STF前哨基地の一角――
そこは、もともと観測資材と応急医療用品の仮置きに使われていた区画を改装した場所だった。
基地本体からやや外れた、半ば独立したような位置にある建物。その南側の一面だけが大きくガラス張りになっており、外からでも内部の様子がある程度見える構造になっていた。完全な医療棟でもなければ、恒久的な宿舎でもない。
鉄骨と簡易壁材で急ごしらえされたその区画は、前哨基地らしい無骨さを残しながらも、今は明らかに別の役割を与えられていた。
『保護区画』
件のハーピーの襲撃現場から救出され、STFによって護送された犬人たちが、いまそこに集められていた。
朝の光はまだ弱く、山際の薄い雲を透かして光は差し込んでいた。ガラス面には外気との温度差でわずかに曇りが生じ、内部の様子を少しだけ柔らかく滲ませている。
だが、中の空気は前に比べてずいぶん変わっていた。
最初にここへ運び込まれた時、犬人たちは文字通り『固まって』いた。
誰かの足音がしただけで身をすくめ、物が落ちる音に耳を伏せ、扉の開閉だけで数匹がいっせいに壁際へ逃げ寄る。
食器を差し出しても怯え、毛布をかけても震え、仲間の身体に爪を立てるようにしがみついて離れない。夜になれば眠るどころではなく、物陰に押し込まれるように身を寄せ合い、目だけをぎらつかせて朝を待っていた。
だが、いまの彼女たちは違った。
まだ傷が残り、包帯を巻かれた腕。歩くたびに足を庇う仕草。耳の先を裂かれた個体。肩口から胸にかけて毛並みが不自然に刈られ、治療痕を残している者もいる。完全に元通りになったわけでも、恐怖が消えたわけでもない。
それでも、その表情には確かに『変化』があった。
区画の床には断熱マットが敷かれ、その上に毛布や簡易寝具が整然と並べられている。壁際には低い棚が置かれ、洗浄済みの食器、替えの衣類、包帯、温水入りのポット、子ども向けに作られた木製の玩具まで並んでいた。
暖房機器の低い唸りが空気を緩め、消毒液と獣臭と温かい食事の匂いが、運び込まれた当初よりずっと穏やかに混じり合っていた。
その空間の中心にSTF隊員である、朝比奈隊員がいた。
彼女は大きな配膳用コンテナを両手に抱え、区画の中央に立つと、いつもの明るい声で呼びかけた。
「みんな!ご飯だよ!」
一言。
犬人たちの耳が、ぴくりと立つ。
それは一匹や二匹ではなかった。毛布にくるまっていた個体、壁際で仲間に寄りかかっていた個体、まだ寝起きのぼんやりした顔をしていた小柄な犬人まで、いっせいに顔を上げる。
警戒でも、怯えでもない。はっきりとした期待と、そして知っている声に対する『安心』だった。
次の瞬間、区画の空気が一気にほどけた。
小さな足音がぱたぱたと床を鳴らす。
毛布の上から身を起こした若い犬人が、隣の仲間の肩を揺する。
奥のほうにいた子どもらしい個体が、思わず立ち上がって尻尾をぶんぶんと振り、それを年長の犬人に軽く引き戻されている。
そして――
笑い声が上がった。
甲高く、けれど怯えの混じらない声。
最初はひとつ。次にもうひとつ。誰かが慌てて前へ出ようとして足をもつれさせ、それを見た別の犬人が吹き出したのだろう。つられるように、あちこちで小さな笑いが生まれる。耳が揺れ、尻尾が跳ね、何匹かは器用に手を叩くような仕草まで見せた。
それは、前哨基地に連れてこられた直後の彼女らからは想像もできない光景だった。
朝比奈はその反応を見て、ぱっと顔を綻ばせる。
「はいはい、慌てない慌てない。ちゃんとみんなの分あるからね。今日は温かいの多めだよ」
彼女は膝を折って目線を落とし、一匹ずつに器を手渡していく。
上から押しつけるのではない。取れる高さ、届く位置、受け取りやすい角度を知っている手つきだった。
包帯を巻いた若い犬人が両手で器を受け取る。
その隣では、まだ幼い顔立ちの個体が湯気に鼻先を寄せすぎて「熱っ」とでも言うように身を引き、それを見て周囲がまた笑う。
少し離れた場所では、年長の犬人が自分の分を受け取る前に、怪我の重い仲間を先に前へ押し出していた。
