異界にて、雄は資源と化す    作:Henon

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プロローグ① 夜明けの刻

 

人類の故郷――地球。

青く、脆く、それでも幾千年の歴史を刻んできた、我らの原初の大地。

その上に築かれた無数の国家の中に、存在する

 

我らが故郷――日本国。

 

島国。列島。災厄と恵みの狭間に生き、技と秩序によって千年を越えてきた国家。

だがある日――その全てが、消えた。

 

その瞬間を、誰も正確に語ることはできない。

それは『地震』ではなかった。

それは『嵐』でもなかった。

それは『災害』ですらなかった。

 

地軸が歪み、空が割れる中で、日本は忽然と――この世界から姿を消した。

 

いや、『消えた』のではない。『連れてこられた』のだ。

 

この世界に。

人の理の届かぬ、異形と性愛と狂気に満ちた『異世界』へと。

 

それは、まさしく『世界の定義』が書き換わる瞬間だった。

 

⸻

 

午前7時頃。

 

太陽が東の空に差し、全国の街に朝が訪れていた。

東京のオフィスビル群に窓明かりがともり、通学路では制服の子どもたちが歩き始めていた。

福岡の港では積荷が揚げられ、大阪の工場は機械を回し始めた。

北海道の山奥では、鹿がまだ眠っていた。

 

その、あまりにも平凡な朝。

それは、この文明にとって最後の「正常な朝」だった。

 

始まりは空だった。

 

雲が、捻じれるように回転を始めた。

風が吹いていないのに、空全体が“内側に吸い込まれて”いく感覚。

 

気象衛星群が赤道上で一斉に“観測不能”を表示し、星の座標が計算上の理から逸脱しはじめた。

 

直後、地軸の歪みが始まった。

 

国土地理院の精密観測網が“数ミリの偏位”を検出。

だがそのズレは、10秒間で“数十キロ”にまで拡大する。

日本列島の重力軸そのものが、地球の中心からずれていく。

 

そして――その“歪み”は、世界の皮膚を引き裂くかのように進行した。

 

次に、大地が悲鳴を上げた。

 

日本列島全土で、地鳴りのない“沈下”が発生した。

だが、建物は崩れなかった。

地面は割れず、橋は落ちず、水道管は破裂しなかった。

 

なぜならそれは、物理的な破壊ではなかったからだ。

空間そのものが沈み込んでいた。

 

あらゆるGPSが“地球上のでの日本の位置”を失い、電波は“どこにも届かない”方向へと消え、人工衛星の軌道上から、日本列島の姿が忽然と――消えた。

 

視えない。

存在しない。

反応がない。

 

その3点が、世界に突きつけられた事実だった。

 

北緯20~50度、東経122~153度――

そこには、かつて日本という国家があった。

富士山があり、東京があり、沖縄があり、北海道があった。

 

だが今や、そこには何もなかった。

 

国土は失われ、国民も消えた。政府も、都市も、文明も――

すべてが、“瞬時に”消えたのだ。

 

⸻

 

午前六時三十分、成田上空

 

空は青かった。

朝の陽が東の地平を金に染め、成田の街はゆっくりと目を覚ましつつあった。

空港上空では、定時到着を目指す旅客機〈CH101便〉が、予定通りのアプローチを取っていた。

 

『こちらCH101。成田アプローチ、こちら正常。予定通り、ターン開始。』

 

静かな無線が、いつものように飛ぶ。

誰もが、今日もまた昨日と同じ一日が始まるのだと信じていた。

この国の空が、いつも通りに機能しているのだと、そう思っていた。

そのときだった。

 

『……成田、こちらCH101。上空、北北東の空域にて、異常な発光を確認。雷雲の報告は?』

 

一瞬、管制室内の空気が止まる。

通信士が眉を寄せ、即座に気象データに目を走らせた。

 

「……上層風に乱れなし。雷雲観測もなし。降雨もなし。視程も良好。…異常、見当たらず」

 

「CH101、こちら成田。雷雲の報告は現在なし。衛星画像にも変化は見られません。――詳細な位置と発光形状、報告願います」

 

『……ただの反射には見えない。持続的な光で、空の一点から放射状に広がっている。雲の動きがおかしい。空が“歪んで”いるように見える。』

 

管制室の端末に、機影情報が浮かんでいた。

CH101便は高度1万フィート付近。速度も落ちてきているが、着陸アプローチに支障はない。だが――表示に、わずかな遅延。

 

「…あの…タイムスタンプに誤差が…」

 

「なんだそれ……GPSの同期ズレか?」

 

