東京。
冷たい雨がアスファルトを叩く夜だった。かつて東アジアの中心であったこの都市は、今やどこか色彩を失い、ビル群の窓はまばらにしか灯りを残していない。ネオンサインはどれも擦り切れたようにぼやけ、雨粒の向こうで歪んで見えた。
かつて賑わいの絶えなかった繁華街も、今は沈黙を抱えたまま。路地裏の小さな酒場に集まるのは、ただ己の喉と心を焼く男たちだけだった。
店の片隅、乾いた笑い声が雨音に溶けた。
「聞いたぞ、西本。お前、今度の外交団の護衛小隊として出発するんだろう?」
カウンターに肘をつき、沈んだ目つきでグラスを弄んでいた西本が、短く息をつく。
「ああ……不安しかないがな」
低く絞るような声。その重さに、テーブルを囲む数人の男たちも黙り込む。煙草の煙がゆっくりと空間を満たしていく。
「でもまあ、いいじゃねえか」
隣の男…根本が無理やり空気を変えようとするように、軽口を叩く。
「俺たちは、あのトカゲ女共と何とか会話は成り立った。もしもあの接触試行作戦が失敗してたら……俺たちは異世界で初の戦争をやってたかもしれねえからな」
笑い声は続かない。冗談の温度もすぐに冷え、酒と同じように胃の底で鈍く沈む。
「まだ安心はできねえよ……奴らと俺達の妥協案が見つかるかどうかだ」
西本の声はしわがれていた。重苦しい空気を切り裂くでもなく、ただ石を落とすように沈んでいく。
「……まあ、そうだわな。それに、仮に前回の接触作戦や今回の外交が失敗に終わっても、政府は武力で戦略資源を獲得するだろうよ」
誰も反論しない。その現実が、既に自分たちの血肉になっている。自嘲気味な笑いが漏れる。
「……クソ。嫌な任務ひいちまった」
グラスを傾けた指先が微かに震えていた。壁の向こうで雨が絶え間なく打ちつけている。
「…しかし、疑問だな」
グラスを弄びながら、西本が低く呟いた。その声は煙草の煙と混じって、ゆるやかに空間へ溶けていく。
「何がだ?」
応じたのは、隣の席の男だ。誰もが沈黙を避けるように、答えを急ぐ。
「奴らの執着的な行動だよ。男性に対して免疫がないのか、それとも単純に珍しいだけなのか……」
西本の問いかけに、わずかに苦笑する気配がテーブルに伝わる。
「まあ、今現状の異種族たちを見るに……雄が希少なんでしょうね」
そう言ったのは大島、生態調査班に所属する男だった。どこか他人事のような口調が、不安をさらに重くする。
「希少、ねえ……」
西本は首を傾げると、大島に静かに視線を向けた。
「なあ、大島。生態調査班から見て、奴らの生態はどう思う?」
大島は一瞬黙り、グラスの中で揺れる氷を見つめる。
「どう、とは?」
「……俺たちSTFは、まだ東部地域しか新大陸の全容を掴めていない。西側の国家……まあ今のところ、1匹のドラゴニュートの情報でしかないが、もしも奴らの大規模な国家があった場合……俺たちは対話できると思うか?」
問いの芯にあるものは恐怖ではなく、むしろ確信だった。その静かな重みを受け止めて、大島がわずかに唇を噛む。
「……できないでしょうね。もし、彼女たちの価値観が、これまで接触してきた異種族と根幹的に変わらなければ……」
「おいおい。雄が少ないくらいで戦争なんかになるのかよ?」
根本が無理に笑いながら割って入ったが、大島はその声を冷静に切り捨てた。
「なりますよ」
短い返答。しかしその一語は、空間の温度をさらに下げていく。
西本は重ねて問いかける。
「……それは、なぜだ?」
大島は、グラスを置いたまま、静かに語り始めた。
「――まず、“雄が希少”という状況そのものが、彼女たちの社会構造を根本から規定しています。たとえば、我々の地球でも、繁殖の要となる個体――つまり雄や雌が極端に不足した種では、種族そのものが存続の危機に立たされる。とくに、社会性を持つ哺乳類や鳥類では、性別の希少性は即ち資源、富、権力の象徴と直結します」
「生殖に関わる個体が圧倒的に少なければ、群れや国家全体が、その“希少な性”を奪い合い、守ろうとする。時にそれは暴力的な形――すなわち、戦争という集団的行動に発展する」
