異界にて、雄は資源と化す    作:Henon

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新大陸東部のドラゴニュート部族との交流 記録その1

 

 

空を切り裂いて、UH-60Jは低く唸りながら飛んでいた。ローターの振動は大気を震わせ、骨の芯まで響くほどだ。

機内には油と金属と汗の混じった匂いが充満し、赤いランプの光が断続的に乗員の顔を照らし出す。

 

機内では誰ひとり余計な言葉を発さず、座席に深く身を沈め、ヘッドセット越しに聞こえるのは互いの呼吸音だけだった。

 

その緊張を破ったのは、外交官の声だった。

ヘルメットを被ったものの、軍人らしからぬ仕草が目立つ男である。スーツの上から着せられた防弾ベストが不格好に見え、握りしめた拳は明らかに汗で濡れていた。

 

「……大丈夫なんでしょうか」

 

彼はためらいがちに口を開き、インカム越しに小さく問いかけた。声は揺れ、機体の低音にかき消されそうになる。

 

一瞬、機内の空気がさらに重くなる。

六人――護衛を含め、たったそれだけの人数でこれからドラゴニュートの村へと入るのだ。異種族の集落へと。しかも、今回は儀礼的な訪問ではなく、本格的な「交流」の第一歩。外交官の声が震えるのも当然だった。

 

「……少なくとも」

 

前方でヘルメットのバイザーを上げていた隊員が、振り返らずに答えた。声は落ち着いているが、重みを含んでいた。

 

「今回の本格交流に至るまでに、近藤が何度もあの個体――アルザと接触し、交渉の日程や条件を取り決めてくれました。ですから大丈夫でしょう」

 

外交官は小さく息を呑む。

その言葉は慰めであると同時に、現実的な保証でもあった。実際、アルザとの度重なる接触は衝突を避け、最低限の信頼を築き上げてきた。彼女が示した条件が“六人”であったことも含めて。

 

だが、外交官の目はなおも不安を宿していた。

 

「……しかし、もし彼女らが条件を翻したら?」

 

「緊急用の部隊が付近で待機しています」

 

別の隊員が応じた。

 

「嗅覚が敏感な連中だから、少々遠方に展開していますが……合図を送ればすぐに駆けつけるでしょう」

 

機内に沈黙が戻る。

外交官は唇を噛み、背中をシートに預ける。

その横で近藤は黙したまま、銃の安全装置を確認し、窓の外に広がる黒々とした夜を見据えていた。彼の横顔は冷静に見えるが、その沈黙には覚悟のような硬さがあった。

 

外交官はその表情に目を止めた。

 

(この人たちがいるから、きっと大丈夫だ…)

 

そう心中で繰り返しながらも、心臓の鼓動は早鐘を打ち続けていた。

 

『……到着まで、あと数分だ』

 

パイロットの無機質な声がインカムに流れる。

 

外交官は小さく喉を鳴らし、無意識のうちに首筋へと手を当てた。

その先に広がるのは、未知の村、未知の種族。彼女らが何を求めているのか、想像する術はない。

恐怖は薄れるどころか、ヘリの轟音に煽られながら胸の奥で静かに、しかし確実に膨れ上がっていった。

 

ローターが朝靄をたたき割っていく。

UH-60Jの側窓がふっと明るみ、視界の下に黒い鏡が現れた。葦原は薄い銀に濡れ、波紋は風ではなく回転翼の息で震えている。

 

「例の池だ。あそこ付近に着陸してくれ」

 

機内から振り返らずに投げられた指示。短く、迷いがない。

 

『了解』

 

機体はわずかに機首を落とし、ローターの洗いが葦を倒して黒い水面を広げる。赤灯に押されていた朝の白が内壁に這い上がり、隊員の頬や装備の縁を平らに照らした。緊張で呼吸が浅くなるのを、皆、胸骨の奥で押し留めている。

 

窓の外、池の縁がひらける。葦の切れ間――そこに、立っていた。

影は長い。背が高い。肩が広く、胸部が大きい。尾は泥の上に細い円を刻んでいる。槍の穂先は低いが、決してこちらから逸れてはいない。

 

