### **蛙の鳴く夜**
田舎の祖母の家は、周囲を深い森と田んぼに囲まれていた。夜になると、どこからともなく無数の蛙の鳴き声が響き渡る。その音は、まるで何かを訴えかけるように、不気味なリズムを刻んでいた。
今年の夏、僕は久しぶりに祖母の家を訪れた。幼いころは毎年のように遊びに来ていたが、大人になるにつれて足が遠のいていた。しかし、祖母が体調を崩したと聞き、久しぶりに顔を見せることにしたのだ。
「おばあちゃん、久しぶり」
玄関をくぐると、祖母が台所で座っていた。以前よりも少しやつれたように見えたが、笑顔は変わらない。
「よう来たねぇ。今夜は泊まるんやろ?」
「うん、明日には帰るけどね」
「そうかい。夜は戸締まり、しっかりせんとあかんよ」
祖母はそう言って、ふと窓の外を見た。田んぼの向こうには森が広がり、月明かりに照らされた水面に蛙が浮かんでいるのが見えた。
「相変わらず蛙の声がすごいね」
「……あぁ、今年は特に多いんや」
祖母はそれ以上何も言わなかったが、なぜか視線を窓から離そうとしなかった。
---
夜が更けると、蛙の鳴き声が一層大きくなった。まるで家の周りを取り囲むかのように、四方八方から聞こえてくる。
僕は布団の中で目を閉じたが、その声が耳について眠れなかった。
「ゲコ、ゲコ、ゲコ……」
不意に、耳元で鳴き声が聞こえた気がして飛び起きる。暗闇の中、窓の外を覗くと、田んぼには無数の蛙がうごめいていた。しかし、その動きが妙だった。普通の蛙ならぴょんぴょんと跳ねるはずなのに、まるで何かを這いずるように、のそのそと動いている。
さらに目を凝らすと、田んぼの奥に人の姿が見えた。
---
それは、白い着物を着た女だった。長い黒髪が月光に照らされている。女はじっとこちらを見ていた。
心臓が早鐘のように打ち始める。
「誰……?」
僕が声を発する前に、女はスッと消えた。いや、消えたのではない。蛙の群れの中に、ズルズルと沈み込んでいったのだ。
足がすくんで動けない。気づくと、蛙の鳴き声が変わっていた。
「ゲ、ゲ、ゲコ……コロ、コロ、コロ……」
何かを訴えるような声。まるで言葉のようにも聞こえる。そのとき、背後から祖母の声がした。
「見たんか」
驚いて振り向くと、祖母が暗闇の中に立っていた。
「おばあちゃん、今、田んぼに……」
「あれはな、蛙になった人や」
「え?」
祖母は低くため息をついた。
「この村にはな、昔から蛙になった人がおるんや」
祖母が語るには、昔この村では「水神様」の信仰があったという。豊作を願うため、毎年生贄を捧げていた。選ばれるのは、村の若い娘だった。娘たちは田んぼの真ん中に連れて行かれ、生贄として沈められた。
「でもな、その娘らは死んだんやない」
祖母の声が震えた。
「蛙になったんや」
背筋が凍る。
「見たんやろ? 田んぼの中に立っとったやろ? あれは、昔生贄にされた娘や」
僕は何も言えなかった。ただ、窓の外の蛙たちが、こちらをじっと見つめているような気がした。
「今もな、この村の田んぼには、昔の娘たちが眠っとるんや。そして、時々夜になると、こうして姿を見せる」
「じゃあ、僕が見たのは……」
「次の生贄を探しとるんや」
その言葉を聞いた瞬間、外の蛙の鳴き声がピタリと止まった。
静寂。
僕は喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
「戸締まり、しっかりせんとあかんよ」
祖母はもう一度そう言った。
その夜、僕は一睡もできなかった。
---
翌朝、祖母に別れを告げ、僕は急いで村を出た。
車の中から田んぼを見たとき、一匹の蛙と目が合った気がした。
それは、まるで人の目のように、僕を見つめていた。
---
###
都会に戻ってからも、あの夜の出来事が頭から離れなかった。
蛙の鳴き声を聞くたびに、あの田んぼの光景が脳裏によみがえる。白い着物の女、無数の蛙、そして祖母の言葉——「次の生贄を探しとるんや」。
最初は気のせいだと思っていた。しかし、ある夜、自分の部屋の窓の外から、小さな鳴き声が聞こえてきた。
「ゲコ……ゲコ……コロ……」
心臓が跳ね上がる。田舎を離れたはずなのに、なぜ?
