とあるニュース
朝の目覚めは、以前よりもずっと重たい。
枕に沈んだままの頭を持ち上げるのに、少しの勇気が要る。窓の外から射し込む光は、異世界に来てからも変わらず淡く、しかしどこか澄みすぎていて現実味が薄い。
鳥の声が聞こえる。だがそれが元の世界にいたスズメやカラスなのか、この世界特有の名も知らぬ鳥なのか、俺にはもう区別がつかなくなっている。
遠くでは風を切るような低い音がした。誰かが農耕用の重機を始動させたのだろう。
布団から身を起こす。冷えた空気が頬を撫で、肺に入ると少し痛む。
昔は通勤電車に押し込まれるために慌ただしく目を覚まし、出勤時間に追われていた。今は違う。会社というものはもう存在せず、俺もスーツを着ることはない。
代わりに着るのは、支給された作業服。
厚手で無骨な生地に、簡素な縫製。胸元には小さく「農地拡大事業」の文字が刻まれたパッチが縫い付けられている。袖を通すたびに、個人ではなく「国の一員」としての重さを思い知らされる。
洗面所で顔を洗うと、古びた鏡に疲れの滲む顔が映った。
異世界に転移してからどれだけの日が過ぎただろう。
最初の混乱、買い占めや暴動寸前の騒ぎ、政府の緊急会見……それらを経て、今は「農業こそが生き残る道だ」という共通の認識が国民に根づきつつある。
俺は幸運なのだろう。
職を失っても、いまの仕事を与えられた。耕し、種を蒔き、国を食わせる一助となる。
農地拡大事業――日本という国がこの異世界で生き残るために開始した、最大の国策。
北海道の広大な大地は、その象徴だった。
かつて観光客で賑わった牧場も、温泉街も、いまでは政府の号令のもとで森を切り開き、畑とするために動員されている。
夜明けと共に動く重機の音、仮設住宅に並ぶ作業員、配給の食料を分け合う人々。すべてが「生存のため」という一点で束ねられていたのであった。
───
台所に立ち、昨日の夕方に配給所で受け取った包みを開く。
パンとわずかなバター、それに缶詰の野菜スープ。かつてコンビニで気軽に買えた弁当や総菜を思えば、これはずっと質素で、不便だ。だが今となっては、この小さな配給が日々を支える唯一の糧だった。
皿にパンを移し、スープを鍋に開けて温める。弱火にかけると、かすかに漂う塩気が空腹を刺激した。
食欲というより、義務のように口へ運ぶ準備をする。
手が止まる。
「……そうだ」
俺はリモコンを手に取り、テレビのスイッチを押した。
衛星は異世界転移の瞬間にすべて沈黙した。
空に浮かんでいた人工の眼は失われ、GPSも衛星放送も、もう二度と届かない。
だが地上波は生き残った。電波塔が健在である限り、国内で流れる映像はまだ俺たちに現実を繋いでくれる。
画面が灯る。青白い光が部屋を照らし、アナウンサーの落ち着いた声が流れ込んでくる。
『──本日未明、北海道および北陸沿岸部において、未確認飛行生物の目撃情報が相次ぎました……』
箸をスープに差し込みながら、俺は耳を傾ける。
テレビの音声は、かつてと同じようにニュースを伝えている。だが内容は、あまりにも異質だった。
『政府はこの生物を仮に《ハーピー》と命名し……』
湯気の立つ鍋の前で、俺は一瞬、時間が止まったように動けなくなった。
支度を進める手は確かに動いているのに、耳に届く言葉だけが別世界の産物だった。
「……ハーピー……?」
つぶやきは湯気に吸い込まれ、かすかに揺らいで消えていった。
そしてスープを口に運ぼうとした瞬間、画面が切り替わった。
「ここで現場からの中継です」というキャスターの声が、室内の空気をさらに冷たくさせる。
映し出されたのは、夜明け間もない港湾の風景だった。
だがそこに広がる光景は、かつて見慣れた漁港の穏やかさとはまるで違っていた。
埠頭には自衛隊の車両が列を成し、迷彩色のトラックや軽装甲機動車が規律正しく並んでいる。照明車から放たれる強いライトが、まだ白んでいない空を切り裂き、埠頭一帯を昼のように照らしていた。エンジン音と発電機の低い唸りが絶え間なく響き、空気は緊張で張り詰めている。
