思うけれど。

「春香は、私の歌を聞いてどう思った?」

「すごかった」

 即答。もうそれしか表現できなかった。私もあの領域まで行ければと思わずにはいられない。そして、永遠に踏み入れない世界。

「もう言葉が見当たらないくらいだったよ!」

「……褒め言葉、かしら」

「そうだよ! それ以外にないよ!」

「…………」

 

 押し黙る千早ちゃんを見て、そして気づいた。これは、彼女にとって、褒め言葉じゃない。

 

「ごめんね」

「……いいわ。謝ってくれる人は、春香が初めてだから。だから私は、ここにいるのかもね」

「そっか」

 別に私はこんな話がしたかったわけじゃない。ただ、私たち二人の共通点は歌しかなかったから、だから結果的にこんな会話にしかならない。まだ知り合いなだけで、友達ですらない。だから私は一歩を踏み出す。傲慢に、自分勝手に、手を伸ばす。

「私ね、甘いものが好きなんだ。自分で作っちゃうくらい」

「料理、できるのね。私はからっきしだわ」

「今度クッキー作ってくるよ。甘いほうがいいかな?」

「あんまり得意じゃないから控えめにしてくれると嬉しいわ」

「わかった。じゃあ辛いほうがいいの?」

「どちらかと言うと。でも基本薄味のが好きね、声にも影響しちゃうから」

「……千早ちゃんは犬と猫、どっちが好き?」

「どちらかと言うと犬ね。猫も好きだけど、埃や毛を舞い散らかしてしまうイメージがあるから」

「…………」

 悪気はないんだけれど、この子と歌関係以外の会話をするのは苦労しそうだ。だからこそやりがいがあるんだけれど。

「――どうして、歌を歌うの?」

 ……でも今日はもうリタイア。重い話で区切りとしよう。

 

「――――それが、私のすべきことだから」

 

 まるで獣が目覚めたように、如月千早という人間は言い放った。

 ああ、オモイ――。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

「あ、春香! おはようさー!」

 翌日、登校すると元気な声が後ろから聞こえてきた。振り返ると長い黒髪を跳ねまわしながら駆け寄る友人――我那覇響ちゃんだった。今日は珍しく、後ろで一つに纏めているので尻尾のようだ。その元気と、昨日出会った彼女とを無意識に比較してしまったのか、私の挨拶は本の少しだけ小さくなってしまったように思える。でも顔は微笑んでいたし、普通の人なら気づかない。

「てやっ」

「あいたっ?」

「春香。無理に笑う必要、ないぞ」

 とは言っても、やはり響ちゃんにはばれる。彼女と知り合ってもう二年近く、この天真爛漫な女の子は私を結構理解している。得がたい友達だ。謝ると、横に並んでくる。響ちゃんは私より背が低いから、なんとなく妹のような感じだ。

 ……胸はおっきいけど、うぎぎ。

「疲れてるの?」

 早速質問タイム、響ちゃんは私に遠慮しないから。だからこその友達、だから私もアイドルとしてではなく一個人として接したい。正直に答え、そして何も考えずに口にした。

「初めてだった…………歌で、あんなに心揺さぶられたの」

「…………」

「すごかった。最初の一音、たったそれだけで世界が変わったかのように思えた。華やかだけど無機質なスタジオが、一瞬で空になった」

 それは正しく蒼い鳥が羽ばたく世界。如月千早という少女が、少女が奏でる全てが――限界など知らないように自由に翔け回る瞬間。私の鈍い頭じゃ言い表せないほどの完全さ。

 故に刹那的に、今死んでも良いんじゃないかとすら思ってしまった私――――私の罪。それを響ちゃんは知らない。知ることはない。

 響ちゃんとの会話は本当に僅かだった。歩く速度はいつもどおり、でも席に着くまでが一瞬に思えるほどに私は自分の考えに浸ってしまっていたのだろう。響ちゃんは私を見下ろす。逆転した位置関係、その中で――

「春香、自分は春香のこと好きだぞ」

「……ありがとう、響ちゃん」

 この友達は、ただただ肯定してくれた。それが本音でも、そう受け取れない私の為に。

 

 

 ***

 

 

 学校後、すぐに事務所へと急ぐ。プロデューサーさんは電話中で、代わりに事務の音無小鳥さんが事情を説明してくれた。翠色の髪がやたら目立つ小鳥さんは嬉しそうに言う。

「昨日の番組の春香ちゃんの歌、司会の人が気に入ってくれたらしいの。それで、昨日とはまた違うバラエティに出てみないかって」

「え、本当ですか!?」

「ええ、すごいわ春香ちゃん! 全国版第二段よ!」

 ピースと笑う小鳥さんにピースで返す。確かに昨日は良い出来だったけど、まさかそんな話が舞い込んでくるなんて。これはチャンス、何とか物にしてトップアイドルになってみせる!

