異界にて、雄は資源と化す    作:Henon

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新大陸東部地域 STF第一駐屯地 地下室

分厚い鋼鉄扉の奥、外界の光を完全に遮断した地下室。
裸電球の冷たい光が机を照らし、コンクリートの壁にはわずかな水滴が滲み、湿った空気が淀んでいる。
外の駐屯地は発電機の唸りや兵士たちの掛け声に満ちているはずだが、ここではただ時計の針の音と、換気扇の低い唸りが支配していた。

長机の前には三人がいた。
一人は灰色のスーツをきっちりと着こなした男。革鞄を横に置き、手元には黒いファイルを広げている。その姿は軍服の者たちとは明らかに異なる異質さを放っていた。

内閣情報調査室――通称CIRO(内調)の職員である。

その視線は冷徹で、言葉を発する前からこの場を支配していた。

正面に座る本田司令は、背筋を伸ばしたまま両手を組み、軍靴の底でコンクリートを踏みしめる。現場の責任者としての威圧感を漂わせつつも、スーツの男に対しては慎重に敬意を払う姿勢を崩していなかった。
その横には近藤隊員。制服の襟元には緊張の汗がにじみ、膝の上で手を固く組んでいた。彼もまた、今の立場を理解していた。――この場はSTFの会議室でありながら、実質的には内調が主導権を握っているのだ。

スーツの男がゆっくりと口を開いた。

「……ここでのやり取りは、すべて機密といたします。記録にも残りません。」

低く凍りつくような声音に、空気が一層重くなる。
本田は短くうなずき、声を整えて答えた。

「承知いたしました」

続けて、スーツの男はファイルを開き、一枚の報告書を机に滑らせる。
耳に鋭く響くほどの静けさの中で、灰色のスーツを着た内調官がゆっくりと口を開いた。

「……まず、感謝しなければなりません。東部部族社会との対話を取り付けたこと――これはこれまでの調査隊の試みを超える、明確な偉業です。これまで曖昧な鳴き声や仕草による意思疎通しか不可能だった中で、言葉による対話を成立させた意義は計り知れません。…本当にありがとうございます。」

本田司令は腕を組み、短くうなずいた。
近藤隊員は膝の上で手を組み直し、無言のまま背筋を張る。

しかし内調官は、そこで言葉を切り、鋭い眼差しで二人を見据えた。

「……ですが」

声の調子が低く、地下室の空気をさらに重く沈ませた。

「彼女――アルザがもし新大陸の『西側国家』と繋がっているとすれば、話はまったく別です。今この瞬間も西方との交流や情報のやり取りをしている可能性を否定できない状況です。もし彼女が繋がっていた場合、我が国に対する危険性は一挙に跳ね上がります」

換気扇の低い唸りが途切れ途切れに響き、室内はひどく狭く感じられた。
本田が低く唸るように問う。

「……危険性、とは具体的に?」

内調官は資料を一枚指で押さえ、声を落とした。

「具体的には我が国の『情報流出』です。我々が交渉の際、アルザに示した一挙手一投足、言葉などがすべて西側の国家群に報告されている可能性があります。日本の男女比、日本の社会構造――これらが伝わった時、相手はどう反応するか、非常に未知数です」

近藤の指先が膝の上で強張った。
本田は黙したまま視線を落とし、顎を固く結ぶ。
内調官は二人の表情を見ながら、再び口を開いた。

「……まず前提として、STFの皆さんも既に認識されていると思いますが――この大陸においては、男女の比重が極端に偏っている。それが各種族の社会構造を大きく規定している可能性があります」

本田司令は腕を組み、低く応じた。

「……ええ。先のハーピーの誘拐事件、それにドラゴニュートとの接触、さらにはアルザが口にした言葉を踏まえれば……想像はつきます。」

近藤がわずかに身じろぎした。
脳裏に甦ったのは、過去に遭遇したドラゴニュートたちとの接触――そして、あの女、アルザの言葉だった。
圧倒的な体躯と艶やかな美貌を持ちながら、理性の膜を突き破るように雄を求めてくるその執着する姿に、彼は今なお説明のつかない違和感と戦慄を覚えていた。

内調官は、頷きながら淡々と続けた。

「……ええ。我々の常識からすれば異常ーーいえ、むしろ“異常”なのは我々、日本の方なのかもしれません。雄と雌が五分の比率で存在する――国家と呼ぶべきか、あるいは“群れ”と呼ぶべきかはともかく――そのような社会構造は、この新大陸ではいまだ確認されていませんからね。」