「池近くにいる人影…奴らがドラゴニュートか」

 

後部座席の護衛が、ガラス越しに息を曇らせながら言う。指の先が自然にマガジンの底を確かめる動きをして、すぐに離れた。誤解を作らないための手が、訓練どおりに元の位置へ戻る。

 

外交官が窓に身を寄せ、喉の奥で掌ほどの勇気を転がしてから、声にした。

 

「…でかい、ですね」

 

その小さな感嘆は、誰も否定しない。

池の縁に立つのは六。こちらと同じ数だ。盾持ちが二、弓を背に負う影、そして中央で半歩前に出ている個体。朝の光はまだ薄いが、輪郭は鈍らない。中央の個体だけが顎をわずかに持ち上げ、空気を嗅いだ。風の帯を拾う、訓練された仕草。

 

隊長がヘルメットの縁を指で押し下げ、視線だけで数と配置をなぞる。

 

「奴らも少人数だな。案内役か…近藤、真ん中のやつがアルザか?」

 

近藤は窓から目を離さず、短く答える。

 

「はい。そうです」

 

アルザは、その返事を聞いたかのようにこちらへ顔を向けた。

目が合った。わずかに唇の端が上がる。それは歓迎というより、“約束どおりに来たな”という確信の笑みだ。

 

機内の空気はさらに鉛を溶かしたように重くなる。

救援は風下の遠方――“すぐ”には望めない。誰も言葉にしないが、同じ残り時間を脳裏の端で計っている。だからこそ、踏み出す最初の一歩が命綱だ。それをひとつでも違えれば、帰路は閉ざされる可能性がある。

 

ローターの唸りが一段低くなり、着陸灯が池の縁を白く切り取った。葦は刈り払われたように倒れ、そこだけが平たい舞台になる。アルザはその光に顔を上げて笑う。

喉の奥で小さく鳴った気配が、ガラスごしに伝わってくる。威嚇ではない。合図だ。手順に従う意思表示。

 

隊長が手首を回し、短い指示を落とした。

 

「近藤が前、外交官は左後ろに。他は扇状に展開しろ」

 

「了解」

 

金具がかすかに鳴り、安全装置に触れた指が離れる。

外交官は書類ケースを脇に抱え直し、泥に足を取られる前の自分の足取りを思い描いてから、一度深く息を吸った。

その横で近藤を含む隊員たちは、それぞれのスーツの状態を念入りに確認する。

 

窓の外――アルザの瞳孔が、ほんのわずかに開いてすぐ戻るのを近藤は確かに見た。

 

『……降下する』

 

操縦士の声。機体が身を沈める。ローターの風で水面がほどけ、また重なる。葦が震え、朝の匂いが機内に満ちる。

 

境界は、もう目の前だった。

アルザは微笑みを崩さず、ただ静かにこちらを待ち受けている。

こちらもまた、定められた手順どおりに応じなければならない――誤解を生まぬために。

 

そして何より、生きて帰るために。

 

ロックが外れる乾いた音。

冷たい空気が押し寄せ、六つの影が朝の池へ、ゆっくりとほどけていく。

 

ーーー

 

朝の光が水面で砕け、葦の先に白い霧が薄く残っていた。

ローターの唸りが落ち、機体の腹から吐き出された熱が消えると、池の匂い――泥と藻と鉄の湿り――が濃くなる。六人は隊形を保ったままヘリから降り、銃口を下げて停止した。風は弱く、こちらの匂いが帯になって岸へ流れていく。

 

葦の切れ間から現れた彼女らの体は、ただ“巨大”というだけではなかった。

朝の光に濡れた鱗が、しっとりとした艶を帯びて光を返す。身体の一部を覆う鱗板は鋼の鎧のようだ。だがその下から押し上げるように盛り上がる厚い柔肉は、呼吸に合わせてゆるやかに波打ち、存在を確かに主張していた。その深い胸郭の起伏は女の豊かな膨らみを思わせ、吸い込む息のたびにその谷間がひそやかに強調される。

 

