海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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3.7月16日/フェーク・プラスティック・ツリーズ(1)

 ガード下にトラックのエンジン音が反響する。

 褪せたフェンスとコンクリートの壁。騒音と煤煙と湿気。プライバシーはゼロ。この『新居』唯一のイイトコロは真夏の日差しを遮れるところだが、それも十時を過ぎるまでだった。

 

「うおっほん──『ねえ、アンタ。私になんか言うこと、ないの』」

 

 岩石の塊のような拳骨が鋭く風を切る。

 

「『あの腰抜けバカがどこ行ったのか。白状なさい。さっさと』」

 

 彼はシャツを脱ぎ、上裸だ。彼は彼にしか見えない敵を殴り続ける。彼の背中が、腕が、拳が躍動するたび、絡み合った筋肉の束が肌に浮き出る。

 

「──ってなカンジのことを、おねえが抜かしておりましたので。テキトーに嘘ついて誤魔化しといた次第でございますっス」

 

 朽ち果てたマットレスに腰掛けたマリコが頬をかく。その頬に貼られたガーゼの下で、傷の具合は着実に良くなってきているようだ。

 

「すまない」

「いいス。昨日のお礼の一部。ってコトで」

「気にしなくていい」

「それにホラ、祭りのときのスイカの分もまだスから。ウチ、けっこうそういうのこだわるんスよ」

 

 レイジはシャドーを止めない。彼の体は水を被ったように汗まみれで、スウェットの下には、ネズミ色の染みが広がっていた。

 車が高架を通り抜けると風が吹く。乾いたホコリの味がする、真夏の風だ。レイジの汗のにおいに混ざって、どこか潮の匂いがした。マリコはそれを吸い込む。

 

「ベンキョーできないんでしょ。レイジさん。ウチ、知ってるスよ」

「ああ。俺は頭の出来がよくない」

「さっさと帰っておねえに頭さげよっス。チームバカのお勉強は三日目からが勝負。今ならゼンゼン間に合うスよ」

「問題ない」

 

 ビュッ。何かを振り払うように、レイジの爪先が突き出される。彼のスニーカーはいろんな汚れが染み付いて、茶色のマーブル模様を描いていた。

 千切れかけた靴紐が宙で躍るさまが、妙にマリコの目に残る。

 

「へええ~? 留年しない秘策が?」

「学校、やめる。だから、問題ない」

「は!?」

 

 高架の下に、マリコの大声が反響した。

 フェンス際に折り重なったダンボールの影から、一匹の子猫が顔を出していた。住処の平穏を乱されて、いたくご立腹の様子だ。

 黒い毛並みに埋め込まれたビーズのような瞳をぎっと吊り上げて、彼らを睨んでくる。

 

「学校やめるつって……どうすんスか。その後は?」

「とにかく金がいる。だから働く。これからのカナタの治療費、住むところ、食べるもの、着る服。不自由させたくない」

「学生の分際でバイトざんまいとか……って、やめるんスもんね、ガッコー」

「この後はビルの警備とコンビニのレジ。夕方からはまた警備があって──」

「ちょちょちょ、そんなんやってたらブっ倒れコースまっしぐらスよ!?」

「何が起ころうが俺は死なない。知ってるだろ」

 

 バッカじゃねースか、あんた。

 舌の上まで這い上がってきた言葉を、マリコは飲み下す。

 でっかい塊をノドにつかえさせた彼女が黙り込むと、コンクリートとフェンスに囲まれた独房じみた空間での会話は絶える。

 西町の影そのもののような高架の下で、レイジの息遣いと、フットワークがアスファルトを擦る音だけが響き続けた。

 

 みゃあ。先住者の猫が鳴く。

 

 高架の支柱に施された、ビビッドなピンクとグリーンのグラフィティ。それをバックにレイジの肉体が鋭く冴える。

 ボディービルとは違う。スポーツマンの体つきとも違う。男のハダカなら腐るほど見てきたマリコだが、彼のものは一種の極限だ。

 強いて言うなら分厚い毛皮の上からでもクッキリと形が分かるような、ジャガーやチーターの筋肉に質が似ている。

 磨がれた野生だ。重みのある筋肉だ。

 