ーー明るい。
たしかに、ここへ来た時とは比べものにならないほど、明るかった。
ガラス張りの外側、まだ朝の冷気が残る通路に、二人の隊員が立っていた。
ひとりは吉田隊長。
もうひとりは、まだ若い隊員だった。
二人ともガラス越しに中を見つめている。中からは朝比奈の朗らかな声と、犬人たちのはしゃぎすぎない、けれど明らかに楽しげなざわめきが聞こえてくる。その光景をしばらく黙って見ていた若い隊員が、やがてぽつりと呟いた。
「……ここに来た時とは見違えますね」
吉田は腕を組んだまま、短く鼻を鳴らした。
「ああ…ひとえに朝比奈のお陰だろ。あいつは明るいからな」
言い方はぶっきらぼうだったが、その目はガラスの向こうの光景から離れなかった。
朝比奈が器を配るたびに、犬人たちの耳がぴこぴこと動く。尾が揺れる。誰かが小さく笑えば、その空気が隣へ伝わっていく。まだ傷はある。まだふとした瞬間に身を竦める癖も残っている。
だが、それでも彼らは確かに“朝を待てる人々”に戻りつつあった。
若い隊員は頷きかけ、それからまた口を閉ざした。
だが、胸の奥に引っかかったものは、そのまま消えてはくれなかったのだろう。
ーーやがて、低い声でぽつりと漏らす。
「……吉田隊長。俺たちはこのことまで非公開にしなければならないんですか?」
吉田はすぐには答えなかった。
ガラスの向こうでは、幼い犬人がスープを急いで口に運びすぎ、熱さにびっくりしたように身を引いていた。それを見た隣の犬人が吹き出し、また小さな笑いが広がる。
そのあまりに穏やかな光景と、問いの重さが噛み合わない。
「……さあな。俺も上がどこまで考えてるかなんてわからんからな。」
若い隊員は唇を噛んだ。
「あれは……いえ、彼女たちが受けた被害は……あまりにも……」
それ以上、言葉が続かなかった。
谷に散っていた血。
羽毛の舞う上空。
裂かれた身体。
仲間の死体にしがみつき、声も出せず震えていた小さな身体。
あの現場を見た者なら、最後まで口にしなくても分かる。
吉田は、短く息を吐いた。
「わかってるさ。…だが公表してみろ。今や奴らハーピーは本土に定着している恐れがある。今更これを公表したら大混乱が起きるだろうよ」
若い隊員は何も言い返せなかった。
それは理屈として正しい。
正しいからこそ、余計にやりきれなかった。
しばらくして、保護区画の出入口が開いた。
朝比奈が空いた器をいくつか抱え、こちらに気づいてぱっと顔を明るくする。
「吉田隊長ー!」
その声に、ガラスの向こうの犬人たちまでぴくりと耳を動かした。
朝比奈は足早に二人のところまでやってくると、いつもの調子で笑った。
「吉田隊長!今日も来てくださったんですね」
「悪いか」
「悪いなんて言ってませんよ」
朝比奈はくすっと笑い、ガラス越しの中を親指で示した。
「見てくださいよ。ほら、もうあんなに笑うようになったんですから」
中では、ちょうど小柄な犬人が仲間と器を覗き込み合って、また小さく笑っていた。
あの怯えきった目をしていた連中と同じとは、すぐには信じられないほどだった。
朝比奈は、その様子を見つめたまま、ふっと声音を和らげた。
「……吉田隊長。気負わなくていいんですよ」
吉田はわずかに眉を動かしたが、何も言わない。
朝比奈は静かに続けた。
「あなたはその現場を止めただけでも……」
そこまで言いかけたところで、吉田が短く遮った。
「いや……」
その声は低く、乾いていた。
自分を慰める言葉を、そこで断ち切るような響きだった。
吉田はガラスの向こうではなく、そのさらに先――基地の外、山の向こうへ視線を向けた。
「……見ているだけだ。この世界の現実をな」
朝比奈は黙った。
若い隊員も、言葉を失った。
それは気取った台詞ではなかった。
諦めでもなければ、達観でもない。
ただ現場にいる人間だけが持つ、重く、鈍い実感だった。
止めた。
たしかに止めたのだろう。
だが、間に合わなかった命もある。
裂かれた身体も、失われた人命も、空から降ってくる暴力の理不尽さも、何ひとつ消えたわけではない。