その光の中を忙しなく動いているのは、特地調査部隊――STFの隊員たちだった。
彼らは迷彩服とは異なる深緑色の作業服を身にまとい、背中には大きく「STF」の白抜き文字。動きには慣れが感じられ、誰一人として無駄な仕草を見せない。
三脚に高性能のカメラや赤外線センサーを据え付け、地面を這うようにケーブルを接続していく。別の隊員は銀色のコンテナから未知の測定装置を取り出し、慎重に海風にさらしていた。
記者の声が混じる。
『ご覧いただいているのは、青森県の漁港です。現場にはご覧のように自衛隊の車両が展開し、STFが観測機材を設置しています。彼らは、目撃が相次ぐ未確認飛行生物《ハーピー》の行動を分析するために派遣されました』
カメラがふいに上空を映す。
まだ夜の名残を残す灰色の空を、黒い影が掠めた。大きな翼が一瞬だけ朝の光を遮り、漁港に影を落とす。
その瞬間、隊員たちの動きが一斉に止まる。
誰もが空を見上げ、端末を操作する手がわずかに震えた。
画面は再び地上に戻る。STF隊員の一人が無線に短く報告し、指揮官らしき人物が頷く。
小銃を携えた隊員たちは車両の影に散開し、万一に備えて周囲を警戒していた。
『ハーピーは人間に距離を保ちながらも、接近する傾向を見せているとの証言が相次いでいます。現場は極めて緊張した空気に包まれています』
記者の声は少し上ずっていた。
画面に映る隊員の横顔は汗に濡れ、だが視線は一瞬も空から離れない。
次の瞬間にも、あの影が降りてくるのではないか――そんな予感が漂っていた。
テレビの前でパンを噛みしめながら、俺は自分の呼吸が速くなっていることに気づいた。
「……異種族か。いよいよ日本にも来たか」
そう口にしてから、自分の声がやけに乾いていることに気づいた。
テレビの画面では、羽音を響かせる黒い影がリプレイ映像のように流れ続けている。アナウンサーの抑えた声色と、STFの隊員たちが慌ただしく機材を設置する姿。すべてが現実のものとは思えなかった。
思えば――ドラゴニュートとの接触を伝えるニュースから、もう久しい。
異世界に転移して以降、政府が最初に「人ならざる存在」として正式に発表したのは、あの竜の血を引くとされる種族だった。
巨大な体躯、鱗の輝き、獣とも人ともつかない姿。
映像越しに見た彼女たちの存在は、日本人の常識を根こそぎ覆した。だが、あまりにも遠い地での接触であったため、俺たちの日常を揺るがすものにはならなかった。
だが今、画面に映っているのは港町の屋根、見慣れた住宅の上だ。
『──ハーピーは一定の距離を保ちながらも、人家の屋根や倉庫の上に留まる行動も確認されています。もし目撃された方は、決して刺激しないようお願いいたします』
キャスターの声に合わせて流れる映像。
青い屋根の上、翼を畳んだ影が静かに佇む。逆光に照らされた頬の線は、驚くほど整っていて、まるで人間の女性の横顔のように見えた。
ドラゴニュートのときには覚えなかった、奇妙な生々しさがあった。
彼女らは遠い存在だった。だがこの翼を持つ異種族は、確かに「俺たちの暮らしのすぐ隣」に現れている。
胸がざわつく。
それでも俺は作業服の袖を通し、靴ひもを結び、黙々と支度を続けた。
これは正常性バイアスなのか、それとも生きるために構っている暇がないだけなのか、自分でもわからない。
弁当箱に配給のパンを詰め、冷めかけたスープ缶を鞄に入れる。
玄関に立ち、深く息を吸った。
異世界の生物が屋根に降り立とうと、ドラゴニュートの記憶が風化しようと、俺の朝は畑に向かうところから始まる。
───
「あ、洗濯物……」
準備をしていた手を止め、ふとベランダに目をやった。昨日干したままの作業服が風に揺れている。出勤前に取り込んでおくか――そう思ってガラス戸を開けた瞬間、胸の奥にひっかかるような違和感を覚えた。
視線の端に、何かがあった。
向かいの家の屋根の上。最初はカラスだと思った。なにかの影がじっと動かずに留まっている。だが……いや、違う。
「……でかい」
鳥のはずがない。肩幅がある。翼の付け根から流れる羽毛が風をはらみ、屋根瓦に影を落としている。