恐る恐るカーテンを開けると、そこには——
蛙がいた。
ベランダの手すりの上に、一匹だけちょこんと座っていた。月明かりに照らされたその体は異様に黒ずんでおり、目は人間のもののようにギラギラと輝いていた。
僕は息をのんだ。
いや、こんな都会のど真ん中に蛙がいること自体がおかしい。
「ゲコ……ゲコ……」
その声はまるで、僕に語りかけているようだった。
その瞬間、脳裏に田んぼの光景がフラッシュバックした。
——白い着物の女が、田んぼの中に沈んでいく。
その顔が、ゆっくりとこちらを向く。
**その女の顔は——僕のものだった。**
「ッ!」
飛び起きた。
汗がびっしょりだった。
——夢、か?
荒い息を整えながら、恐る恐る窓の外を確認する。
ベランダには、何もいなかった。
安堵の息をつく。しかし、どこかおかしい。
部屋の空気が、妙に湿っている。
窓ガラスに目をやると——そこに、無数の小さな水滴がついていた。
まるで、何かが這いずるような跡を残して。
**終わりではない。**
そう、確信した。
そして次の夜も——
蛙の鳴き声が、聞こえた。
**「ゲコ……ゲコ……コロ……コロ……」**
###
あれ以来、毎晩のように蛙の鳴き声が聞こえるようになった。
家の外、ベランダ、果ては枕元からも。
それはまるで、僕をどこかへ誘うようだった。
**「ゲコ……ゲコ……コロ……コロ……」**
次第に、体の調子が悪くなってきた。
何を食べても味がしない。肌は乾燥し、やたらと喉が渇く。
そして何より、足が……
——妙に湿っている。
目覚めるたび、布団の中で足がじっとりと濡れているのだ。
原因はわからない。
だが、日に日にそれはひどくなっていった。
まるで、田んぼの泥に足を取られているかのように。
——もう、耐えられない。
ある夜、僕は決意した。
「もう一度、祖母の家に行こう」
あの田んぼに行けば、何かわかるかもしれない。
あるいは、**すべてを終わらせる方法が**。
---
深夜、車を走らせ、田舎の村へ向かう。
田んぼが近づくにつれ、身体が重くなる。
まるで、何かに引き戻されるように。
祖母の家に着いたのは午前二時過ぎだった。
しかし、家の灯りはついていなかった。
「おばあちゃん?」
呼びかけるが、応答はない。
仕方なく、裏の田んぼへと足を向ける。
すると——
そこには、祖母が立っていた。
白い着物をまとい、月明かりの下でじっと田んぼを見つめていた。
「おばあちゃん……?」
祖母はゆっくりとこちらを振り向いた。
その顔は……
どこか、蛙に似ていた。
皮膚は湿り気を帯び、目は大きくギラついていた。
「お前も、来たんか……」
祖母の声は、低く、かすれていた。
「やっぱり……あの蛙は……」
「もう、逃げられんのや」
祖母が指を差す。
田んぼの中、そこには無数の影が蠢いていた。
人間の形をした何かが、泥の中から這い出ようとしていた。
**白い着物の女たち** が、こちらをじっと見つめている。
「水神様は、決して許さん……」
祖母の言葉とともに、足元が沈む感覚がした。
見ると、自分の足が田んぼの泥に埋まりかけていた。
引きずり込まれる——!