ここで犬人たちが笑っている。
それは確かに守れたものだ。
だが同時に、その笑い声の向こうには、笑えなくなったものがいくつも横たわっている。
吉田はそれを知っていた。知ったまま、立っているしかないことも。
朝比奈はしばらく黙っていたが、やがて器を抱え直し、静かに言った。
「……それでも、あの子たちは今ここで笑ってます」
吉田は返事をしなかった。
だが否定もしなかった。
ガラスの向こうで、1人の犬人がふとこちらを見た。
それから、少し迷うようにして、器を抱えたまま頭を傾げる。
朝比奈は小さく笑った。
「ほら。ちゃんと分かってるんですよ」
吉田はその姿を数秒見つめ、ようやく小さく鼻を鳴らした。
「……朝飯食ってる時くらい、余計なこと考えずに済めばいいがな」
それが、彼なりの言い方だった。
朝比奈はそれ以上何も言わず、ただ少しだけ目を細めた。
若い隊員もまた、ガラスの向こうへ視線を戻す。
保護区画の中では、犬人たちの小さな笑い声がまだ続いている。
外の世界には、空を飛ぶ脅威がある。
北陸にも、北海道にも、いつかその影が落ちるかもしれない。
非公開のまま進む警戒と、見えない不安と、調べなければならない未知。
それでも、このガラス張りの一角の中だけは、いま確かに別の時間が流れていた。
怯えきった命が、ようやく次の朝を信じはじめる時間。
それを守ることだけは、少なくともまだ、彼らの手の届く場所にあったのだから。
ーー
朝比奈は、抱えていた空の器を脇へ寄せるように持ち直すと、ぱっと思いついたように顔を上げた。
「あ!そうだ!吉田隊長も交流してみます?」
その一言に、ガラス張りの外気を含んだ静かな空気が、わずかに揺れた。
若い隊員が目を瞬かせる。
「……それ大丈夫か?犬人たちも男に反応するって報告書で書いてたよな?」
朝比奈はむしろ「そこだよね」というように首を傾げ、吉田へ視線を向ける。
吉田は、腕を組んだまま眉間に皺を寄せた。
「おい。なんで俺が実験台みてえな扱いなんだ」
「実験台じゃないですよ」
朝比奈はすぐに否定した。
その口調は明るいが、軽薄ではない。
「ただ、あの子たちもだいぶ落ち着いてきましたし。女性隊員や衛生班とはもうかなり慣れてきたでしょう?でも、男の隊員に対してはまだ距離感が定まってないんです。怖がる子もいれば、逆に妙にそわそわする子もいるし」
「だから一回、吉田隊長みたいな“でっかくて怖そうだけど乱暴しない男の人”に接してみるの、たぶん意味あります」
「言い方…」
「褒めてるんです」
即答だった。
吉田は露骨に嫌そうな顔をしたが、朝比奈はもう引かなかった。
ガラスの向こうでは、食事を終えた犬人たちが器を抱えたまま毛布の上で
くつろいでいる。年長らしい個体が幼い者の口元を布で拭ってやり、別の個体は空になった器の底を未練がましく覗き込んでいた。笑い声はさっきより落ち着いていたが、まだその空気のどこかに残っている。
その穏やかさを壊したくない。
だが、穏やかさを“女性隊員がいる時だけのもの”にしてしまうのも違う。
若い隊員は慎重に選ぶように言葉を発した。
「報告書で書かれていた“反応”も、別に単純じゃないと思うんですよ。」
吉田が横目を向ける。
若い隊員は少しだけ姿勢を正した。
「犬人たちが男に対して示す反応は、性的な意味だけじゃなくて……たぶん、他の種族との接触経験とか、保護と搾取が混ざった扱いを受けてきた記憶とか、そういうのが全部ごちゃごちゃに重なってるんじゃないかと。」
朝比奈が頷く。
「そうなんです。普通に接して、“この人は安全”って覚えてもらうのが一番いいと思うんですよね!」
吉田はしばらく黙っていた。
彼の視線は再びガラスの向こうへ向かった。
その先で、小柄な犬人がこちらに気づいて、ぴたりと動きを止める。器を
抱えたまま、じっと吉田たちを見ている。
耳は完全には伏せていない。だが、ぴんと立っているわけでもない。警戒と好奇心が半分ずつ混じったような、そんな目だった。
その隣にいた別の犬人が、つられるように視線を向ける。
