「この一ヶ月、死ぬ気でかき集めたカネっス。マジで。あーんなことからアハーンなことまでして。なんとか二十万」
並んだ二人は、レイジが寝床にしているマットレスを見下ろす。
重し代わりにコーヒーの空き缶で押さえられた札束が、風になぶられながらその端をピラピラ踊らせている。
「これで、ルリコに借りた分を返せるのか?」
「それが悲しいくらい、ぜんッぜんたりねース」
「こーんくらいありゃ別スけど」と、マリコは親指と人差し指で厚みを説明する。思った以上にトンデモない額だ。
小ぶりなリンゴ一個くらいならスルっと通り抜けられそうな幅を見て、思わずレイジは口をあんぐり開けてしまう。
「いちおう、聞くが……それは千円換算か? それとも、五千円札で……?」
「五千円で作った札束なんて聞いたことないでしょ。きしょいスね……もちろん万っスよ。諭吉さんが大勢いるんス」
「そうか。万かあ……」
「万スねえ……」
しおしおと枯れるようにしゃがみこんだマリコが、膝を抱えて小さくなる。
かまってほしい。愛してほしい。とにかくなんでもいいからウチを見てくりゃしませんかねえ──と、半ば自暴自棄でカネをむしり続けた結果だった。
「たとえここに、一億円あったとしても……」
大きな目をぎゅっとつむって「あううう」とうなるマリコを見ているうちに、レイジはいたたまれなくなってきた。
「そういうカネを、ルリコは絶対に受け取らない。と、思う」
「おねえのコトが、よくお分かりで……」
「ルリコは意固地だ。そのくらいは、俺にも」
「言ってやろ」
「やめてくれ。カナタへの償いが終わってないのに、まだ死ぬつもりはない」
「それもしっかり言ってやろ」
じっとり湿った高架の下を影法師のようにすり抜けていくトラックたちを抜きにしても、風の強い日だった。
真夏の温度を乗せた風がフェンスを鳴らすたび、まだ遊び足りないよと言うかのように札の端がフワリと持ち上がる。
レイジを見上げてマリコは笑う。だが、『メチャこまりこ』の顔だ。かなりヤバめに、切実に弱っているとき彼女は笑うのだなと、彼は知った。
そんな彼女の笑顔を、突風が掠めた。
「あ、ああっ!?」
悪質な風のイタズラだ。
汗ばんだマリコの頬からガーゼが剥がれた。
あわてて彼女が手で押さえるが、それはレイジの目にしっかり焼きついた。楕円の焼け跡、ボコボコした水ぶくれ。黒く焦げた皮膚の欠片──
「み……」
どうしようもない虐待の痕跡だった。
「…………見た?」
「ああ、しっかりと」
レイジはハッキリ返す。ウソをついたところで、マリコの体と心に残った傷がマシになったりはしない。
制服の襟を持ち上げて、マリコは顔を埋める。
さまよった左手が、すっかり湿ったレイジのスウェットを掴んだ。
「わりと人生、絶望ってカンジす……」
蚊の鳴くような声だった。
マリコはよく笑う。困れば困るほど、追い詰められれば追い詰められるほど、よく笑う。
顔に一生モノの傷を負わされて、ヘコまない人間なんていない。
合宿所で再会してからこの瞬間まで底抜けに明るく振舞っていたのは、無理に無理を重ねてギリギリまで弱った心の表れでもあったのだろう。
そんな状態なのに、彼女はレイジの胸倉を掴んでくれた。カナタのことを思って、怒ってくれたのだ。
「その……ありがとう」
「え?」
よく分からない顔をするマリコの隣に腰を下ろして、レイジはポケットを探る。市のマスコット、クジラの『ニッシーくん』の途方もない間抜け面が印刷された絆創膏が出てくる。
「俺の汗で少し湿ってるが。とりあえずガマンしてくれ」
「……あざす。あ、だったら、お願いしていいスか……?」
困り顔のマリコが、もらったばかりの絆創膏を返してきた。その意味を察したレイジがすぐ頷くと、マリコも、意を決したように頷き返した。
