黒い海のようにひしめく怪物の前に、灯台のように”光”を掲げる。
レイジの右手の中で渦巻いた黒い光が輪郭を持つ。目を突き刺すような輝度からカナタが目を逸らした瞬間、二人めがけて黒い洪水が殺到した。
べしゃべしゃと湿った足音の群れが地鳴りのように響く。
砂糖菓子を見つけたアリさながらに群れる
「大丈夫だ。問題ない」
思わずカナタが喉を鳴らすと、レイジが穏やかに囁いた。
二人を見下ろす怪物たちの手は、近くの住宅の屋根にかかるほどだ。それほどの深長差を持つ相手が、いっせいに腕を大きく振り上げる。
「レイジ!」
「ああ。大丈夫だ」
彼らは単純な生物だ。
思い切り振り上げたら、思い切り振り下ろすだけだ。
単純だが──それは数トンの鉄塊が降り注いでくるのと同じ意味を持つ。
「レ──!」
カナタが叫ぶのと、レイジの指先で収束した虚無の光が、臨界に達したのは同時だった。
「レエェェェイ──イ────イ────────」
カナタは、自分が発したセリフの続きが不気味に、間延びしていくのを感じる。
世界のすべてが、時間がゆっくりと流れ始める。
今まさに二人を叩き潰す寸前というところで、急に怪物たちの動きが鈍くなる。
もどかしいほどの速度で迫る、岩塊のような拳。
(なん、だ?)
カナタは、怪物に拳に触れてみようとする。だが、かなわない。彼女の体の動きも、水飴の中を泳ぐようにトロくなっていることに気づく。
臨界に到達するということは『次の段階に変化する』ということだ。
レイジの馬鹿げた握力が、脈動する黒い光を極限まで圧縮していく。光は収束と拡散を交互に繰り返す。
周囲の光を取り込む──いや、食らいながら、それは獲得する。
本来持つはずのない質量、そして重力を。
光を中心に、全てが
圧縮された空気が骨を軋ませ、カナタは耳鳴りが止まらない。
溶けた鉛がのしかかって来たような体の重さを感じながら彼女が見上げた先で、レイジの拳がぼやけて見える。
重力レンズ効果だ。
彼が今握って、支えているものは単純で暴力的なまでの超質量。
空間を押し潰して曲げるほどの重みは、当然そこを通過する光のルートをも捻じ曲げて、めちゃくちゃにする。
そして歪みは際限ないものだ。
空間の歪みは光の歪みへ。そして、光の歪みは、いずれ時間にも到達する。
起こりうることは────重力時間遅延。
ドムッ
カナタとレイジを中心に、七区全体が沈み込んだ。
標識も道路も建物も、そして運悪く彼らに近づいた怪物でさえ、強大な重力で押さえつけ、平たく押して潰して、クレーターの一部にする。
(おいおい。いくらなんでも……!)
ズドンッ
二度目の重力波が放たれ、カナタの目の前で五体の怪物がクシャッと潰れた。アルミ缶より呆気なく。
なんだか分からないが、とにかく、とてつもないことが起こっている。
レイジの纏う黒い光に守られて圧死を免れているカナタにも、それだけは理解できた。
外は、ただ地獄だ。
重力波による圧死を免れても、このクレーターの中、虚無の光が照らす領域に踏み込んで、ただでは済まされない。
「ギ」
後に続いた怪物たちは、地面を失った。
その体をふわりと宙に浮かせた彼らは、デタラメに巨大な爪のついた腕を振り回していたが、動きは次第に鈍くなっていく。
「はは」
レイジが輝きを握り潰すように拳を閉じる瞬間に、カナタは場違いな笑い声を聞いたような気がした。
この男の力は一体何なんだ──そんな疑念がカナタの中で形を得るより早く、黒い光の奔流が吹き荒れた。
■
音を失った世界が最初に取り戻したのは、鉄の塊が降りしきるような爆音だった。
発射された光の散弾が流星雨のようにあたりを吹き荒れる。
それの引き起こす破壊は、ただただ異様だ。
数千発の光の雨が、病んだ色の汚泥を、空中に浮いたままの怪物の体を、溶けたアスファルトを、崩れかけた家屋を、転がった無数の
「お、おまえ……」
カナタの目の前で、七区の風景が蒸発していった。
やがて破滅の大嵐が尽きたとき、数百メートルに及ぶクレーターの内側にはただ、死が充満していた。
金属の臭いを纏った熱風が吹く中で、痙攣しているものがある。幸か不幸か、攻撃を逃れた数体の棘皮人間たちだ。体を中途半端に吹き飛ばされた姿で転がっている。
