海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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3.7月16日/フェーク・プラスティック・ツリーズ(3)

 昼前に、カナタは学校を抜け出した。

 授業中の脱走はご法度だが、幸いにも三限目の教師はキリエだった。教卓の下でゲロバケツに顔を突っ込んだまま昏倒している彼女の横をスリ抜けて、彼女は堂々と正門から出ていった。

 これは彼女の任務だ。

 そして、こればっかりはどうしても、クラスメートの手を借りるわけにはいかない。知られてはいけないのだ。

 

 今の彼女は、人間の皮を引っ掛けた黒いナメクジだ。

 ルリコから借りたジャージに袖を通して大通りに出れば、たちまち殺意をみなぎらせる太陽と、人々の無遠慮な視線に晒される。

 どちらもカナタを、ひどく干からびさせる。

 彼女はジャージの上着を頭から被って、痛む体をおして歩き続けた。

 

 数百メートルの道のりを半時間ほどかけて、ようやく商店街の入り口が見えてきた。入り口の錆びた看板の下に、一台のトラックが停まっている。

 ドペっとした扁平な車体。バカげた重みを八つの車輪で支える、軍用の装甲輸送車だ。

 カーキ色に塗装されたボディに、一人の男が背中を預けている。真昼の太陽に目を細めながらタバコの煙をプカアと浮かべる彼の目の下に、特徴的なヤケドの痕があった。

 

「おっさん。待たせた?」

「だから俺はオジサンじゃ──」

 

 ケロイド男はいつもの調子で顔をしかめたが、ミイラ女のようになったカナタを見た瞬間、言葉を失った。

 

「──さして待ってねえよ。ちょうど、昼メシのメニュー考えてたトコ」

 

 しかし、それは一瞬だ。

 ヒモでひっかけていた麦藁帽を目深に被りなおすと、彼は装甲車の後部ハッチを開け放つ。

 数十ミリの装甲で厳重に防備されていたものは白米に小麦粉、冷凍された豚肉、卵──あとは調味料とジュースが少々。

 いいよと男に言われてもカナタは譲らず、折れそうなほど細った手で、用意した台車に荷物を積み込んでいく。

 

「なんでも売るってマジなんだな」

「そうだよー。本業は死の商人。ってヤツだけどね」

 

 最後の白米の包みを抱えて、男がハッチから出てくる。

 彼が手押しの台車に荷を降ろすと、簡素なつくりの車輪が軋んだ。分厚い茶封筒を男に渡しながら、カナタは不安そうに台車をチラチラ見ていた。

 

「お嬢ちゃん。ナパーム、いらない?」

「だからいらねえよ……」

「いや、マジでいっぺん試してみろって。すげえから。まとめて五百キロ分ブッ飛ばした時なんか、遠くから見てんのに目の水分がジュッて音立てたんだぜ」

 

 顔を引きつらせたカナタが、一歩引いた。

 

「アタシみたいなガクセーが何に使うんだよ。そんな」

「気に食わない奴を燃やす時とかさ。あ、ちなみに俺のこの傷もね、何年か前に自作の爆弾でさあ」

「オッサン……」

 

 男は戯言を叩く口と同じくらいよく動く手先で素早く代金を数え終え、領収書を渡してくる。

 

「ハイこれ。学生にしちゃ、だいぶイイ買い物したな。貯金だいじょぶ?」

「ヨケーなお世話だよ」

 

 ゼロが並んだ用紙を日に透かし、カナタは不思議そうにする。

 男の掌をライターの火があぶる。

 ゆっくりスパスパ彼が煙をふかす傍で、カナタは荷物の重さを確かめるように台車を揺らしていた。

 