内調官は一旦言葉を区切りつつ続けて話す。

「まだ国家規模の調査には至っていませんが、これまでSTF隊員たちが報告した現場の記録……ハーピーの群れ、ドラゴニュート、そして他種族における雄への異常な執着。それらは一貫して、雄がいかに希少であるかを物語っています」

裸電球がかすかに揺れ、机に落ちる影がわずかに歪んだ。
彼の言葉はさらに重さを増す。

「……特にハーピーによる誘拐事件を思い起こせば、その構造は一層明白です。彼女らは一見して女性的な外見を持ちながら、実際には“雄”とされる女性型個体を群れに囲い込んでいました。その裏で、前面に立つ雌型たちは、まるで飢えた獣のごとく人間の男性へと手を伸ばし、奪い去ろうと執拗に迫ってくる……。これは偶発的な行動ではなく、むしろ必然です。群れの存続、ひいては社会そのものの維持を支える仕組みが、雄を資源として囲い込み、利用する構造に組み込まれている――そう考えざるを得ません」

しばしの沈黙。コンクリートの壁に水滴が伝う音が、やけに大きく響いた。
本田が腕を組んだまま、低く問いを投げる。

「…彼女たちが男性の匂いに強く反応することも関係しているのでしょうか?」

内調官は短く息を吐き、鋭い視線を向けた。

「さあ…フェロモンなのか、あるいは別の生理的要因なのか……判然としません。ですが事実として、観測される行動は一貫しています。雄――つまり男性は、この世界において極めて価値が高い可能性があります。 単なる個体差や偶然の出来事ではなく、社会そのものが雄を資源として扱う方向へと傾いているのです」

冷たい空気が三人の胸を締めつけるように淀み、換気扇の唸りだけが機械的に続いていた。

内調官は一度言葉を切り、ファイルを静かに閉じた。その音がやけに大きく響き、冷たい空気を震わせた。彼は両手を組み、重々しい声音で本題へと戻っていった。

「……本題に戻りましょう。何度も言いますが、我が国の情報があの個体――アルザによって西側国家へと共有されるようなことがあれば、それは深刻な国家的危機に直結します」

低く抑えられた声は、地下室の湿気をさらに濃くするように響いた。近藤が無意識に喉を鳴らし、背筋を固くした。

「東部部族との接触任務が成功したことは、日本本土でも既に報道されています。『異世界との対話が成立した』という事実は、国民にとって大きな希望であり、また政治的な成果として喧伝された。……しかし、そこで明らかになった“新大陸の西側に国家群が存在する”という情報は、意図的に伏せられました」

内調官は視線を鋭くし、本田と近藤を順に見据えた。

「理由は明白です。今の不安定な日本国民に、“異世界の国家が存在する”という情報を伝えればどうなるか。……人々は不安に駆られるどころか、むしろ楽観的な希望を膨れ上がらせるでしょう。『異世界に国家があるならば、国交を結べる』『資源を輸入できる』『協力関係を築けるはずだ』――そうした声が一気に高まり、政府への高い圧力となるのは確実です」

内調官は低い声音で言葉を区切り、視線を更に鋭くする。

「そうなれば、我々はこの新大陸に広がる“雄を資源とする”危険な社会構造を持った可能性のある国家群と、否応なく真正面から対峙することになる。外交という名の交渉の場に引きずり出され、そして必ず“日本の男性”に目をつけられるでしょう」

裸電球の光がかすかに瞬き、机に落ちる影を歪ませた。沈黙の中、内調官の言葉は重く沈み込み、地下室の湿った空気をさらに冷やしていった。

そして、彼は声をさらに落とし、机に置いた指先でゆっくりと一定のリズムを刻んだ。

「しかし、我々が一方的に接触を絶ったとしても、向こうの国家は違います。我々の存在を少しでも知った場合、探し当てようとするでしょう。問題は――その橋渡し役となり得る存在が、既に我々の目の前にいるということです。」

内調官は報告書の一枚を指で押さえ、内容に目を落とす。

「アルザは東部の部族社会に属していながら、西側の国家に関する情報を有していた。これは、彼女が何らかの形で“接点”を持っていた可能性を示唆しています。さらに彼女が持ち込んだ大陸の知識、そして我々にとって日本語に酷似した“統一語”――いずれも本来、東部の部族には存在し得ないはずのものです。」

