――以下、内閣非常事態対策本部からの正式通達である。
前略
本日、新大陸前哨基地へ搬入された重機群および追加人員は、「新規開発拠点の整備」 を目的とした計画的配備である。
これらの装備・人員は、日本政府が既に決定した 新大陸開発計画に基づき、将来的な資源確保および基地防衛線の強化を目的として投入されている。
STF司令部は、次の事項を速やかに確認し、実行せよ。
【1】重機搬入および作業部隊への支援
搬入された重機・作業員は、政府が策定した工程計画により行動する。
STF司令部は以下を担当すること
・作業区域周辺の治安維持・安全確保
・現地部族、勢力による接触への一次的対応
・工事進行に必要となる通信、輸送経路の確保
・重機班との調整および出入り管理
これらは全て、開発計画の速やかな実行を保障するための補助行動とする。
【2】計画の一部は機密扱いとし、現場裁量による判断を避けること
開発計画の内容には高い機密性が伴う。
よって、計画の詳細は本日中に前哨基地へ到着する政府関係者より、口頭で直接伝達する。
STF司令部は、当該高官との会議に全幹部が出席し、説明を受領後、指示に基づいて行動すること。
【3】現場における独自判断について
前哨基地側は、作戦上および安全上の懸念を抱くことが想定されるが、
現在の国家状況においては、「計画の遅延は国家生存に重大な損害を与える」と政府は判断している。
よってーー
■開発行動の停止
■重機作業の中断
■作業班撤収判断
これら 一切の『独自裁定』は認めない。
必要な抗議や意見具申は、全て政府高官を通して行うこと。
【4】前哨基地の最大任務
前哨基地は、これまで通り「異世界における日本の最前線」として、以下を最優先とする。
1.資源開発行動の安全確保
2.現地勢力との無用な摩擦回避
3.自衛官および作業員の生命確保
ただし上記3項目について、状況によっては優先順位が変化し得るため、
今後は政府関係者が逐次方針を提示する。
以上、本通達は直ちに司令部全体へ共有し、行動を開始せよ。
発信元:日本国政府 非常事態対策本部
宛先:特地対策兼交流本部(STF)並びに関係機関
発信日:西暦20XX年X月X日
砂利を踏みしめる靴音が、乾いた風の中へかき消されていく。
早朝巡回に出ていた三名のSTF隊員は、基地外周部を歩いていた。夜明けからまだ間もない。東の空は白み始めていたが、朝靄の向こうに広がる新大陸の輪郭は、いまだ暗く曖昧だった。
風に混じるのは、砂と枯れ草、それに金属の臭い。
遠くでは、前哨基地の発電設備が低い唸りを上げている。
その単調な機械音のさらに奥から、聞き慣れない重低音が響いてきた。
一人の隊員が足を止めた。
「……聞きましたか? 今日、政府高官が視察に来るんだそうですよ……」
気だるげな口調だった。
だが、その声の奥には、本人にも説明できない緊張が滲んでいた。
隣を歩いていた隊員が、首から下げた双眼鏡のレンズを布で拭きながら眉をひそめる。
「なんのためだ?」
「さあ……今進めてる交渉の詳細とかじゃないんですかね?」
「それだけで、お偉いさん方がわざわざ出張ってくるかねぇ……」
最後尾を歩いていた隊員が、火の点いていない煙草を咥えたまま呟いた。
禁煙区域で吸うつもりはない。ただ、落ち着かないときに咥えるのが癖になっていた。
三人とも、どこか居心地の悪さを覚えていた。
基地そのものが、朝から妙に騒がしい。
輸送車両の出入りが増え、通常なら事前に共有されるはずの作業予定が、現場の隊員にまで降りてきていない。整備班も通信班も、何かを知っているようで、誰も肝心なことは話さなかった。
「しかし……悠長に交渉してていいのかね」
煙草を咥えた隊員が、前を向いたまま言った。
「日本の資源だって、いつ枯渇してもおかしくねえのによ……」
誰もすぐには答えなかった。
日本列島がこの世界へ転移して以降、石油も鉱物資源も、備蓄を削りながら維持している。国内では節電と配給制限が続き、工業生産にも優先順位が設けられていた。
国家が生き残るためには、新たな資源地帯を確保しなければならない。
それは三人にも分かっていた。
分かっているからこそ、何かが急ぎすぎているような感覚が拭えなかった。