重い沈黙が落ちた。
「……考えてください。あの東部の竜人たちの社会が、雄の希少性を軸に回っているとしたら?雄を確保することは、そのまま“国家の命脈”とイコールになるんです」
「いや、それにしたって……」
根本が食い下がる。
「生殖のためだけで……?」
「“生殖”は、生き物の存在理由そのものです」
大島の声は、冷たく乾いていた。
「たとえば、地球上の一部の動物では、繁殖期になると血みどろの争いが起きます。たった一匹の雌や雄を巡って、群れ全体が血を流すこともある。社会性の高い種ほど、戦争は個体間のものから集団間のものへ、そして国家間のものへと肥大化します。」
そんな中、根本が渇いた声で疑問を投げた。
「だけどよ……現に、東部の部族たちとは交流が成功したんだろ?」
短い沈黙ののち、答えたのは西本だった。その言葉には、わずかな苦味が混じる。
「あれは……イレギュラーがいただけだ」
「イレギュラー?」
西本は頷き、表情を曇らせた。
「初接触の時、偶然にも――“交渉の場にいた雌個体”が、言葉を話せる個体だった。それだけの話だ。もし、もっと攻撃的な種や、雄に執着する勢力が先に現れていれば、俺たちの誰かが攫われて、血が流れていたかもしれない」
大島は、その言葉を補うように静かに続けた。
「……あの交流がなければ、どちらにせよ争いが起こるのは遅かれ早かれ同じでしょうね。どれだけ交渉が進もうと、根本的な“価値観”のズレは、埋められるものじゃないですから。」
重い空気が席を包み込む。やがて、大島が新たな疑問を口にした。
「しかし……疑問なのは、“異種族全体で”、人間の男性に対してあそこまで執着的な点ですね」
西本が頷く。
「通常、生物は異種間での生殖なんて、本能的に拒むものだからな。」
大島は静かに首を振った。
「……そこの点が、“異常”なんです」
彼の語り口は、冷えきった空気の中でも、なお鋭さを増していく。
「本来なら、動物も人間も、自分たちと同じ遺伝的特徴を持つ相手――“同種”の個体にしか、強い繁殖欲求を抱かない。それなのに、あの世界の“異種族”や部族たちは、明らかに“異種”である我々――つまり人間の雄に、異常なまでに執着を見せている」
「なぜだと思う?」
西本がぽつりと問う。
大島はゆっくりと息を吐き、科学者としての冷静さを保ったまま答えた。
「……まあ、これは私の仮説に過ぎませんが」
西本が眉を上げる。
「何だ?」
大島は一呼吸おいて続けた。
「仮に――異世界全体で男女比、つまり“雄”が極端に少ないとした場合。
種族が生き残るためには、自分たちの雄だけで繁殖を続けるのは困難になる。そうなると“異種の雄”を取り込むことで、何とか血統をつないでいく――そんな適応を、進化の過程で選んだ可能性があります」
根本が唸る。
「……そうなると、なぜ奴らは、他の種族の特徴を持たないんだ?本当に異種と交配しているなら、混血種がもっと現れてもおかしくないだろう?」
その問いかけに、大島は小さく頷きながら、重い口を開いた。
「……そこが“ネック”なんですよ。生物学的に見れば、“性”が極端に偏る集団は、どこかで種としての存続に限界が来る。雄がほとんどいないなら、繁殖機会が奪われ、やがて遺伝的多様性が失われて、滅びの道を歩む……本来なら、そうなるはずなんです」
「だが現に、奴らは…」
大島は、ゆっくりと首を振った。
「……おそらく、“遺伝子”の仕組みそのものが、我々とは異なっているのでしょう。たとえば――異種間で繁殖が成立しても、“母体側”の遺伝情報が圧倒的に強く発現する。父親がどんな種でも、生まれてくる子はほとんど母親の種族の特徴を受け継ぐ……そういう“偏り”があるのかもしれません」
誰もが静かに、大島の言葉を待つ。
「……つまり、彼女たちは“雄”であれば異種でもいい。ただし、生まれてくる子は“自分たちの種”として、血を引くことになる。この仕組みなら、雄を巡る奪い合いが絶えず、種としての外見や社会は維持される。そして、繁殖の“相手”が他種であっても、その痕跡はほとんど残らない……」