「おっさん、リョーシューショーってなんのためにあんの?」

「おにいさん、な」

「センセーが職員会議の茶菓子パシらされた時、コレなくして泣いてた」

「何やってんだよ姉御は」

「なんか最近、マジでキリちゃん機嫌ワリーんだよ」

「……いいか、領収書はな、国に貸し付けた自分の魂を取り返すためにとっておくもんだ。つまり金払った証拠。こいつを大事にしないと、おめえ、どうなると思う?」

「もらわないと……どうなるんだ? ヤバいのか?」

「脱税よ。こいつを渡さなかったら、税務署がドーンとやってきてバーンとお嬢ちゃんをムショにブチ込む。だからな、これだけは覚えとけ。盲腸と領収書は忘れずに切ること。いいな」

 

 カナタは半信半疑ながらも、真剣に領収書を見つめた。

 

「じゃあ、たくさん貰ったほうがいい?」

「そういうことだ。あと、書いてある数字が8のゾロ目だと減税だからな。よく見ておくんだぞ」

「マジか……じゃあ絶対に貰わないと」

 

 カナタは真剣な表情でうなずいたのを見届けると、男はそれまで保っていた真顔を、突然ニヤリと崩して意地悪そうな笑みを浮かべた。

 

「まあ全部ウソだけど!」

「こ、このヤローっ!?」

 

 男のケツを狙ったカナタのキックは、へろへろと、途中で力尽きて地面に落ちていく。痛みに顔をしかめて、彼女は膝をつく。

 

「おい、大丈夫か。ひでえ顔色だ」

「うるせえよ。オジンが……」

 

 カナタはさっさと背を向けて荷物をまとめ始めた。

 

「なァ、それほど髪にこだわりが無いほうのお嬢ちゃん」

「ンだよそのシツレーな呼び方」

 

 米の袋ひとつ台車に乗せるのにも汗だくになりながら、カナタがケロイド男を睨んだ。と言っても、濁ったモスグリーンの瞳に、以前の彼女にあった快活さは、欠片もない。

 

「ムリすんな」

「今は……ムリしないといけない時なんだ」

「じゃあせめて、学校前まで運ばせてくれねえか」

「でかいクルマで乗り付けられたら、いろいろ困るんだよ。だから、ここでいい」

 

 今時珍しいディーゼルエンジンの音を響かせながら、装甲車は騒々しく郊外へと去っていった。

 真っ黒な煤煙とカーキ色の車体が、陽炎の中にまぎれていく。

 白昼の喧騒の中にひとり取り残されたカナタは、目の前の台車に向き直った。二十人分の米と肉、その他モロモロの重みで、台車はわずかに弓なりになっている。

 意地を通してケロイド男の申し出を断ったことを、カナタは後悔する。

 だが、知られるわけにはいかないのだ。クラスのみんなには、テスト前に余計なことに気を取られてほしくない。

 

「さて……どうすっかな」

 

 軽く、台車を押す。ダメだ。今の彼女の力では、五センチも進んでいかない。

 

「ああもう、クソ……」

 

 じりじりと太陽が照りつける。

 せっかく買い込んだ食材が、こうしている間にも痛んでいく。

 焦ったカナタが全体重をかけて台車に体当たりすると、ゴムの車輪が僅かに動く。しかし、ほんの少しだ。

 彼女の肩がジャージの下でひどく痛んだ。また、皮と肉が裂けたようだ。じわりと流れる黒いヘドロが、生地から染み出してくる。

 あと何百回、何千回とタックルを繰り返せば学校にたどり着けるだろうが──それよりもカナタの限界が先だ。

 人はたくさん周りにいるのに、みんなが彼女を見ているのに、だれも手を貸してくれない。時間がない。授業が始まる。みんなのために用意したモノが、ダメになる。

 

 ガリガリガリガリ。

 

 彼女は無意識に首筋をかきむしっていた。

 ドン底で焦って絶望の香りを嗅いでいると、そこに生々しい感覚がへばりついてくる。ゴツゴツしたフジツボ。そして、じっとり汗で滑った贅肉の塊。

 交互に、二人の男から首をさすられる。

 不快になる。

 最初に音をあげたのは、彼女の胃袋だ。ぐうっと押し上げられたげっぷが口から迸ると、それはひどく生臭い。ヘドロまみれのドブのにおいだ。

 その臭いが余計に彼女をむかむかさせる。

 