こちらはやや年長だろうか。包帯の巻かれた肩を庇うように座りながら、しかし逃げようとはしない。
むしろ吉田の顔を見たあと、わずかに視線を下げ、また見上げる。反応を測っているのだ。
人間が犬や猫を見るときとは違う。
あれは明らかに、“相手の意図を読む知性”の目だった。
吉田は低く言った。
「……俺が入って、あいつらが混乱したら…どうする」
朝比奈は即答しなかった。
そこが彼女のいいところだった。
少し考えてから、彼女は静かに答えた。
「その時は、すぐ引きます。無理はしません」
今度は若い隊員が口を開いた。
「その時は、隊長がいつも通りにしてればいいです。無理に触らない。急に動かない。それで十分だと思いますよ」
朝比奈が笑った。
「つまり、今のままの吉田隊長なら大丈夫ってことです」
「それ褒めてねえだろ」
「褒めてますってば」
そう言って、朝比奈は器を近くの台へ置いた。
それから区画の出入口へ半歩進み、振り返る。
「どうします?」
その問いは、ただの冗談ではなかった。
この場の空気を次へ進めるかどうか。
保護される側と保護する側、その距離をもう一歩だけ縮めるかどうか。
その判断を、彼女は吉田に委ねた。
吉田は、また少しだけ黙った。
ガラスの向こうでは、さっきの小柄な犬人がまだこちらを見ている。
幼いが、ただ幼いだけではない顔。
恐怖を知っている顔だ。知っていてなお、こちらを見ている。
吉田は肩を鳴らすように小さく息を吐いた。
「……五分だ」
朝比奈の顔がぱっと明るくなる。
「十分です!」
「五分だ」
「はいはい、十分十分」
「増えてるぞ」
若い隊員が思わず吹き出しかけ、慌てて口元を押さえる。
そのやり取りを聞いていたのかどうか、ガラスの向こうの犬人たちのあいだにまた小さなざわめきが走った。
朝比奈は扉の取っ手に手をかけたが、開ける前にもう一度だけ吉田を見た。
「じゃあ…行ってみましょう!」
そうして、扉がゆっくりと開かれた。
暖房と食事の残り香が混じった温かな空気が、外へふわりと流れ出す。
同時に、中にいた犬人たちの注意がいっせいに入口へ向いた。
朝比奈が先に一歩入る。
「みんな、ちょっといい?」
その声に、何匹かの耳がぴくりと立つ。
こちらへ身体ごと向ける者、毛布の端を握ったまま固まる者、仲間の背に半分隠れる者。反応はまちまちだ。
そして、その次に。
吉田が、一歩だけ中へ入った。
とたんに空気が変わった。
怯えが走った、というほどではない。
だが明らかに、犬人たちの身体に緊張が走るのが見て取れた。耳が半ば寝る。尾が止まる。何匹かは息を呑み、何匹かは逆に目を大きく見開く。
大きい。
吉田は男の中でも体格がある。
肩幅も広く、立っているだけで圧がある。
ましてや、犬人たちから見れば“自分たちよりずっと大きい雄”だ。
これまでの経験がどんなものであれ、何も感じないはずがない。
しかし吉田はそこで不用意に動かなかった。
手を見える位置に置く。
目だけで全体を見回し、特定の個体を追い詰めるように見つめない。
朝比奈が柔らかく言う。
「大丈夫。この人、怖そうだけどいい人だから」
「その紹介やめんか」
低く返した吉田の声に、区画の中の空気がわずかに揺れた。
反応したのは、一番入口に近いところにいた小柄な犬人だった。
器を抱えたまま、じっと吉田を見上げている。
耳は半分伏せているのに、逃げない。
怖い。けれど見たい。その葛藤が、仕草のひとつひとつに出ていた。
それぞれが安全か危険か、自分で見極めようとしているのだろう。
吉田は、そちらを見て短く言った。
「……別に取って食いやしねえよ」
その台詞の瞬間、若い隊員が外で危うく噴き出しかけた。
朝比奈も一瞬肩を震わせたが、犬人たちは笑わなかった。もちろん意味を全部は理解していない。
だが、吉田の声の調子――威圧ではなく、ぶっきらぼうなだけの響き――それは伝わったらしい。
さっきの小柄な犬人が、ほんの少しだけ耳を上げた。
吉田はその変化を見逃さなかったが、あえて何も言わない。