ピンクのマニキュアが乗った指先で、彼女は制服の襟を下げる。
傷跡が、曝け出される。
「……へんなの」
「ん?」
慎重に絆創膏を当てながら、レイジは聞く。
「どんな傷もすぐ治るくせに。なんでバンソーコー持ち歩いてんスか?」
「思いつき……だ」
「何ス?」
一枚目を貼り終えて、レイジは軽くチェックする。壊すばかりが能と言うワリに、なかなか綺麗に仕上がった。
卵焼きを作り続けた成果が出てきたのかもしれない。
そんな、少しばかり繊細さが宿ってきた左掌を、レイジはマリコに見せる。
「体は治る。だが、傷跡は残る。切ったり焼いたり潰した痕は、ずっとそのままだ」
「腕が吹き飛んでも……スか?」
片方の頬の処置が終わったマリコが、レイジの手を見る。昨晩引きちぎれてくっつけた中指の根元には、指輪のように白い痕が見える。
目を凝らすと、その他にも大量の傷跡が見えてきた。厚塗りされたキャンバスのように、元の素肌が分からないほどの傷が、白く残っている。それが腕を這い登り、むき出しの上半身まで、ずっと。
彼女の目の前にいるのは、石動レイジという巨大な傷そのものだった。
「何枚か手に貼っておくと、人間らしくなるかと思ったが。あまりうまく、いかなかった」
「らしく、なんて……あんた、元から人間でしょ」
「言っただろう。最近は、そんなふうには思えなくなってきたって」
古傷にまみれたレイジの指先はひどくカサついて、頬に触れるとき、マリコは少しこそばゆい。
そのたびにレイジは小さく「すまん」と謝る。ちょっとした絆創膏の貼り替えが、彼にとってはまるで、脳外科手術の実践だ。
自分に触れる相手がそんなふうに気を使ってくれるのが、マリコは新鮮で、嬉しい。
「なんか、話してていいっスか」
「うん」
最後の一枚をシートから剥がしながら、レイジが小さく頷いた。
「レイジさんとばいばいして、家帰った後ス。ママに……鬼ばばあに捕まって、聞かれたんス。『どこにルリコがいるの。知ってんでしょ』って」
「でも、言わなかった」
「ふふん。ちょっとビビって、お漏らししかけたスけどね」
レイジは言葉を探す。指先で感じるマリコの頬が、暖かだった。
「……ウチはずっと、おねえに見てほしかったス」
「助けてほしかった?」
「うーん。ちょと違うかもス。たんにおねえが好きだから……ソンケーしてるから、そんなおねえが見てる風景の、ほんの一部にでもなりたかった。のかな。最初は」
それからゆっくりゆっくり時間をかけて、マリコは屈折していった。
月並みな言い方だが、姉に愛してもらいたかった。それがダメだと分かってくると、顔面にパンチでもいいからもらいたくなった。
だがそれもダメだ。
親の期待に応えなきゃと生徒会に慈善活動にと忙殺されるスーパーウーマン・ルリコは、まるで燃えながら空を駆け抜ける流れ星だ。
凡人の妹がどれだけ大声張り上げて追いすがっても、ルリコは音すら置き去りにして遠ざかっていく。
「そんで、気づいたら──あとは見てのとおり、ス」
不器用な指にべたべたと粘着面をくっつけながら苦労するレイジを見て、マリコはくすくす笑った。毒気も嫌味も無い。レイジに胸を押し付けてきたときとは、まったく違う。
彼女の笑みには駆け引きなんて存在しない。
さっき見送った子猫と同じ、無邪気で素直な感情だった。
「カナタさんにブン殴られた時にやっと分かったス。おねえとウチは、たぶんどうにもならない。がんばるとかじゃなくて、元からつながらないように出来てたんだなって」
レイジは黙る。黙って先を促す。
「愛してくれないし、憎んでもくれねー。ウチ、なんでこんなコトしてんのってなって。そしたら目の前のばばあも、なんかムリだな。って、なっちゃって……気づいたら思い切りひっぱたいてたんスよね」
ささやかな一撃だった。
