数百メートル上空に飛ばされた“うそ泣き”は口の中で燃え盛る虚無の光に引き込まれるように破壊される。
そこから起こるのは爆発ではない。中心へと全質量が引き絞られるような、エネルギー圧縮反応だ。
三メートルを越す巨体はチリ紙のようにクシャクシャに折り畳まれ──そして放出。途方もない圧縮の反作用によって、その肉体は白い光と共に円盤状に爆裂する。
そこに生存チャンスは一ミリも存在しない。
こうしてプールに潜む恐るべき怪物“うそ泣き”は生物的に素因数分解された姿で西町の夜空いっぱいにバラ撒かれることになった。
その微粒子ですら、レイジの腕から燃え移った炎によって空中で燃やし尽くされる。
■
夜空に広がった白い光のチリが、爆発の中心からパチパチパチと音を立てて一気に燃え尽きる。
いまだに夢の中にいるような気分で、マリコは空を見上げていた。
「ケガは?」
全身を食いちぎられた姿のまま、レイジがプールサイドに這い上がろうとする。マリコは慌てて我に返り、彼に手を貸してやった。
「おっ、おかげさまで……ッス」
水浸しでプールサイドに転がるレイジ。彼のシャツを濡らす液体は透明だ。
汚染源である“うそ泣き”を失ったことにより、プールの水は急速に浄化されていった。
噛み砕かれたレイジの上腕から流れ落ちる血が、水溜りの中にモヤのように広がっていく。
「それ、痛くねーんスか……」
彼の傍にしゃがんだマリコが顔を引きつらせる。
怪物に引っこ抜かれた右腕は、急に再生させたので腱と筋肉がむき出しのままだ。配線のように腕を這う血管の脈動から目を逸らすと、今度は反対側が目に入る。
こちらはもっとヒドい。一世一代のロケットパンチの代償だ。
腕を切り離した影響で、肩口から脇腹にかけて肉が剥がれて肋骨が見えている。
もともと彼の左腕だったものは爆発で微粒子と化し、マリコが今吸っている空気の何パーセントかとミックスされていた。
「腕取れたり、穴開いたりして……なんも感じねーんスか」
「死ぬほど痛い」
レイジは顔色ひとつ変えずに言う。
「そんなツラいなら、泣いたり叫んだりしてもいいんスよ」
「たぶんそうした方がいいんだろうな。でも、痛かったり辛かったりして泣くって、俺にはよく分からないんだ」
チラつく電灯に水面が照らされている。
プールのフチの方に、レイジの指が流れ着いていた。根元から食いちぎられた、おそらく中指だ。
彼は青ざめた指を拾い上げ、しばらくそれを見つめる。
「目をほじくられたわけでもないのに、どうして涙が流れるのか……」
ライトが投げかける光と同じで、レイジの声には温度がない。
激しく蠢く腕の断面に目を落とした彼は、指の破片をその中に突っ込んだ。傷口は少し戸惑ったように動きを止めるが、やがて、放り込まれた肉片を咀嚼するように動きはじめた。
「キ──」
「キモいな」
生え変わる腕には、以前刻んだ古傷が残される。
しかし、それはもともとのレイジの体ではない。それっぽいニセモノでしかない。千切れる肉と一緒に損なわれていく人間性を少しでも繋ぎとめるために、気づけば彼はそうしていた。
力なく座り込んだ彼の前に、一枚のハンカチが差し出される。
甘く、どこか鉄のような匂いを思わせるマリコの香水が染み込んだ、純白のハンカチだった。それが、彼の頬に触れる。
「すまない……」
「いいス。助けてもらったのウチなんで。ていうか人間スか、あんた……」
「最近、ますます自信がなくなってきた」
そうしてしばらく休んでレイジの左腕が肘の辺りまで生えた頃、マリコが「見てほしいものがある」と言ってレイジの手を引いた。
濡れたプールサイドを歩いて向かった先は、マリコが隠れていた水泳部の部室だった。
引きちぎられた南京錠をまたぎ、中に入る。
「犯行現場。ってかんじスかね」
差し込む窓の光が、部屋の様子をかすかに浮かび上がらせていた。
汚かった。
あちこちに黒いススのような汚れがこびりついている。開け放ったドアから吹き込む風にさらわれて、粉末となったチリが床の上に波模様を描く。部屋は更衣室も兼ねており、床に排水溝がある。
濡れた汚泥がこびりついたそこが“うそ泣き”の出処だ。
壁と床に残る汚れはおおよそ、人の形をしていた。
数えれば──おそらく、十五人分あるのだろう。
「ハルマサ……」
レイジはしゃがみこんで、手を合わせる。
特に彼といい付き合いがあったわけではない。そもそもレイジはクラスの大半と疎遠だ。
ときどき教科書を見せてもらったり、ジュース代を貸したりした程度の関係でも、今のこの光景がすべてを物語っている。
ハルマサは、もう戻ってこない。
レイジは、姉の位牌に祈る時より、ずっと長く目を閉じていた。
「ここで誰か、死んだんスか」
「知り合いが」
腐敗汁を垂れ流すサナギになることを、死とは呼べない。
防衛局に回収されたハルマサがどうなったのか。レイジに知るよしはない。隣にそっと跪いて手を合わせるマリコに「ありがとう」と小さく囁く。
「ウチ……わかんねっス。カナタさんをあんなコトにした野郎が、どうして拝んだりするのか」
手にハルマサがこびりついていた。
レイジは指を揉み擦って、黒いチリを落とす。
「あんたはウチを守ってくれた。でも……どうして?」
「気まぐれってやつだろう」
「そんな軽いノリで腕両方ブっちぎれるヤツなんて、いないスよ」
弁解なんてしたくもなかった。レイジは責め立ててほしかった。
彼は静かに立ち上がり、見上げてくるマリコの猫目に告げる。
「ルリコに伝えてくれ。俺はもう帰らない」
「は? ……ま、ま、待つっスよ、どこ行くんスか!?」
サメの怪物に噛み付かれた体は、まだ左右非対称のままだ。濡れそぼった彼の衣服からは赤いものが滴り、床に点々と染みを残す。
片足を引きずりながら遠ざかっていく背中が、ひどく寂しかった。
「それと……俺に、もう一度誰かを守らせてくれて、ありがとう」
「なあに勝手にアリガトしてるんスか!? せめて、どこ行くかくらい──」
部室の外に出ていったレイジを、慌ててマリコが追う。
こうして2-Aの勉強合宿から、彼は姿を消した。このことは、翌朝小さな騒ぎを引き起こすことになる。