「お、来たか春香!」

「お疲れ様ですプロデューサーさん! 聞きましたよ!」

 ガッツポースのプロデューサーさんに最高の笑顔を返す。嬉しい、この人と一緒にやってきた成果が目に見えるのがすごく嬉しい。うきうきが伝播したのか、この場の三人は大はしゃぎだ。

「今度は日曜のお昼過ぎにやってる番組だ。なんと特別に歌の時間も作ってくれるんだそうだ!」

「ちょ!? ど、どうしてですか!?」

 それはいくらなんでもやり過ぎな気がする。私なんて木っ端なアイドルに単独の時間をくれるなんて裏を読まずにいられないよ。すると伝わったのか、プロデューサーさんは笑った。

「大丈夫だ、春香だけじゃないから」

「……わかった、私わかりましたよプロデューサーさん! 千早ちゃんも出るんでしょう?」

「正解だ、よくわかったな」

 正直バーターである。が、千早ちゃんの歌をまた生で聞ける機会をくれたことがすごく光栄だ。いや私の歌も聞いて欲しいんだけど、私の優先順位千早ちゃんの歌がトップなんだよね現在。それでいいのかとも思うけれど、私は私で精一杯頑張るしかないのだ。

「やりますよプロデューサーさん! 天海春香、必ずや好結果を残しますっ!」

「おう、その意気だ!」

 しかし自分のことながら千早ちゃんに対する気持ちがぶれぶれな気がする。尊敬と憧憬の好意と嫉妬と悔恨の嫌悪を天秤に……って、もう傾くあたりやっぱり好きなんだなぁ私。

 如月千早。孤高の歌姫として既に騒がれ始めている少女は世間の昂ぶりに相応しい実力を備えている。確かにその通りだ、その通りだけど、でも私には年相応の彼女がはっきりと見えるのである。会話は極僅か、一度しか会っていないけれど。それでも私は彼女がまだ16歳の女の子だって知っているし、料理はあまりしないストイックな歌好きだって知ってる。

 とはいえ料理に関心を持たないのは欠点だ。あ、クッキーを準備しないとね。喉に気を使った味好みをしているのに、食べるものに関心を持たないのは罪であると教えてあげないといけない。それはきっと友達としての私の役割だよね。目に物見せてあげようか、うふふ。

「あ、そうだ春香ちゃん」

 しみじみとそう思っていると小鳥さんが呼びかける。いつもの連絡の時のノリだ。はい、なんですか?

「早く呼び出したほうが良いわよ?」

「……? 何をです?」

「救急ボックスー」

 どこかの猫型ロボットのように取り出す小鳥さん。なんぞ、と思っていたら心配そうな顔で近寄ってきた。私の左手を注視する。

「ほら、痣になってるわよ」

「あれ、どこかにぶつけたのかな」

 痛みはないけど、模様のようなそれが不思議だった。

 

 

 

 

 

 

 

 そして――――運命の日が始まる。

 

 

 

 

 

 

 

 一月十六日、私はうきうきだった。

 収録は明後日。それまでは体調に気をつけ、千早ちゃんに作るレシピを吟味しなければいけない。あまり甘いものは得意じゃないと言っていたから、紅茶系のクッキーとかいいんじゃないだろうか。クッキーのパサパサ感を考慮して飲み物も用意しないときっと食べてくれないだろう。いや食べはするけど配慮に欠ける。そんな間違い起こさない。

「ふんふふーん」

「ご機嫌だね、春香」

 響ちゃんが頬杖付いて覗き込む。いやぁだって収録ですよ、千早ちゃんですよ。生歌を聴くと私滅入ってしまいますけども感動もするのですよ。そう言うと、ふーん、とつまらなそうに返してきた。あれ、響ちゃんご機嫌斜め。

「どうかしたの、響ちゃん」

「……ちょっと喧嘩しただけさー」

 喧嘩。彼女の喧嘩相手はイコール家族の動物たちである。確か前回は市販のご飯に切り替えたことでそれはもう凄まじく拗れたんだったっけ。今回は何だったんだろうか。頬を膨らませた後机に突っ伏す響ちゃん。

「ご飯が少ないって言うんさー、いつもどおり作ったのにー」

「育ち盛りなんじゃないの?」

 ぶるんぶるんと紙が揺れた。少し面白い。

「量じゃなくって数なんだって」

「へ?」

「だからっ、いつもより数が少ないって言うんだ!? おかしいぞ!?」

 ちゃんと全員分作ったのにと、うきーってなる響ちゃん。うん、よくわからないけど多分大丈夫だ。私なんかよりよっぽどいぬ美たちの方が響ちゃんを理解している。だから今回もきっと大丈夫。ところでずっと疑問だったんだけど、どうしてそんなに会話できるんだろう。愛情は凄まじいってことなのかな?

