異界にて、雄は資源と化す    作:Henon

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近代国家という怪物

 

日本国・霞ヶ関――

 

深夜の官庁街は、奇妙なほど静かだった。

 

昼間には官用車の列と無数の足音、絶えず鳴る内線と紙をめくる音に満ちているはずのこの街が、いまはまるで巨大な抜け殻のように沈んでいる。転移事件以後、霞ヶ関の夜は以前にも増して長くなった。だが、灯りが増えたからといって、活気が増したわけではない。

 

むしろ逆だった。

 

残業灯に照らされた窓の一つ一つが、そのまま国家の焦燥を表しているようだった。

誰もが忙しい。誰もが事態の重大さを理解している。

それでもなお、この国はまだ、自分がどれほど深い場所まで踏み込んでしまったのかを、腹の底では飲み込み切れていない。

 

その一室だった。

 

庁舎の奥にある小会議室。

防音のためか壁はやけに厚く、窓にはブラインドが降ろされ、外の気配は完全に遮断されている。天井灯は落とされ、長机の中央に置かれたスタンドライトだけが、机上と、そこに向かい合う二人の男の輪郭を淡く浮かび上がらせていた。

 

暗い部屋の中、二人の男が対面していた。

 

一人は、STF副司令官・天野。

 

ーー背広姿だ。

 

軍服ではない。だが、その姿勢には明らかに官僚ではない硬さがある。椅子の背に深くもたれもせず、両足はわずかに開き、視線は相手の胸元から喉元あたりに自然と定まっている。

 

相手の目を必要以上に覗き込まない。だが、いつでもその表情の揺れを読むことはできる。そういう座り方だった。

 

向かいにいる男は、野村。

 

元防衛大臣。

いまは大和連盟党の代表。

 

転移事件後の社会不安と政治不信の中で急速に支持を広げつつある政党の長…いわば“戦後の終わり”を嗅ぎつけたような男だった。

 

老獪というには、どこかまっすぐすぎる。

まっすぐというには、あまりにも多くを知りすぎている。

 

そういう種類の男だった。

 

野村は先に口を開かなかった。

天野もまた、急かすような真似はしない。

 

数秒の沈黙。

空調の低い駆動音だけが部屋の隅で鳴っていた。

 

やがて、天野が低く切り出す。

 

「野村さん……元防衛大臣であるあなたが、私に用とは一体……」

 

声音は平静だった。

だが、その平静は歓迎のものではない。

警戒を表に出し過ぎないための、極めて意識的な『抑制』だった。

 

野村は、その言葉にわずかに目を細めた。

それが笑みなのか、疲労なのか、一瞬では判別できない程度の微細な動きだった。

 

「……すまないね。天野君。急に呼び出してしまって」

 

「……」

 

「一つ、頼み事があるんだ」

 

その言い方が、天野には少しだけ癪に障った。

 

頼み事。

 

だが、わざとそういう言葉を選んでいるのだとすぐに分かった。正面から脅すつもりはない。

 

圧をかけるにしても、まずは柔らかな言葉で距離を詰める。そういう政治家の癖が骨まで染みついている。

 

だからこそ天野は、相手の言葉の温度に乗らなかった。

 

「……あなたはもう、政治を主導できる立場ではないはずだ」

 

野村は即座に頷いた。

 

「その通りだ」

 

迷いがない。

そこを否定するつもりは最初からないらしかった。

 

「私は官邸にいるわけでも、与党の中枢ですらない。ただ、大和連盟党という――『転移事件』から発足したこの政党を束ねているに過ぎない」

 

「……一体、何が望みなんですか」

 

そこで野村は一拍置いた。

 

その間が妙に長く感じられたのは、天野が次に来る言葉を半ば予感していたからかもしれない。

 

野村は静かに言った。

 

「単刀直入に言おう…君たちの非公開情報を提供してくれないか」

 

部屋の空気が、すっと細くなったような気がした。

 

天野の表情はほとんど動かなかった。

だが、机の下に置かれた右手の指先だけが、わずかに力を帯びる。

 

露骨だった。

 

回りくどい探りではない。

省庁間連携だの危機管理共有だのといった、もっともらしい外套も被せてこない。最初から中核を口にした。

 

国家機密。

 

それも、STFと現政権が握る異世界関連情報。

未公表の接触報告、被害実態、各種族の行動傾向、文化構造。そうしたものを、いま目の前の男は欲しがっているのだ。

 