近藤は拳を膝の上で握りしめた。心臓の鼓動が耳の奥でうるさく響き、冷たい汗が背を伝う。視線を逸らそうとしたが、目の前の男――灰色のスーツを着た内調官の冷徹な眼差しが、鋭い刃のように彼を捉えて離さなかった。

内調官は言葉を区切り、重々しい沈黙を挟んでから、低く、しかし明確に告げた。

「……そこで――今回、部族の村落へ向かう際に、近藤さん、あなたにお願いしたいことがあるのです」

裸電球がわずかに揺れ、長机に落ちる影が不安げに歪む。換気扇の低い唸りだけが、静まり返った地下室に単調な拍動を刻んでいた。

内調官は姿勢を崩さず、淡々と続ける。

「それは――簡単なことです。常にアルザと行動を共にしてください。そして観察するのです。そして、もし可能であれば……彼女の“素性”、出自や背後にある勢力の痕跡を持ち帰っていただきたい」

近藤の喉がひくりと動いた。思わず言葉を呑み込んだが、内調官の声はさらに強まる。

「近藤さん。あなたはアルザと――『深い関係』にありますね?」

問いかけは淡々としていながら、拒否を許さぬ圧があった。

「……は、はい」

近藤の返答はかすれ、震え、意図せず声が弱くなった。自らが何を指されているのか――単なる接触以上の意味を含んでいることは、痛いほど理解していた。アルザの吐息、肌の熱、あの夜の記憶が否応なく甦り、言葉が喉に詰まった。

内調官は彼の動揺を見逃さなかった。薄い唇に冷たい笑みすら浮かべず、淡々と続ける。

「……彼女を強硬手段でどうにかするのは、得策ではありません。むしろ愚策です。この大陸における国家戦略物資――我が国が生き延びるために必要な交渉の糸口、その担保を握っているのは他でもない、あの女なのです」

ファイルの上に置かれた指が、ゆっくりと報告書を叩く。乾いた音が、地下室の静寂を切り裂いた。

「ですから――近藤さん。もし、あなたが彼女の心を開かせることができれば……日本への脅威を減らすことができます。ですが、それには彼女の“裏”を知り、彼女が繋がっている相手を探るしかない。それは、あなたしかできない事なのです」

近藤はたまらず顔を上げ、震える声で言葉を吐き出した。

「……それは…要は……ハニートラップを仕掛けろと?」

言葉にした瞬間、口内がひどく乾き、舌が張りついた。地下室の湿った空気が、逆に喉を締め上げていく。

内調官は一瞬も視線を逸らさず、わずかに顎を引いて応じた。

「ええ――そうです」

その声音には逡巡も、冗談めいた色もなかった。氷のように冷徹で、ただ事実を確認する調子だった。

「彼女に心を許させ、言葉を引き出し、真意を探る。肉体的な関係が必要であれば――それも辞さないでいただきたい。あの女の興味を惹きつけ、縛りとめ、隙を作ること……これらが重要です」

裸電球の光が机の上に落ち、内調官の影を濃く映し出す。冷たい光が、まるでその言葉を刻印するかのように近藤の胸に突き刺さった。

内調官は深く息を吐き、重々しく言葉を継いだ。

「……近藤さん。重荷になると思いますが…背を向ければ、日本そのものが飲み込まれるかもしれません。どうか、ここはご協力お願いします。」

沈黙が地下室を満たし、時計の秒針の音だけが耳に響いた。





新大陸東部のドラゴニュート部族との交流 記録その2

 

 

門をくぐった瞬間、近藤の背筋に冷たい汗が流れた。

湿った土の匂いと、木の内側に染みついた獣脂の臭気が混じり合い、喉の奥でひどく重たく溜まる。

村の中は想像以上に整っていた。石を組んだ炉の煙が低く漂い、整然と並んだ木柵の区画からは、獣の鳴き声と異界の女たちの囁きが重なり合う。

 

その秩序だったざわめきに包まれながら、近藤は一瞬、目の前の現実が滲んで崩れる錯覚を覚えた。

 

――地下室の裸電球。

鉄製の長机。その向こうに座る内調官の目が脳裏に浮かんだ。

 

『常にアルザと行動を共にし、彼女を観察してください』

 

言葉は低く、しかし決して選択肢を与えぬ響きで叩き込まれた。

 

現実に戻る。

村落の中央へ進む一行の前で、アルザが尾を振った。

太陽を受けた鱗が光を割り、湿りを帯びた微笑が浮かぶ。

その瞳はまっすぐに近藤だけを捕らえ、声なき合図を送ってきた。

 