根本が、わずかに口を開く。
「それでも……“性”が偏れば、その種族はやっぱりどこかで破綻するんじゃないのか?」
大島は苦く笑い、酒を一口あおった。
「ええ……そうです。“性のアンバランス”は、どこかで臨界点を迎えます。それを無理やり押しとどめているのが、今の“異世界の歪んだ社会”なんでしょう」
「……つまり?」
「……滅びを回避するために、“本来なら禁忌である異種交配”に手を出し、それすら制度として組み込むことで、命脈を繋いできた……そういう社会そのものが、いつ崩壊してもおかしくないということです」
誰も言葉を挟めなかった。
酒場の空気はますます沈み、外の夜風がガラス窓を微かに震わせた。
「……何かが間違えば、“世界ごと滅ぶ”。そんな綱渡りの上に、この世界は立っているのかもしれません」
そんな言葉を残して大島は外を見る。
酒場の窓の外には、東京の夜がじっとりと滲んでいた。ネオンの残照はすっかり鈍り、どこか湿った闇が、地面と人の隙間に這い寄っていた。
グラスを持った大島が、ふと苦笑いを浮かべる。
「まあ……これはあくまで仮説の話ですよ。解剖できれば手っ取り早く分かるんですけどね」
根本が、眉間に深い皺を寄せて大島を睨む。
「……お前……どこまで本気か分からん奴だな」
西本は苦い顔でグラスを傾ける。
「まあまあ……西本さん、どうかお気をつけて。彼女たちの価値観は、私たちとは乖離しているはずですから」
根本も、酒の気を借りているのか、声の奥に重い響きを残して言葉を継いだ。
「西本…お前が無事に帰ってくることを祈ってる。……帰ってきたらまた飲もうぜ」
西本は肩を竦める。
「お前らな……お前たちの方こそ大丈夫なのか」
根本はグラスを持ち直し、隣の大島を見る。
「俺はこいつと北海道に行くからな。こっちは、ハーピーの拉致事件の追加調査だ」
大島がわずかに目を細める。
「ええ……現場から興味深い話が流れてきています。実際に被害者の証言も、解剖とは別の“真実”を運んでくれるでしょう。」
酒の匂いとたばこの煙が、誰もが黙り込む時間の隙間にじわりと滲みこんでいく。
「……互いに気をつけてな。」
言葉が落ちると、しばしの沈黙が流れた。
まるでこれから東西に分かれる彼らが、それぞれの夜へ溶けていくのを、互いに確かめ合うような無言の間。
外の闇は深く、湿った東京の夜気が窓の隙間から染み入ってくる。
未知の世界で、誰が無事で帰れるのか――
誰にも、答えはなかった。
ただグラスの縁に、互いの影がわずかに揺れているだけだった。
ーーー
新大陸東部地域。
昼下がりの村は、湿った熱気のなかに緊張したざわめきを孕んでいた。
高床式の住まいの縁側――白く焼けた木の床板に腰を下ろす西本隊長は、視線を遠くの広場へ投げていた。村の中央では、竜人たちが慌ただしく立ち働いている。巨大な鍋が据えられ、獣の肉が薪火の上で煙をあげる。彩り豊かな果実や芋が運ばれる。
空を切る尾の音。鱗のきらめきが陽光を受けてまぶしく反射する。
外交団を迎えるための祭り――その準備が、村全体をどこか浮き足立たせていた。
しかし、縁側の空気だけは異質に沈んでいた。
木の柱に背を預けた西本は、タバコを弄びながら、息をつくようにゆっくりと煙を吐いた。その顔には安堵も期待もなく、ただ慎重な憂いが影を落としている。
「ーーー長。西本隊長。」
静かに隊員が近づく。まだ陽は高く、影も短い。
「……どうした?」
隊員は一歩踏み出し、祭りのざわめきを背に西本へ問いかける。
「どうしたんですか?タバコ吸いながら、ぼーっとして……」
「……ああ、ちょっとな……」
西本は煙を吐き、視線を戻さずに答える。
「それよりも、良かったんですか?」
隊員の声には僅かな緊張が混じっていた。
「……近藤のことか。」
「はい。一人で行かせて……もし何かあったら」
遠くでは、竜人の若者たちが火を囲み、声高に笑い合っている。その間にも村の女たちが食器を洗い、小型の獣人が新しい飾りを縫っている。平和そのものの風景。しかし、そこに潜む異質な価値観と危うさを、隊員も西本も知っていた。
