海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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4.7月16日/パラノイド・アンドロイド(2)

 二十畳ほどの食堂に、カレーのにおいが充満していた。

 

『いやあ、やっぱムリじゃないスかね。ウチに刃物とか。血の海見たいンすか』

 

 などと言っていた本日の料理当番・マリコは、五限目にフラリと帰ってキッチンに立つと、本人すら予想がつかぬほどの料理の腕を発揮した。

 カナタとルリコが思っていたより、ずっとずっと上手だった。

 包丁の扱いは完璧で、アドバイザーとしてキッチンの片隅に座ったカナタは、すぐ置物になった。

 

「おっどろいた。これ、すごくちゃんとしたカレーよ」

 

 スプーン片手に、ルリコが目を丸くした。

 

「へへへん」

 

 食堂とキッチンの間には、低いカウンターがあるだけだった。

 思いがけぬお褒めのコトバを姉からたまわったマリコが、照れくさそうに笑う。小麦色の肌の中で、行儀よく並んだ白い歯が眩しい。

 

「カナタ先輩に教えてもらったとおり作っただけスけどね~」

 

 今は彼女ひとりキッチンの流しで、大ナベを洗っているところだ。洗い物に関しても彼女はソツなくこなしてくれる。

 

「私は料理ドヘタだもの。たいしたもんよ、アンタ」

「にゃは。にゃはははは。てれる」

 

 すっかり上機嫌なマリコが鼻歌で奏でる『宇多田ヒカル/First Love』をBGMに、カナタとルリコの勉強会は続く。

 1999──人類が地下に退避する寸前にリリースされた楽曲だ。

 シェルターの外で世界は終わっていて、ここは延命装置につながれたウソまみれの世紀末が永遠に続いている──

 とたんに切ない恋を歌い上げるこの歌詞が、終末に捧げる最後のラブレターのようにルリコは感じてしまう。

 ……もちろんフミオの言葉がすべて真実とするなら、だが。

 

 カタッ……

 

 その音で考え事から戻ってきたルリコは、カナタが肘でのけたカレー皿を見た。一口もつけられないまま、すでに冷め切っている。

 

「なんかおなかに入れなきゃ、ダメよ」

「食欲、ねえんだ」

 

 レイジを拒絶して、胃袋の中身を全部ブチまけてから、カナタの体調はずっと低空飛行だ。

 飛行機に例えるなら、石くれだらけの荒地に胴体をゴリゴリこすりながら、なんとかギリギリ、気流の端を捕らえて飛んでいる状態だ。

 そんな、見た目どおりの半死人のようなコンディションでも、不思議なほど頭は冴えていた。

 

 キュッ。

 

 小気味の良い音を立てて、カナタのペンが丸を描く。

 福神漬けに大量の七味をかけていたルリコが、目を見張る。ほんの一ヶ月前まで連立方程式をひとつ解くのに一時間要していた彼女が、今や三角関数の世界の扉を叩こうとしている。

 

「やるわね」

 

 食器を脇にどけて、ルリコはカナタのドリルを手に取った。

 ページに黒い染みがついた問題集は、表紙がクタクタになるほど使い込まれていた。書いて消して書いて消して──特徴のあるカナタの丸文字で、自分自身に宛てたワンポイントのようなものも書き込まれている。

 

「……なんか。ハズい」

 

 影で積み重ねてきた努力の痕跡を見られて、カナタは若干バツが悪そうだった。

 

 ボロ雑巾のようになった皮膚に湯が沁みるのを嫌がって、ロクに風呂に入れていない。

 脂ぎった髪は最高のワックスだ。くっついて束になった前髪をカナタがかき上げて撫で付けると、それでオールバックがキマる。

 頭皮ごと抜け落ちた銀髪が絡んだ指で、彼女は新しいルーズリーフを引っ張り出す。

 

「ルリコさあ」

「ン」

「アタシが学校行ってないって、いつ分かった?」

「…………初対面で私たち、仲良くグダグダ話したでしょ。あの時」

「マジか」

 

 カナタの手からペンがポロリと転がり落ちた。

 自分がどうやら悲惨な家庭で育ったらしい──という確信が持てたのは、彼女自身、ほんの数日前に記憶の一部を取り戻した瞬間だ。

 

「あんまツッコんでほしくない感じしたから、放っておいたけど……ね」

 

 ペンを拾い上げたルリコが、ふっと息を吹いてホコリを飛ばす。

 

「アンタ、スジいいわよ。これからも勉強続けなさいよね」

「ああ……」

 

 ルリコに思できる全力の応援をもらっても、カナタはどこか、うわのそらだった。

 そんな状態でも問題集を解き進める手は休まらない。むしろ、スピードを増していく。そして彼女の傍で、カレーはどんどん冷めていく。

 ルリコは不安になる。

 勉強にやりがいを見出した、というより──逃避のためにペンを握っているようにしか見えなかったからだ。

 