「どうしてそんな、鍛えてるんスか」

 

 マリコにはそれが、鎖に見える。レイジの体はサメ一匹を簡単に持ち上げてしまう暴力の要塞だ。しかし、それだけ出来るのに、彼はまったく自由に見えない。

 鍛えて鍛えて鍛えて鍛えて、彼は自分を縛り付ける。目的は、自分の翼を折るためだ。彼の肉体、それは内側から這い出ようとする何かを必死に押さえつけるための監獄だ。

 

「怒りを」

 

 荒げた呼吸の合間を縫って、彼から返事が飛んでくる。

 

「怒りを、抑えたい。どうしようもない怒りを」

「レイジさん、そんなブチ切れまくるような人じゃないでしょ」

「ずっとだ。俺はずっとキレてる。この瞬間も。本当にずっとずっと」

「あ……ウチ、うるさかったスか? だったら黙るス」

「違う。そうじゃない」

 

 そこでレイジはシャドーを中断し、大きく息をついた。彼の右腕は最後のストレートで空中を打ち抜いたまま制止している。

 

「難しい言葉でいうなら、憤怒(フューリー)、というやつらしい」

 

 豪腕が貫いた空間を、彼の瞳が凝視している。

 マリコもそこに、幻視を重ねる。彼が誰を殴りたいのか。どうしてほしいのか、今の彼女にはなんとなく分かる。

 無残に顔を貫かれてブラ下がっているのは、きっと彼自身だ。

 

「物心ついてから──といっても施設を出た頃だから七年くらいだが──俺はずっとずっと、怒りというものを感じている。そしてどうやら、これはなくせない」

「そんなイカレポンチみたいな努力しなくたって、ストレス発散なんかいくらでもあるスよ。カネ、ぱーっと使うとか。目ェ回すまで酒飲むとか……」

 

 ────好きな子の作ってくれた料理を食べるとか、ね。

 

 さすがにそこまで言わないくらいの分別はマリコも持っている。

 

「みんな、驚いてたッスよ」

 

 彼女の前で、レイジが静かに鍛錬を再開する。

 

「……悲しんでる子も、いたっスよ。とっても、とっても、落ち込んでたッス」

 

 誰かは言わない。レイジもそれが分かるはずだ。

 

「もっぺん戻って、やり直してみる気はないスか」

 

 レイジは答えない。

 フェンスのすぐ向こうで、自転車のベルが弾けるように鳴らされる。一足先に夏休みに突入した小学生の一団だ。これから川遊びにでも行くようだ。

 筋肉モリモリマッチョの兄ちゃんと、それを眺める不良少女。プラスアルファ、子猫一匹。彼らは高架の下で繰り広げられる非日常にほんの一瞬目をやるが、それだけだ。

 鉄柵一枚隔てた暗がりと、彼らの日常が交差することは決してない。

 日向で輝きを取り戻した銀輪に目を焼かれていたマリコの黒髪を、吹き抜ける風が翻弄する。

 

「マリコは学校に行った方がいい」

 

 彼女が乱れた前髪を整えていると、レイジが口を開いた。

 

「ウチがどーするかは、ウチが決めるっス……おわ、っとと」

 

 マリコの足首をモソ……とやわらかいものが擦った。さっきの子猫だ。近くの商店街で、世話されているのかもしれない。

 ノミだらけ、ノラ臭染み染みの毛玉だが、彼女は頓着しない。人懐っこい黒猫の前にしゃがみ込んで、じゃらし始める。

 

「ふふ。どしたッスか。おかあちゃん、いないんスか?」

 

 自由だった。ネコも、マリコも。

 彼女の抱えた複雑な事情込みで、レイジはそこに、心惹かれる。

 口には出せない。彼女も、ルリコも地獄を見てきたのは知っている。

 ルリコが心を切り刻まれる隣で、彼女が体を弄ばれてきたことも、知っている。その両頬を一生離れることがないガーゼが、何よりそれを物語る。

 だとしても──

 