ただ、近くにあった空の木箱を足先で軽く引き寄せ、どかりと腰を下ろした。
立ったままだと威圧になる。
しゃがみ込むと距離が近すぎる。
そのちょうど中間を、無意識ではなく選んだ動きだった。
朝比奈が小さく息をつく。
「ほら。ちゃんと座った」
まるで猛獣の調教でも見守るような言い方だった。
吉田は眉をひそめたが、反論はしなかった。
木箱に座ったことで、ようやく犬人たちの視線の高さが少し近づく。
小柄な犬人はまだ器を抱えたまま、そろそろと一歩前へ出た。
そのすぐ後ろでは仲間が不安そうに見ている。
だが誰も止めない。
この接触が必要なものだと、彼女らなりに感じ取っているのかもしれなかった。
吉田は、低い声で言った。
「……朝飯はうまかったか」
それはあまりにも不器用な言葉だった。
犬人は言葉の意味を完全には理解しなかっただろう。
それでも、問いかけられたことは分かったらしい。
器を抱えたまま、少し迷って――
こくりと、頷いた。
その瞬間だった。
年長の犬人はわずかに耳を揺らし、吉田の顔を見た。
吉田だけが、あくまで平然とした顔で鼻を鳴らした。
「そうか」
短い。
愛想もない。
だが、その一言で十分だった。
区画の中の緊張が、ほんの少しだけほどけた。
小柄な犬人は、器を抱えたままもう一歩だけ前へ出た。
その尾が、恐る恐る、だが確かに一度だけ揺れる。
朝比奈は声を潜めて言った。
「……ほら、大丈夫だったでしょ?」
吉田は前を見たまま答える。
「まだ五分経ってねえのか」
「じゃあ、あと四分半ですね」
そのやり取りに、ついに区画の奥から小さな笑いが漏れた。
誰が笑ったのかは分からない。
だが確かに、それは朝の食事のときと同じ、怯えではない笑いだった。
吉田はそれを聞きながら、木箱の上で肘を膝に置いた。
ぶっきらぼうなまま、だが逃げずにそこにいる。
犬人たちも、完全には近づかないまでも、もう彼から目を逸らしてはいなかった。
異種族。未知。恐怖。
それらすべてがここにある。
だが、それでもいま、この小さな区画の中で起きているのは、もっと単純なことだった。
傷ついた者が、傷つけない相手を見分け始めること。
そして、見分けられた側が、その信頼を壊さずにそこへ居続けること。
他種族の繋がりが確かに、細く繋がれようとしていた
ーー
吉田は肘を膝に置いたまま、無理に声を出さない。
大きな身体を少し前へ傾け、しかし圧迫感を与えないように背を丸めすぎもしない。
朝比奈は少し離れた位置で、その様子を見守っていた。
口を挟むつもりはないらしい。
ただ、いつでも間に入れるよう、距離だけは保っていない。
そんな中最初に動いたのは、吉田の近くにいた小柄な犬人だった。
じり……じり……と、先ほどよりも更に前へ出てくる。
犬人は吉田の膝先まで来ると、ぴたりと止まった。
小さな手が、器を抱いていた位置からゆっくり離れる。
指先が震えている。触れたいのか、触れていいのか、自分でも決めきれていないような動きだった。
そして。
そっと吉田の膝の上に、その小さな手が置かれた。
ほんの指先だけではない。手のひらごと、遠慮がちに。
けれど確かに、相手の体温と硬さを確かめるように。
吉田は、そこでようやくほんの少しだけ視線を落とした。
膝に置かれた小さな手。細い指。爪は短く整えられているが、まだ根元に完全には消えきらない泥の色が残っている。
保護されたばかりの頃は、その手が仲間の毛を掴み、毛布を握り、誰かの背に必死にしがみついていたのを思い出す。
今、その手は、自分に触れている。
吉田は低く言った。
「……急に噛むなよ」
不器用きわまりない言葉だった。
だがその声の調子に、犬人はびくりとしながらも手を引かなかった。
むしろ、膝に触れたまま、今度は顔を少しだけ近づけてくる。
鼻先がひくひくと動いた。嗅いでいるのだ。
犬人たちにとって、相手を確かめることは視線だけでは終わらない。
匂いはもっと直接的で、もっと深い情報を運ぶのだろう。
その小柄な犬人が鼻を寄せたのをきっかけに、後ろで様子をうかがっていた別の犬人たちも、そわそわと落ち着きを失い始めた。