彼女とルリコがされてきた仕打ちに比べれば、小さな小さな、取るに足らない反撃だった。
その結果が、今の彼女だ。
ささやかな一歩と、一生残る傷。
「やけどは痛い。俺も、分かる」
しかしレイジの感じる痛みはすべて灰色だ。
火傷も捻挫も手足の欠損も、同じ「痛み」と書かれたゴミ箱に放り込んで、フタをする。違うのは信号の強度でしかない。
うらやましい、なんて決して口にはできない。
それでも、ちょっとしたことで爆笑したり涙をボロボロ流せるマリコを見ていると、レイジはやはり、自分が欠けた人間なのだなと思ってしまう。
「レイジさん。本当は『にんげん』になるのが怖いんじゃないスか」
「怖い……俺が?」
「だって、傷は残るじゃないスか。イヤかもしんないスけど、ウチとおそろ。痛みが引いても、血が出なくなっても、起こったことは、無かったことにはならないでしょ」
レイジはカナタのことを思い出していた。
あれほど美しく滑らかなカナタの白肌の下から浮き出した、大量の傷跡のことを。彼女の記憶に呼応するように現れた、首の痣のことを。
彼女が「オモトカナタ」の記憶を忘れても、彼女の体は、かつてうけた仕打ちを覚えていたのだ。
「ウチは……この先ずっと、スプーン見るたびにイヤな気持ちになるはずス」
彼女の口からこぼれ出した言葉は、おそらく彼女の身に起こったおぞましいことに関係しているのだろう。
だが、それについてわざわざ、レイジは彼女の苦痛をほじくり出そうとはしない。それが、ここまで心を開いて話してくれたことに払う礼儀のつもりだ。
「いいぞ。終わった」
最後の一枚を貼り終わると、マリコの左右の頬には七枚の絆創膏が残された。それだけの数の傷を、これから先の人生、彼女は顔に刻んで生きていく。
「どもス……にゃはは」
大きな目もあいまって、きれいに縦に並んだ絆創膏はどことなくマンガ調のネコのヒゲを思わせた。
「拷問シーンってあるだろ『焼失』に」
「逆さ吊りにしたり、小便なすりつけたバットでブっ叩いたり、やたらと生々しいヤツすか」
「タフで勇敢なジャックだって最後に隠れ家の場所を吐いた。ルリコの居場所をバラさなかったマリコを、俺は尊敬する」
「そ──そ、そ、そういうのとはちょっと違うスよ。おねえのタメとかじゃなく、ただ意地張っただけで」
照れてるのか、マリコは絆創膏の上から傷をひっかいた。
「ホントは。ウチがおねえのために意地張って顔ぐちゃぐちゃにしたって、負い目を作ってやろうって。打算もあったんスよ」
こんなこと、ふつうマリコは誰かに打ち明けたりしない。ニコニコ笑って内心を隠して、胸を押し付ければ、大体のことは、うまくいったからだ。
それがこの男には通じる気がしなかったし、隠す意味もないように感じていた。
「ウチはクズなんス。分かるんス。自分がカワイイんス。レイジさんみたいに、命がけで誰かのために戦うなんて、できるわけないの……」
おっと──さすがにキャラを演じる努力くらいは続けておきたい。口調が元に戻ったことに気づいて、マリコは口を覆った。
「……本当にヤベーことになったら、ウチはなりふりかまわずわめき散らして逃げるッスよ。自己保身てヤツ。麻薬王マルデロの最後も、そうだったでしょ」
フェンスのところに歩いていって、マリコは体を預けた。ガシャン。色のうせた緑の金網の上で、彼女の体が頼りなく揺れる。
「だからせめて、冷静に振舞えるうちに、おねえに恩返しがしたいんス。おねえと仲いいあんたに聞けば、カネの使い道、見つかると思ったんスけど」
そんなことを言われても、レイジは肩をすくめてやることしか出来ない。
こうして、ふたりは完全に困った。
「おねえが笑うの、しばらく見てないな……」
そうこぼして、マリコはフェンスの向こうに広がる、平穏な町の風景を眺めていた。