「ああああああっ!」

 

 カナタは思わず台車の車輪を蹴飛ばす。衝撃が、壊れかけの脚の、骨の芯まで届いた。彼女は苦痛にうめいて、うずくまる。

 

「う……いつものアタシなら、こんくらい……ひとりで……」

 

 ────ひとりで? ちがうだろ。

 

 こんな風にうずくまっていると、いつも背後から傷まみれの手が伸びてきて、彼女を支えてくれた。

 

『大丈夫だ。俺にやらせてくれ』

 

 のっそりとした巨体を現したレイジは、カナタが何かを言う前に、例の何を考えているかよく分からない顔で歩いていって、台車ごと荷物を担ぎ上げる。

 その背中に、カナタをおぶって──

 

「クソ、クソ、くそ……なさけねえ」

 

 だが彼はもういない。合宿から、カナタの前から姿を消した。

 

「アタシがこんなだから……アイツは……」

 

 いなくなって初めて、どれだけ自分がレイジに頼り切っていたか思い知らされる。

 

「カナタさん?」

 

 痛む足を押さえてじっとしていると、その背中に声を掛けられた。

 

「やべ……」

 

 振り向いた彼女の前に、見慣れた顔が二つ並んでいた。

 そのうちのボウズ頭。まるで大型犬のようにニコニコと愛想のいい笑いを絶やさないボウズ頭が、軽く手を上げてくる。

 

「なんか困ってんな。どしたんだい?」

「あ、ああ……ヨシちゃんたちか。授業終わったの?」

 

 カナタは冷や汗をぬぐって、なるべく表情を整えるように努力した。

 

「午後のテキスト忘れて、取りにきたトコ。ザワちんは付き添いね」

 

 水を向けられて、隣の細身の美男子が小さくうなずいた。

 

「ええ…………カナタさんは仕入れ、ですか。ありがとうございます」

「俺らこれから学校に戻るトコ。荷物運ぶなら手伝わせてくんない?」

「重いぞ?」

 

 気後れするような顔で、カナタが台車を指差した。

 ヨシは自信満々に腕まくりをし、ケンカで鳴らした肉体の力強さを見せつけた。

 

「だったらなおさらカナタちゃん一人に任せられねえよ。俺、結構力自慢。あのゴリラ(レイジ)には負けるかもしんねえけど──こんくらい、俺ひとりで余裕だぜ?」

「これ運べばいいですか?」

「あ、おい、俺とカナタちゃんいい感じだったのに!」

「そう思ってるのはヨシだけですよ。行きましょ」

 

 キメ顔を作って見せるヨシを完全無視して、台車に取り付いたザワちんが力をこめる。しかし彼の貧弱さもアルティメット級だ。

 白い顔を真っ赤にして、ひいひい言って。それでようやく、台車が僅かに動く。もどかしいほどのスピードだ。しかし、着実に前に進んでいく。

 

「無理すんなよ青びょうたん」

 

 明るい調子でヨシが茶化して、ザワちんの二の腕をペチペチと叩いた。

 

「黙って手伝え間抜けヅラ。このくらい、大したこたありません……よ!」

「おお」

 

 彼が命を燃やして台車を押していくのを見て、その隣にヨシが取り付く。

 カナタはあわてて、そこに加わった。

 

 ■

 

 アスファルトからの照り返しがキツい歩道を歩いて、三人は西高へ向かっていく。

 あれほど重たかった台車は、みんなで力を合わせると素直になった。それでも、緩やかに勾配のついた道を押していくのはなかなか骨が折れる。

 

「ひい……ふう……俺にはちょっとキツいですね。このクソ坂……」

 

 遠くに高架が見えてきたところで、ザワちんがようやく音を上げた。

「ちょっと」なんて強がってるが、彼の額から滑り落ちる汗の量は尋常ではない。このままじゃカナタより先に、彼がダウンしそうだ。

 近くにひさしのついたバス停を見つけて、カナタが声を上げた。

 