天野は低く言った。

 

「……あなたは、国家機密の漏洩を促している自覚があるんですか」

 

「もちろんあるとも」

 

それもまた即答だった。

 

そのあまりのためらいのなさに、天野は一瞬だけ言葉を失う。

この男は、自分がどれだけ危険なことを口にしているかを理解した上で、それでもあえて言っている。

 

野村は続けた。

 

「だが、私はそれを“漏洩”とは思っていない。必要な現実を、必要な場所へ流すだけだ」

 

「詭弁ですね」

 

「政治は詭弁の技術でもある」

 

天野は、そこで初めて明確に眉を寄せた。

 

反吐が出るような言い回しだ。

 

だが同時に、それを隠そうともしないところが厄介だった。善人の顔をして綺麗事を言う政治家より、よほど始末が悪い。

 

汚れていることを自覚した上で、その汚れを必要悪として差し出してくる男だった。

 

数秒の沈黙の後、野村は少しだけ声を落とした。

 

「天野君……私は、この異世界とは…わかり得ないと考えている」

 

その言葉に、天野の目がわずかに細くなる。

 

「……なぜ、ですか」

 

野村は、すぐには答えなかった。

机上の光の中に置かれた自分の手を見つめるようにして、ゆっくりと言う。

 

「『価値観』だよ。これに尽きる。」

 

声は低く、淡々としていた。

熱っぽくない。

 

だからこそ重かった。

 

「我々は、前世界でも戦争の危機はあった。台湾有事、朝鮮半島の緊張、南シナ海の摩擦、中東の不安定化……いくらでも火種はあった」

 

「……」

 

「だが、それでもなお、そこには最低限の“共有された枠”があった。国家とは何か。交渉とは何か。軍事行動の意味、停戦の意味、国境、国民、損得、世論。互いに敵対していても、何を痛いと感じるか、何を失えば交渉の席につくか、その輪郭だけは共有されていた。」

 

天野は黙って聞いていた。

 

野村の言っていることは間違っていない。

米中対立であれ、朝鮮半島情勢であれ、どれほど緊張が高まろうと、そこには近代国家同士のルールがあった。危機はあっても、外交の延長線上にあった。

 

野村は続ける。

 

「しかし、今回の争いで本当に『危惧』すべきは、我々が『彼ら』と一切価値観を共有していないことだ」

 

その言葉は静かだったが、机の上に置かれたまま鈍く響いた。

 

天野は口を開く。

 

「……そのための、我々でしょう」

 

わずかに自嘲の混じった響きだった。

STF。異世界環境調査、接触、分析、対話。そのために作られた部隊であり、組織であり、窓口だ。

 

野村は、そこで初めて小さく息を漏らした。

 

「ああ……そうかもしれないね」

 

肯定とも、慰めともつかない声音だった。

 

「だが、絶対はない」

 

「……」

 

「戦争は必ず起きるとは限らない。たしかにそうだ。今後、一定の均衡が成立する可能性もある。限定的接触で済むかもしれない。あるいは一部勢力とだけ関係を築き、致命的衝突を避けられるかもしれない」

 

そこまでは、天野も否定しない。

 

国家である以上、最悪を想定しながらも、なお最悪だけを前提にはできない。

 

戦争回避の可能性は最後まで探るべきだ。

それがSTFという国家の建前であり、同時に天野自身も信じていたい現実だった。

 

だが野村は、その直後に低く言い切った。

 

「だが決して起きないと言えるか?」

 

天野は答えなかった。

 

答えられなかった、と言うべきかもしれない。

野村はその沈黙を見つめ、さらに続ける。

 

「……いや。前世界よりも、起きる確率は跳ね上がっているだろう?」

 

その断定は、煽りというより確認だった。

もう皆うすうす分かっているだろう、とでも言うような、冷たい確認。

 

天野の胸の奥に、鈍い重さが沈む。

 

前世界の国際危機には、少なくとも『抑止』があった。

だがこの世界の異種族達には、それがどこまで通用するのか分からない。向こうが国家という形を持っていたとしても、その国家観、戦争観、生存観そのものがこちらとは違うのだ。

 

野村の目が、じっと天野を射抜く。

 

「問題の根本は、『戦争』が起きた後のことだ」

 

その言い方に、天野はわずかに身構えた。

 