必死にもがくが、身体は動かない。
「やめろ……! 助けて……!」
だが、祖母はただじっとこちらを見つめていた。
そして、微かに笑った。
「……これで、ワシは解放される」
次の瞬間、祖母の身体は、何かに引き込まれるように田んぼの中へと沈んでいった。
代わりに、僕の足は完全に泥に埋まった。
水の冷たさが、骨の髄まで染み渡る。
目の前には、無数の蛙たち。
「ゲコ……ゲコ……コロ……コロ……」
それは、**僕を迎える儀式の声だった。**
**僕は、蛙になるのだ。**
やがて視界が暗くなり——
意識が、沈んでいった。
---
翌朝、村の人々が祖母の家を訪れた。
しかし、そこには誰もいなかった。
ただ、田んぼの中に、見たことのない蛙が一匹。
じっと村人を見つめていたという——。
**「ゲコ……ゲコ……コロ……コロ……」**
###
田んぼの中にいた、一匹の蛙。
それは、何かを訴えるようにじっと村人を見つめていた。
村人は不思議に思いながらも、その蛙を気味悪がってすぐに立ち去った。
しかし、その日を境に村では妙な噂が流れ始めた。
**「夜になると、人の声がする」**
**「田んぼの中から、誰かが這い出ようとしている」**
**「蛙の鳴き声が、まるで名前を呼んでいるようだ」**
---
一方、僕——いや、「蛙になった僕」は、田んぼの中で意識を保っていた。
人間だった頃の記憶はまだはっきりと残っている。
だが、身体はもう以前のものではない。
皮膚は湿り、四肢は短く、喉が鳴るたびに自然と「ゲコ……」という声が漏れる。
それでも、僕はまだ「僕」であり続けていた。
いや、そう思いたかった。
**しかし、時間が経つにつれ、何かが変わり始めていた。**
感情が薄れていく。
言葉が浮かばない。
思考が、単純になっていく。
僕は何者だった?
僕はなぜ、ここにいる?
……いや、どうでもいい。
ただ、月が綺麗だ。
ただ、冷たい水が心地よい。
ただ、鳴く。
「ゲコ……ゲコ……コロ……コロ……」
**仲間たちと、共に。**
---
そして、ある夜。
僕は見た。
**次の「生贄」が、この田んぼを訪れるのを。**
それは、都会からやってきた若い男だった。
僕と同じように、不安そうな顔で田んぼを見つめていた。
彼はまだ知らない。
この場所に足を踏み入れた者は、決して逃れられないことを。
僕は、仲間たちと一緒に声をあげた。
「ゲコ……ゲコ……」
「コロ……コロ……」
次は、お前の番だ。
お前も、蛙になるのだ。
そう、僕たちはずっと——
**「生贄」を待っている。**
---
###
僕たちは、待っている。
次の生贄が、この田んぼに足を踏み入れるのを。
夜が来るたび、月の下で静かに鳴く。
「ゲコ……ゲコ……コロ……コロ……」
それは、呼び声。
僕がそうだったように、次の者もここへ引きずり込むための。
---
### **都会の男**
その夜、一台の車が村へ入ってきた。
車から降りたのは、都会の男だった。
スマホを手に、辺りをきょろきょろと見渡している。
「……ここか」
男は、田んぼを見つめながら呟いた。
どうやら、僕の行方を探しに来たらしい。
——それもそのはずだ。
僕が行方不明になったあと、村には何度も警察が入った。
けれど、誰も僕を見つけられなかった。
当然だ。
僕はもう、**人間ではないのだから。**
男は、田んぼの畔に立つ。
風が吹く。
水面が揺れる。
僕は、じっと彼を見つめる。
僕だけじゃない。
田んぼにいる無数の蛙たちも、彼に視線を向けている。
**仲間を増やすために。**
「……なんだ?」
男が顔をしかめる。
こちらを見ていることに気づいたのかもしれない。
気のせいだと思おうとしている。
でも、もう遅い。
「ゲコ……ゲコ……コロ……コロ……」
声をあげる。
仲間たちと共に。