「ヨシちゃん、少し休もう。アタシ疲れた!」

「おう! カナタちゃんは気配りできて偉いなァ~!」

「はあ……はあ……まったく……どこかの無神経ヤローとは大違いですよ……」

 

 ザワちんが白目を剥いて、仰向けにベンチに倒れこむ。

 バス亭の裏は公園になっており、雑木がひさしの上にまで張り出している。停留所の中は見た目よりずっと涼しく、三人はそこでしばらく休憩することにした。

 

「セミが……うるせえですね……」

 

 ダラリとベンチの下に垂らしたザワちんの手が、舗装の隙間から生えた雑草を撫でている。大きな赤いテントウムシが彼の指に驚いて飛び去った。

 

「そりゃあ夏だぜ。セミちゃんだって鳴きてえだろうよ」

「セミって、どうして鳴くんだ?」

 

 素朴な疑問をカナタが投げる。

 

「そうねえ……」

 

 ヨシが言葉を捜している間に、折り悪く、学校のほうから他クラスの一団が坂を下りてきた。

 カナタは縮こまって荷台の影に隠れようとしたが、そんなことをしても、ますます彼らの注意を引くだけだった。

 

「ここなんか、クサくない?」

 

 ザワちんが舌打ちする。その横で、カナタの肩が震えた。

 実際、バス停のあたりにヘドロを積み上げたような悪臭が漂っていた。今やカナタのジャージを黒いまだら模様に染め上げる体液がその元凶だ。

 彼女は腐っている。どうしようもなく。

 

「ハハ。ドブみてえな臭いするよな」

「まったく。気味悪ィったらありゃしねえ──」

「おいおーい。俺がここいるの、見えてねえのか?」

 

 底抜けに明るく、そして、敵意を隠しもしない声が住宅街に響き渡った。バス停の中からユラリとヨシが現れると、彼らはせせら笑うことをやめた。

 

「俺のこと知ってるよな。じゃ、ケンカしよっか」

 

 西高至上最低最悪の不良が両拳を打ちつけると、彼らは軽く青ざめて早足にその場を去っていく。

 

「お。どしたの。どこ行くの。俺も一緒に行きてえな」

 

 ヘビのようにネチっこく彼らについていこうとするヨシの肩に、ザワちんが優しく手を掛けて、止めた。

 

「ヨシ。やめなさい。じゅうぶんです。よくやりました」

「根性なしのボケナスどもが。追いかけて背中にケリ入れたろか」

 

 なおも怒りが収まらないヨシはニコニコ顔のままにブチキレ続けていたが、すぐに背後のカナタの存在を思い出した。

 汗の光るボウズ頭をかきながら、彼は困ったように振り向いた。

 

「カナタちゃん、気にしないでおくれよ。アイツら言ってたの、たぶん俺のことだからさ」

「よく思われていない自覚はあるんですね」

「まあ、やることやってるからな。にしても、俺らのマドンナの前でダセーことしやがって」

 

 カナタがあきれたように肩をすくめた。

 

「マドンナってアタシのこと?」

「そうだぜ、お姫様」

 

 ごくごく自然にカナタの手を取って、甲にヨシは口づけしようとした。

 

「このバカたれ……」

 

 ザワちんが彼を引き剥がしにかかる。

 しかしそれよりも早くカナタが動いた。流れるようなアクションで平手を振りかぶり、ヨシの横っ面を張り飛ばす。パン、といい音が林に響き渡り、セミの声が止む。

 

「アタシ、そういうジョーダン、好きじゃない」

「じょ、冗談に聞こえたかい……?」

 

 不自然な方向に首を向けたまま、ヨシが呟いた。カナタたちに向き直る彼の頬が、徐々に手形の赤みを帯びていく。

 

「そかあ……俺、かなりマジなんだけどなあ」

「節操なしが。ヨシの野郎が迷惑かけますね、カナタさん」

「そういうの大事なヤツにだけ言えよ。アタシみたいなゾンビじゃなくってさ」

「いやだからさあ俺……はあ……出直します……」

 