野村は、そこでゆっくりと言葉を選ぶように続ける。

 

「戦争は一種の外交に過ぎない。……いや、そうでなければならないんだ。」

 

その一言には、古い軍人めいた硬さがあった。

だが、同時にひどく現実的でもあった。

 

「相手を痛めつけ、こちらも血を流し、その上でなおテーブルにつかせる。戦争とは本来そういうものだ。目的は殲滅ではなく、条件の変更だ。相手に損得を理解させ、譲歩を引き出し、秩序を再構成するための暴力だ。」

 

天野は低く言った。

 

「……それは、理屈の上の話でしょう。」

 

「理屈の上では、だ」

 

野村は頷いた。

 

「だが、価値観が合わなければどうなる?」

 

そこで初めて、野村の声がほんの少しだけ暗く沈んだ。

 

「こちらが『損害を与えれば交渉に応じるはずだ』と考えても、向こうがそもそもその枠組みで世界を見ていなければ意味がない。こちらが“ここで止めれば双方に利益がある”と計算しても、向こうがその利益の概念を共有していなければ止まらない」

 

天野の脳裏に、いくつもの報告書がよぎる。

 

捕食。

繁殖資源。

奴隷。

種族序列。

人間の男への執着。

 

価値があるから保護するのではない。価値があるから囲う。価値がないなら裂く。

 

それらはすべて、少なくとも近代日本人の感覚から見れば、外交以前の価値観だった。

 

野村が言葉を切る。

 

そして、ほとんど独白のように言った。

 

「価値観を共有できなかった国家間の行き着く先は……『絶滅戦争』だ」

 

その一言が落ちた瞬間、部屋の空気がさらに重くなった。

 

天野は息をつかなかった。

つけなかった。

 

絶滅戦争。

それは、軍事用語としても政治用語としても軽々しく使っていい言葉ではない。だが、異世界の生態に関する報告を目にし続けてきた天野にとって、それはもはや空想の単語ではなかった。

 

野村は、目を伏せもせず続ける。

 

「私は、悲観論を煽りたいわけじゃない。君たちの仕事を否定したいわけでもない。だがな、天野君……STFがどれだけ努力しても、相手の根本を変えることはできん。こちらが理性と共存を差し出しても、向こうがそれを受け取らない可能性は常にある。」

 

天野は、そこでようやく口を開いた。

 

「……だから情報が必要だと?」

 

「そうだ」

 

「国民を煽るために、ですか?」

 

「違う」

 

野村は即座に否定した。

 

「この国が、生き残る『形』を選ぶためだ。」

 

その答えは、あまりにも整いすぎていた。

 

天野は、そこでようやく椅子の背に浅く身体を預けた。

正面からぶつかり続けるだけでは、この男の言葉に飲まれると感じたのかもしれない。

 

野村は構わず続けた。

 

「君も感じているはずだ。STFだけでは足りないと」

 

天野の視線がわずかに揺れる。

 

その揺れを野村は見逃さなかった。

 

足りない。

その通りだった。

 

人員も。

装備も。

法整備も。

日本の覚悟も。

 

現場だけが先に現実を見てしまっている。

本土の多くはまだ、それを“国家の危機”としては感じていても、“文明存続の問題”としては理解していない。その落差が、天野の胸にずっと重くのしかかっていた。

 

だからこそ、野村の言葉には腹立たしさとは別の引力があった。

 

危険だ。

だが、ただの妄想ではない。

現実の暗い部分を、あまりにも生々しく言葉にしてしまう。

 

天野はそこで、ずっと引っかかっていた疑問を口にした。

 

「……そもそも、なぜ本田司令を呼ばないのですか」

 

その問いで、野村は初めてわずかに目を細めた。

 

予想していた質問だったのだろう。

あるいは、その質問が出るのを待っていたのかもしれない。

 

天野は続ける。

 

「本田司令のほうが、STFの現場判断にも、情報の重みにも、より直接責任を負っている。こういう話を持ちかけるなら、本来はあの人でしょう」

 

野村は、すぐには答えなかった。

 

スタンドライトの光の外、部屋の半分は闇に沈んでいる。

その薄暗がりの中で、野村の口元だけがわずかに動いた。

 

「簡単なことだよ」

 

「……」

 

「本田君は、私の話を理解するだろう。おそらく君以上に、危機の深さも嗅ぎ取るはずだ。」

 