「ね。どうするの?」

「なにがだよ」

 

 そして、返事はぶっきらぼう。

 

「アンタさ、テストの後のこととか、考えてる?」

「なにもねえよ。テスト終わったら、病院通いでもするさ」

 

 カナタのためにルリコが用意した特別授業は、もうすぐ終わる。

 窓の外に広がるグラウンドに、列を成して生徒たちが帰っていくところだった。

 原則、テスト前は部活ナシだ。黒々と浮かぶビル街のシルエットに沈んでいく夕日に照らされた彼らの顔には開放感がみなぎっている。

 しかし、A組の本番はここからだ。

 

「お疲れさあん。おや、この匂いはカレーかい?」

「オス、ボタ子パイセン。お疲れっス!」

 

 勢いよくおたまを掲げるマリコに苦笑しながら、ボタ子が入り口をくぐってくる。彼女の後に続いてやってきたヨシとザワちんが会釈した。

 

「他のボンクラどもがすぐ来ると思うから、あたい手伝うよお、マリコちゃあん」

「マジすか!? 恐縮ス。ほんじゃセンパイには……」

 

 マリコが投げ渡したエプロンをつけながら、ボタ子がキッチンに入っていく。男たちはカウンターに並んで、カレー待ちの体勢だ。

 ルリコはカナタに向き直る。大事な話を続けられる時間は、もう少ない。

 カレーのにおいを嗅ぎつけた2-Aの欠食児童たちが、続々と食堂に集結しつつあった。

 

「海はどうすんの?」

 

 ぐっと、カナタの喉が音を立てた。

 

「いいよ……もう。海とか、どうでも」

「そうやっていじけたフリして、死ぬまで『もういい』つって未練タラタラで過ごすつもり?」

「うるせえ。黙れよばか」

 

 カナタの握ったペンの先が耳障りな音を立てた。そこにはヤケを起こしたように巨大な、ひどく歪んだマルが残される。

 固く握り込んだ拳の包帯にじわじわと黒い汁を滲ませながら、カナタは舌打ちする。

 

「オマエはマリコの姉ちゃんだ。アタシとはアカの他人だろ」

「あっそ。せっかく気にかけてやってんのよ、こっちは」

 

 ほかにもっと、なんか気の利いたコト言えないわけ? 

 

 頬杖ついたルリコは、内心で自分に毒づく。

 カナタは見えているよりもずっと、ずっとずっとずっと、傷ついている。『海へ行く』という彼女の(ロマン)は、その体ごと砕けたのだ。

 地底の果て、A-6500シャフトの最も奥の暗闇で。

 

「……ごめんな、ルリコ。アタシ、なんかダメになってる」

 

 時間差で、カナタが謝ってきた。

 徐々に騒がしくなり始める食堂の空気の中で、彼女のペンは止まったままだった。

 

「気にしないで。ママにもっとヒドいこと言われてたし」

 

 言い放った直後、ルリコは頭を抱えた。

 

「その……マジで、わりい」

「私ともあろうもんが、なんつー皮肉で答えてんのかしらね。ホントごめんね」

「おーい、会長さんよお。ここ空いてるだろ、入れてくれろ」

 

 このタイミングでヨシとザワちんがやってきたのは、ルリコたちにとって救いだった。

 返事も聞かずにルリコの隣に座り込むヨシ。と、テーブルの向こう側では、夕食を載せたトレーを持ったザワちんがカナタに軽く目配せする。

 

「いいけどアタシ、くさいぞ。食欲なくすぞ」

「俺、最新の療法っつーやつのせいで嗅覚死んでるんで。気にしませんよ」

「それフォローか? けなされてないか?」

「ザワちんなりに、気ィ使って答えたんだよ。な?」

 

 ヨシがあごをしゃくった先で、ザワちんは静かに手を合わせる。

 

「なんか、テレるスね。そこまでされると」

 

 神職の息子らしくタップリ時間をかけて「いただきます」する彼を見守っていたマリコが、カウンターの向こうで呟いた。

 

「ヘンなトコでマジメなヤツなのさ。ザワちんはね」

「聞こえてますよデカ女。俺は万事、何事にも、全力で真面目かましてます」

 

 目を瞑ったままザワちんが鋭く刺すと、ボタ子は口笛を吹きながら配膳に戻っていった。

 

「──うん。おいしいです。やっぱ、スパイス効いてる料理が一番です」

「マリコちゃん、カレーうんまいぜええ!」

「にしし……」

 

 たまにばかげた大きさのニンジンや、いい加減に皮が剥けたジャガイモが転がり出てくるところに料理人の性格が出ている。

 しかし、それも味、というやつだ。

 マリコは料理ができる。そしてカナタは見ていることしかできない。

 