「いや、地上側はズレてない。機体側の時刻だけ、0.2秒……いや、更新が止まった?」

 

モニターの前で、通信管制官が血の気を失っていた。

 

『成田、CH101。空全体が放射状に――

 

次の瞬間、音が『止んだ』。

 

「……あ?」

 

オペレーターが思わず口にする。

 

「…切れた?」

 

「CH101、こちら成田。応答願います。繰り返す、CH101、応答せよッ」

 

無線に返答はなかった。

再送波を繰り返しても、返答はない。

管制塔とCH101の間に“何も”存在しなくなったような沈黙だった。

 

「レーダー確認。CH101……」

 

表示を見た瞬間、誰かが小さく叫んだ。

 

「……っ、う、うそ……」

 

「どうした? CH101の軌道か?」

 

「いや……違う……ちょっと待ってください……」

 

彼の指がわずかに震えながら、複数の端末を操作する。

一つ、二つ、三つ――すべてのスクリーンを切り替えながら、目を見開き、呼吸を止めたように動かない。

 

「どうした!何があった!」

 

「……ありません……」

 

「……は?」

 

「ありません!成田上空、管制範囲内の航空機――すべて消失しています! レーダー上に……一機も、いません!」

 

「何言ってる……さっきまで12機あったはずだ。中には羽田からのトラフィックも入って――!」

 

「全部…全部、消えました……CH101を含め、交信中だった機影も、予定航路上の便も……機体番号が、すべてグレーアウトしていますッ!」

 

管制室に、濃密な静寂が流れた。

 

誰もが端末を睨み、指を止め、唇を噛み、時計を見た。

 

画面上――空っぽの空域。

あれほど混雑していた早朝の空が、まるで最初から無人だったかのように、何の表示もなくなっていた。

 

「センサーフォールトか!?それともフィルタリングエラーなのかッ!?」

 

「いえ、複数のセンサーで同時に消失。サブ系統、テスト起動済み。ADS-Bにも反応ありません。トランスポンダ反応もゼロ……これは――」

 

「全域断絶…?」

 

別のベテラン管制官が低く呟いた。

 

「…ありえねえ…こんなこと……」

 

その瞬間、誰かの無線が割れた。

 

『こちら羽田塔。そちらでCH101の確認は?こちらでも突然、全ての機影が――』

 

「羽田もか……!おい、緊急通報系統を開け!国交省、気象庁、防衛省、全てに異常通知しろッ!」

 

「なぜだ……天候異常の兆候すらなかったに…!」

 

怒号と指示が錯綜する。

通信士が無線に声を張り上げるが、どの周波数にも何も返らない。

 

「応答せよッ……応答せよ! どこか、誰か、頼むッ、応答しろッ!」

 

叫びは、ほとんど祈りだった。

怒鳴り散らすように無線機に声を浴びせる管制官の声は、すでに掠れ、わずかに震えていた。

 

しかし――返ってくるはずの電子音も、ノイズさえも、なかった。

 

管制室内に、怒号と罵声と叫びが渦を巻く。

誰もが何かを叫び、何かを叩き、何かを確認していた。

だが、そのすべてが空回りしていた。

 

かつて無数の点が描かれていた空の地図。

今、その画面には――何もなかった。

ただの黒い空間。動かぬグリッド。更新されない航跡。

 

混乱の管制塔の高窓から見える空は、あまりにも静かだった。

あの光があったという北北東の空には、雲ひとつない、ただ青いだけの空が広がっていた。

 

まるで、『何事』もなかったかのように。

 

⸻

 

会議室に、重々しい沈黙が垂れ込めていた。

 

分厚い木製の扉が閉じられ、長方形の会議卓には、国家の中枢が顔を揃えていた。

総理大臣を筆頭に、外務、防衛、国交、内閣官房長官、情報局長、公安庁長官……全員が静かに資料に目を通していた。

定例の安全保障会議は、いつものように始まっていた。

 

その最中だった。

 

突然、席の一角で通信端末が震えた。

その微細な振動音が、この静寂の空間ではあまりにも異質だった。

 

防衛大臣の手が、わずかに揺れた机上の黒い端末を取った。

視線は動かさず、だが眼だけが液晶に向けられる。

 

読み取ったその瞬間、彼の表情が微かに変わった。

眉がほんのわずかに下がり、口元が強張る。

思考が一瞬で数手先を読もうとし、しかし情報の異常さに思考が凍る――そんな表情だった。

 

会議の進行役である官房長官が、異変に気づく。

視線が交錯する。

 

その間わずか三秒。だが、沈黙が空気を圧し、全員がその“気配”を察した。

 