「……大丈夫だろう。奴らが血迷うようなことは起こらんさ。……それに、近藤も何か“任されている”ようだしな」
隊員はわずかに表情を曇らせる。
「それは、一体……」
西本は口を噤み、しばし言葉を探した。
「……あいつは、俺たちには見えないものを背負ってるんだろう。自分の意思で一人になった。その理由は――きっと、俺たちにとっても、国にとっても大きい」
遠くで祭りの太鼓が鳴り始めた。
異種族が笑い、女たちが歌い、竜人たちが巨大な肉塊を串に刺して運んでいく。だがその賑やかさの裏に、明日を保証するものは何もなかった。
「……まったく、俺たちには何一つ分からない。何が危険で、何が儀礼か。……近藤が選んだことが正しいと信じるしかない」
柱に寄りかかる手が、じっと汗ばむ。
「……まあ…いざとなったら近藤を救出して、村から出ればいいだけだ。」
昼の強い陽射しのなかで、遠くの祭りの熱気と、縁側の静けさは不気味なまでに対照的だった。
西本はまぶしそうに目を細め、ゆっくりと空を仰いだ。
その瞳には、どこまでも重い、不安と覚悟が滲んでいた。
そんな中、外交官が高床式の住まいの戸口から姿を現した。木の階段を静かに降り、手元に握った書類の束を小脇に抱えたまま、広場の端で煙草をくゆらせる西本を見つけて、短く息を吐いた。
「西本さん……仮にも外交ですよ。それに、木造住宅の近くで煙草はご遠慮ください」
その声は努めて穏やかに装っていたが、抑えきれぬ苛立ちが混じる。
村の一角に漂う微かな煙の臭いが、どこか不穏な緊張感と結びついていた。祭りの準備に奔走する異種族たちの喧騒も、瞬間、遠ざかって見える。
西本は、肩越しに振り返り、唇の端でわずかに笑った。
「……お言葉ですがね、あの舐めた態度の族長相手に、こっちがひ弱じゃ話になりませんよ。どっしりと構えて、舐められないようにしないと」
タバコの先を軽く指で弾き、火種を落とす。
その仕草に、場馴れした兵士らしい不遜と慎重が同居していた。
外交官は眉を寄せ、地面に消えた灰の跡へ視線を落とした。
「……外交は態度だけの問題ではありませんよ。もちろん、毅然とした姿勢は重要ですが――相手は我々の言葉尻一つで、友にも敵にもなりうる。いくら“どっしり”しても、それだけで国の未来は守れません」
静かな言葉の奥に、積み重ねてきた交渉の重圧と、成果が一つも保障されない異世界の不確かさが滲む。
西本はその目を見据え、低く言葉を継ぐ。
「――ですが、相手はこちらを値踏みしている。あの族長の眼……あれは、単なる威嚇や虚勢じゃない。生き物として根本から違うんです。弱さを見せたら、即座に付け込まれる。それが骨身に沁みて分かる」
竜人たちの歓声のなか、陽光は容赦なく木の床を照りつける。
外交官は唇を結び、思案するように空を仰いだ。
「……そうですね。日本で教わった理屈や、これまでの常識がどこまで通じるのか……。今回の交渉は、私たちの想像を遥かに超えている。理性と覚悟、その両方が試される場なのでしょう」
「だからこそ、私たちはここにいる。あなた方も、私たちも――この村で、何が起きても、背筋を伸ばし続けなきゃいけません」
西本は煙草を揉み消し、静かに立ち上がった。
陽炎が揺らめく昼下がり。
重い沈黙のなか、異なる立場の者たちが、異世界という見知らぬ土壌の上で、無言のうちに互いの責務と誇りを確かめ合う。
「……じゃあ、次は何をすればいいですか、外交官殿?」
皮肉めいた問いに、外交官は僅かに肩をすくめて答えた。
「……彼女達を知ること。まずは、それが一番重要です。」
昼の陽射しが強く降り注ぐ中、彼らは再び、村の中心へと視線を向けた。
覚悟と緊張を、その胸奥に沈めながら。
ーーー
昼下がりの村は、祭りの準備で活気に包まれていた。竜人たちが荷を運び、食材を焼く煙が風に流れる中、その喧騒を割って現れたのは、アルザと近藤、そして数名のドラゴニュートの護衛だった。
陽光の下、二人の姿はどこか不自然な湿度を帯びていた。