だがその体も端のほうから黒い汚泥に戻りつつあり、長くはないだろう。
「おかしいな……」
レイジがやはり、場違いなことを言い放った。
「……は? おかしい、だァ?」
「こんなはずじゃなかった……さっき”海”を切った時みたいに、もっと、うまくやるつもりだったんだが」
彼はしきりに首をひねりながら、右手を見つめていた。
への字に曲げられた唇には、さっき聞こえた不気味な笑い声の残りカスすら残っていない。
これだけの破壊を引き起こしておいてトボけた顔をしているレイジを見つめるうちに、カナタの中身がふつふつと煮え始めた。
ドン。
レイジの胸板を、強く強く、ノックする。
「この、バカ! こんなコトにうまいもヘタもあるもんか!」
レイジは呆気にとられる。
抱え上げられたままの姿勢で彼を睨み付ける青い瞳の中に渦巻くのは、怒りだ。
「……家とか、町とか。もう、あんまり壊すな」
「でも、誰もいなかった。少なくとも、まともな生き物は」
「それでも町って、誰かの生活で思い出だろ」
「生活……」
「こんな時に甘ぇコト言ってんのはわかるけど……」
時間の経過を忘れたように、空中で静止していた瓦礫が、ふっと力を失って地面に激突する。
分厚い砂塵が吹き荒れた。
もはや沈みかけた夕日が濁った影を落とす砂煙の中に、粉砕された街区から立ち上る煙の白と黒、炎の赤が絵の具を
「オマエまでバケモンになるなよ」
「俺が……?」
カナタと見つめ合う間も、彼は砂塵の中を這い回る無数の気配を感じていた。
「なんもかんも、めちゃめちゃにブチ壊すだけがオマエの能じゃないんだろ」
「だが、俺は……」
「やれるな」
タイミングを計ったように怪物が二体、立ち込めた土埃のスクリーンを突き破って飛び出した。
「できるな。あの光なしで」
黒く輝く棘皮が夕陽の光を受けて輝く。人の姿を持ちながら、その動きは四つんばいで地を掻く獣そのものだ。
クレーターの地形をものともせずに二人のもとを目指す怪物たちの腕にはギラギラと輝く長い爪が見える。
しかし目の前に迫った怪物などお構いなしで、カナタはレイジを見据える。
──できるよな?
その目に秘める青が、再三、彼に問うてくる。
「──もちろん。カナタが望むなら」
レイジが力強く頷いた。
「よーし。じゃ、カマしてやれ!」
カナタを抱いたまま、浅く、息を吐いて、低く身構える。右足は半歩後ろへ。
破滅の光を封印して戦う。望むところだ。結局のところ、慣れ親しんだ間合い──拳が届く距離は、彼にとっても居心地がいい。
地面を舐めるほど低い体勢で怪物が肉薄してくる。
早く、しなやかだ。しかし、レイジの相手ではない。
怪物の体がバネのように跳ねて、飛び掛かってきた瞬間、刈り取るようなハイキックがその首に叩き込まれた。
メリメリと音を立てる頚椎の振動が、レイジの脚を通して、カナタの背筋を這い登る。
皮膚と筋肉の張りが限界を迎えた瞬間、水音を立てて怪物の首が千切れた。
大砲の弾のような勢いで吹き飛んだその頭部が、真横から突っ込んでくる別の怪物の胸部に深くめり込む。骨と内臓が潰れる音が響く。
カナタの顔に飛んできた黒い雫を手で遮ったレイジの前で、二体の怪物があれやこれやを激しくぶちまけながら、糸が切れた人形のようにもつれて崩れ落ちる。
「ふうう」
弁を緩めて体内に溜まった圧力を解放するように、レイジは息を吐き出した。
「カマすっていうのをしてみた。どうだろう?」
「オマエ、やっぱヤベぇわ」
「そうか」
腕の中のカナタに笑いかけるレイジの頬に黒い返り血が跳ねていた。乾き始めた怪物の体液は、浅黒い彼の肌と見分けがつかなくなりつつある。
彼女から見る彼は穏やかで暴力的。なんともちぐはぐだ。
「今日はとても調子がいい」
振り返りざまに繰り出された彼の拳が背後から躍りかかった怪物の顔面を貫く。頭がポップコーンのように弾けた怪物の体を掴んで、投げる。
「運命の力だろうな」
信じられないほど安らかな声だった。
「カナタが傍にいれば、俺は絶対に負けたりしない」
蹴り飛ばされてボウリングのピンのように倒れていく怪物の群れを見ていたカナタは、急に羽虫が口に飛び込んできたように顔をしかめた。
「いちいちキショいこと言いやがって……」