そのシルエットは、あまりに人間に似すぎていた。
「……でかすぎる……」
背筋を氷の針で突かれたような感覚に襲われる。
その瞬間、脳裏をよぎった言葉が口から迸った。
「ッ……ハーピー!?」
自分でも制御できない声だった。
驚愕と恐怖が混じり、喉から絞り出された声は、朝の静寂にひどく浮いて響いた。
そのときだ。
向かいの屋根にいた“それ”が、まるで俺の叫びを理解したかのように、ゆっくりと身体をこちらへと向けた。
最初に胸を衝いたのは、恐怖ではなかった。
目の前の“それ”を見て、俺が感じたのは――美しさ、だった。
屋根の上に佇むその姿は、人間の女のように均整のとれた肢体を持ちながら、皮膚の一部は柔らかな羽毛に覆われている。胸も腰も隠しきれてはおらず、わずかに羽毛の隙間から露わになる裸体は、羞恥を知らぬ野性のまま俺の視線に突き刺さった。
光を浴びるごとに、白磁のような肌と黒々とした羽毛のコントラストが浮かび上がり、理性よりも先に本能を刺激してくる。
彼女は、逃げることも隠れることもなかった。
むしろ舞台の上に立つような自然さで、己の身体を惜しみなく晒している。
そして、長い翼の先を器用に動かしながら羽毛を整えていた。
その仕草は鳥が羽繕いをするそれと同じはずなのに、どうしようもなく艶やかで、胸の奥をざわめかせる。
ゆっくりと腕――いや、翼を撫で上げるたび、二の腕に近い部分の柔らかな肉が小刻みに震える。
身体をわずかにひねるだけで、腰のラインに沿った羽毛がふわりと揺れ、その下の滑らかな肌が覗く。
胸元の羽毛が風に流れると、その奥で膨らみが波のように揺れ、たぷん……と重たい質感を見せつけた。
視線が逸らせない。
理性は「見るな」と命じているのに、野生の眼はどうしてもそこに縫いつけられてしまう。
彼女の動くたびにぶるぶると震える柔肉は、まるで俺をからかうように朝の光を浴び、いやらしい影を生み出していた。
彼女は羽根を整える仕草をやめると、まるで舞台に立つ踊り子が観客の反応を待つかのように、わずかに首を傾げた。
その瞬間、濡れたような瞳が細まり、俺を映したままゆっくりと瞬きをする。
あれは猛禽の睨みではない。獲物を威嚇する眼差しでもない。
媚びるように、甘えるように――自分を見てほしいと訴える雌の視線だった。
「……ぁ」
声にならない吐息が窓越しに漏れた。
彼女はそれに応えるように、唇をわずかに開いた。
高く澄んだ声ではなく、意外にも人間の女に近い、柔らかく湿った響きが空気を震わせる。
それは言葉というより、囁き。
意味を持たぬはずなのに、「こちらへ」「私を見て」と確かに呼びかけているのが伝わってくる。
翼の端を小さく揺らし、肩を竦めるようにして身をくねらせる。
その動きに合わせて、豊かな胸元の羽毛がさらりと流れ、下の柔肉が重たく波を打った。
まるで“誘い水”のように揺れるその動きが、視線を絡め取って離さない。
腰をわずかに落とし、背を丸める仕草は、鳥の求愛にも似ている。
けれどその形はあまりに人間的で、女そのものの艶めかしさを孕んでいた。
屋根の端に座り込み、膝を寄せる。
そして、翼の一部を前に垂らすようにして、俺を覗き込んだ。
まるで「怖がらないで」「私は敵じゃない」と訴えるような、甘える子供のような目つき。
だが同時に、その奥底には猛禽の鋭さではなく、雄を欲する雌の執着が灯っていた。
呼びかけは止まない。
喉を鳴らし、低く湿った音色をこちらに投げかける。
それは心臓を直接撫でるような声で、俺の呼吸は浅くなり、足先にまで熱が広がっていく。
甘やかで媚びる声が、距離を越えて鼓膜をくすぐり、身体の芯を溶かしていく。
理性は必死に告げる。
「カーテンを閉めろ。目を逸らせ。危険だ」
しかし本能は、それ以上の強さで囁いていた。
「もっと聞きたい。もっと見たい。応えてやれ」
彼女の翼が、ゆっくりと持ち上がる。
広げられたそれは、ただの羽ばたきではない。
求める者が腕を広げ、抱きしめを待つ姿にしか見えなかった。
その時だった。
怒鳴り声が、突然、地を震わせた。
「──上だッ!屋根にいるぞ!!」