すでに身体を捧げている――その事実は、どうしようもなく重く胸に沈んでいた。

アルザの爛熟した体躯、獰猛さと妖艶さを兼ね備えた瞳、熱に浮かされた記憶……。

それらは単なる衝動の産物であればまだよかった。

ただ欲望に抗えずに抱き合った――そう言い訳できたなら、まだ自分を誤魔化せた。

 

だが今は違う。

あの地下室で告げられた命令が、すべてを変えた。

 

あの冷徹な命令は、単なる行為を「国家のための任務」に変えてしまった。

その瞬間から、自分の肌も、唇も、心すらも、すべてが駒にされてしまったのだ。

 

(……俺に諜報員の真似事なんて、荷が重すぎる)

 

喉の奥で押し殺した呻きが、腹の底に沈殿する。

自分は自衛官であり、兵士だ。銃を握り、命令に従い、戦場で汗と血を流すのが務めだ。

暗い部屋で女を抱き、耳元で真意を探り、言葉の裏を引き出す――そんなことは、訓練でも教わったことはない。

 

それでも命令は下った。

拒否すれば、日本に背を向けることになる。

受け入れれば、女に囚われ、己の心ごと弄ばれる危険が待っている。

 

アルザが横目でこちらを見た。

その視線は愛撫にも似た重さを帯びていた。

まるで「もう逃げ場はない」と告げるように。

 

(俺は兵士だ……兵士であって、スパイじゃない)

 

言葉を飲み込み、胸の奥で自分に言い聞かせる。

 

だが歩を進めるたび、あの夜の記憶と、地下室で浴びた冷徹な命令が重なり合い、否応なく背中を押してくる。

 

銃を握るより、ずっと重い任務。

血を流すより、ずっと苦い役目。

 

(……それでも――やるしかない。日本のためなら)

 

胸の奥で押し殺した声が、ひどく乾いた響きを帯びて自分自身に突き刺さった。

心臓の鼓動は耳の奥で鈍い太鼓のように反響し、血流の音と混ざって世界の雑音をかき消していく。

掌には汗が滲み、湿った熱が指の間を重く絡め取る。

 

肩にのしかかるのは銃でも装備でもなく、形の見えない「任務」という重石。

戦場で引き金を引くよりも、ずっと苦く、ずっと重い。

己の肉体と心を差し出し、相手の内奥に踏み込む――兵士として教え込まれた覚えのない戦い。

 

近藤は唇を結び、ただ歩を進めた。

その足取りは確かでありながらも、胸の内には答えの出ない重苦しさが渦を巻いていた。

 

顔に影が差していたのだろう。

歩きながらも眉間は固く寄り、唇は一文字に結ばれている。思考の底に沈み込んでいるのが一目で分かる表情だった。

 

「……おい、大丈夫か」

 

隣を歩く外交官護衛小隊の隊長が、そっと肩に手を置いた。

分厚い手袋越しに伝わる感触は短い一瞬だったが、その重みは確かに近藤を現実に引き戻す。

 

近藤はわずかに肩を震わせ、曖昧に首を縦に振るだけで返した。

 

(……余計な心配をかけてはいけない)

 

そう思いつつも、心の奥ではまだ地下室の声が尾を引いていた。

だが次の瞬間、隊長が視線を鋭く前へ送った。

 

「あれは…」

 

村の奥へ続く小道。その両脇に広がる光景が、彼らの視線を向けさせた。

裸足で土を踏みしめる竜の女たち、その後ろを、薪や水瓶を抱えた小柄な影がせわしなく往復している。

外交官は思わず息を呑み、声を洩らした。

 

「……これは……」

 

護衛の一人が低く唸るように言った。

 

「犬人……?いや、あれは……猫か?猫のような耳と尾を持っている……」

 

別の隊員もまた視線を凝らし、声を荒げかけて抑える。

 

「未確認の獣人種も……複数います。兎のような獣人まで……」

 

驚愕の声は一つに集約されていった。

 

「ここまで多民族的だとは……」

 

焚火の煙が低く漂い、獣脂と土の匂いが混じる中、種族の境界を越えて同じ空間に収まる者たちの姿があった。

薪を担ぐ犬人、土器を抱える猫人、布を運ぶ兎人――その全てが逞しい竜女たちの周囲をせわしなく動き回り、まるで家畜と従者の境目を曖昧にしたかのように、日常の営みの中へ溶け込んでいる。

 

外交官は呆然としたまま、その光景を目に焼き付けていた。

 

「共生……いや、従属か……。」

 