さらにその後ろで、別の一匹が明らかに迷いながらも首を伸ばしていた。
朝比奈が小声で呟く。
「…来るかも」
誰にともなく発せられた声だったが、その緊張は区画全体に伝わった。
そしてーー次に動いたのは、やや年上に見える犬人だった。
顔立ちは整っているが、まだどこかあどけない。
薄い色の耳がぴくぴくとせわしなく動き、尾は膝裏に巻き込むように下がっている。
まだ怖いのだろう。
けれど、それ以上に気になって仕方がないらしい。
その犬人は、吉田の正面ではなく、やや横から近づいてきた。
そして、吉田の腕のあたりまで来ると、そっと鼻先を寄せた。
くん。くんくん…ひくっ。
匂いを吸い込む。その瞬間だった。
「……っ!」
犬人の身体が、びくんと跳ねた。
耳がぴんと立つ。頬に、さっと赤みが差す。
まるで熱い湯気でも真正面から浴びたように、顔を赤くしたその犬人は、思わずのけぞった。
ぐい、と首を引き、肩まで反らす。
だが完全には離れない。
むしろ離れようとして、また気になって、もう一度匂いを確かめたくなる――そんな混乱が、仕草の全部に出ていた。
「おい……?」
吉田が低く声を出す。
その声にさえ、犬人の頬がさらに赤くなる。
目を丸くし、口をわずかに開け、呼吸が浅くなる。
鼻先はまだ吉田の袖口の近くにあり、逃げるには近すぎる、近づくには恥ずかしすぎる距離で固まってしまっていた。
朝比奈が思わず口元を押さえる。
「うわ……すごい反応…」
それは複雑な反応だった。
安心、緊張、好奇心、種としての本能、過去の扱いの記憶、体格差への意識――そういうものが一度に噴き出して、自分でもどうしていいか分からなくなっている顔だった。
赤くなった犬人は、とうとう耐えきれなくなったのか、小さく「くぅ……」と喉を鳴らしながら顔を背けた。
だが、そのまま離れればいいものを、逆に肩から腕へ、腕から膝へと、身体の側面を擦り寄せてしまう。
すり……。
最初はほんの偶然のような接触だった。
しかし一度触れてしまうと、その柔らかな毛並みの頬は、まるで自分で止め方が分からなくなったみたいに、もう一度、今度はもう少し強く吉田の膝へ擦り寄った。
すり、すり……。
頬。耳の付け根。こめかみのあたり。
匂いを嗅いで赤くなり、恥ずかしさに仰け反ったくせに、その次にはもう身体が勝手に甘えてしまっている。
吉田の膝に手を置いていた最初の小柄な犬人が、その様子を見て目をぱちぱちさせた。
それから、自分も負けじとでもいうように、吉田の膝に置いた手に少しだけ力を込める。
ぎゅ。
その動きは、明らかに“離したくない”という意思だった。
「……なんだ」
吉田の声は低かったが、怒ってはいなかった。
むしろ、どうしたらいいのか本気で分からず困っている声音だった。
赤くなった犬人たちは、吉田の反応にさらに耳まで熱くした。
それでも離れない。いや、離れられないのかもしれなかった。
すり、すり……。
今度は頬だけでなく、鼻先まで軽く押しつける。息が布地越しに漏れ、温かい湿り気がじわりと伝わる。
まるで“この匂いをもっと近くで確かめたい”“自身の匂いをこの身体に覚え込ませたい”とでもいうような、夢中な動きだった。
その光景を見ていた朝比奈が小さく息を呑んだ。
「ちょっと…やばいかも」
吉田が怪訝に片目を細める。
「おい…それは」
だが、その言葉の最中にも、他の犬人がじりじりと近づいてきていた。
彼女たちと吉田の反応を見て、朝比奈がとうとう笑いを堪えきれなくなった。
「ふ、っ……ご、ごめんなさい……でも……」
「笑ってる場合か」
「いやだって、隊長が思った以上に効いてるんですよ」
「なんだそりゃ…」
吉田は本気で嫌そうだったが、犬人たちを振り払おうとはしなかった。
それが彼のいいところだった。
怖い。けれど気になる。
大きい。でも乱暴しない。
そんな矛盾だらけの感覚に、彼女らは戸惑いながらも、自分たちなりに答えを出し始めていた。
この異種族は、安全だ。
少なくとも今この瞬間、自分たちを傷つける存在ではない。