腹部は平らで滑らかだが、鱗の継ぎ目が微細に揺れることで、皮膚に指を這わせた時のような生々しい想像を呼び起こす。腰のくびれは力強くも柔らかく、そこから尻へと続く曲線は厚みと重さを孕み、泥に尾を引きずるたびに官能的な軌跡を刻む。

 

脚はしなやかで逞しく、太腿は力強く盛り上がる。

鱗に覆われた外側の硬さと、内側に潜む柔らかさが鮮やかな対照をなしていた。

膝から下の筋肉は立っているだけで律動を繰り返し、汗を孕んだ匂いを風に乗せて放つ。

 

唇は艶やかに濡れ、口角をにやりと吊り上げる。

その笑みは――獲物を狙う狩人か、悦びを噛み殺す雌か、判別のつかないものだった。

 

「まっていたよ、近藤……そちらがお仲間かな?」

 

アルザの声は湿り気を含み、喉奥で短く鳴る。それは低い囁きのようで、肌を撫でる風に似ていた。

 

「……言われた通り護衛含め六人だ」

 

近藤の声が硬く響く。アルザは鼻先を持ち上げ、ひと息吸い込んだ。胸の膨らみが大きく張り、再び鼻から白い息が吐き出される。

 

「そのようだね。……すごいな、本当に全員雄なのかい?」

 

吐息混じりの言葉には抑えきれぬ熱が滲んでいた。

周囲のドラゴニュートたちも同じように息を荒くし、胸郭が上下するたびにその肉体は艶やかな重みを伴って揺れた。鼻孔が開き、甘やかな匂いを探るように首を傾ける。その仕草ひとつひとつが、欲を隠しきれぬ女たちの群れを思わせる。

 

外交官が肩を強ばらせる中、隊長は一歩前に出て問いかけた。

 

「失礼……村落への案内はどうなっている?」

 

アルザは尾の先で土を叩き、唇を湿らせるように舌を走らせた。

 

「徒歩で案内するよ。…もちろん安全にね」

 

その声音には、単なる約束以上の含み――獲物を自らの巣に導く雌の艶めいた確信が、確かに宿っていた。

 

ーーー

 

森は朝露を解かしながら息をしていた。

土は柔らかく沈み、踏みしめるたび腐葉土の匂いが立つ。低い枝葉が頭上で擦れ、光は細い帯になって地面へ降りる。先導するドラゴニュートたちは、尾で空気を撫でるように合図を送り、鱗に朝の白を砕いて進む。歩幅は大きいのに、足音は驚くほど小さい。胸郭の呼吸が厚く満ちては戻り、肩の鱗板がしっとりと光を返す。その艶は汗ではなく、生き物そのものの温度だった。

 

六人は扇形を保ち、隊形を崩さない。

近藤は半歩前、外交官はその斜め後ろ。護衛二名が左右に寄り、残りが背を押さえる。装備の金具がときどき微かに鳴り、また森の音へ沈む。風は右から左へ、香りは切り裂かれず帯になって流れていた。

 

隊長が低く問う。

 

「…近藤。今更だがフェロモン抑制スーツは本当に機能するのか?」

 

「ええ、ある程度は機能します。近づきすぎると……わかりませんが」

 

隊長の問いに答えながら、近藤の脳裏に、かつてのアルザとの接触が甦った。

彼女たちにとって匂いは、言葉以上のものなのかもしれない。

抑制スーツがあるとはいえ、完全に遮断できるわけではない。むしろ、濃度が高まりすぎれば――逆に性欲を煽る。近藤はそれを身をもって知っていた。

 

そんな事を思っていると、すぐ前から柔らかく笑う声がした。

 

「なるほどね。君たちは自身の匂いを何かの服でどうにか抑えてるのか」

 

護衛の一人が目だけで近藤に視線を送る。近藤が淡々と言い返す。

 

「……盗み聞きとは趣味が悪いな」

 

アルザは振り返らない。尾の先だけが楽しげに弧を描いた。

 

「あいにく私たちは耳もよくてね。別に隠さなくてもいいじゃないか。いい匂いなんだから」

 

