ゆるやかな坂がどこまでも続いているようだった。
台車を押して遠ざかる三人の後姿はとうに陽炎の中に紛れ、白昼の夢のように薄ぼやけた白い残像にしか見えない。
自販機の影で彼らの背中を見送るフミオの口から、タバコがこぼれ落ちた。
松葉杖を脇の下に挟んだまま、彼は足元を見る。突如として天から落ちてきた巨大な柱を避けて、アリたちが行進していく。
洗いざらしのシャツの袖を弄んでいく風が、どうしようもなく冷たく感じる。
炎天下に立ち尽くしていた彼の額は汗でびっしよりだ。杖を持っていないほうの手の甲で拭った汗は、まるで氷雨のようだった。
この夏の暑さの中に、自分の居場所がないような気がした。
「後悔したって遅ェからな」
荷台にカラの酒瓶を満載した軽トラックが、彼のすぐ傍に停車する。
運転席の窓から身を乗り出してきたブンタは、いつもどおりの飄々とした調子で禿頭をこする。
そんな養父に、フミオはどうしても顔向けできない。
『ふんす』
代わりに、荷台に目をやる。
酒瓶とビールケースの隙間に収まるようにして、黒髪の少女が座り込んでいた。
両手で頬杖ついた彼女はわざとらしい鼻息を吹いただけで、何も言ってくることはない。
どうやら彼女に『触れて』見えるようになってしまってから、フミオはずっと、少女の幻影に付きまとわれていた。
どこへ行くにも。それこそ便所の中だとしても。
「後悔はしてねえけど……どうかな。謝りたかったのかもな、俺は」
『けっ。うぜえ』
久しぶりに彼女の声を聞いたが、やはり可愛げがない。
「局の人間でもねえくせして勝手に動きくさりやがって。何サマのつもりだ、フミオ」
「あ?」
ブンタの言葉が余程癪に障ったのか、フミオは険しい顔で彼を睨んだ。
「俺ァおっさんの言うとおり、選択したってことだろうがよ。封印されたシャフトのドン底から『背骨』を持ってきた。行き掛けの駄賃でカナタを捕まえるのに失敗した、それだけだ」
ダセェ反抗期だ。
フミオはそう思いながら、自分に言い聞かせるような口を止めることができない。
どうせ彼の養父は困ったようなニコニコ顔に困ったような八の字眉を乗せて、聞き分けのない息子の言葉に頷いて見せるだけだ。
「おいフミオ、こっち見ろ」
だがこの日は違った。
「俺サマがそんなしょうもないことでお前さんを詰めたりすると思ってんのか?」
「な、なんだよ、だったら……」
ブンタは軽トラの窓枠に腕を乗せたまま、冷ややかに息子を睨んでいた。
「お前さんが深く傷つけたのは、同い年の女の子だ。当たり前に迷って、困って、弱ってる。そこにお前さんがやってきて、めちゃくちゃにした」
「だとしても、あいつがいると町がヤベーんだろ」
「お前さんが踏みつけてぐちゃぐちゃにしたのは、お前さんのトモダチだ」
「でも……ッ、でもよお!」
「俺サマはもう、『背骨』なんてどうでもよかったんだよ。町がどうのっつーのも、大人どもの勝手な都合じゃねえか。カナタちゃんはそんなんと関係ねえ場所で、ただ幸せに暮らしててほしかった」
フミオは返す言葉を失い、ただ立ち尽くした。ブンタの視線は、一瞬たりとも揺らぐことがなかった。
「それでどうした。帰り道でルリコちゃんにタマ蹴られて、で、なんもかもギセイにして手に入ったもんは何だ? ちっぽけなガキの背骨ひとつ? ハッ……」
『ちっぽけでゴメンねー』
「タマは……蹴られてねえよ……」
フミオはうつむき、小さな声でやり返すのが精一杯だった。
「俺は、オッサンの、役に立つと思ったから……」
「自己満足のダシに俺サマを使ってんじゃねえ」
真夏の日差しの中に、法廷が開かれているようだった。
被告人は暮フミオ。
弁護人はいない。頼れる友人たちとの関係に、彼が自分で終止符を打ったからだ。
傍聴席には商店街を行きかうたくさんの人たち。彼らから見えるフミオたちは、きっと、仲のいい親子に見えるのだろう。
ヘマしたバカなせがれを叱る父──そう映ってもおかしくないが、事実はそれより少し、ちょっと、かなり複雑だ。
かたやこの町を牛耳る悪の支配者で、詰められている相手は暴走した養子だ。
『もっと言ってやれよ、ハゲオヤジ』
聞こえるはずもないのにブンタに野次を飛ばす少女は、心のそこから根性が捻じ曲がった検察官といったところだろう。
フミオは足元のアリを数えることしかできない。
「オラ。なんつー顔してやがんだ。オトナ、気取りたかったんだろ」
ブンタがトラックを降りて、近づいてくる。父の影法師に飲み込まれた瞬間、フミオはビクリと背筋を震わせた。
「…………ヤっちまったモンは仕方ねえ。来い」
ブンタがトラックから持ち出したものをフミオの足元に放り捨てた。
「俺サマが、お前サンみてえな裏切りモンにうってつけの仕事をくれてやる」
複雑に絡み合ったスチールのフレームが、彼の顔に複雑に乱反射する。太股から足首にかけて包み込むようにして使用する、機械式のサポーターだ。
松葉杖よりずっといい。これを装着すれば、足がへし折れたフミオでも、ずっと自由に動ける。
「仕事。って?」
痛みに顔をしかめてサポーターを拾い上げながら、フミオが訊いた。
「乗れ。助手席じゃねえかんな。高ェ酒積んでるんだ。お前さんは荷台だ」
一方的に言うだけ言って、ブンタは大股でトラックに戻っていく。
荷台の端に手をかけたフミオを、少女が見下ろしてくる。荷台にはほとんどスペースがない。
乗り込むとなると、自然に彼女のすぐ隣でヒザを抱えることになる。
『このまま牧場行きだね、売られちゃうよ。せいぜい鳴け、ドナドナって』
「うるせえ」
サポーターに爪先を突っ込みながら、フミオはふと、顔を上げた。
「なあ、オッ……オヤジ……」
「あ? 今なんつった?」
「いや……なんでもねえよ。オッサン」
彼は、自分が初めてブンタに本気で叱られたのだと気付く。
その情けなさが、なぜかありがたかった。