近藤は彼らの声を背後に聞きながら、ただ冷たい汗を首筋に感じていた。

目の前の現実は、まるで地下室で突きつけられた“雄を資源とする社会”という言葉を、形を変えて眼前に現したかのようだった。

 

呟きを聞いたアルザは微笑を浮かべ、尾の先をゆらりと揺らした。

 

「支配というほどでもないさ」

 

低く艶やかな声が村のざわめきに溶け込む。

 

「彼女たちは我々の庇護を欲し、我々は労働力を欲した。互いの望みが合致しただけだよ」

 

その言葉は、あまりに滑らかで、あまりに整っていた。

まるで誰かに聞かせることを前提にした答弁のように。

 

外交官は瞬間、喉に小さな違和感を覚えた。

口元には微笑を貼り付けたまま、心の中では冷えた吐息を漏らす。

 

(……ものは言いようだな)

 

村の光景がそれを証明していた。

竜女たちの足元で、犬人や猫人が薪や水を抱えて走り回る。

その動きは従順で、従属の枠を越えて「逃げ場のない役割」に縛られている。

庇護を望んだと言うより、庇護以外の選択肢を奪われた――そう言った方がよほど現実に近い。

 

外交官は唇の端を動かさずに、視線だけを周囲に巡らせた。

一匹の猫人が大きな籠を背負い、その背を竜女が平然と尻尾で叩く。

小さな兎人は器を運ぶ途中でつまずき、すぐに竜女の大きな手に抱え上げられたが、その動作は優しさよりも冷徹な管理の響きを帯びていた。

 

(庇護と労働力の交換?聞こえはいいが……実態は支配に近い)

 

彼は冷静に観察しながら、心の奥で確信を固めていった。

アルザの声は甘く、どこか楽しげですらある。

だが外交官の耳には、その一言一言が、外から来た者を煙に巻くための巧妙な仮面のように響いていた。

 

 

村の通りを抜けると、その一角に小さな池があった。

村の通りの一角にある池。

それは川から引いた水を溜めただけの簡素な洗い場で、苔むした石の縁からは冷ややかな水音が絶えず漏れていた。

濁り気を帯びた水面の上には光が反射し、午後の陽射しに照らされてきらめく。

 

そこには、思わぬ光景が広がっていた。

 

犬人だろうか。

外で薪を運んでいた成体の犬人よりも小さい個体が、全身をさらして池に入っていた。

その身体はあまりに女性的で、柔らかな曲線を持ちながらも、腰回りや肩の線が華奢で脆そうに見えた。

濡れた毛が肌に貼りつき、頬は紅潮している。

 

その隣には、大柄なドラゴニュートの女がいた。

彼女もまた衣を脱ぎ捨て、豊満な体躯を惜しげもなく晒している。

肩から滴る水滴が胸を伝い、光を裂きながら腹部へ滑っていく。

そして彼女の視線は隣の犬人へと注がれ、その頬には普段の威圧的な表情からは想像しがたい熱を帯びた赤みが差していた。

 

犬人の個体が小さな手で水をすくい上げると、ドラゴニュートはゆっくりとその背を撫でるように手を滑らせた。

水面に揺れる二つの影が重なり合い、まるで親密な契りを交わしているかのように映る。

 

その光景を目にした隊員たちは、思わず足を止めた。

互いに視線を交わし、声を潜めながら囁き合う。

 

「……女同士で、そういう趣味でもあるのか?」

 

言葉には困惑が滲んでいた。

犬人の身体が女性的に見えるからこそ、目の前の行為は同性愛的な交わりにしか見えない。

 

別の隊員が首を振り、低く返す。

 

「いや……村の風習かもしれん。水場で身体を清めるときの、あれは……まあ、何かの儀式の一環とか……」

 

だが、その声にも確信はなかった。

目の前で頬を赤らめ、互いの身体を寄せ合う竜女と犬人。

その光景は、単なる風習という説明だけでは片づけられぬ熱を孕んでいた。

 

「……彼らは雄だよ?」

 

アルザが柔らかな笑みを浮かべ、池の方を顎で示した。

響く声はあまりにあっけらかんとしていて、こちらの狼狽を愉しむようですらあった。

 

護衛の隊員たちは一瞬耳を疑ったように固まり、その場に漂う湿った空気がさらに濃く沈んだ。

アルザはわざと間を置き、尾の先で土を払うと、続けた。

 

「……君たちは匂いでは判別できないのかな?」

 