外交官の喉が小さく鳴り、隊形が微かにきしむ。隊長が指先で“維持”の合図を送る。

 

「……」

 

アルザは歩を緩めず、低く囁く。

 

「今までの交流で、匂いよりも濃いものを『たくさん』もらったからね。……それに『番』だし?♡」

 

葉の影が風で揺れ、光が一瞬だけ彼女の頬に走る。

後列のドラゴニュートが鼻孔をひらき、呼吸が少しだけ熱を帯びる。胸の起伏が揃って速くなり、喉の奥で短い鳴きが連鎖する。威嚇ではない。群れが『良い匂い』を拾ったときの、抑えた高揚のリズムだ。

 

「番……?」

 

隊長の眉がわずかに動く。疑問符を飲み込み切れず浮かべたまま、視線は正面を外さない。

 

アルザは肩越しに、琥珀の目を細めた。

 

「黙って案内しろ」

 

近藤の声は低く、枝葉の擦れよりも硬い。命令の音色だ。

護衛の親指が安全装置の上で止まり、外交官は息を吐いて足運びを整える。

 

アルザは肩を小さくすくめるだけで、素直に前を向いた。

尾先が地面を二度、軽く叩く。左右の先導が半歩ずれて、狭い曲がりを示す。道は細く、苔むした倒木を跨ぐたび、鱗の艶が光を砕く。太腿の外側で重なる鱗は硬く、内腿は細かい鱗がしっとりと並ぶ。歩くたびにその面がわずかにきらめき、腰から尻へ続く厚みが柔らかく揺れる――だが、雑ではない。獣のしなやかさに似た、計算された重心移動だ。

 

外交官は声を震わせぬよう努めながら、前を行くアルザに問いかけた。

 

「その……今回は、あなた方のリーダーと面会する。そのような予定でよろしかったですか?」

 

振り返ったアルザの瞳は、琥珀色の光をやわらかに湛え、唇がにんまりと吊り上がる。

 

「もちろん。我らが族長も君たちと交流したがっているからね」

 

その言葉を聞いた外交官の胸から、ふう、と小さな安堵が漏れた。肩に入っていた力がわずかに抜ける。未知の異種族が歓迎の意思を示す――その一点だけで、緊張に張り詰めていた神経は一瞬、緩和へ傾いた。

 

だが、その背後で進む護衛たちの視界には、異なる空気が映っていた。

 

歩幅をやや落とした護衛のドラゴニュートたちが、わずかに隊列をずらしながら近づいてくる。尾の先で地面を擦り、わざとらしく横へ振るう。

護衛の隊員の脛に、その尾がかすめていく――湿り気を帯びた鱗の感触が、硬い生地越しに伝わった。

 

一人のドラゴニュートは、並んで歩く護衛隊員の脇に肩を寄せ、鱗に覆われた上腕を押しつけてくる。呼吸に合わせてその肉の厚みが擦れ、熱を持った感触が密着する。

別の一体は、尾を軽く巻きつけるようにして隊員の背中を叩き、挑発めいた笑みを唇に浮かべていた。

 

「……」

 

護衛の隊員たちは言葉を飲み込み、銃を構えることもせず、ただ前方を見据え続けた。彼女らに触れられても敵対行為でなければ攻撃しない――その不文律を守る。だがそれは、裏を返せば“受け入れている”と誤解されかねない危うさでもあった。

 

案の定、ドラゴニュートたちの呼吸は徐々に荒くなっていく。

鼻孔がわずかに震え、胸郭が大きく上下する。肩口の鱗が膨張し、尾が地面を叩く速度が上がる。視線は正面に向けられながらも、その瞳の奥には抑えきれない昂ぶりが灯り、喉奥から短い鳴きが漏れる。

 

匂い――雄の存在が確かにここにある。

意識が集中する外交官を狙えば即座に警戒される。だが、護衛に戯れる程度なら致命的な衝突には至らない。その“狡猾な計算”を本能で弾き出し、彼女らは尾で、指で、肩で、異界の雄の肉体に触れていく。

 