そこで一拍。

 

「だが、理解した上で、断るだろうね」

 

天野の眉が動く。

 

野村は静かに続けた。

 

「彼は現場の人間だ。必要なら冷酷にもなれる。だが、その冷酷さは責任の線が明確な範囲でしか使わない。ああいう男は、国家のために泥を被ることはできても、政治の手つきで泥をこねることを嫌うものだ。」

 

その表現に、天野は反論しなかった。

 

まさにその通りだったからだ。

 

本田は、命令と責任と任務の線引きが明瞭な人間だ。

自分が撃つべき時には撃つ。切るべきものは切る。だが、世論を動かすために何を漏らし、何を煽り、どこまで社会を揺さぶるか――そういう政治的汚濁を、自分の正義としては引き受けない。

 

野村は天野を見る。

 

「君は違う」

 

その一言に、天野の顔がかすかに強張った。

 

野村の声は低い。

 

「君は現場を知り、それと同時に現場だけでは国家を動かせないことも知っている。報告書一枚で世論は変わらない。正論だけでは法は通らない。危機感だけでは予算は動かない。そういう国家機構の鈍さと面倒臭さを、君は知っている」

 

天野は、黙ったままだった。

 

だが、その沈黙は単なる拒絶ではなかった。

野村にはそれが分かっていた。

 

天野の中には、本田とは別の苦さがある。

現場を知りながら、現場の正しさだけでは何も進まない現実を何度も見てきた苦さだ。

 

野村は最後に、さらに声を落として言う。

 

「君に反逆をしろと言っているわけじゃない。私は、国家の眠りをいつまで続けるつもりなのかと聞いているんだ」

 

天野の喉が、ひくりと震えた。

 

机の下で握られた拳に、じわじわと力がこもっていく。

怒鳴るつもりではなかった。だが、野村の言葉を聞けば聞くほど、胸の奥に沈んでいた嫌な予感が、形を持って浮かび上がってくる。

 

それは単なる危機感ではない。

もっと古く、もっと粘ついたものだった。

 

かつてこの国が、自らを守るという名目で何をやったのか。

国民に何を語り、何を隠し、どうやって熱を煽り、どこへ連れて行ったのか。

 

天野は低く、だがはっきりと言った。

 

「あなたは……」

 

そこで一度、言葉が止まる。

 

いや、と訂正するように天野は首をわずかに振った。

目の前の男一人の問題ではない。

 

この男の向こうにいる連中、この男が動かそうとしている政治、この男が目覚めさせようとしている国家そのものへの拒絶だった。

 

「……いや、あなた達がやろうとしていることは、戦前と変わらない」

 

野村は黙っていた。

その沈黙が、逆に天野の言葉を続けさせた。

 

「国民を煽り、恐怖を焚きつけ、選択肢があるように見せかけながら、実際には一つの方向へ追い込んでいく……」

 

天野の声は、もはや怒鳴り声ではなかった。

抑え込んでいるからこそ、かえって底冷えするような硬さが出ていた。

 

「そして最後には、“国家のためだった”、“生き残るためだった”と正当化しながら、人々を地獄へ導いていく」

 

部屋の空気が、しんと張り詰める。

 

スタンドライトの白い光の下で、野村の表情はほとんど動かなかった。

だが、その目だけは、天野の言葉を一つも取りこぼすまいとするように静かに細められていた。

 

天野はなおも言った。

 

「私は、現場を見てきた。確かにこの異世界は危険だ。価値観も、生存競争も、我々とはまるで違う。だが……だからといって、その恐怖をそのまま政治の燃料にしていい理由にはならないはずです。」

 

野村は、すぐには反論しなかった。

 

天野の言葉が部屋の中に落ち、そのまま沈んでいくのを、ただ黙って聞いていた。

 

「戦前と変わらない」

「国民を煽り、地獄へ導く」

 

その響きは決して軽くない。政治家にとっては侮辱であり、国家を語る者にとってはほとんど断罪に近い言葉だった。

 

だが野村は、怒鳴らなかった。

 

机を叩きもしない。

顔を紅潮させもしない。

ただ、ほんのわずかに視線を落とし、組んでいた指を一度だけ解いた。

 

天野は睨むように野村を見ていたが、その静けさの前に、かえって自分の息遣いのほうが耳についた。野村が激昂してくれたならまだよかった。感情で返してくるなら、こちらも拒絶を貫きやすい。