その言葉が落ちた瞬間、隊員のひとりが思わず呻く。

 

「……男、なのか……」

 

水面で身体を寄せ合う犬人と竜女――その艶やかな曲線を持つ肢体は、どう見ても女にしか見えなかった。

しかしアルザの一言で、その前提が崩れ落ちる。

頬を赤くし、水に濡れた毛並みを震わせるその個体が「雄」だと言われれば、もう目のやり場がない。

 

外交官は内心で静かに呟いた。

 

(……ハーピーの件で報告されていたな。雄も女性的な身体を持ち、雌と判別しづらいと……。どうやらこれは、この新大陸の種族に共通している特徴のようだ)

 

彼の指先が書類をめくる癖のように膝を叩き、目は逸らしながらも記録するように観察を続けていた。

 

そんな中でアルザがくすりと笑い、隊員たちの顔を眺め渡す。

 

「……あんまり熱い視線を送らないほうがいい。まあ、入りたければ止めないけどね……?」

 

その挑発めいた一言に、空気が一瞬ざわついた。

護衛の一人が咳払いで誤魔化した。

驚愕と説明のつかない興奮とがないまぜになり、理性が軋んでいた。

 

しかし、その場を断ち切るように隊長が声を張った。

背筋を伸ばし、きっぱりと言い放つ。

 

「……結構。我々は族長と話をするために来ましたので」

 

声は鋭く、冷ややかでありながらも一切の動揺を排したものだった。

その一言で隊員たちの肩がわずかに落ち、外交官も小さく安堵の息を吐いた。

 

アルザは愉快そうに目を細め、尾をゆったりと揺らした。

 

「…随分…強気な雄たちだな。近藤といい……君たちは本当に魅力的だな」

 

その声音には、獲物を前にした肉食獣の甘い興奮が混じっていた。

 

 

濁りを帯びた水面には、竜女と犬人の裸身が映り込み、さざ波とともに妖しく揺れていた。

アルザから「見ないほうがいい」と釘を刺されていたにもかかわらず、一人の護衛隊員はどうしても視線を逸らせなかった。

喉を鳴らし、ほんの一瞬だけと心の中で言い訳しながら、池に目を走らせる。

 

その気配を捉えたのだろう。

水辺にいたドラゴニュートが、ゆっくりと振り返った。

濡れた髪の房を肩に垂らし、瞳を細め、口の端をつり上げる。

そして――ベロリ、と舌を突き出し、艶やかに唇を舐め上げた。

光を反射する唾液の筋が、挑発の意図を隠しもしない。

 

彼女はそのまま隣にいた犬人の小柄な体を抱き寄せ、尻尾で腰を押し上げた。

犬人は小さく肩を震わせ、抗うように目を逸らすが、竜女の力には抗えない。

次の瞬間、その白い尻をこちらへと晒し出すように捻じ曲げ、まるで見ろと言わんばかりに隊員の方へ突き出した。

 

犬人の細い腰が掴まれ、竜女の爪が食い込む。

柔肉が歪み、濡れた肌に光が走る。

だが、竜女の瞳は終始、池の外に立つ隊員を射抜いたままだった。

口元には肉食獣のような笑み、尾は水面を叩き、飛沫が隊員の靴先まで飛ぶ。

 

挑発――それ以外の言葉はなかった。

 

『混ざりたいのだろう?』

 

そう無言で語りかけているかのようだった。

 

隊員の顔はたちまち赤くなり、拳が膝の上で硬く握り込まれる。

 

「……おやおや、目をつけられてしまったな…急ごうか」

 

アルザは肩をすくめるように笑い、長い尾を軽く振った。

その声音には皮肉と愉悦が入り混じり、場を和らげようとしているようで、実際には隊員たちの羞恥をなぞるような響きがあった。

 

池の縁で挑発を続ける竜女の姿は、まだ背後にまとわりつくように残像を刻んでいた。

それを振り払うように、外交官の一団は村の奥へと足を進める。

 

通りは細く、両脇には粗削りの木造家屋が並ぶ。

そこかしこで獣人たちが薪を抱え、竜女の怒声に怯えながら駆け抜けていく。

隊員たちは銃を抱えた手に汗を滲ませながら、一歩ごとに神経を尖らせていた。

 

やがて、村の中心に他の家屋とは明らかに異なる建物が姿を現した。

木と石を組み合わせた頑丈な造り。屋根の梁には獣の骨が吊り下げられ、入口には巨大な鱗のような物が飾られている。

他の住居より二回りも大きなその建物は、威圧感と同時に、ここが権威の座であることを雄弁に物語っていた。

 