一度触れて反応がなければ、さらにもう一度。

触れても反撃してこない未知の雄に対し、ドラゴニュートたちの興奮のボルテージは確実に高まり続けていた。

湿った森の空気に混じって、彼女らの熱い吐息が広がっていく。

 

確かに――抑制スーツは万能ではなかった。

接触実験の段階でも分かっていたが、距離が縮まれば縮まるほど、その効力は目に見えて薄れる。発せられるフェロモンは布越しに遮断できても、密着すればどうしても隙間をすり抜ける。ドラゴニュートたちの鼻先はそれを確実に拾い、さらに触覚で確認しようとする。

 

護衛たちは隊形を崩さず前進を続ける。だが、左右から絡みつく尻尾が鬱陶しいほどに身体に触れてきた。

硬質な鱗の手触りと、意外なほどしなやかな筋肉のしなりが同居する。腰や脇腹を撫で回すように這い、わざとらしく股間に近づく気配すらある。

 

「……ッ」

 

隊長は振り返らず、腰の横に絡みついた太い尾を手の甲で荒々しく払い落とした。

 

バシッ、と乾いた音が朝の森に響いた。

叩かれた尾の持ち主――護衛役のドラゴニュートの一体が、肩を大きく震わせ、喉から艶めかしい声を上げた。

 

「ンフゥッ♡」

 

その声は、痛みよりもむしろ快楽の余韻に似ていた。唇が濡れ、瞳孔がとろけたように開く。

押しのけられることを拒絶とは解釈せず、“戯れの応酬”として受け取っている。

 

他の個体もそれに釣られるように息を荒くし、尾を叩かれた女の肩口へ視線を送りながら、胸を膨らませた。鱗の隙間から熱が滲み出し、吐息に混ざって濃い湿り気を帯びる。

 

護衛の隊員たちは一様に顔をしかめ、銃を握る手の力を強めた。だが、射撃は許されない。外交任務下での接触――それがいかに挑発的であろうと、発砲すれば即座に関係が破綻する。

 

だからこそ彼らは、わざとらしく絡みつく尾を叩き落としながら、無言で進むしかなかった。

尻尾を叩くたびに乾いた音が鳴り、そのたびにドラゴニュートたちが甘い声を漏らしていった。

 

ーーー

 

いつの間にか、アルザが近藤の隣に並んでいた。

背丈で半ば覆いかぶさるように歩きながら、後方で護衛たちが尻尾に弄ばれている様子をちらと振り返り、にやりと口角を吊り上げる。鱗の間から覗く白い歯が、肉食獣の微笑を思わせた。

 

「……前から疑問だったがね」

 

アルザは声を低め、近藤の耳元に吐息をかけるように囁いた。

 

「なぜ雄を外交官や護衛としてよこすんだい?君たちの群れは本当にバカなのかい?」

 

近藤は顔を正面に向けたまま、唇だけで応じた。

 

「……頭の中がピンクに染まった連中に言われたくはないな。それに――誰を派遣するかは、俺たちが決めることだ」

 

アルザの喉がくぐもった音を立てる。それは嗤いとも甘えともつかぬ響きだった。

 

「言ってくれるねぇ。散々交流で気持ちよくなった仲じゃないか♡ ……まあ、村に着いても可愛がってあげるよ」

 

近藤の眉間に皺が寄る。

 

「今回の交流でお前と過ごすのは、通訳と案内の期間だけだ」

 

アルザはわざと大げさに肩をすくめ、艶やかな胸郭を揺らした。

 

「なら、ほとんどじゃないか♡そんなツンツンしてないでさ……もっと、こっち来なよ」

 

その言葉と同時に、手が伸びてきた。

鱗に覆われた大きな掌が、近藤の脇腹をなぞる。硬い甲殻の表面と、その下に潜む体温の入り混じった感触が布越しに伝わってくる。最初は軽く、確かめるように。だが次第に指の動きは滑らかになり、肉を押し込むような圧力へ変わる。

 

さらに尾の付け根から伸びる指先が、無遠慮に腰骨を撫で、尻の曲線に沿って這い降りてきた。

 

「……ッ」

 

近藤は片手で払いのけようとしたが、アルザは逆に身を寄せ、耳許で囁く。

 