アルザの額や首筋には汗がにじみ、濡れた髪が頬に張り付いている。口元には細かい毛が残り、ふとした拍子に舌で拭う様子が見て取れた。近藤もまた、襟元に汗の染みが広がり、歩みの中にわずかな重さを感じさせる。互いに目を合わせることなく、しかしどこか満ち足りた気配を滲ませている。
(……まったく、何かされたんじゃないかとヒヤヒヤしたが――これは“お楽しみ”だったか)
西本は胸中で呆れにも似た安堵を覚えつつ、二人をしげしげと見やった。
護衛の竜人たちは、彼らの背後に影のように従い、鋭い視線を四方に巡らせている。
護衛のドラゴニュートたちは、歩を進めるたび、太ももや尾の付け根――股のあたりから、汗とは明らかに異なる粘度の高い体液を滴らせていた。太陽に照らされて光るその液体は、腿を伝い、時に地面にぽたりと落ちる。熱気に蒸された空気の中、微かに甘く、獣臭の混じる異臭が漂い始める。
彼女たちの息は荒く、口元が濡れている。
額や首筋からも玉のような汗が流れ、肌の鱗にまで光沢を与えている。
そして、その双眸――。
真紅に充血し、瞳孔が大きく開いたその目は、まるで獲物を狙う猛獣そのものだった。
近藤が歩くたび、彼女たちは彼の汗ばむ首筋や腕をじっと凝視し、鼻先をひくつかせる。視線はいやらしく舐めるようで、飢えと渇き、そして熱情の入り混じった色が隠しきれない。
だが、彼女たちは近藤だけでなく、外交団の誰をも射抜くように睨みつけた。一行が近づくと、護衛たちの視線は一斉に外交官たちへと向かう。
その瞬間、獣のような本能が剥き出しになり、白目は赤く、唇の端には薄く泡立つ唾液が見えた。
吐く息は湿り、喉の奥で低く鳴る音が時折もれる。
外交官や護衛隊員たちは、その目に射抜かれ、思わず身じろぎした。
竜人の護衛たちが発する熱と匂い、そして何よりも“狙われている”という露骨な気配。
それは異文化の摩擦などという生易しいものではなく、種の根源に訴えかけてくる暴力的な飢え――“人間の雄”に向けられた、あまりにも本能的な欲望そのものだったからだ。
村人たちがちらちらと振り返り、遠巻きに見守る中で、広場の空気はじっとりと湿度を増し、どこか危険な、獣の唸り声が木陰でこだまするような緊張感を孕んでいた。
隊員達が警戒を込めた視線を投げかけるが、アルザの存在がそれを押しとどめていた。
「……隊長。遅くなりました」
そんな中、近藤が声をかける。
その声音はいつもより僅かに掠れていたが、しっかりと芯があった。
西本は口元に苦い笑みを浮かべ、静かに頷いた。
「……いや、大丈夫だ。それよりも、後で聞きたいことがある。落ち着いたら、な」
軽く釘を刺すような言い回しに、近藤は短く「はい」とだけ答えた。
アルザはそれを横目で見つつ、唇の端に僅かな笑みを浮かべる。喉の奥に残る熱が、まだ完全には消えていないらしい。
(……やはり、近藤は上層部から何か密命を帯びている。あの女――イレギュラーな存在についての、調査といったところか)
西本は、ちらりとアルザを見やる。
異種族の女の視線はどこまでも鋭く、同時に湿り気を帯びて艶めいていた。
その内奥にどんな欲望と策謀が渦巻いているのか、日本人には計り知れない。
祭りの準備を進める竜人たちの間に、微かなざわめきが広がる。
彼女たちの空気は、ただの異国情緒などでは片付けられぬ、動物的な熱と人知の狭間にあった。
「ふぅ……遅れてすまない。もうすぐ祭りが始まるみたいだし、案内しようか」
アルザは口元に残った毛を舌でなぞり、無遠慮な笑みを浮かべながら一行の前に立った。彼女の全身からは熱気と獣の匂いが溢れている。尾をくねらせ、明らかに昂ぶりを隠そうともしない仕草で一同を見渡した。
その言葉を聞いた外交官が、あくまで穏やかに問いかける。
「……ところで、どういった祭りなのですか?」
アルザはしばし考えるふりをし、肩を竦めて微笑む。
「うーん……雄を接待する祭りなんて、私たちも初めてだからねえ。今夜は“君たち”のために、料理と……特別なサービスを用意してる」