そして、静かに席を立ちながら――防衛大臣が低く、しかし確実な声で言った。

 

「――失礼。少し、緊急のようです」

 

声に乱れはない。だがその声には、“何かが起きた”という決定的な質感があった。

 

会議室の空気が、目に見えて変わる。

 

総理が口を開きかけるも、その前に防衛大臣は軽く会釈をして席を離れ、室外に消えていった。

扉が静かに閉じる。だが、誰もそれを「些細な中座」だとは思わなかった。

 

次の瞬間から――会議室にいる全員の心臓の鼓動が、わずかに早まっていた。

 

重々しい扉が静かに閉じられる。

会議室の外、静まり返った官邸の廊下に出ると、空気の温度がわずかに違って感じられた。

 

防衛大臣はネクタイを緩めることなく、スーツの内ポケットから鳴動していたスマートフォンを取り出す。画面には「統合幕僚監部」の表示。

 

すぐさま通話を取る。

 

「……いま、会議中だぞ。よほどの事態でもない限り――」

 

その言葉を遮るように、電話口の声が食い込んできた。

 

『失礼します、大臣。ですが――国家安全保障上、極めて重大な問題が発生致しました』

 

防衛大臣の足が、止まる。

 

「……詳しく話せ」

 

『――世界各国との連絡が、一斉に途絶しました。ホワイトハウス、ロンドン、北京、ソウル、……いずれの政府系回線にも反応がありません。緊急通信網、軍事直通ライン、国際災害通報経路、すべてが『不通』です。こちらからの発信は通りますが、向こうからの応答が一切、ありません』

 

報告の声は、電話越しにもかかわらず異様なほど冷静だった。冷静であろうと必死に努めている、それだけが伝わってくる。

 

「……すべての国家と?」

 

わずかに掠れた問いに、受話器の向こうから即答が返る。

 

『はい。事実上、地球上の主要国家との“接続そのもの”が切れた形です。これは単なる通信障害ではありません。』

 

大臣は思わず言葉を失った。

あり得るはずのない言葉だった。だが、それ以外に説明がつかないというのもまた、事実なのだ。

 

そして、さらに深刻な情報が続く。

 

『さらに、自衛隊およびJAXAが管理する衛星群――情報収集衛星、気象衛星、監視衛星――合計11基が、今朝7時02分以降、一斉に“軌道上から消失”しました』

 

「そんな馬鹿な……!小型衛星ならともかく、情報収集衛星まで……!それが同時にか?」

 

『はい。正確に言えば、7時02分12秒――この時間を境に、すべての機体からの通信が途絶し、以後、再接続は一度たりとも確認されておりません。』

 

「……ありえん……」

 

防衛大臣は思わず口元を押さえた。

歯の根が合わないほどの“理解不能”が、内側から言葉を噛み砕いていく。

 

『防衛省としては、すでに『敵性国家による攻撃』の可能性を視野に入れ、自衛隊全体に対し、臨戦態勢の準備命令を発令済みです。ただし――現時点では、いかなる国家からの攻撃とも断定できない状況にあります』

 

報告の声は沈着を装っていたが、その底には、どうにも隠しきれない硬直と焦燥が滲んでいた。

 

防衛大臣は、携帯を耳に当てたまま、ゆっくりと顔を上げた。

視線は官邸の高窓の向こうへと向かう。

 

そこには、あまりにも静かな空が広がっていた。

 

群青の空。

よどみなく透き通った大気。

雲は白く、陽は穏やかに差し込んでいた。

 

雷光もない。砲煙もない。悲鳴も、混線も、何一つない。

ただ、完璧な日常のように見える虚偽がそこにあった。

 

「……いや……いや、そんなことが……」

 

思わず口から漏れた言葉に、自分で気づいて、すぐに言葉を噛み殺す。

 

何が“そんなことが”なのか、自分でもわからなかった。

ただ、現実は理屈も前触れもなく、すべてを切り落としてきた。

 

「……わかった。総理には……私から伝える」

 

その声は震えていた。だが――決して崩れはしなかった。

それは、この国の軍事を預かる者として、そして危機の最前線に立つ者としての、使命の声だった。

 

「続報は逐次、秘書官を通して私に。…最悪のケースを想定して動け。」

 

『了解いたしました』

 

無機質な音がして、通話が切れた。

 

静寂が戻る。

 

防衛大臣は、しばし立ち尽くしたまま、ゆっくりと目を閉じた。

胸の内側が、わずかに軋む音がする。

だが、そんな感傷に浸っている暇などなかった。

 