男の顔が強ばる。
「なんだよ……」
彼は一歩、田んぼに近づいた。
その瞬間——
僕たちは、跳んだ。
無数の蛙が、一斉に彼の足元に飛びかかる。
「うわっ!? なんだ、なんだ!?」
男は慌てて蛙を振り払おうとする。
けれど、もう逃げられない。
彼の足は、泥の中に沈み始めていた。
「えっ……? 足が……!?」
田んぼが、男を飲み込もうとしている。
「助けて……! 誰か……!!」
悲鳴が響く。
けれど、誰も助けには来ない。
ここはもう、**水神様の領域** なのだから。
僕は、静かに彼を見つめる。
「ゲコ……ゲコ……」
彼の肌が、少しずつ湿り始める。
目が充血し、喉が震え、やがて……
彼は、鳴いた。
「ゲ……ゲコ……」
……また、一匹、仲間が増えた。
僕たちは、今日も鳴く。
「ゲコ……ゲコ……コロ……コロ……」
次の、生贄を呼ぶために。
###
新しい仲間が増えた。
都会の男はもう人間ではない。
泥に沈み、皮膚は湿り、喉からは自然と「ゲコ……」という声が漏れる。
最初は抵抗していた。
自分が蛙になったことを認められず、じたばたと足をばたつかせていた。
だが、時間が経つにつれ、それも無意味だと悟る。
僕がそうだったように。
僕たちは、ただ鳴く。
「ゲコ……ゲコ……コロ……コロ……」
月明かりの下、仲間たちと共に。
**次の生贄を待ちながら。**
---
### **都会の女**
それからしばらくして、一人の女が村を訪れた。
都会の男の婚約者だったらしい。
スマホを片手に、焦ったような表情で村の人々に聞き込みをしていた。
「彼は……この村に来たんですよね?」
「でも、帰ってこないんです」
村人たちは口をつぐんだ。
彼女を哀れむような目で見つめながら。
「やめときなはれ」
ある老婆が言った。
「ここに長くおったら……あんたも帰れんようになるで」
しかし、彼女は諦めなかった。
「彼を探さなきゃ……!」
そして、**夜になった。**
僕たちは、じっと田んぼの水の中から彼女を見ていた。
彼女は懐中電灯を片手に、畦道を歩いていた。
「○○くん……? いるの?」
僕はそっと近づいた。
いや、新しく蛙になった「彼」も、一緒にいた。
彼女は気づかない。
足元で、無数の目が光っていることに。
「ねえ、いるなら返事して……!」
僕たちは、答えた。
「ゲコ……ゲコ……」
彼女は息をのんだ。
**聞き覚えのある声だったのだろう。**
「○○くん……? どこ?」
懐中電灯が、僕たちを照らす。
水面に映る無数の蛙。
その中の一匹が、ゆっくりと前へ出た。
それは、**彼女の婚約者だった蛙。**
彼女は目を見開いた。
「……え?」
「ゲコ……ゲコ……」
彼は何かを訴えたかったのかもしれない。
でも、もう言葉にはならない。
「……いや……嘘……」
彼女は震える足で後ずさる。
しかし、足元がぬかるみ、バランスを崩した。
「きゃっ……!」
彼女が転んだ瞬間——
僕たちは、跳んだ。
無数の蛙が、一斉に彼女に飛びかかる。
「やめて……! やめてぇぇぇぇ!」
必死に振り払う。
だが、彼女の足はすでに泥に埋まり始めていた。
「いやだ……助けて……助けて……!」
**誰も助けに来ない。**
田んぼの水が、彼女の口元まで迫る。
「……いや、いやぁ……!!!」
——水が、彼女を飲み込んだ。
そして。
静寂の中に、微かな声が響く。
「ゲ……ゲコ……」
**また、一匹、仲間が増えた。**
---
僕たちは、今夜も鳴く。
「ゲコ……ゲコ……コロ……コロ……」
次の生贄を呼ぶために。
**あなたを、呼ぶために。**
###
田んぼは静かだった。
ただ、月の光だけが水面を照らし、無数の蛙がじっと息を潜めていた。
その中に、新しく加わった二匹がいる。
都会の男だった蛙。
そして、その婚約者だった蛙。