「うへへえ……ばいばいス……ここ来たら、また会えるかな……」

 

 したたかな子猫は、近くの餌場に向かって歩き去る。

 その尻に向かって手を振るマリコに、何度も何度も、別れを惜しむように振り向きながら。

 捨てられた猫、焼けた鉄のように過酷な現実を、延々と飲み込んできたマリコ。レイジは口に出来ない。が、少しあこがれる。

 

 ────マリコが俺だったら、もっときれいに、生きれたのだろうか。

 

 暗く湿ったA-6500シャフトの底で、レイジとフミオ、そしてカナタはこじれた。絶望的なほどにどうしようもなく、悲しい形で。

 そこにマリコがいたら、もっとずっとマシな終わりを迎えられたのでは、と考えてしまう。

 もちろん、たられば(メイビー)に縋ったところで現実は何も変わらない。そう分かっていても、レイジが振るう拳は切れ味を落としていく。

 

「眠てーパンチっスね」

 

 それを鋭くマリコが見咎めた。

 今のレイジは燃料の切れたトラクターだ。自分がなんのためにがんばってきたのか、何のためにこんなことをしているのか、何も分からない。

 

「……『行き先を知らぬ力は、必ず災いとなるじゃろう』。か」

 

 もう、やめてしまおうか──そう思い始めたころに、マリコが、ふと芝居じみた言葉を口にした。

 

「あ?」

 

 レイジの動きがピタリと止まる。

 

「あ、いや。気を悪くしたなら謝るッス。今のはウチの言葉じゃなくて、なんつーか……」

「サボテン老子のシーン」

「は?」

「それ、『焼失』って映画の砂漠のシーンじゃないか? だいたい始まって二十三分くらい経ったあたりの」

 

 今度はマリコが驚く番だ。

 軽い気持ちでクソZ級映画の引用をかましたら、とんでもない勢いで食いついてきた。それも、あのレイジが。『だいたい二十三分』なんていうマニアックな注釈つきで。

 マリコはじっと、レイジの汗ばんだ顔を見つめた。

 

「え、なんで分かるンすか?」

「前、俺におっぱい当てたとき。言ってたろ。ギャラクティックテコンドー創始者、コヨーテ・イガとトリガーが戦うところのセリフだ」

「え……あ……あ~!? なんかハズいな、急に……!」

 

 マリコはガーゼを貼った頬を両手で包む。

 それはもはや、ギャルの表情ではない。秘密のお絵かき帳の中身をある日いきなり友達に見られてしまった子供のような顔をしていた。

 

「レ、レイジさんが映画見るなんて、ちょっとギャップすごすぎっつーか……よりによって何であの映画っつーか……へえ……フーン……」

 

 ややあって、マリコが探るような上目遣いでレイジを見ながら口を開いた。

 

「じゃ、じゃあ…………ど、『どうしたカウボーイ。その小便くせえブーツで立ちふさがるのか?』」

「『おいおい、チャック開けっ放しでいっちょまえの悪党気取りかよ?』」

 

 レイジは即座に対応する。カブキの見栄を彷彿させるポーズを取ると、腰から見えないブラスターを引き抜き、マリコの胸に突きつける。

 

「お……おお……そのガタイでやるとホンモノの宇宙賞金稼ぎみたい……!」

 

 そこまでしてもらって、拍手で済ませるような女ではない。マリコは勢い良く立ち上がる。大きく腕を振り上げ、大股で迫っていく。

 物語のクライマックス。宮殿を襲撃したジャックの前に、悪役マルデロがパワーローダーを装備して現れたシーンだ。

 

「『ここで貴様は終わりだ。無頼漢よ、燃え尽きろ!』」

 