 

だが目の前の男は、そうしない。

 

やがて野村は、低く口を開いた。

 

「……そう見えるだろうな」

 

その声は驚くほど静かだった。

 

天野の眉がわずかに動く。

 

「君がそう言うこと自体は、何も不思議じゃない。いや、むしろ当然だ。国家が危機を語り、国民に覚悟を求め、戦う準備をしろと言い始めた時、人はまず戦前を思い出す。この国は、それを経験してきたからね。」

 

一拍。

 

「当然だ。忘れていい記憶じゃない」

 

天野は黙っていた。

野村の口調は開き直りではなかった。そこが厄介だった。

 

野村はゆっくりと背もたれに身体を預けた。

スタンドライトの光が頬の皺を浅く照らし、その半分は闇に沈んでいる。

 

「国民を煽り、恐怖を利用する。情報を選び、都合の悪いものを伏せ、希望的観測と精神論で現実を塗りつぶし、最後には引き返せない場所まで人々を連れて行った」

 

野村は自分の言葉を一つ一つ確かめるように言った。

 

「その歴史はある。否定しない。君の言う“戦前”とは、おそらくそういうものだろう。」

 

天野はそこで低く返した。

 

「なら、なおさら…なぜ同じ方向へ舵を切ろうとするのです。」

 

野村は天野を見た。

その目には怒りではなく、ひどく古い疲労のようなものがあった。

 

「同じではないからだよ。」

 

「……」

 

「少なくとも、私は同じことをやろうとしているつもりはない」

 

天野の表情は変わらない。

だがその沈黙に、野村はかまわず踏み込んだ。

 

「戦前の国家が何を誤ったか。私は、軍を持ったことそれ自体だとは思わん。危機感を持ったことでも、備えたことでもない。誤ったのは、現実を直視するふりをしながら、最後には現実を見なくなったことだ。」

 

その言葉に、天野はわずかに目を細める。

 

野村の声は少しずつ硬くなっていった。

 

「都合のいい勝算に縋り、相手を都合よく誤解した。精神で物資の不足を埋められると思い込み、犠牲の総量を見ないまま拡大し続けた。負けが見えてからも“まだいける”と言い続けた。あれは国民を煽ったことそのものより、現実を最後まで見なかったことが致命的だったんだ。」

 

野村は机の上に置いた手を静かに組み直した。

 

「君は、私が恐怖を政治の燃料にしていると言ったな。たしかにそう見えるだろう。危機を口にし、国家の覚悟を求め、国民に平時の終わりを突きつける。見ようによっては、いくらでも危険な政治家だ」

 

そこで、野村はほんの少しだけ口元を歪めた。

 

「だがな…天野君。恐怖を口にすることと、恐怖で国民を酔わせることは違う」

 

「同じことでしょうッ…」

 

「違う」

 

野村は即座に言い切った。

 

その一言には、先ほどまでの静けさとは別の鋭さがあった。

 

「戦前が『危険』だったのは、恐怖だけを与えたからじゃない。恐怖に“栄光”を混ぜたからだ。死を美化し、犠牲を誇りに変え、敗北の可能性を語る者を臆病者として排した。国家の生存戦略が、いつのまにか国家そのものの神話へすり替わっていったからだ」

 

野村は、そこで初めてわずかに身を乗り出した。

 

「…私は、そんなものを語っているか?」

 

天野は言葉を挟まない。

 

野村は続ける。

 

「栄光など一言も言っていない。誇り高い戦いとも言っていない。むしろ逆だ。私はこれから先の日本が、醜くなり、息苦しくなり、誇れない判断を山ほど迫られると言っている。国民に負担を強い、自由を削り、平時なら到底受け入れられない政策も通すことになるかもしれない」

 

天野の視線がほんのわずかに揺れる。

 

それは野村の言葉の過激さゆえではなかった。

むしろ、その醜さを野村が一切美化していないことに対してだった。

 

野村は低く言う。

 

「私は地獄を天国だと言って売り込んでいるわけじゃない。地獄になるかもしれないと分かった上で、それでも入らなければ国が残らないと言っているんだ」

 

その言い方に、天野の顔色がわずかに険しくなる。

 

野村はそれを見据えたまま続けた。

 