「前の『番』の話――きっちりと約束は果たしてもらうよ?」

 

指先が尻の張りを押し分け、なぞる動きは優しさから次第に過激さを増していく。ついには尻肉を握り込み、掴んだままぐっと引き寄せる。

 

森の中の湿った空気が、さらに濃く絡みついた。

後方で護衛を弄ぶ仲間たちの甘い吐息が重なり、列全体が艶めかしい熱気に包まれていく。

 

それでも近藤は正面を見据えたまま、短く吐き捨てるように言った。

 

「手を離せ」

 

アルザの笑みはなおも崩れない。

そのままアルザは顔を近づけると長い舌を伸ばし、耳の裏を突如として舐った。

たった一舐め――しかし近藤の体は全身を縛られたかのように硬直した。

 

「ッ……ぅ」

 

それは声とも呻きともつかぬ細い音で、理性の隙間から零れ落ちた。

理性が「抵抗しろ」と命じる一方で、耳裏に残された舌のぬめりは消えることなく、火照りにも似た痕跡をじわじわと拡散させていた。

 

アルザはその変化を見逃さない。近藤の呼吸が一拍乱れ、胸がわずかに波打つのを敏感に嗅ぎ取り、にやりと口角を吊り上げた。

吐息混じりの囁きが、濡れた唇から滑り出す。

 

「…素直になったね」

 

甘やかに湿った声が耳孔を侵し、脳の奥でじくじくと痺れに似た快感を響かせる。彼女の尾の先が地面を軽く叩き、期待を抑えきれぬリズムを刻む。胸郭は高鳴る呼吸に合わせて膨らみ、鱗の隙間から熱を含んだ吐息が漏れた。

 

近藤の硬直が“緊張”なのか、それとも“馴致された反応”なのか、もはや区別はつかない。

しかしアルザにとっては、どちらであろうと構わない。硬直はすなわち、雄が雌の刺激に応じた証だ。

 

「……チッ」

 

理性が「突き放せ」と命じるのに、体は思うように従わない。

その葛藤を押し隠すように、彼は短く舌打ちをした。

 

その苛立ちの音色を聞きながら彼女は耳朶にそっと歯を立て、軽く甘噛みしながら囁きを重ねる。

 

「村に着いたら――存分に“交流”しようか♡」

 

その言葉は、未来を保証する約束ではなく、逃れられぬ拘束の宣告のように響いた。

 

ーーー

 

森の密度がふっと薄まり、湿った葉の匂いに樹皮を燻したような香りが混じった。

先を行くアルザが尾で空気を切り、顎で前方を示す。

 

「――見えてきたね」

 

葦が揺れ、低木が割れ、ひらけた土地の縁に影が立ち上がる。

外交官が思わず声を漏らした。

 

「あれが……」

 

そこに広がっていたのは、ただの集落ではなかった。

丸太を並べただけの粗末な囲いではなく、明らかに計算された“防壁”だった。

 

幹の皮は丁寧に剥がされ、節は削り落とされ、上端は雨水を逃がすために斜めに面取りされている。

地下に埋め込まれた根元は黒く炭化処理され、地表近くの帯は泥と灰、樹脂で厚く塗り固められ、火が燃え広がらないよう工夫が施されていた。

 

丸太同士は木の楔で嚙み合わされ、継ぎ目には鉄の鎹が打ち込まれている。さらに内側からは扇状に斜材がかかり、壁全体をしっかりと支えていた。

 

その高さは三、いや四メートルに及ぶだろうか。

上端には歩廊がぐるりと巡り、一定の間隔で屋根付きの見張り台が据えられている。

矢狭間は板を交互に噛ませた小口に穿たれ、弓を差し入れると左右に振れるだけの幅が残されていた。

 

それは素朴さの奥に、戦を知る者の手が確かに刻まれた壁だった。

 

その壁に近づくにつれ、聞こえる音が多くなる。

木槌の鈍い連打、鋸を引くざらついた響き、煮詰めた樹脂と獣脂の匂い、干し草、燻した肉、土間の湿り、どれもが風に層をつくって流れてくる。

 