深く息を吐き、もう一度、現実を見据える。

そして彼は、重く鈍い動作で、会議室の扉に手をかけた。

 

あの静寂に満ちた部屋に戻る。

国家の心臓部に、『最初の死』の報せを抱えて――。

 

⸻

 

午前八時三十四分。

東京・渋谷。

スクランブル交差点の雑踏は、いつも通りの喧噪に包まれていた……はずだった。

 

しかしその朝、どこか違っていた。

 

人々の足が妙に遅い。

スマートフォンを見下ろしていた若者が眉をひそめ、OLがイヤホンを外して空を見上げた。

信号は正しく動いていた。歩道の灯も、交通誘導も正常だ。

だが、何かが……違う。

 

そして、それは「音」ではっきりと訪れた。

 

スクランブルの頭上。巨大ビルに設置された大型ビジョンが、ふいに真っ白に明滅した。

続いて、空気を震わせるような警告音が、騒音に満ちた交差点をも貫いた。

 

ピッ――――ピッ――――ピッ――――

 

ざわつきが広がる。

雑談の声が止まり、スマホの手が止まり、誰もが無意識のまま、頭上を見上げた。

 

画面が切り替わる。

姿勢の正されたスーツ姿の男性アナウンサーが、緊張の面持ちで映し出された。

その背後には、官邸の記者会見室と思われる無機質な背景。

 

そして、彼は語りはじめた。

 

『――国民の皆さまに、緊急放送を行います。現在、日本国内において、重大な国家的非常事態が発生しております。海外とのすべての通信が遮断され、各種衛星が消失した状況です。状況の詳細は現在も確認中です。繰り返します。現在、日本は――世界各国との接続を完全に喪失した状況にあります』

 

その瞬間、空気が変わった。

 

大型ビジョンの明るさが、妙に冷たく目に刺さる。

誰も言葉を発せず、ただじっと、アナウンサーの言葉に耳を傾けていた。

スクランブル交差点に、まるで「時」が止まったかのような静寂が訪れた。

 

『テレビをご覧の皆様は、できるだけ周囲の方にもお声をかけ、出来るだけ放送をご覧になるようご協力ください。正確な情報が入り次第、随時放送いたします。どうか落ち着いて行動してください。』

 

何もかもが動かなくなりつつある中で。

ただ、男の声だけが、街の頭上から降り注いでいた。

 

『先ほど、内閣官房長官は緊急の記者会見を実施し、現在発生している未曾有の国家的非常事態に対処するために日本国内の治安を維持し、今後予測される最悪の事態に備える措置として、陸・海・空の各自衛隊に対し、速やかな出動要請を発したと発表いたしました。』

 

アナウンサーの声は冷静を装っていたが、その言葉の背後に滲む硬さと沈痛さは隠しきれなかった。

 

画面には、内閣官房長官が読み上げた文書の一節がテロップとして表示されていた。

その一文一文が、画面に静かに滲むように重く浮かんでいた。

 

街の人々は息を呑み、交差点の喧騒すら押し殺されていく。

誰もが悟っていた。

 

国家が、自らの内部では制御できない、なにか途方もない現象に直面しているのだと――。

 

⸻

 

政府も、国民も――

その『異常』を現実として認識するのに、さほど時間は必要としなかった。

 

外交ラインは応答なし。

宇宙空間にいたはずの衛星群は、全て反応を失い、軌道から消えた。

海上自衛隊の艦艇は、見慣れた海域にあって、しかし「かつての海図」と一致しない海流と風に包まれていた。

空港からは、着陸すべき便が一機も姿を見せず、航空機のシステムは世界の座標から外れたことを報せていた。

 

街ではテレビの画面は同じ緊急放送を繰り返し、人々は無意識のうちに「これは戦争でも災害でもない」と理解していた。

 

閣僚たちの顔からは、一斉に血の気が引いていた。

乾いた唇がわずかに動くも、言葉は声帯の手前で凍りつき、誰ひとり、次の指示を出せない。

 

通信司令室では、立て続けに飛び込む報告が、次第に詰まり始めていた。

誰もが理解していたのだ。言葉にするには重すぎる『現実』を。

 

街では、通勤途中の群衆が足を止め、巨大ビジョンに映し出される緊急速報を、無言のまま見上げていた。

喧騒は消え、まるで都市全体が息を潜めたようだった。

 

日本と世界が育んできたすべての繋がり――

通信、航路、天気予報、測位、国際連携、貿易、外交、あらゆる境界線が、

 

音もなく、爪痕ひとつ残さず――切り離された。

 

そして皆が、直感した。

 

――日本は、もう、あの『世界』には存在していないのだと。

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