**二人はもう、人ではない。**
人だった記憶は残っているかもしれない。
でも、時間が経てば、それも霞んでいく。
言葉は失われ、感情は薄れ、ただ水の中で生きるだけの存在になる。
やがて、僕と同じように。
やがて——**「待つ者」になる。**
**次の生贄を。**
**次の仲間を。**
---
### **異変**
それから数日後。
村の中で異変が起きた。
夜になると、村人の誰かがふらりと田んぼへ向かうようになったのだ。
それはまるで、何かに呼ばれるように。
「○○さん、どこ行くんや?」
家族が呼びかけても、ふらふらと歩き続ける。
そして、田んぼに足を踏み入れる。
翌朝、その人の姿はなかった。
代わりに、**新しい蛙が一匹、田んぼに増えていた。**
最初は一人だった。
しかし、次の夜も、また次の夜も——
村の人間が、一人、また一人と田んぼに消えていく。
蛙が、増えていく。
やがて村の人々は気づいた。
**田んぼの蛙の鳴き声が、人の声のように聞こえることに。**
「ゲコ……ゲコ……」
「タス……ケテ……」
「コロ……コロ……」
それは、何かを訴えるような、不気味な旋律だった。
---
### **最後の村人**
そして、村に最後の一人が残った。
それは、かつて都会の男に「やめときなはれ」と忠告した老婆だった。
老婆は震える手で祈るように呟いた。
「……水神様、どうか……もう、これ以上……」
だが、祈りは届かない。
村の人間は、もう誰もいない。
田んぼにいるのは、ただ無数の蛙だけ。
老婆は、そっと田んぼを見下ろす。
そこには——
**人だった頃の顔を持つ蛙たちが、じっとこちらを見上げていた。**
「……許してくれ……」
老婆の目から涙がこぼれる。
それでも、蛙たちは鳴き続ける。
「ゲコ……ゲコ……」
「オマエ……モ……」
「コロ……コロ……」
月が雲に隠れた瞬間。
老婆の足は、泥の中に沈んでいった。
そして——
村は、完全に蛙だけのものになった。
---
### **その後**
数年後。
その村を訪れた者はいなかった。
廃村となり、地図からも消された。
だが——
その近くの田んぼでは、今も変わらず、無数の蛙が鳴いているという。
**「ゲコ……ゲコ……コロ……コロ……」**
まるで、誰かを呼んでいるかのように。
###
村が消えてから数十年が経った。
人々はその土地の存在を忘れ、地図にも載らなくなった。
だが、その田んぼはまだそこにある。
静かに、ひっそりと、待っている。
そして、今夜も蛙たちは鳴く。
**「ゲコ……ゲコ……コロ……コロ……」**
まるで、誰かを呼ぶように。
---
### **探索者たち**
「おい、本当にこんなところに村があったのか?」
男が地図を片手に呟く。
彼の名は田中。都市伝説を追うフリーライターだ。
隣には、カメラを持った後輩の西村がいる。
「でも、確かにこの辺りって昔、村があったらしいっすよ」
西村はスマホの画面を見ながら言った。
「けど、いつの間にか誰もいなくなって、今は廃墟すら残ってないって」
「ふーん……。ま、せっかく来たんだ。少し歩いてみるか」
二人は森を抜け、奥へと進む。
やがて、視界が開けた。
そこには——
**田んぼが広がっていた。**
「……うわ、マジであったのか」
驚きながらも、田中はカメラを構える。
どこか異様な雰囲気が漂っているが、それがまた彼の好奇心をくすぐる。
「なあ、西村、ちょっと動画撮ってくれ」
「はいっす」
西村がカメラを回し始めたそのとき——
「ゲコ……ゲコ……」
「……?」
二人は顔を見合わせた。
辺りに蛙がいるのは不思議ではない。
だが、妙に規則的な鳴き方だった。
「なんか、変なリズムじゃね?」
「コロ……コロ……」
「……なあ、これ……」
田中が口を開いた瞬間だった。
——グチャッ