やがて、先頭を歩いていた隊員が、風の向こうから届く音に再び気づいた。
「……なあ」
「どうした?」
隊員は東の地平線へ顔を向けた。
薄い朝靄の残る丘の向こう。
そこから、黒い影の列がゆっくりと姿を現していた。
最初に見えたのは、長く伸びるクレーンのブームだった。
続いて、幅広い排土板を備えたブルドーザー、大型掘削機、資材運搬車、発電車、燃料輸送車が、砂塵を巻き上げながら丘を越えてくる。
地面が低く震えていた。
整然と連なる車列は、数台や十数台という規模ではない。
その後方にも、まだ影が続いている。
隊員が双眼鏡を目に当てた。
「……こんなに重機の搬入って、多かったか?」
声に、はっきりとした不安が混じった。
別の隊員が、冗談めかそうとして失敗したような苦笑を浮かべる。
「基地外周部の拡張……だよな?」
「……そうだろ。計画書じゃ、そうだったはずだ。確か……」
言い終える前に、その表情が固まった。
重機の車列は、前哨基地の拡張予定区域へ向かっていなかった。
基地の東側を迂回し、地質調査班が先月まで立入制限区域としていた谷間へ進んでいる。
そこは、戦略資源の存在が確認された調査区域だった。
三人の脳裏に、ほとんど同時に同じ言葉が浮かんだ。
――戦略資源地帯の方向だ。
大地を震わせる重機の唸りが、丘陵の間で幾重にも反響していた。
震動はブーツの底から脛へと伝わり、骨の内側にまで染み込んでくる。
視界の端で、砂塵が分厚い幕のように立ち上っていた。
あれは、単なる工事の埃ではない。
国家という巨大な仕組みが動き始めたとき、地表から立ち上る兆しのように見えた。
ブルドーザーのキャタピラが地面を噛み砕き、石を押し潰して進んでいく。
その後ろを、大型掘削機とクレーンが一定の間隔を保ちながら続く。
軍用車両ではない。
砲塔もなければ、装甲もない。
それでも三人には、その隊列がひどく攻撃的なものに見えた。
武器を持たず、ただ土地を掘り、削り、形を変える。
そう、まるでーー国家が生存本能を剥き出しにし、巨大な顎で新大陸へ食らいつこうとしているかのようにーー
隊員たちは言葉を失った。
しばらくして、誰かが小さく呟いた。
「あれ……本当に、拡張だけなのか……?」
その声は、重機の唸りに飲み込まれた。
三人はまだ知らなかった。
この朝、彼らが目撃したものが単なる建設作業ではないことを。
そしてこの日が、日本と新大陸との関係を、後戻りのできない方向へ変える分岐点になることを。
ーー
STF前哨基地。
日本が新大陸へ初めて築いた、本格的な活動拠点である。
海風を遮る鋼製防壁と、砂塵と機械油の臭いを吸い込んだ土嚢。
昼夜を問わず周囲を監視する監視塔。
その外側には有刺鉄線と簡易障害物が張り巡らされ、夜になると、照明の届かない荒野から獣の遠吠えが聞こえてくる。
この基地は、単なる軍事施設ではない。
文明と文明の『境界線』
そして、日本という国家が未知の世界へ伸ばした腕の、最も危うい指先だった。
基地中央部に設けられた司令棟では、端末の冷却ファンが絶えず回り続けていた。
発電設備の金属的な重低音が床を微かに振動させ、壁面の大型モニターには、周辺地図、部隊配置、気象情報、無人機から送られてくる映像が並んでいる。
室内には、徹夜勤務を終えた隊員たちの汗と、冷めたコーヒー、機械油の臭いが薄く漂っていた。
雨など降っていない。
それでも、その朝の司令室には、肌へまとわりつくような湿った緊張があった。
政府高官の視察が予定されていることは、すでに基地幹部へ伝えられていた。
だが、その目的は曖昧だった。
「新規開発拠点の整備状況確認」
通知に記されていたのは、それだけである。
その沈黙の中、司令室の隅で搬入資料を確認していた若い隊員が、青ざめた顔を上げた。
何度か口を開きかけ、それでも言葉を飲み込む。
やがて意を決したように、震える手を挙げた。
「……本田司令。少々、伺いたいことが……」
司令官席に立っていた本田が振り向いた。
朝から各部署から上がる確認要請に追われ、声にはすでに苛立ちが混じっていた。
「……なんだ?」
隊員は唾を飲み込み、手元の資料を持ち上げた。
「前哨基地拡張工事に伴う重機搬入についてですが……実際に搬入された台数が、計画書と一致しません」