その「サービス」という単語に、彼女の尾が湿った音を立てて地面を撫でた。
さらに、隣にいたドラゴニュートの護衛たちは、股間から粘ついた汗のような分泌液を滴らせ、露骨に人間たちを舐め回す視線を送る。
充血した目つきで、一歩近づくたび鼻をひくつかせ、獣のように息を荒くしている。
外交官たちは明らかに息を詰まらせ、互いに目配せするが、アルザはそんな様子を面白がるように舌なめずりをした。
「まぁ、君たちは――喜ぶと思うよ?♡」
声の奥には、どこか粘ついた含みと、抑えきれぬ好奇心と熱情が混じる。
外交官たちは一瞬言葉を失い、表情を曇らせた。誰もが“接待”の中身に薄く不穏な影を感じ取りつつ、慇懃に頷いてみせるしかない。
「……それは、楽しみですね」
アルザは唇の端を吊り上げる。
「美味しい食べ物に、美味しい“種”も食べ放題だからね……ただし、君たちは“出す側”かなぁ?」
その下卑たユーモアに、外交官の頬が引き攣る。人間の常識では考えられないほど露骨な“種”という単語が、異文化の違いを突きつける刃のように鋭く響く。
「……」
そこに、隊長の西本が歩み寄ってくる。
彼は険しい表情のまま、アルザと護衛のドラゴニュートたちを正面から睨みつけた。
「……接待はありがたい。しかし、こちらの外交官や護衛に何かあれば、相応の処置を取る。……その点、誤解のないように願う」
その言葉は鋭い氷の刃のようで、周囲の空気を僅かに引き締める。
アルザは瞬きもしないまま、わざと大袈裟に手のひらを上げてみせた。
「誤解しないでくれよ。来賓を襲うバカなんて、この村にはいないさ。……君たちは“歓迎される雄”なんだから」
しかし、その言い回しのどこかに、あくまで“保証はできない”という薄暗い含みが滲んでいた。
村の片隅、獣じみた充血の目が、祭りの準備に奔走しながらも、時折じっと人間たちの動きを伺っている。
異国の空気と文化の「隔たり」が、息苦しいほど重く、湿度を増して広がっていた。
外交団は互いに小さく頷き合いながら、内心で神経を研ぎ澄ます。
祭りの熱気と欲望のざわめきに包まれたこの夜が、単なる宴で終わるのか――それとも、全く別の「何か」へと変わるのか。
誰にも分からぬまま、時間は静かに流れ始めていた。
ーーー
アルザは、祭りのざわめきと煙が立ちこめる中、ずかずかと歩く足を止めて近藤の脇へ手を伸ばした。分厚く硬い指先が、ためらいもなく彼の身体を引き寄せる。
「はぁッ……♡」
アルザはわざとらしく深く息を吐き、吐息が近藤の耳元にまとわりつく。彼女の手は遠慮なく脇腹に食い込み、そのまま体ごと自分の胸元へ引き寄せた。
「ねえ、近藤。正直に言うとね……君たち群れ…『国』か。まあ…羨ましくてたまらないんだ……本当に何で、雄があんなにぞろぞろいるんだい?考えただけでムカついてきてさ……」
アルザの腕の中で、近藤の体が逃げ場を失い、彼女の息と匂いと熱にまみれていく。
「だから――祭りの最中も、しっかり楽しもうね?隣でね…」
低く濁った囁きが、耳朶をいやらしく舐める。彼女の舌は近藤の首筋に這い寄り、唾液をべっとりと塗りつけながら言葉を続ける。
「……君もまだまだ私に聞きたいことがあるんだろ?なぁ、どうだ。今夜は、飽きるまで何でも付き合ってやるからさ……」
アルザの手は、彼の脇腹から尻へと滑り落ち、ぐいと握りしめた。人目も憚らず、指で肉を引きちぎるように揉みしだく。周囲のドラゴニュートたちが、下卑た笑い声をあげて見ている。
近藤はその無遠慮な支配の手を振りほどこうとはせず、しばしの逡巡の末に、ぽつりと応じた。
「……いいだろう」
その言葉を聞いたアルザの顔は、いやらしい笑みで歪む。長い舌を歯茎ごと舐め、鼻先から熱い息を吹きかけてきた。
「……っは、素直でよろしい」
彼女は近藤の尻を撫で回しながら、肉食獣そのものの視線で彼を見下ろし、下卑た声を漏らした。
「……さ、行こう。本当に楽しみだねえ…♡」
外交団の周囲には、祭りの歓声と、ドラゴニュートたちのねっとりとした熱気が充満し、どこまでも下品で淫靡な空気が渦巻いていた。