海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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第一章「サヨナラ、ボーイミーツガール」
Interlude「最果ての断片」


 古傷にまみれた大きな手から、白い群れが飛び立っていく。

 

 レイジは荷台の上で手すりにもたれて、長い長いトンネルの後方へと風に乗って飛んでいく紙束を見送った。

 

 岩のように体の大きな男だった。

 煤と埃で黒く汚れた彼の顔は、雨風に晒された岩盤そのものだ。その下でどんな感情がどれほど激しく渦巻いているのか、誰にも伺い知ることはできない。

 

 彼の足元で、巨大な貨物車両は四本のレールをまたいで進み続ける。

 轟音のほかに聞こえるのは、激しい戦いで裂けた彼の耳が風を切る音だけだった。

 彼の衣装──学校指定のワイシャツの上からでも分かるほど筋肉隆々の広い背中は、ここまでに彼がくぐってきた地獄を無言のうちに物語る。

 

 シャツの背中にこびりついた血は、自分だけのものではなかった。右袖の赤い手形に気づいた彼は、残り香を惜しむようにそっと鼻を寄せ、深く息を吸った。

 

 トンネルは、まだまだ続く。

 

 その先は町の外だ。

 

 彼が物心付いてから一度も出たことのない西町から、いよいよ脱出する。

 だというのに、彼の目の前に広がる風景は色あせた記録映像のようだ。

 何の感慨も見出せず、彼は、いつの間にか半開きになっていた口をゆっくりと閉じただけだった。

 ここまでの道のりで、あまりに多くを失った。

 まるで胸の内側に巨大な洞窟ができてしまったようで、開いた口から吹き込む風が、その空洞に吹き込んでびょうびょうと音を立てるのではないかと思ったほどだ。

 

 トンネルの壁面に、目を移す。

 そこに等間隔で設置されたライトは熱を発さない。

 投げかけられる冷たい白い光が、床の上に落ちた彼のぼんやりとした影を引き伸ばしては縮め、流しては引き戻し──まるで、手持ち無沙汰のようにもてあそんでいた。

 

 彼の数少ない友人たちと皆で町を出て、海を見に行こうと言ったのは、一ヶ月前のことだ。

 十七歳。夏。一番バカで、一番どうしようもない季節。

 一生を同じ場所で同じ風景を見て生きて死んでいくとばかり思っていた彼の前に、いきなり現れた日常の転換点。

 きっと、この夏は忘れられないものになる。あの時そう思っていなくとも、心のずっとずっと深い場所で、そう感じていたはず。

 

 

 だった。

 

 

 その結果、ここに辿り着いたのは、たった二人。

 不意にレイジは立ちすくみ、己の手のひらを見つめる。どれだけのものが、自分に残されたろうか、と。

 

「何、見てんだ?」

 

 少年を想起させるハスキーな声が、彼を現実に引き戻した。

 白いスニーカーを履いた足が、前方の車両から連結部を飛び越えて彼のもとへと向かってくる。荷台の上を吹き渡る風に髪を弄ばれているのは、女だ。その髪色はただひたすらに、白い。

 彼女はレイジの隣まで歩いてきて、包帯でぐるぐる巻きの掌を手すりについた。

 こちらもレイジに負けず劣らずひどい格好をしていた。まるでミイラのようなガーゼまみれの包帯まみれ。

 わずかに見える素肌は黒ずんで、その右頬も、酸を掛けて皮を剥いだように溶けかけている。

 

「町を……」

 

 なんと言ったら良いか分からず、レイジがそのままを伝えると女は「そうか」と呟いたきり静かになった。

 レイジの鳶色。女の、濁った灰色(グレー)

 

 色の違う二人の瞳は、永遠に伸びていくのではないかと感じさせる線路をずっと見つめている。

 やがて沈黙が痛いほどに感じてきた頃、女がためらいがちに口を開いた。

 

「後悔してっか? アタシと出会ったこと。こうなっちまったこと」

 

 女の背中に向かって伸ばしたレイジの手が、空中で止まる。

 彷徨(さまよ)うその腕を捕まえて、女は自分の首元に持っていく。そこにも何重に包帯が巻かれ、腐臭を放つ黒い液体が染みを作っていた。

 

「レイジはいっぱい無くして、たくさん傷ついた。アタシのために。アタシのせいで」

 

 それは覆しようのない事実かもしれない。

 

「カナタのせいじゃない」

 

 だが、レイジは静かに首を横に振った。包帯越しの暖かな体温が、傷だらけの手の平を通してもっと奥に伝わってくるのを感じる。

 

「前に進むっていうのは、変わるっていうのは──きっと、そういうことだと思う。から」

「変わることができて……幸せだったか?」

 

 少し怖いものでも確かめるように聞いてくるカナタにレイジがすることはひとつ。確信と共に、力強く頷くことだけだ。

 

「ああ。もちろん」

 

 乾いたコール音が空間を切り裂いた。

 振り返ると、車両の外壁に取り付けられた簡素な受話器が緑色のライトを点滅させていた。

 

「カナタはどうだった」

 

 電話は、取らない。それがどこからで、誰からのものか。レイジもカナタも、気づいている。

 薄暗闇の中で光る通話ボタンを押しても押さなくても、いずれクライマックスが始まることはわかっている。だとしても、残されたわずかな時間を、もう少しだけ噛み締めていたかった。

 

「カナタにとって、この町はきっとちょっと歪んでいたに違いない」

「ちょっとで済ませられるかァ?」

 

 カナタが笑うと、レイジの口元にも自然と微笑が浮かんだ。

 

「笑えることも、辛いことも、同じだけあったはずだ。それでも来て良かっただろうか。カナタの言う"海"に並ぶような美しいものは、見つけられただろうか」

 

 レイジはカナタをまっすぐ見つめてくる。

 白髪の女は、腕に巻かれた包帯のほどけかけた端をいじりながら、風の音に耳を澄ませた。

 

「ここで過ごした一ヶ月は、少しでも楽しかったか?」

「アタシ……」

 

 カナタは視線を落とし、手すりをぎゅっと握りしめた。

 

「アタシにとって、この夏に起こったことは、もう楽しいとか辛いとか、そういうのじゃないな……」

 

 その指先が白くなるほど力が込められている。

 

「過去って、なくならないだろ。どんなに楽しいことがあっても、どれほど辛いことがあっても。起きたことは、起こってしまったことだから」

 

 手のひらにシンとした冷たさを伝えてくる金属のバーごと自分が潰れてしまいそうな錯覚を覚えながら、カナタは続けた。

 

「それでも、みんなに会えて──」

 

 吹き付ける風に、白い髪が大きく舞う。貨物車両の軋む音がトンネルに反響する。

 終末のカウントをするように、徐々に電話のコール音が大きくなる。

 だが、余計な音は全て遠いていった。

 

 花弁のようにほころぶカナタの唇を、レイジはただただ、見守る。

 

 ■

 

「海の彼方で、カナタを想う」

 第一章・サヨナラ、ボーイミーツガール

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