本田の眉がわずかに動いた。
「何……?少ないということか?」
隊員はゆっくりと首を横に振った。
「……いえ、逆です」
室内の数名が、一斉に顔を上げた。
「『多い』のです。計画書に記載された台数の二倍以上が、すでに搬入されています」
一瞬の沈黙。
次いで、司令室の各所から小さなどよめきが上がった。
本田の背を、冷たい汗が伝った。
「二倍以上だと……?」
「はい。それだけではありません。大型掘削機、クローラークレーン、杭打ち設備、発電車、燃料貯蔵設備……基地外周部の拡張には不要と思われる機材が多数含まれています」
本田は机上の地図へ視線を落とした。
基地外周部。
居住区域。
補給施設。
どこを確認しても、それだけの設備を投入する計画は存在しない。
「…搬入先は?」
「……一部車列が、東部の地質調査区域へ向かっています。」
本田の顔色が変わった。
「……待て」
次の瞬間、鋭い命令が飛んだ。
「無人機を上げろ!地質調査班が戦略資源を確認した地点だ。現在の映像を出せ!」
「了解!」
オペレーターが端末を叩く。
待機中だった小型無人機が発進し、映像回線の確立音が鳴った。
大型モニターに一瞬だけ砂嵐が走る。
やがて映像が安定した。
上空から映し出されたのは、すでに進行中の大規模建設現場だった。
谷間の地表は広範囲にわたって削り取られている。
複数のブルドーザーが土砂を押し退け、大型掘削機が地盤を抉る。
測量杭が等間隔に打ち込まれ、その外側では資材を積んだトラックが列を作っていた。
鉄骨の基礎が組まれ、発電車から伸びた電力ケーブルが、仮設設備へ接続されている。
作業員用のプレハブ施設まで、すでに設置が始まっていた。
初期調査どころではない。
もはや…採掘施設を本格稼働させるための建設工事だった。
本田の唇が、怒りに震えた。
「どういうことだ……!」
拳が机上へ落ちた。
「なぜだ……いや、それよりも、いつの間にここまで進めたッ!」
司令室にいた者たちの視線が交錯する。
誰も答えられない。
基地の警備を担っているはずのSTF司令部が、これほど大規模な工事について何も知らされていなかった。
それ自体が異常だった。
若い隊員が資料をめくり、息を呑んだ。
「司令……搬入命令が分割されています。基地拡張、道路補修、発電設備更新――すべて別々の省庁、別々の案件として処理されています」
一件ずつ見れば、どれも正規の計画だった。
だが、すべてを重ねれば、一つの採掘基地になる。
本田は書類を握り締めた。
幹部の一人が立ち上がる。
「本田司令!現場へ確認を取りましょう。工事責任者を司令部へ――」
「ああ。すぐに――」
本田が命じかけた、そのときだった。
「……その必要はありません」
司令室の扉が開いた。
蝶番の軋む低い音が、室内の静けさを裂いた。
外光を背負い、数名の男たちが入ってくる。
全員が暗い色のスーツを身につけていた。
その後ろには、随行する官僚と警護要員が続いている。
先頭の男は、司令室の視線が一斉に自分へ集まっても、歩調を変えなかった。
日本政府から派遣された高官達だった。
磨かれた革靴が、コンクリートの床を規則的に叩く。
「現場への確認は不要です」
高官は繰り返した。
怒っているわけでも、嘲っているわけでもない。
あまりに事務的であるがゆえに、かえって人間的な温度を感じさせなかった。
「あの工事については、我々がすでに確認しています」
本田は、高官を睨みつけた。
「確認しているだと……?」
「ええ」
高官は大型モニターへ一度だけ目を向けた。
そこには、今なお掘削を続ける重機群が映っている。
「あの工事は、予定どおりです」
その一言で、司令室の空気が止まった。
誰もすぐには意味を理解できなかった。
あるいは、理解したくなかったのだろう。
本田はゆっくりと高官へ向き直った。
「…我々には、基地外周部の拡張工事としか伝えられていないぞ」
「計画の一部には、高度な機密性があります。現場への事前開示は必要最小限に制限されていました」
「必要最小限……?」
本田の拳が再び固く握られた。
高官は視線を逸らさなかった。
「詳細については、これから説明します」