 マリコの体格では巨大なパワードスーツというよりは宇宙ガニだが、ナリは問題ではない。

 大事なことは、それが何のマネか、通じること。

 そしてこの二人はどうやらそれが理解できる。宇宙有数のクソ映画の名場面の数々を、何を好んでか、脳にこびりつくほど見てきたマニアだ。

 レイジの巨体がよろめく。

 しかし目に宿った熱き炎は激しさを増す。まるで打ち抜かれたように右肩を押さえながら、その手で持つブラスター(空気)はマリコに突きつけられたままだ。

 

「『ここは俺とお前だけの宇宙だ。そして今、俺はお前を撃ち抜く!』」

 

 近くに、放置されたトタンの山があった。

 マリコがそこによじよじと登り始めると、レイジも彼女の後に続く。上に立った二人は、目配せしあった。

 

「『いくんスか? 何があっても俺っちは死なねえ。あんたはどうなんスか?』」

「『飛んでから確かめるさ。遅れるなよ』」

 

『どっかーん!』マリコの合図に合わせて飛び降り、二人は、映画史上最高にキマってると思っているポーズで着地する。

 ハタから見るそれは、胴体着陸した太陽の塔と具合の悪い自由の女神だ。

 煤とゴミと汗臭さ。おまけにうだった真夏日の風。彼らは見詰め合う。自然と浮かんだその笑みは、演技でも照れでもなく、心からのものだった

 

「……にしても、なんであの爆発から無傷で生還してんスかね」

「さあ。そういう映画だからとしか」

「ファンの発言とは思えねーっスけど、確かにそれ以外理由が思いつかないっスね……」

 

 一連のやりとりで火がついてしまった様子のマリコは、見よう見まねの宇宙テコンドーの演舞を始めた。今度はレイジが座って、それを見守る。

 

「どうして”焼失(あんなもの)”を?」

「別にたいした理由はないスよ」

 

 見て見てとしきりにマリコが言ってくるが、宇宙テコンドーのメインが蹴り技なのと、丈をつめたスカートは相性が悪すぎる。レイジは目を逸らしたまま、彼女と話す。

 

「あの腐った家に偶然テープがあったんス。映画見てると、後ろでなんかやってても、半分そっちに意識行くじゃないスか。楽だったんスよね」

 

 ケリをスカしたマリコの体が大きくよろけた。とっさにレイジが手を掴んで、支えてやる。

 

「あざス……で、気づけばセリフやら場面やら覚えてて。何を思ったかトリガーのマネまで……」

「やたらスカスカ言うの、そういうことだったのか」

「う……! こ、ココだけの話にしておいてくれたら嬉しいっス。死にたくなってきた」

 

 マリコが少し視線を外し、足元のブロックを軽く蹴りながら「……おかげで、アンタのこと、軽蔑しきれなくなっちゃったス」とぽつりとつぶやく。

 その表情が、ふと真剣になる。

 

「ちょっと、見てほしいモノが」

 

 突然、マリコは高架の端に放っていたバッグまで駆けていった。

 厚底のスニーカーの足音が遠ざかっていって、ややあって彼女は再び騒々しく戻ってくる。

 

「これ……」

 

 彼女はそう言って、手にした茶封筒の中身をレイジの目の前にバサっとぶちまけた。

 

「ま、待て!」

 

 レイジの声に合わせたように、フェンスの外を大型のトレーラーが颯爽と走り抜けた。突風が吹き荒れ、無造作にばら撒かれた万札が舞い上がる。

 

「「あ、ああ~!?」」

 

 それから二人は万札を追ってあたりを駆け回るてんやわんやの大騒ぎ。せっかくの重々しい話題が切り出されそうだった雰囲気も、すっかり台無しだ。

 

「ちゃんと二十枚あったスか!?」

 

 マリコが、息を切らせて言う。

 

「今数える…………こっちで十枚拾った。そっちは!?」

「一枚たんねーッス! 出来心で盗ったなら正直に言ってほしいっス!」

 

 ほとんど泣きそうな声でマリコが叫んだ。

 

「人聞きが悪いな!」

「だってえ……あ」

 

 マリコがレイジを睨んでいた目をふと逸らし、二人は同時にフェンスの方に目を奪われた。カサカサと音を立てて、風に運ばれた一枚のお札が張り付いていた。

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