その理解が、言葉ではなく身体のほうから広がっていく。
吉田は木箱の上で、完全に困り果てた顔になっていた。
「朝比奈」
「はい?」
「五分で終わる話じゃなくなってるぞ」
朝比奈は、犬人たちが吉田に擦り寄る光景を見ながら、にこにこと答えた。
「よかったじゃないですか。受け入れられてますよ」
「言い方を考えろ」
そのやり取りに、朝比奈が、くふっと小さく笑った。
その光景は奇妙だった。
しかし…それは、怯えきった命たちが、自分たちを壊さない強さにようやく触れ始めた瞬間でもあった。
外の世界には、まだ脅威がある。
報告書に書かれるべき危険も、非公開にされる現実も、何ひとつ消えてはいない。
それでも、この保護区画の中でだけは、繋がりが確かに生まれていた。
ーー
朝比奈は区画の様子を見ながら、口元を押さえて笑いを堪えていたが、ガラスの外に立つ若い隊員のほうは、もはや堪える気すら薄いらしかった。
「しっかし……不思議だよな」
ぽつり、と呟く。
朝比奈は視線だけをそちらへ向け、首を傾げた。
「ん?何が?」
若い隊員はガラス越しに中を見ながら、やや呆れたように、やや面白がるように言った。
「揃いも揃って、人間の男に執着するなんてよ……。ドラゴニュートとか、もっとエロいって聞いたぞ」
朝比奈の顔が、すっと無表情になった。
「あんた……この状況でよくそんなこと言えるねえ……」
呆れと軽蔑が半々、といった声だった。
だが彼女はそこで完全には切り捨てず、ちらりと吉田と犬人たちの様子を見てから、小さく肩を竦める。
「まあ、確かにあのレベルだと痴女だけど」
「だよなぁ…」
若い隊員は変に勢いづいた。
現場の陰鬱さを誤魔化したいのか、ただ単に下世話なのか、その両方なのか分からない顔で続ける。
「……一度会ってみたいもんだな」
朝比奈は、今度こそ本気で冷たい目を向けた。
「……死ねばいいのに」
「えぇ…」
間の抜けた声が返る。
ガラスの向こうでは、吉田の膝に手を置いたままの犬人が、そのやり取りの空気だけは感じ取ったのか、きょとんとした顔で外を見ていた。
言葉の意味など分からないだろう。
だが、朝比奈の刺々しさはたぶん十分伝わっていた。
若い隊員はなおも懲りない。
「あんた、ドラゴニュートに会ったら腰抜かすでしょ」
朝比奈は腕を組んだ。
「……まあ、流石に二メートル近いともなるとな」
「でも、あんたは嬉しいじゃない?」
その言い方はひどく投げやりだった。
褒めてもいないし、慰めてもいない。ただ刺しているだけだ。
若い隊員は口を半開きにした。
「……なんか棘つよくない?」
朝比奈は答えなかった。
答えない代わりに、じっとその隊員を睨んでいた。
その視線には、単に下ネタを嫌がる女隊員の反応以上のものがあった。
彼女は知っているのだ。
ドラゴニュートの“そういう反応”が、単なる男の夢物語で済まないことを。
匂いに惹かれ、距離を詰め、理性より先に身体が反応してしまう異種族の生々しさを。
そして、それが場合によっては暴力と紙一重になることを。
だからこそ、面白半分の話題にしたくはなかった。
「……」
朝比奈は一度だけ短く息を吐いたが、それ以上は何も言わなかった。
若い隊員も、ようやく自分が少し調子に乗りすぎたと気づいたのか、頭を掻いて視線を逸らす。
気まずい沈黙が数秒落ちる。
だが、その沈黙を破ったのは、外ではなく中の吉田隊長だった。
「お前ら、駄弁ってないで早く引き剥がせ」
低い声が、保護区画の中から飛んだ。
朝比奈と若い隊員が、同時にガラスの向こうを見る。
吉田は木箱の上に座ったまま、明らかに困り切った顔をしていた。
膝には小柄な犬人の手が置かれ、右側には頬を赤くした犬人が、耳を伏せたまますりすりと膝へ顔を押しつけている。
左側では慎重派の犬人が、袖口の匂いに未練たっぷりの顔で寄り添ったまま離れない。
しかも、後ろではさらに別の犬人たちがそわそわと様子を見ており、「自分も行っていいのか」とでも言いたげに耳と尾を落ち着きなく動かしていた。