その声音には、協議を求める響きがなかった。
すでに決定された方針を、現場へ通達する。
ただそれだけだった。
本田は悟った。
彼らがここへ来たのは、視察のためではない。
許可を得るためでもない。
すでに始められた行動へ、現場を従わせるために来たのだ。
ーー
大型モニターでは、採掘予定地の映像が流れ続けていた。
荒野から突き出した鉄骨。
地表を削り取る重機。
谷間を縫うように敷かれ始めた仮設道路。
それは、日本側が現地部族との交渉を終える前に、戦略資源の開発へ着手したことを示す、動かしようのない証拠だった。
本田は映像を指差し、怒鳴った。
「……どういうことだッ!なぜ交渉も済んでいないのに、あそこで採掘基地の建設が始まっているんだッ!」
怒号が司令室の隔壁を震わせた。
机上の資料がわずかに揺れる。
しかし、対面に立つ高官たちは表情を変えなかった。
先頭の高官が、静かに口を開く。
「本田司令。君も理解しているはずだ」
「何を理解しろとおっしゃるのですか……!」
「我々には、異世界人との文化交流そのものを目的化している余裕はないと言うことだよ」
声に迷いはなかった。
「求めているのは、国家機能を維持し、日本を存続させるために必要な資源だ」
本田の奥歯が鳴った。
「…だから、相手の土地へ土足で踏み込んでも構わないと?」
「だからこそ、交渉は継続するのだよ」
平然と返された言葉に、本田の怒りがさらに膨れ上がる。
「勝手に建設を始めた後で、何を交渉するというのですかッ!!」
高官はすぐには答えなかった。
モニターの中では、掘削機のアームがゆっくりと持ち上がり、大量の土砂を地面へ落としている。
その映像を見ながら、高官は淡々と言った。
「…本田司令。国家には、価値観の共有よりも、生存に必要な物資の確保を優先せざるを得ない局面がある」
本田は、高官の言葉が命令であり、議論ではないことを理解した。
この作戦は、すでに「交渉の結果によって決める計画」ではなくなっている。
日本政府は、資源開発を実行すると決定した。
現地勢力が承認するかどうかは、開発の可否を左右する条件ではない。
交渉は、その決定によって生じる摩擦を、可能な限り抑えるためのものへ変えられていた。
本田は机を叩いた。
「……ではこれは、何のための交渉なのですかッ!」
硬い音が司令室に反響する。
「これでは、交渉の前提そのものが崩れるではありませんか!ドラゴニュート側は当然、我々の誠意を疑う!交渉の場に立つ隊員の安全はどうなるのですか!」
声が震えていた。
怒りだけではない。
現場を預かる者として、部下の命を勝手な計算へ組み込まれたことへの憤りだった。
高官は、机上に置かれた分厚い資料を開いた。
「何度も言いますが、政府の目的は、あくまで国家戦略資源の獲得です」
「だからといって――」
「これは、日本の生存が懸かっている問題です」
別の高官が言葉を引き継いだ。
「よって、戦略資源の確保を、異種族との交渉の成否だけに委ねることはできません」
司令室に、重い沈黙が落ちる。
本田は唇を噛んだ。
「……では……」
噛み締めた歯の隙間から、声を絞り出す。
「では彼らは……外交団の隊員たちは、どうなるのですか」
高官は答えなかった。
本田はさらに問い詰める。
「現地勢力が工事に気づけば、最初に問い詰められるのは交渉へ赴いている者たちです。場合によっては拘束され、殺される可能性すらある」
「その事態に備え、即応中隊を配置しているのでしょう?」
「は…?」
本田の声が低くなる。
「…交渉に赴く隊員たちを、国家の都合で危険へ晒し、何か起きれば武力で押し返す…?…何を言っているだッ!」
高官は資料から顔を上げた。
「即応中隊は、外交団の状況が急変した際に介入し、必要であれば敵対勢力を押し返す防壁です」
「防壁……?」
「国家戦略の遂行から、危険を完全に排除することはできません」
高官の声には、罪悪感もためらいもなかった。
「危険を負わせることは重々承知しています。しかし、現在の日本には、すべての条件が整うまで待つだけの時間がないのです」
本田の拳が震えた。
「それは……交渉団を人柱にするという意味ではありませんか!」
「違います」
高官は即座に否定した。