「気に入らんだろう。私も気持ちのいい話だとは思わん。だが、国家が本当に存亡の際に立った時、国民に“何も変えなくていい”“今まで通りの日常を守るために、誰かがうまくやっておく”とは言えん。そんなことを言う方が、よほど不誠実だ。」

 

天野は低く、抑えた声で言った。

 

「だが、恐怖は人を壊します。壊れた世論は正しい判断をしない。今の社会で一度火がつけば、どこまで燃え広がるか分からないでしょうッ…」

 

「分かっているとも」

 

野村はすぐに応じた。

 

「だから私は“全部をそのままばら撒け”とは言っていない。必要なのは恐怖の拡散じゃない。危機の輪郭だ。国家が何に直面しているのか、その本質を共有することだ」

 

続けて、野村は言い切った。

 

「恐怖の拡散とは、感情だけを先行させることだ。敵意と噂と嫌悪だけが走り、現実の構造を理解させないことだ。私が欲しいのはその逆だ。感情論ではなく、根拠のある『危機認識』だよ」

 

天野は鼻で短く息を吐いた。

 

「政治家の口から聞くと、ずいぶん信用しづらいですね。」

 

野村は、その皮肉を受けても崩れなかった。

 

「当然だ。政治家は信用されなくて結構だ。だが国家が現実を理解しないまま沈むよりは、嫌われた方がまだましだ。」

 

数秒、沈黙が落ちた。

 

野村はやがて、声をさらに低くする。

 

「天野君。君は“国民を地獄へ導く”と言った」

 

「……」

 

「なら逆に聞こう。何も知らせず、何も変えず、平時の顔をしたまま手遅れを迎えることは、地獄ではないのかね?」

 

天野の喉がわずかに動いた。

 

野村は止まらない。

 

「前線だけが現実を知り、本土は知らない。現場だけが危機を嗅ぎ、政治は曖昧な言葉でぼかし、国民はまだどこかで“何とかなるのだろう”と思っている。私は、その構図こそ一番危険だと思っている」

 

机の上のスタンドライトの光が、二人のあいだだけを白く照らしている。

その外側の暗がりは深い。

 

野村はその光の中で、はっきり言った。

 

「だが…戦前と違う点が一つある」

 

天野は黙って見返した。

 

「我々には、『過去』を知っているという一点がある」

 

一拍。

 

「少なくとも私は、国民に夢を見せるつもりはない。皇国の栄光も、名誉ある犠牲も語らない。語るのは、冷たい現実だけだ。この異世界と我々の間に、どれほど深い『断絶』があるか。何が通じ、何が通じないか。負ければ何を失うか。勝ったとしても何を捨てることになるか…」

 

天野はそこで初めて少しだけ視線を落とした。

それは屈したからではない。野村の言葉が、思った以上に自分の中へ入り込んできていることを感じたからだ。

 

野村は、その微細な変化を見逃さない。

 

「君は私を危険だと思っているだろう」

 

「……ええ」

 

「その感覚は正しい」

 

野村は平然と言った。

 

「こういう時代に“国家は変わらねばならない”と語る人間は、だいたい危険だ。私もその例外ではないからね。」

 

その言葉に、天野はすぐ反論できなかった。

 

野村は続ける。

 

「私は国民を熱狂させたいわけじゃない。熱狂は判断を狂わせる。必要なのは、冷えた覚悟だ。嫌でもやらねばならないことを、嫌だと自覚した上でやる覚悟だ。そこに美学も陶酔も要らん」

 

その声音には、ひどく乾いた確信があった。

 

「もし君が言うように、私たちがまた国民を地獄へ導こうとしているのだとしても――」

 

そこで野村は、ほんのわずかに言葉を切った。

 

「少なくとも私は、その地獄を“楽園だ”とは言わん。そこが、過去と同じであってはならない最低ラインだと思っている」

 

天野は黙っていた。

 

その“最低ライン”があまりにも低いことに、怒りを覚えなかったわけではない。

だが同時に、戦前を知った上でなお国家の変質を口にするこの男が、少なくとも自分のしていることの危険性を理解していることも見て取れた。

 

無自覚な扇動者なら切り捨てられる。

だが、どれだけ危険かを知った上で、それでも必要だと言う人間は簡単には退けられない。

 

野村は最後に、ゆっくりと言った。

 

「君が私を拒絶するのは自由だ。むしろそうするべき立場だろう。だが、私を戦前の亡霊として片付ける前に、一つだけ考えてくれ」

 