 そうして三人ともなんとなく黙って裏の林に耳を澄ませた。ヨシの頬の腫れが引いてくるのに合わせたように、セミの鳴き声が戻ってくる。

 30℃をこえる真夏日だったが、降りしきる蝉時雨の中にいると、日陰の冷ややかさが染み渡るようだった。

 

「ああそうだ──セミが鳴くのは求愛のため、だそうですよ」

 

 思い出したようにザワちんが口を開いた。

 

「へえ。こんなにミンミンミンミン、必死こいて鳴いて、やってることはナンパかよ」

「お黙りなさいバカボウズ。だったらお前と一緒でしょうが」

「だから俺のはナンパじゃなくてピュアなラブだって……」

 

 具合悪そうに頬杖ついて黙り込んだヨシを見て、カナタは笑ってしまう。

 そんな彼女の前で、二人の顔もわずかに緩んだ。

 皮膚も髪もボロボロになった状態で学校に現れてから、カナタはずっと笑顔を見せなかった。

 わずかに彼女の調子が戻ってきて、彼らも安心したのだ。

 

「ザワちん……セミってどのくらい生きんだ?」

「一ヶ月くらいです。地面の中で七年くらいじっとしてるそうですが、木の汁吸ってるだけなんで、チャラですよ。チャラ」

 

 ザワちんが答えた。

 

「一ヶ月か。そんだけあったら、結構いろいろできるぜ」

「一週間合宿所にカンヅメにされるだけでも、散々な目に遭いますからね」

「ハ。おまけに、まだ折り返しだぜ。残り三日で何が起きるやら」

 

 冗談めかして笑いあったヨシとアイザワが、お互いの小脇をつっつく。

 

「一ヶ月といや……カナタちゃんはレイジと暮らしてそんくらい?」

「ヨシ、このバカ!」

 

 とっさに声を張り上げたザワちんも、直後苦々しい顔をした。

 

「クソですね……俺のほうが本格的にやらかすとは……」

 

 黒髪をかきあげて、彼はためいきをつく。バス停の中にさっきまでの穏やかな雰囲気はない。どことなく気まずい、凝固したような静寂だった。

 バスがやってきて、停留所の前で止まる。

 彼らが乗り込まないことを確認して走り去るまで、三人は何も言わずに俯いていた。

 

「あー……そっか。みんな、触れないでくれてたんだな」

「すんません。失礼かましたついでに、もうひとつ」

 

 カナタは少し気まずそうに台車の取っ手を握りしめていた。ベンチから腰を上げたザワちんが、米の袋に挟まった紙切れを引っ張り出す。

 

「自腹、切ってますよね」

 

 イスルギカナタ様、¥150.000-云々と書かれた領収書が、彼の指先で風と踊った。

 

「は? 自腹って……え? どうしてだ!?」

 

 それを見たヨシが大声を張り上げると、カナタはますます気まずそうに縮こまった。

 

「ンだよ……領収書貰っても損しかしねえじゃん」

「カ──カナタちゃん!」

 

 ヨシは目を見開きながらカナタの両肩を掴んだ。

 

「それダメだって!」

 

 声が少し震えている。

 

「初日にみんなのカネ集めたろ。どうした? あれじゃ足らなかったか!?」

「アレは……」

「一日三回、食パン暮らしで生きていけますか。貧乏人が金出し合ったところで何も変わりませんよ。計算も出来ないんですか」

 

 ザワちんが横から静かにヨシの手に触れた。こわばった彼の手を握って引き離しながら囁きかける。

 

「痛がってるから。少し落ち着いて」

「ンだよ、この金額。こんなん黙って払ってんのか? 学校は何してんだ」

「予算なんか下りるワケないでしょ。運よく合宿所が確保できたなんて会長言ってましたが、本当はあの人が方々に頭下げまくって、ようやく。って感じでしょう」

 

 未来のない落ちこぼれどもに、出せるカネはねーってことでしょ。彼が付け足すように呟いた言葉は、ヨシに冷水を浴びせかけるようだった。

 