「……ここか」

 

外交官が小さく呟く。声は硬く、喉の奥で押し殺すようだった。

 

この扉の向こうには、族長――すなわちこの村の頂点が待つ。

 

アルザは一行を振り返り、口元にゆるやかな笑みを浮かべた。

 

尾がゆるりと地面を掃き、乾いた砂をざらりと鳴らす。

 

「さ、こちらへ。族長がお待ちだ」

 

重厚な木扉がきしみ、内側から低く軋む音が響いた。

 

やがて開かれた入口の奥に、ほの暗い空間と、重苦しい気配が立ちのぼっていた。

 

外交団が族長の家の敷居をまたぐと同時に、後ろを振り返った護衛のドラゴニュートたちが静かに立ち止まった。

槍を握り、外の陽射しの下で待機の姿勢を取る。分厚い鱗に覆われた体躯が逆光に黒々と浮かび、その姿は門番にも似て威圧的だった。

 

――彼女らは中には入らない。

この場はあくまで外交官団と、案内役のアルザだけに委ねられるという暗黙の示威だった。

 

そして外交官団の一行が族長の家へと足を踏み入れた瞬間、まず彼らを迎えたのは視覚ではなかった。

鼻腔を突く、濃厚な“匂い”――むせ返るほどの熱気が、空気そのものに染み込んでいた。

 

重く淀んだ獣脂の臭いに交じり、それとは明らかに異なる甘い刺激が漂っている。

肌を撫で、喉奥をじわりと痺れさせるそれは、汗でも血でもない。

近藤はわずかに顔を歪め、次の瞬間に直感する。

 

――性臭だ。

 

理屈ではなく、身体の奥が反応してしまう。

むっとした熱気に含まれるそれは、アルザとの行為後の残り香にも似ており、ただ立っているだけで皮膚が粟立つようだった。

 

外交官は一歩足を止め、視線を交わした護衛隊長が眉を顰める。

だが誰も声には出せない。声にした途端、この場の緊張が崩れそうな気がしたからだ。

 

重苦しい沈黙の中、アルザだけが平然と尾を揺らし、ゆったりとした足取りで奥へ進む。

その背を追わなければ取り残される。外交団は困惑の色を隠しきれぬまま、互いに視線を交わしつつも足を進めた。

 

壁際に控えていた族長直属のドラゴニュート衛兵たちは、まるで石像のように直立していた。

しかし、その目だけは異様に光り、通り過ぎる外交官団を舐めるように追ってくる。

 

鼻孔は大きく開かれ、喉奥から低い音が漏れる。

気づけば彼女らの口端から透明な涎がつっと流れ落ち、顎を濡らしているのがわかった。

舌でそれを拭う様子もなく、ただ垂れ流すように滴り続ける。

 

近藤はその視線に肌を刺されるような感覚を覚え、無意識に顔を下に逸らした。

目に入ったものが、彼の喉を詰まらせた。

 

――太腿に、液体が。

 

まるで水滴のように見えたが、匂いが物語っている。

それは汗ではない。

熱を帯びた身体の奥から滲み出た、生理的な滲出。

 

外交官たちも気づいたのか、微かに歩調を乱した。

だが誰一人口を開かず、ただ視線を逸らし、足を止めぬようにする。

目にすれば意識が絡め取られる――そう直感的に理解したからだ。

 

進むごとに空気は濃く重くなっていった。

甘ったるい芳香に似て、しかし理性を麻痺させる獣じみた臭気。

匂いが層をなすように重なり、肺を通して血流にまで侵入してくるかのようだった。

 

外交団の列は無言で進む。

靴音だけが床に乾いた音を残し、外界から切り離されたような圧迫感が広がっていく。

近藤は額に汗を滲ませ、心の中で呟いた。

 

(……この匂い。奥にいくほど……)

 

やがて、一行は重厚な扉の前に辿り着いた。

扉は厚い木材に補強を施したもので、この集落のどれよりも強硬に見える。

その前でアルザが立ち止まり、振り返りもせずに短く息を吸った。

 

「――――」

 

彼女の喉から、艶やかな鳴き声が響き渡る。

低音と高音が絡み合い、まるで扉そのものを震わせるような声。

言葉ではないが、そこには明確な意味と権威が宿っていた。

 

直後、扉の向こうから応答があった。

 

「――…」

 

深く、響きわたる声。

同じ鳴き声でありながら、格の違いを刻み込むような響きだった。

 