「うわっ!?」
西村が足元を見て叫ぶ。
「どうした?」
「踏んだ……! なんか踏んだ!」
西村が慌てて足をどかすと、そこには潰れた蛙がいた。
だが——
「……嘘だろ」
田中は息をのんだ。
潰れた蛙の体から、**人間の目玉が覗いていた。**
「な、なんだよこれ……!」
西村が後ずさる。
しかし、そのとき。
田んぼの水がざわめいた。
「ゲコ……ゲコ……コロ……コロ……」
水面に、無数の蛙が顔を出していた。
だが、それらは——
**すべて、人間の顔をしていた。**
**ぎょろりとした目が、二人をじっと見つめている。**
「う、嘘だろ……」
田中は後ずさる。
そのとき——
水面から、**何かが立ち上がった。**
白い着物を着た女。
髪が長く、顔は蛙のようにどろりと濡れていた。
そして、その口が、ゆっくりと動いた。
「タスケ……テ……」
次の瞬間、女の手が伸びた。
「うわあああああ!!」
田中と西村は必死に逃げ出した。
背後で、蛙たちが鳴き続ける。
「ゲコ……ゲコ……」
「コロ……コロ……」
まるで、彼らを追いかけるように。
---
### **帰還**
二人はなんとか車まで戻り、そのまま山を下った。
「な、なんだったんだよ、あれ……!」
「わ、わかんねえ……!」
都会に戻った二人は、すぐに映像を確認した。
しかし、**田んぼのシーンはすべて真っ黒だった。**
蛙の鳴き声だけが、はっきりと録音されていた。
「……もう、あそこには行かない」
二人はそれ以上、何も語らなかった。
---
### **その後**
それから数日後。
田中は、自宅で妙な違和感を覚えた。
夜になると、窓の外から小さな鳴き声が聞こえるのだ。
「ゲコ……ゲコ……コロ……コロ……」
都会のど真ん中で、蛙の声なんておかしい。
だが、それだけではなかった。
**朝、目が覚めると、布団の中が湿っているのだ。**
ある夜、ついに耐えきれず、田中は窓を開けた。
そこには——
ベランダの手すりの上に、一匹の蛙がいた。
小さく、黒ずんだ体。
その目は、どこか人間のようにギラついていた。
そして、その蛙は——
**田中の名前を呼んだ。**
「ゲコ……タ……ナ……カ……ゲコ……」
田中は絶叫した。
だが、それが終わりの始まりだった。
次の日から、田中の体は徐々に変化し始めた。
皮膚が湿り、手足が短くなり、喉が鳴るたびに「ゲコ……」という声が漏れるようになった。
**やがて彼は、姿を消した。**
彼の家には、ただ一匹の蛙が残されていた。
そして、その蛙は、今日も鳴く。
「ゲコ……ゲコ……コロ……コロ……」
まるで、新たな仲間を呼ぶように——。
---
###
田中が消えた後、西村は必死に彼を探した。
しかし、警察に捜索願を出しても、田中の行方は杳(よう)として知れなかった。
田中の家を訪ねると、そこには誰もいなかった。
ただ、一匹の蛙がポツンとベランダに座っていた。
「……田中さん?」
そんなはずはないと、自分でも思った。
けれど、蛙の目を見た瞬間、背筋が凍った。
それは、まるで人間のような眼差しだった。
そして、次の瞬間。
**「ゲコ……ゲコ……ニ……シ……ムラ……」**
西村はその場で悲鳴を上げ、逃げ出した。
---
### **恐怖の記録**
西村はすぐに、田中との取材で撮ったデータを確認した。
しかし、映像はすべてノイズまみれで、蛙の鳴き声しか聞こえなかった。
それでも、何か証拠を見つけようと、音声を解析してみると——
ノイズの奥から、微かに人間の声が聞こえた。
**「タスケテ……」**
**「ニシムラ……オマエ……モ……」**
**「コロ……コロ……」**
西村は青ざめた。
それ以来、彼の周りでも奇妙なことが起こり始めた。
夜になると、どこからともなく蛙の鳴き声が聞こえる。