天野は視線を戻した。

 

野村の声は低い。

 

「この異世界の前で、いまの日本が守ろうとしている“平時の作法”は、本当に国民を守るためのものか。それとも――

 

光と闇の境目にある顔が、わずかに細くなる。

 

「自分たちがまだ平時の人間でいられると信じたいだけの、最後の言い訳なのか。」

 

部屋は静まり返っていた。

 

天野は反論の言葉を探した。

いくつも浮かぶ。機密保持、秩序維持、段階的公開、社会安定、国民保護。どれも正しい。どれも必要だ。

 

だが、それらを並べたところで、野村の反論が消えるわけではないことも分かってしまっていた。

 

それが、何よりも彼を苦しめた。

 

ーー

 

野村が部屋を出たのは、天野との会談が終わってから十分ほど後だった。

 

廊下は静まり返っていた。

深夜の霞ヶ関特有の、あの妙に乾いた静けさがある。人の気配は消えているのに、完全な無人ではない。どこか遠くで複合機が低く唸り、別の階ではまだ誰かが起きているのだろう、金属製のドアが閉じる鈍い音がかすかに伝わってくる。

 

野村は足を止めなかった。

会談を終えたばかりの男にしては、歩調は妙に一定だった。焦りもなく、かといって余裕があるわけでもない。感情を脚に乗せない歩き方だった。

 

その半歩後ろを、側近の男が追う。

 

年齢は四十代手前。

政治家の秘書というより、むしろ古い官僚組織に長くいた人間のような、目立たぬ顔つきの男だった。野村が転移事件後に大和連盟党を立ち上げてから、表には出ず、裏で人と情報を繋ぐ役割を担っている。

 

二人は人気のない通路を折れ、庁舎の一角に設けられた小さな控室へ入った。

灯りは半分だけ点いている。壁際のソファ、簡素なローテーブル、冷めかけた茶の入ったポット。いかにも“長居するためではなく、一時的に人を隔離するための部屋”だった。

 

ドアが閉まる。

 

そこで初めて、側近が口を開いた。

 

「……宜しかったのですか?」

 

野村は上着の前を軽く整えながら、振り返りもせずに答えた。

 

「何がかね?」

 

「天野副司令に、あのようなことを言って……」

 

側近は慎重に言葉を選んでいた。

だが、その声の奥には明らかな緊張があった。

 

「情報提供の打診だけでも危ういのに、あそこまで踏み込んだ。天野副司令がその気になれば、代表も……」

 

野村はそこで小さく鼻を鳴らした。

 

「ただでは済まないだろうな」

 

あまりにもあっさりした言い方だった。

 

側近は思わず言葉を失う。

もっとも、野村が自分の立場の危うさを理解していないとは思っていなかった。だが、ここまで平然と口にされると、逆に薄ら寒いものがある。

 

「……なら、なぜ?」

 

その問いに、野村はすぐには答えなかった。

 

部屋の隅に置かれた安物のハンガーへ上着をかけるでもなく、ただ椅子の背に手を添えたまま、しばらく黙っていた。

沈黙は長くはなかった。だが、その短い間に、側近は妙な違和感を覚えた。

 

野村が、珍しく迷っている。

 

いや、迷いというより――

自分自身の内側を測りかねているような、そんな沈黙だった。

 

やがて野村は、独り言のように言った。

 

「……私自身も、血迷ったのかもしれないな……」

 

側近が顔を上げる。

 

「……は?」

 

思わず間の抜けた声が漏れた。

野村の口から、そんな言葉が出るとは思ってもみなかったからだ。

 

血迷う。

その単語は、この男に最も似合わないはずだった。冷静で、計算高く、政治的損得を秤にかけることに長けた男。少なくとも周囲はそう見ている。実際、それは間違っていない。

 

だが野村は、そこでゆっくりと首を振った。

 

「いや……」

 

小さく息を吐く。

 

「……これは、正気だったのか…?」

 

側近は黙った。

 

野村は椅子に腰を下ろした。

深くもたれず、両肘を膝の上に置く。会談中に見せていた、相手を射抜くような重心の低い座り方とは少し違う。いまは誰かに圧をかけるのではなく、自分の内側に沈んでいくような姿勢だった。

 

「……」

 