(――技術力は案外高いのか)

 

外交官は喉の奥で呟き、汗ばむ掌を握り直した。

 

壁の正面には、二枚扉の門が口を開けていた。

厚い硬木を幾重にも積層した板には帯鉄が十字に回され、蝶番は丸太の柱に深く差し込まれて抱え込まれている。

 

門の外側には、一段低く抑えられた前庭――小さな枡形のような囲いがあり、入ってすぐに直進できず右へ折れなければならない造りになっていた。

頭上には歩廊から張り出した屋形が覆い、交差する射線で内外を狙える作りになっている。

 

さらに火攻めに備えて土桶が等間隔に並び、外周には浅い堀と、牙のように突き出した倒木の逆茂木が半円を描いていた。

 

そして門番は二人……いや、四人いた。

槍を構えた者が左右に分かれ、さらに一人は弓を番え、もう一人は標旗を握っている。

彼女らの呼吸は乱れず、視線は揺れない。こちらの歩幅や、差し出す手のひらの角度までも正確に測っている。尾が地面を一度だけ、軽く叩く。

その音が言葉の代わりとなり、合図は静かに交わされた。

 

「全員気を緩めるなよ」

 

隊長が低く言い、六人は近づいた。足を踏みしめるたび、湿った土が靴底に絡み、草の水気が音もなく跳ねた。

 

アルザは門前で立ち止まり、歩廊の影を見上げて短く鳴く。上から応じる気配。麻縄が張り、軋んだ滑車が低く唸る。帯鉄の走る蝶番が重く呼吸し、二枚扉がわずかに開いては止まり、また少し開く。中から流れてくる空気は、外より温い。土間に火を入れた家が多いのか、燻った木の香りと発酵の酸が混ざっていた。

 

入口の地面は小石が敷かれ、泥を吸って滑らぬよう固めてある。門扉内側の柱には擦り減った縄の傷が幾筋も刻まれ、ここが長く使われ続けてきた出入り口であることがわかる。

 

門番の一人が半歩、静かに前へ出た。

槍の穂先は決して上げず、敵意を示さぬまま顔だけを近づけ、風上には立たない――礼を守った距離で止まる。

鼻先をわずかに持ち上げ、短く匂いを嗅いだ。

 

そして次の瞬間、その瞳は護衛小隊と外交官へと滑り、舐め回すように一人ひとりを品定めしていく。

獲物を測るかのような視線が、肌にざらりとまとわりついた。

尾が地面を軽く叩かれる。――「許可」の合図。だがその眼差しには、合図以上の熱が宿っているように見えた。

 

「ようこそ」

 

アルザが振り向き、にんまりとした笑みを近藤に投げる。鱗の縁が光を割って、唇の艶が湿る。

 

「族長が待っている。――中に入ろうか」

 

外交官は無意識に胸を張り、視界の端で壁の外皮を追う。

 

(――案外、どころではないな。戦いを知っている造りだ)

 

門が十分に開くと、村の内側が覗いた。

道は踏み固められた土の主筋が一本、中央の広場へ伸び、両脇に低い石垣と木柵で区切られた区画が並ぶ。

 

見張り台の上で、小さな鐘が一度、澄んで鳴る。

合図は短く、無駄がない。驚かせない音量で、村内へ“来客”を走らせる。

門番はその音に呼応して一度だけ頷き、槍を胸に引いたまま半歩退く――通行を許す姿勢。

 

「行くぞ」

 

隊長が低く告げ、小隊は村へ入った。左右の木壁が近くに迫り、木と土の匂いが濃くなる。護衛小隊と外交官が足を進めるたびに足元の小石が靴底の縁を乾いた音で擦る。

 

外交官は喉の奥で息を整え、胸の内で同じ言葉を繰り返した。

 

(大丈夫だ。落ち着け。日本の未来が掛かってるんだ…怖気付いてられるか)

 

内と外を分ける厚い木の喉をくぐる。

空気が一段温く、光が開け、声と音と匂いが重なり合う。

異形の村は、武の秩序と生活の熱をもって、六人を迎え入れた。

 

 

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