彼女がどれだけ呆れて見せても、今のレイジの動きが精彩を欠くことはない。
言いつけどおりに黒い炎は使わない。
無限に押し寄せる怪物の大群相手に、彼に許されたものは鋼の戦車のような肉体と、馬鹿げた再生能力。その上片腕でカナタを抱え上げたままの状態だ。
それでも彼の孤軍奮闘は怪物の群れを圧倒しつつあった。
彼の繰り出す拳も蹴りも、どんな刃物より冴えた。
殴る。頭が飛ぶ。蹴る。頭が飛ぶ。絞める。頭がスッ飛ぶ。
「うおあああっ! 吐く吐く吐く」
エンジン全開で暴れまわるレイジが忘れかけていることだが、筋肉ジェットコースターに振り回されるカナタはたまったものではない。
「酔うだろが、もっと────」
カナタの声が遠ざかっていくことにレイジは気づかない。
「ゆっくり!」
ひとつ頭を飛ばす。
「おだやかに!」
もうひとつ、頭を飛ばす。
「できねえ、のか、よ!?」
ろうそくを吹き消すように、彼はいともたやすく怪物の命を奪う。
頭を吹き飛ばし、四肢をもぎ取り。
腹の中に
七年だ。
悪夢と憤怒に苛まれ続けた。
彼を七年、内側から焼き、苛んできた炎が収まっていく。
疲れも、痛みも感じない。
体に纏わりつく煙と腐った体液の香りが、心地よい。まるで、高原の風のようだ。
次々と屍を築き上げ、まるで踊るかのように戦い続けたが、その時、突然怪物たちの動きに変化が現れた。
「うええ……なんか、数が減ってないか……」
カナタが赤味の薄い舌をデロリと出して見せた。
クレーターを埋め尽くすほどにひしめく群れが、いっせいに後ずさったのだ。
「ようやく、諦めてくれんのかね」
レイジもカナタも、返り血で真っ黒に濡れている。
全身に降りかかった体液を拭おうとしてくるレイジの手を、カナタは押しのけた。
「諦めた、というよりは」
────号令でもあったみたいだ。
頭をこちらに向けたまま、まったく同じ歩幅、まったく同じ歩調で後退する棘皮人間の群れの動きが、レイジには不気味な前兆にしか思えない。
夜空をバックに、群れの中央が黒いカーテンのように割れた。
そこから現れたのは異様な二体の怪物だった。
ただでさえ細い体を左右に揺するようにして歩いてくる怪物たちの全身は黒いタール状の液体に覆われ、まるでたった今、邪悪な子宮からひり出されてきたように見える。
その口は笑い、あるいは泣いているようだった。
身体に散らばる棘と瘤。ありえないほど長い首の先、目も鼻もない顔の中心にぽっかり開いた、巨大な“口”。
一体は女のように見えた。うつむき加減で、まるで泣いているように顔を抱えて肩を震わせている。
もう一体は男を思わせた。背を丸め、脂っぽく歪んだ笑みを見せ付けるように突き出して、足を引きずりながら近づいてくる。
実際に彼らが感情を持っているのか、ただの偶然なのかは分からない。ただ──
「キンモ」
カナタは、思ったままを吐き捨てる。
笑いと泣き顔を象ったようなその外見から滲むのは、底知れない悪意だ。
人間を嘲笑し、愚弄し、貶めようとする何者かの意志を形にしたような存在。
”うそ泣き”と”つくり笑い”だ。
二体は、お互いの存在すらうまく認識できていないのか、時折衝突しながら、クレーターの斜面をゆっくり降りてくる。
「イヤラしい笑い方だ」
カナタは、股間に冷たい刃物をあてがわれたような気分になる。
目の前の怪物はどいつもこいつも気持ち悪いのは一緒だが、特にあの前かがみの”つくり笑い”から感じる気配は異様だ。
彼女の視線に気づいたように、”つくり笑い”がグリュンと首を回した。骨や関節の存在を感じさせない、粘着質の動きだ。
その笑みが自分に向けられているような気がして、カナタは無意識に自分の体を引きつらせる。
「レイジ……」
気づけば彼女は、レイジのシャツの裾を強く握り締めていた。
「俺にしっかりつかまって、あとは任せてくれ」
「オーケー、つまり、これまで通りってコトか」
レイジの声はいつもどおり、起伏に乏しい、ぼんやりとした響きしかない。
その目に、あの異様な怪物への嫌悪や不安はなかった。
ほんの少しでも、身をすくめる素振りでも見せてくれたら、と、カナタは思う。
(こいつ、あの怪物どもに何も感じてないのか?)