完全に群がられかけていた。
吉田は眉間に深い皺を刻んだまま、続ける。
「こいつら小さいから、強引にやりにくいんだよ」
それは本気の困り顔だった。
もし相手が普通の人間なら、肩を押して距離を取るなり、立ち上がって解散させるなりできる。
だが相手は、ようやく安心を覚え始めたばかりの小型異種族だ。
しかも怪我人もいる。
ここで無理に振り払えば、それだけで“拒絶された”と覚え込ませかねない。
朝比奈はとうとう吹き出した。
「ふっ……あは、すみません、隊長……」
「笑ってる場合か」
「いや、だって……隊長、顔が本気で困ってるんですもん」
その言葉通りだった。
吉田は任務時のしかめ面とも、部下を叱る時の厳しさとも違う、純粋に処置に困る顔をしていた。
自分の膝に置かれた小さな手を振り払えず、頬を赤くして擦り寄ってくる犬人にどう対応していいか分からず、しかも周囲に見られている。
若い隊員も、気まずさを忘れて思わず笑いそうになる。
「いや……隊長、それはその……」
「いいから来い」
即答だった。
若い隊員は「はい」と妙に素直な声を出した。
扉が開き、暖かい空気がまた外へ流れ出す。
その気配だけで、犬人たちの耳がいっせいにそちらを向く。
だが吉田から離れる個体はいない。
それどころか、頬を擦りつけていた犬人などは、朝比奈が近づいたことで少し恥ずかしくなったのか、一瞬だけ顔を離し――それでも結局、また吉田の膝へ額を寄せてしまった。
「ほらほら、大丈夫。隊長は逃げないから」
朝比奈が柔らかく声をかける。
小柄な犬人は膝に置いた手を見下ろし、それから朝比奈の顔を見て、また吉田を見る。離すべきか迷っているらしい。
朝比奈はしゃがみ込み、その犬人の目線まで降りた。
「その人、ちょっと困ってるの。だから、手だけちょっと貸してくれる?」
犬人はしばらく迷ったあと、ようやく指を緩めた。
だが完全には引かない。名残惜しそうに、膝の布地を指先でなぞってから、そろそろと手を戻した。
その動作があまりにもいじらしくて、若い隊員が思わず小声で呟いた。
「…なんか可愛いな」
そのあいだにも、頬を赤くした犬人はまだ離れきれない。
朝比奈はそちらへ手を伸ばし、耳の後ろあたりを軽く撫でた。
「ほら、こっちおいで。男の人の匂いそんなによかったの?」
その言葉に、犬人はびくっと肩を跳ねさせた。
図星を刺されたように耳が引き、頬の赤みがさらに濃くなる。
そして恥ずかしさに耐えられなくなったのか、とうとう小さく喉を鳴らしながら吉田の膝から顔を離し、今度は朝比奈の腕のほうへ身を寄せた。
だが、それでも一度だけ振り返る。
名残惜しい。まだ気になる。
その視線が、実に正直だった。
吉田はそれを見て、ひどく疲れたように息を吐いた。
「……なんなんだ、こいつらは」
若い隊員が、半ば笑いながら答える。
「隊長のこと、気に入ったんじゃないですか」
「嬉しくねえ」
「いや、でも悪い話じゃないでしょ」
「お前が代われ」
「それはちょっと……」
そんなやり取りのあいだにも、慎重派の犬人がまだ袖口の近くをうろうろしていた。
完全には離れない。
ただ、さっきよりは落ち着いたらしく、今度は吉田の袖ではなく、木箱の端にちょこんと手を置いて座り込む。
近くにはいたい。
でも、さっきみたいに無我夢中で擦り寄るのは恥ずかしい。
そんな空気がありありと出ていた。
朝比奈は、ようやく区画の空気が過剰な熱から少し落ち着いたのを見て、小さく笑った。
「はい、これで解散。隊長も休憩終わり」
「最初から休憩してねえよ」
吉田は答えず、ただ膝を払うような仕草をした。
そこにはもう小さな手も、頬の感触も残ってはいない。
だが、布地の上に置かれていた体温の名残だけは、妙に生々しく残っている気がした。
朝比奈はそれを見て、満足そうに頷く。
「……まあ、いい交流でしたよ?」
吉田は立ち上がりながら、ぶっきらぼうに返す。
「二度はやらん」
だが、その言葉に説得力がないことは、朝比奈にも若い隊員にも、そしてたぶん犬人たちにも、なんとなく分かっていた。