 愛――いや感情はどこから生まれてくるんだろう。科学的に解明されているのはおそらく脳であるけれど、きっと大部分の人は心だと言う。

 心――胸の奥底、心臓部分。確かに胸が苦しくなったりときめいたりするのはそこなんだろうけど、心なんて器官はない。精神や魂と同じく不可視の存在だ。実在しているかどうかも証明できない。そんなあやふやなものを指して、そこに響かせようと目指す私。偶像。

 ――アイドルとして人を笑顔にしたいという私の願いは、一体どこに語りかければ届くというんだろう。

 

「あ、れ……」

 

 予期せぬ行為、意図せぬ行為は、私の失策を気づかせた。ない。ない、ない、ない。胸にしまったアレがない。大切な証明がない。顔から血が失せる音が聞こえた気がした。

「春香、どうしたの?」

 響ちゃんの声、聞こえない。わからない。今何時? 午後三時を回っている。登校していろんな場所に行った。どこで落とした。いや落としたの? 忘れただけじゃ……事務所、家、学校。わからない、探さなければならない。探さないと、私はきっと壊れてしまう。

「お、おい春香っ」

 何か聞こえた気がするけれど、それは大切な物じゃない。探さないと、私は私でいられなくなる。

 

 

 

 

 

 そんな大事なものを無くしてしまったから、私も私を亡くすのだ。

 

 

 

 

 

 気づけば、既に闇が降りていた。自分がどんな行動をしたかすら覚えていない。携帯の履歴を見ると事務所に電話していたから、きっと小鳥さんに確認はしたのだろう。それでも、教室で立ち尽くしている私は何も見つけていない。どこに落としたかもわからない。

「あは、あははは……」

 寒い。冬の闇は体温をぐんぐんと奪っていく。このままじゃ風邪をひいて次の収録で歌えなくなってしまう。

「歌えないなぁ……」

 でも、そんなこともう関係がない。私はもうアイドルを続けられない。大事な大事な、絶対になくしてはいけなかった物を、私はなくしてしまった。

 一度だって忘れたことのないそれをなくしたという事実は、私の心が人でなくなったということに他ならない。そんな人外の私が、人の為に歌を歌うことなんてできるはずがないのだ。後悔、そう後悔だ。私は後悔を忘れたのだ。悔やむことを忘れてしまった私ができることなんて何もない。

 もう生きている理由もない。

「……帰ろう」

 家にはたどり着かないとわかっていて、身体を動かすためにそう言った。自分しかいない校舎をゆっくりと歩いていく。まるで異世界、自分一人だけ取り残されたような感覚、それが酷く心地良い。窓の外で時折弾ける鮮やかな閃光も現実感を奪っている。

「光……」

 フラッシュの波のような怒涛の光に思わず立ち止まる。外の世界、窓を開けて身を乗り出した。

「………………」

 何かが、いる。金と銀が光の中で見え隠れする。速いナニカが、交差している。止まった。闇の中なのにあそこまで映える色の持ち主なんて知らない。現実感なんてもうなかった。

 そして――金色の方に気づかれた。

「――」

 瞬間に感じる猛烈な敵意と恐怖。足がすくんで動けない。一方で心も動かない。動けるのに動かないのと、動けないから動かないのは全然違う。それでも今の私は前者だ。だってもう、私に理由はないのだから。

 

「逃げなかったんだ…………あれ?」

 

 声がする。胸に熱が生まれた。ナニカが突き刺さっている。ごぽ、と喉が音を鳴らして血を生んだ。その凶行に及んだナニカは不思議そうな顔をしていた。綺麗な女の子だった。

「なんか見覚えがある気がするんだけど、まぁいっか」

 もうやっちゃったの、と何でもないかのように呟いて消える。支えがなくなったように私の身体は崩れ落ち、温かい水の中を横になった。自分の血だ。

 大事なものを無くしてしまったから、私も私を亡くすのだ。そう思うと自業自得、運命でしかなかったんだろう。

 

 この後どうなるか、なんてもう考えられなかった。

 だから私、天海春香の最後の思考は――――あの寂しそうな歌姫の儚い笑顔だった。

 

 

 

 

 

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