妙なズレを感じたが、その疑問がカナタの口から発されることはない。
(やるか)
一方のレイジは自分に語りかける。
片腕で抱いたカナタと、目の前の怪物たちを交互に見やる。
あそこまで仰々しく送り出されてきたのなら、ここにいる二体の怪物は、今まで打ちのめしてきた棘皮人間たちとは一味も二味も違うのだろう。
レイジは構えなおす。今の肉体と精神の漲りさえあれば、どんなものでも粉砕できるような気がする。
「ハ、ハハ、フ」
突如として頭の上から降ってきた笑いに顔を上げたカナタは、ビクリと体を震わせた。体液で黒く染まったレイジの顔の中で、白い犬歯が剣呑な輝きを放っている。
「お前、何笑って」
腕の中のこわばった体に気づいた彼は、あわてて口元を押さえた。
「あくびが」
「あ?」
カナタは怪訝そうにしていた。
「あくび、だ?」
彼女がいくら不審がってもレイジは弁明しない。
できないからだ。
レイジは、新しくやってきた”おかわり”の怪物を見ていて、つい「もっとやっていい」と感じてしまった。
毎朝殴りつけている鉄骨とは違う。
あれは、すき放題ブチ壊していいものだ。血を出して、体をよじらせて、俺の中にある限りない憤怒を、スポンジのように吸い取ってくれるんだ──そう考えていたら、彼の口角が自然と上がっていたのだった。
スッキリするのだ。
「よし──
レイジの闘志を感じ取ったのか、二体の怪物が構えた。
レイジが一歩、踏み込む。
それに合わせて、”うそ泣き”の顔が、ゆっくりと傾いた。
いつ来るか、いつ攻めるか。
しかし、激突の寸前──
ォォォォォォォォォォォオン……
限界まで張り詰めた戦場の空気を、一発の遠雷が引き裂いた。
凶暴な風鳴りが頭上から降り注いだ直後、パァンと音を立てて”うそ泣き”の上半身が水風船のように弾け飛んだ。
レイジも、カナタも、そして”つくり笑い”でさえ、束の間凍りついた。
腰から下だけ残された下半身が、戸惑うように数歩ヨタヨタ歩いたあと、湿った音を立ててクレーターの地面に倒れる。
「何──」
「レイジ、あれ見ろ!」
雷鳴の出所を追って空を振り仰いだカナタが、いち早くそれを見つけた。
時はすでに夕刻を過ぎ、都市部にしては不自然なほどの星空が、満天となって二人の頭上に広がっている。
しかし、今日の星々はあまりに眩しく、そして騒々しい。
橙色の炎の尾を細く引きながら飛び交うものは流星ではない。その軌道はあまりに幾何学的で、統制されている。
電気主体の生活となった彼らの日常には似つかわしくない、重厚で、凶悪なエンジン音が空の間隙を埋めていく。
それはジェットエンジンの唸りであり、そして、空に何十と輝く炎は噴射炎だ。
「銃声だ」
額の中央にいやなひりつきを感じた瞬間、レイジは本能で跳んだ。
”星”の一つから溢れんばかりの殺気と共に放たれた
ワンテンポ遅れて、乾いた雷鳴が二人の鼓膜を打ちのめした。
それほどの距離から、これほどの精度で。
「まずい。俺たちを狙ってる!」
「うあっ!」
その一発を皮切りに、あたりの地面が沸騰するような一斉掃射が降りしきる。