「ほら。彼女は俺たちのマドンナでしょ。ベタベタ触ってんじゃないですよ」

 

 ザワちんは下唇を噛んで答えた。ヨシは、苦しそうな顔をして、詫びた。

 

「……すまねえ、カナタちゃん…………海行くためにフミオんとこで一生懸命バイトして、貯金してたんだろ?」

「もともとはな」

 

 カナタは笑ってうなずいた。痛々しい笑顔だった。

 

「そのための、カネだった。けど……」

 

 レイジとフミオ、ルリコの三馬鹿とプラス1、カナタで海を目指す大冒険。

 くたびれた地図帳を囲んでみんなでワイワイやってたときは、きっと、これから始まる旅は一生忘れられない思い出になるのだろう、と信じていた。

 

「だけど、もういいんだ。全部」

 

 セミの声が大きく聞こえた。ヨシは思わず顔を背ける。

 

「つまりイスルギのばかたれがしくじったんでしょ、何かを、決定的に」

「ザワちん、お前なあ……」

「もう聞くっきゃないでしょ。こうなったら」

「誰も悪くない。ただサイアクのタイミングで、サイアクのことばっかり起こった。っていうのかな」

 

 シャツと包帯で隠れたカナタの背中は、フミオのブーツの形にえぐれたままだ。

 あの日、A-6500シャフトのドン底で起こったすべてが嵐のようだった。一気に何もかもが転落して、そこに対話の機会すらなかった。

 フミオがカナタを痛めつけて、レイジがカナタにトドメを刺し、そしてカナタはレイジを拒絶した。

 逃げ出した彼のことを、責める気にはなれない。

 そしてカナタの中には穴が残された。ポッカリ開いた巨大なそれは、かつてレイジが収まっていた場所だ。

 

「肉が悪くなっちまう。もう少しだ、歩こう」

 

 膝を打って立ち上がったカナタは明らかにムリをしていた。

 あとに残されたヨシとザワちんは、暗鬱な顔を見合わせて彼女の後に続く。三人が「せーの」で力をこめると、台車は再び、焦げたアスファルトの上を転がり始める。

 

 そこからの会話はほとんど無かった。

 

 重い台車を押して、三人は高架の下を通りかかる。

 重苦しい気持ちのまま歩いていたヨシの目が、とある場所に留まった。一度はそこを素通りしたが、とてつもなく、マズいものを見つけてしまった。

 

「やべ──あ、イヤ、カナタちゃん、ちょっと遠回りしていこうぜ、なあ」

「レイジ……」

 

 手遅れだ。

 

 フェンスの向こうにいるレイジとマリコの姿を、カナタの瞳が映している。

 高架の向こうから差し込む日が滲んで、二人の姿をぼんやりと包んでいるのが、まるで映画のワンシーンのようだった。

 芝居がかった激しいアクション。大げさな身振り。二人の間でどんな会話が交わされているのかカナタのところまで届いてくることはない。

 ただ、楽しげだった。

 

 はしゃいだマリコが、体勢を崩す。

 

「あ」

 

 その手をレイジが掴んで支えた瞬間、カナタの胸の中で何かが音を立てて崩れた。

 

「レイジって、カオ変わんないだろ」

 

 大きな道路を一本挟んだカナタに聞こえるのは、セミの声だけだ。

 

「そんなだから……たまに笑わせることができると、なんかいいことしたな、って気がするんだ。でも」

 

 カナタは小さく微笑んで見せた。

 

「アタシがいなくても、もう大丈夫だな」

 

 ぽつりとこぼれた言葉に、横にいたヨシが呻いた。

 明らかに無理をしている笑いを残して、カナタは重い台車を引き寄せると、ぐっと握りしめて押し始めた。合宿所までまだ距離がある。

 

「ハイパー前途多難ですね」

 

 ザワちんが咳をして、血でピンク色に染まった唾を路肩に吐き捨てた。

 

「あン……のバッカ野郎……なんつー……間の悪さ……」

 

 ようやく言葉を搾り出して、ヨシが天を仰いだ。

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