「みなさん、近づかないでッ!下がってください!」
窓越しに耳へ飛び込んできたのは、警官の切迫した声。
次の瞬間、遠くでざわめいていた人々の声が、一気に鋭く収束するのが分かった。
俺は思わず下を覗き込む。
そこには制服姿の警官たちが数名、拡声器を構えて周囲に必死に声を張り上げていた。
その後ろには規制線などまだ張られていないせいか、野次馬たちが群れをなしていた。
子供を連れた主婦らしき者、スマートフォンを高く掲げる若者、口元に手を当てて見上げる老人――
誰もが同じ方向を見ている。つまり、この窓の向こう。俺の目の前。
「……ッ」
視線を戻すと、ハーピーは変わらぬ姿勢で屋根に留まり、しかし眼差しだけは下の喧噪へと向けていた。
彼女の瞳がかすかに細まり、嘴に似た唇が震える。
まるで幼子が叱られた時のような、戸惑いと不満の混じる色が宿っている。
だが次の瞬間、翼がゆっくりと大きく持ち上げられた。
「お、おい……飛ぶぞ!」
「危ないから下がって!」
野次馬の中から悲鳴が上がる。
警官たちは必死に手を振り、群衆を押し下げるようにして叫んでいた。
その声を背に、ハーピーは名残惜しそうにこちらへ一瞥を残す。
瞳が絡み合い、ほんの刹那、何かが伝わったような錯覚に胸を締め付けられる。
そして――翼が大きく打ち下ろされた。
屋根瓦が震えるほどの羽ばたきが響き、周囲の埃と枯葉が巻き上げられる。
巨大な影は、風を裂く音を残して空へと舞い上がった。
残されたのは乱れる空気と、野次馬のどよめき。
彼女の姿は、あっという間に薄雲の向こうへ消えていった。
俺は窓際に立ち尽くし、心臓の早鐘を抑えられないまま、その空白を見つめていた。
ほんの数分前まで、あの生き物は確かに手を伸ばせば届く距離にいたのだ。
そして確かに、俺に何かを訴えかけていた。
下からはまだ警官の怒号が響く。
「安全が確認されるまでは離れてください!」
だがその声すら遠く、胸の奥でまだ羽ばたきの余韻だけがくすぶり続けていた。
───
窓際でまだ呆然と立ち尽くす俺の背後で、テレビの音声が途切れ途切れに耳へ流れ込んでくる。
アナウンサーの声は努めて冷静さを装っているが、どこか硬質な緊張がにじんでいた。
『……繰り返しますが、ハーピーは上空を旋回しながら人間に接近する傾向があるとの報告が相次いでいます』
思わず振り返る。
画面にはスタジオの映像が戻っており、キャスターの隣には専門家と見られる防衛大学校の教授が座っていた。
テロップが無機質に流れ続ける。
《国民の皆様はできるだけ開けた場所を避け、複数人で行動してください》
アナウンサーの声はさらに続く。
『また、防衛省はこの騒動に対して、自衛隊による市街地および近郊地域でのパトロールを実施する予定です。詳細については本日午後、防衛大臣の会見で発表されるとのことです』
教授のような人が口を開いた。
『現状では人間への直接的な攻撃行動は確認されていませんが、個体によっては強い執着を示す場合があります。長い間、周囲を旋回された場合はより強く警戒すべきでしょう。』
背筋をひやりとしたものが走る。
つい先ほどまで、まさに自分がその「執着」を受けていたのではないか。
テレビの中の声は、まるで俺の状況を知っているかのように警告を発し続ける。
『国民の皆様には、落ち着いて行動されることをお願い申し上げます。繰り返します、開けた場所を避け、複数人での移動を心がけてください』
画面の隅には、小さな枠で再び港の中継映像が流れ始める。
そこには依然として自衛隊車両が並び、STFの隊員たちが映っていた。マイクを握る記者の声がかぶさる。
『現場周辺では今も警戒態勢が続いています。専門家によりますと、群れをなす可能性も指摘されており、自治体も住民に注意を呼びかけている状況です』
俺はしばらくテレビと窓を交互に見つめた。
つい数分前まで屋根の上にいたあの存在が、今やニュースの中で「国民全体の危険」として語られている。
だが俺の脳裏に焼きついて離れないのは、彼女が最後に見せた、あの名残惜しげな瞳の輝きだった。