だが、その否定は倫理的な反論ではなかった。
「彼らは任務を与えられた要員です。そして即応中隊は、その任務を支援するために配置されている」
「言い換えただけだッ!」
本田の怒号が響いた。
高官の眉が、初めてわずかに動いた。
だが、それも一瞬だった。
「本田司令。現場の負担が大きいことは理解しています」
「負担……?」
本田は乾いた笑いを漏らした。
「命を危険に晒されている者たちへ、負担という言葉で済ませるのですか?」
高官は沈黙した。
その沈黙を前に、司令室の隊員たちは理解してしまった。
中央政府にとって、交渉団も即応中隊も、戦略資源を確保するための構成要素なのだ。
人間として見ていないわけではない。
彼らの死を望んでいるわけでもない。
それでも、国家全体の生存と天秤にかけられたとき、現場の人命は計算可能な損失として扱われる。
そこに悪意はない。
悪意がないからこそ、『救い』がないのだ。
本田の胸から、低い声が漏れた。
「……あなたたちは…本当に交渉というものを、最初から視野に入れているのですか?」
高官は本田を正面から見た。
「誤解のないように言いますが、交渉は必要です」
「……どこがですッ!」
本田が吐き捨てる。
高官は机上の資料を揃え、あくまで事務的に続けた。
「何度も申し上げますが…交渉は、現地勢力との衝突を回避し、資源開発への理解を得るために必要です」
本田の呼吸が止まった。
高官は淡々と続ける。
「今回の交渉は、資源開発に伴う外交的摩擦を、可能な限り低減するためのものです。開発の実施そのものについて、相手側から許可を得るためのものではありません」
司令室の照明が低く唸る。
モニターの中では、重機が大地の表面を剥ぎ取っていた。
「…我々は、この地域で起こり得る文化衝突の危険性も、異種族の軍事力も、雄に対する異常な執着の理由も、何一つ完全には把握していないのですよッ!」
本田は、資料を拳で叩いた。
「接触した種族が、どの程度の勢力圏を持っているのかも分からない!周辺部族との関係も、規模も、何も分かっていない!その状態で既成事実を作れば、局地的な衝突では済まなくなる可能性があるのですッ!」
「その可能性は承知しています」
高官は言った。
「そのうえで、政府は着手を決定しました」
「…ではなぜッ!」
「時間がないからですよ」
その答えだけは、あまりに簡潔だった。
「国内備蓄は減少を続けています。医療、発電、輸送、防衛のすべてが、限られた資源を奪い合っている状況です。」
高官は、初めてわずかに語気を強めた。
「仮に交渉の妥結まで半年を要するとしても、その半年後に現在と同じ国力を維持できている保証は、どこにもないのです。」
本田は黙った。
それは、本田にも理解できる現実だった。
国内の窮状を知らないわけではない。
政府の決定は、現場を預かる本田の目には、あまりにも無謀な賭けに映った。
だが、何もしなければ、日本が衰弱していくのもまた事実だった。
本田は、ゆっくりと顔を上げた。
「……あなたたちにとって、我々は……」
声は静かだった。
先ほどまでの怒号よりも、かえって重かった。
「時間を稼ぐ為の…肉盾にすぎないのですか?」
高官たちは答えなかった。
誰も否定しなかった。
その沈黙が、何より明確な回答だった。
司令室の時計が、一秒進む。
小さな作動音が、不自然なほど大きく聞こえた。
誰も動かなかった。
基地にいる全員が理解してしまったのだ。
この作戦は、異世界との衝突を避けるためのものではない。
日本が生き残るためなら、衝突の危険さえ引き受けるという、国家の意思そのものだった。
ーー
国家とは、祈らない存在だ。
誰かの涙に胸を痛めることも、誰かの誇りのために歩みを止めることもない。
国民を守るために国民を危険へ送り、未来を残すために、今を生きる者へ犠牲を求める。
それは悪意ではない。
優しさでもない。
ただ、その仕組みが自ら歩くことはない。
命令書を運ぶ手があり、重機を動かす手があり、銃を握る手がある。
そして国家という巨大な仕組みの内側で脈を打つのは――
いつも、名もない誰かの心臓だった。
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