側近は立ったままだった。

座るべきか迷ったが、結局そのまま口を閉ざす。いま余計な声を挟むべきではない。野村が何かを吐き出そうとしている時、その流れを止めると、もう二度と出てこないことがあると知っていたからだ。

 

野村は、視線を床へ落としたまま言った。

 

「現政権の情報統制は、絶対に限界を迎える」

 

断言だった。

 

淡々としている。

だがそれは確信であり、同時に予言に近かった。

 

「恐らく……いや、ほぼ間違いなく、その情報は、今の日本国民を変質させるには十分なものだろう……」

 

側近の喉がわずかに鳴る。

 

「それは……」

 

言いかけて、言葉が止まる。

何を指しているのかは分かっている。

 

STFが握る非公開情報。

種族格差。

捕食。

繁殖。

各地で起きている断片的接触事案。

そして、それらが決して“辺境の一事件”では済まない可能性。

 

いまはまだ、本土の多くの人間にとって、それらは煙の向こうの話に近い。

だがいつか、それがまとまった形で社会へ流れ出た時、受け止め方はただの『驚愕』では終わらないだろう。

 

野村は顔を上げなかった。

 

「国民は、いずれ…この世界を憎み、恐怖する……」

 

その声は、先ほどまで天野に向けていた時のものとは違っていた。

政治家の声ではない。もっと個人的で、ずっと湿ったものだった。

 

側近は、慎重に問う。

 

「……それを、代表は望んでいるのでは?」

 

その問いには恐る恐るという響きがあった。

 

野村は少しだけ口元を歪めた。

笑ったわけではない。

むしろその逆で、自嘲に近い何かだった。

 

「望んでいる……か」

 

低く繰り返す。

 

「私は、必要だとは思っているが…」

 

一拍。

 

「だが、望んでいるわけではない」

 

その言葉に、側近は答えなかった。

答えようがなかった。

 

野村は続ける。

 

「必要だから進める。必要だから暴く。必要だから、この国を眠らせたままにはしない。そこに偽りはない。だがな……」

 

そこで初めて、野村はゆっくりと顔を上げた。

 

スタンドの光よりも弱い室内灯が、その目の下の影を深くしていた。

疲れている。

それだけではない。何か、もっと古いものに疲弊した顔だった。

 

「私は……不安なんだ」

 

側近は息を止めた。

 

それは、ほとんど聞いたことのない言葉だった。

野村が怒るのは見たことがある。冷笑するのも、割り切るのも、決断するのも見てきた。

 

だが、不安と言ったことはほとんどなかった。

 

野村は、その戸惑いに構わず続けた。

 

「私たちは……制限がなければ、どこまで……タガが外れるのか…それが、わからないんだ…」

 

その一言は、ひどく重かった。

 

部屋の空気が、そこで完全に別のものへ変わった。

 

側近は思わず眉をひそめる。

 

「……代表」

 

野村は視線を逸らさない。

いや、見ているのは側近ではなかった。側近の向こう、もっと遠い場所だった。

 

やがて、ほんの少しだけ乾いた声で呟く。

 

「……確か、誰だったか……」

 

側近は顔を上げる。

 

野村の視線は、まだ旗に向けられたままだった。

 

「怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物にならないようにしなければならない……だったか」

 

言い切ったあとも、野村はすぐには動かなかった。

 

引用として口にしたというより、胸の奥にずっと沈んでいた言葉を、ようやく拾い上げたような言い方だった。誰の言葉だったかも曖昧だ。正確な文言ですらないのかもしれない。

 

だが、その不確かさがかえって生々しかった。

 

野村は小さく息を吐く。

 

「……もっとも」

 

唇の端が、わずかに歪む。

笑いではない。自嘲に近い、疲れた動きだった。

 

「それを口にする時点で、もう手遅れなのか…?」

 

野村は、なおも日章旗を見つめている。

 

白地に赤い円。

それは長くこの国の上に掲げられてきた旗だった。焦土の上にも、復興の街にも、平和国家の看板の下にも、災害現場にも、自衛隊の車両にも、国会議事堂にも、ずっと同じ顔で掲げられてきた。

 

『守るべきもの』。

そして同時に、その名の下で人がどこまで壊れるのか分からないもの。

 

その両方だった。

 

その視線は、忠誠というにはあまりにも重く、むしろその旗を守るために、この国がどこまで壊れていくのかを測りかねている者の目に近かった。

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