玄関の前に、小さな湿った足跡が残る。
そして——
**夢の中に、田中が現れるようになった。**
**全身が泥にまみれ、ギラついた瞳でじっとこちらを見つめる田中が。**
「西村……早く、おいでよ……」
「一緒に、鳴こう……」
田中はにたりと笑い、喉を震わせる。
「ゲコ……ゲコ……」
西村は毎晩うなされ、次第に精神が追い詰められていった。
もう、逃げられない。
そう悟った西村は、カメラを持ち、**もう一度あの村へ向かうことを決意した。**
---
### **再び、あの田んぼへ**
夜の田んぼ。
そこには、やはり無数の蛙たちがいた。
「……田中さん、いるんですか?」
西村は震える声で呼びかける。
「ゲコ……ゲコ……」
蛙たちはじっと彼を見つめる。
次の瞬間——
水面が揺れた。
白い着物を纏(まと)った者たちが、泥の中から這い出してきた。
それは、蛙になりかけた元・人間たち。
田中も、その中にいた。
「……西村」
田中の唇が、不自然に動く。
「お前も……こっちへ……」
「やめろ……!」
西村は後ずさる。
だが、もう遅かった。
田んぼの泥が、彼の足を掴んでいた。
ずるり……ずるり……と、沈んでいく。
「嫌だ……! 俺は……!」
必死に抵抗するが、何かが彼の体を引っ張る。
「ゲコ……ゲコ……コロ……コロ……」
蛙たちの鳴き声が、鼓膜を震わせる。
そして——
彼の視界が、泥で覆われた。
暗闇の中、最後に聞こえたのは——
**自分自身の口から漏れた「ゲコ……」という鳴き声だった。**
---
### **終わりの始まり**
次の日、再び村は静けさを取り戻した。
ただ、田んぼには新しい蛙が一匹、増えていた。
そしてその夜も——
蛙たちは鳴き続ける。
「ゲコ……ゲコ……コロ……コロ……」
**次の仲間を待ちながら。**
**あなたが、この村を訪れるのを。**
それからしばらくして、田中と西村の失踪はひそかにニュースになった。
**「都市伝説を追っていたフリーライターとカメラマンが行方不明」**
だが、二人の足取りは途中で途絶えていた。
警察が捜索に向かったものの、**村の跡地は見つからなかった。**
地図にもない。
航空写真にも映らない。
まるで、最初からそんな場所は存在しなかったかのように——。
けれど、**彼らは今もそこにいる。**
田んぼの中で、蛙の群れに紛れて。
そして今夜も鳴く。
「ゲコ……ゲコ……コロ……コロ……」
誰かが、自分たちの元へやって来るのを待ちながら。
---
### **消えた村の噂**
それから数年後、田中たちの失踪事件はすっかり忘れ去られていた。
だが、ごく一部の人々の間では、彼らが最後に向かった「消えた村」の話が都市伝説となって語り継がれていた。
そして、興味を持った者たちが、その村を探し始めるようになった。
あるインターネット掲示板では、こんな書き込みがあった。
**「消えた村に行ったら、変な鳴き声が聞こえた」**
**「田んぼの中に、人間の顔をした蛙がいた」**
**「夜になると、どこからか自分の名前を呼ぶ声がする」**
**「もう遅い……」**
その書き込みの後、その投稿者は消息を絶った。
---
### **君は、信じるか?**
もし君がこの話を読んでいるなら、今夜、少し気をつけたほうがいい。
夜の静けさの中、ふと蛙の鳴き声が聞こえたら。
それは、ただの蛙の声ではないかもしれない。
**「ゲコ……ゲコ……コロ……コロ……」**
……よく耳を澄ましてみろ。
もしかしたら、その鳴き声の中に、かすかにこう聞こえるかもしれない。
**「オマエ……モ……」**
**「コッチ……ヘ……」**
**「ゲコ……ゲコ……」**
そのとき、決して外を覗いてはいけない。
絶対に、田んぼには近づいてはいけない。
さもないと……
**次に鳴くのは、お前だ。**