外交官団は互いに視線を交わす。

その瞳には一様に困惑と緊張が浮かんでいた。

言葉ではない。だが交渉の場は、すでに始まっている。

 

アルザは振り返り、艶やかな笑みを浮かべて一行を見やる。

 

やがて扉が、ゆっくりと、軋む音を立てて開かれた。

 

 

扉がゆっくりと開かれた瞬間、外交団の鼻腔をさらに濃密な匂いが打った。

その奥に混じるのは――生々しい、性の臭気。

 

部屋の奥に座していたのは、ひときわ巨大な影だった。

族長――身の丈は優に二百センチを超え、その立ち姿だけで空気を圧する。

 

鱗は深い色合いを帯び、陽光ではなく炉火の赤を受けて妖しく輝いている。

顔立ちは美しい。だが左目には深い傷が走り、片目は閉ざされていた。

 

その片目の欠落すらも威容を削ぐことなく、むしろ戦いを潜り抜けた証として、女としての異様な迫力を際立たせていた。

 

そして二百センチを超える体躯はただ大きいのではなく、女としての曲線を誇張するように形づくられている。肩から胸へと落ちる線は厚い筋肉に覆われているが、その筋肉さえも肉の柔らかさを際立たせる土台にすぎなかった。

豊満という言葉では追いつかない胸は、動くたび布をはみ出しそうに揺れ、かすかな隙間から汗ばむ肌が覗く。炉火の赤に照らされた谷間は、湿りを帯びた暗がりのようで、見る者の喉を渇かせる。

 

腰から下もまた、凶悪なまでに肉感的だった。

しなやかに伸びた太腿は女というよりも猛獣の脚のように逞しく、

その膨らみは歩み一つで地を震わせるだろうと思わせるほどだ。

 

片目に走る傷跡は醜さを与えるどころか、むしろ野性味と色香を重ねていた。

生き残った右の眼は、光を帯びた刃のように鋭く、見据えられた者を否応なく射すくめる。

その視線は獲物を狙う猛禽のそれでありながら、同時に雄を挑発する娼婦の眼差しでもあった。

 

だが外交団の目を奪ったのは、その傍らに群れる影たちだった。

 

三体のドラゴニュートたちが、族長の周りにぴったりと寄り添っていた。

彼らの体は肉付きがよく、腹から腰にかけて丸みを帯びており、動くたびに柔らかく揺れて見える。

その三体は族長の布の隙間に顔を押し当て、唇を強く寄せていた。湿った音が絶え間なく響き、部屋の空気にいやらしい響きを残す。

 

おそらく――先ほど池で見た犬人と同じように、この群がる者たちも雄なのだろう。

見た目は女にしか見えないが、実際には男。そう思うと一層異様だった。

 

族長はその奉仕を受けながら、最も近くにいる個体の頭を大きな手で撫でていた。

その動きは優しくも見えるが、眼差しには温かさはなかった。

愛情ではなく、所有物を扱う者の目。雄を完全に支配し、従わせているのだと一目でわかる仕草だった。

 

床にふと視線を落としたとき、外交団の胸に不快な衝撃が走った。

 

板張りの床には、ところどころに何かの飛沫が乾ききらず残っている。

濃密な匂いの正体はそれだと悟るのに、時間はかからなかった。

ときおり、膝をついた小柄な個体の口端から垂れる液体が床に落ち、さらに斑点を増やしていく。

それは生々しく、言葉にできぬほど露骨に、ここが権力と欲望の場であることを示していた。

 

(……他国の外交官が来るというのに、この態度か)

 

外交官は無意識に奥歯を噛みしめていた。

舐められているのか、それとも――そもそも彼女らにとってはこれが“日常”であり、わざわざ改める理由すら持たないのか。

 

外交団の空気は凍りついていた。

誰もが目を逸らそうとしながらも、臭気と音と視覚が絡み合い、完全には遮断できない。

 

その瞬間、族長の片目が鋭く光った。

口元がわずかに吊り上がる。

それは微笑にも似ていたが、明らかに違う。

 

――ようこそ、我が縄張りへ。

 

言葉を発することなく、その眼差しがそう告げていた。

 

彼らは悟った。

これから始まるのは「会談」などという穏やかなものではない。

これは、支配と従属の境界を試される儀式なのだと。

 

外の光が激しく揺れ、竜人たちの影が床を舐めるように伸び広がる。

その中に立つ日本の一行は、異世界の現実に否応なく呑み込まれていった。

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