「ノリで調味料ブチ込むトコ以外カンペキだよ。マリコは。アタシ、もういらないかもだ」

「さすがは私の妹」

 

 カナタ、はキッチンの奥で洗い物をしていたマリコに両腕でマルを作って見せる。彼女はガッツポースで応えてくる。

 

「うん……んまい。いいよ、マリコ」

 

 二、三回、スプーンを口に運んでカナタは頷く。

 裂けた唇にスパイスがしみて顔をしかめる彼女の様子を、ザワちんはそっと伺っていた。

 彼がテーブル全体に目を移すと、みんな、心配そうにカナタを見つめていた。

 

「このテーブルにいる連中、みんな家庭に問題抱えてるじゃないですか」

 

 咳払いひとつして、ザワちんが切り出した。

 

「だからやってもいい話だと思うんですが──この合宿、けっこう居心地いいじゃないですか」

 

 彼の皿に、ニンジンが飛んでくる。

 差出人は向かいに座ったヨシだ。「うけけ」と笑いながら苦手な野菜を押し付けてくる悪友に睨みを利かせていると、スプーンをくわえたままルリコが促してくる。

 

「続けていいわよ」

「俺……俺、この合宿がずっと続いて欲しいって思うんです。

 期末本番なんて考えるだけで吐き気がしてきますが、その後に戻らなきゃいけない『あたりまえ』っつーやつが、一番おそろしい」

「おーおー、神社の息子でやさしいお母ちゃんがいて。ちょっとカゼこじらしてるだけの男がなんか言ってらあ」

「は。じゃあ俺のビョーキうつしてやりましょうか。ゲホゴホ」

「やめろやめろ」

 

 仲良し二人組をよそに、ルリコは天井を見上げる。

 一見真っ白な天井は、目を凝らせば、長年の歴史を物語るような無数の汚れに覆われている。

 ホコリを纏ったクモの糸が、扇風機の風で揺れていた。

 

「私は……帰るわ。マリコと。(ウチ)に」

 

 ルリコがぽつりと言った。

 

「会長の母ちゃんってヤベー女なんだろガアア」

 

 まったく飾らない言葉をヨシが剛速球で投げつけるなり、ザワちんがテーブルの下で彼の向うずねを強く蹴り飛ばした。

 

「マジでアンタって気持ちがいいくらいデリカシーないわね!」

「そこがイイ時もあるんですがね。代わりに謝っときます。すません」

「いづづ……全員問題アリっていう前提ではじめたのはオメーだろうが……んでよ。家帰って、どうすんだ。勝算っつーの、あんですかい?」

「ないわ。マリコと一緒に辛いの半分こするだけよ。二倍になるかもだけど」

「居間にレイジ殴りこませて、全部解決ってふうには、いかねえかい」

「アンタの家はどうなの。そっちだって、あのガリガリ親父ぶん殴ったら、全部問題解決してハッピーになれるじゃない?」

「ハハ……メチャ痛ェとこ突きやがる」

 

 四者四様のため息が、ぶはあ、という合唱になって食堂に響き渡った。

 

「なにもかも、面白いくらい、うまくいかないわね」

 

 視線の置き場に困ったルリコが、窓の外に目をやった。

 重苦しい話題に花を咲かせているうちに、西町を照らす人口太陽は今日のシフトを上がっていた。

 夏の温度で煮詰まった夜闇は、窓の外でゆるやかに渦を巻いているように見えた。ガラスに映るカナタは、ルリコが思ったより静かで、思ったより遠かった。

 彼女が握ったスプーンは空をさまようばかりで、カレーを掬うことはない。

 

「アタシたち、なんか間違ったんだ……たぶん」

 

 カナタの目は空間に開いた、どこか別の世界を見つめているようだった。

 

「なんかって……何です?」

「わからない。最初から、ゼンブだったのかもな」

 

 彼女の瞳には何も映らない。遠い、海の色でさえ。

 

 ガラッ。

 

 何も言わず、カナタはトレーに食器を載せて立ち上がった。

 相変わらずおぼつかない足取りでテーブルの合間を縫っていって、その姿がドアの向こうに消える。

 三人の間に残されたのは、気まずい空気だけだった。

 

「……レイジのやつ。カナタちゃんが弱ってるときに、どこほっつき歩いてんだ」

 

 ヨシが手を組んで、思い切り指を鳴らす。ボキボキボキ、と凄まじい音がした。

 

「レイジってさあ、強いんだろ。ちょっと小突いても、泣いたりしないよな」

「ちょっと。アンタ、人殴るのやめたんじゃなかったの」

「素敵なレディーたちの前ではな。俺は紳士に生まれ変わったんだ」

 

 ヨシは朗らかに笑う。口の端から覗く犬歯の上に、かつての狂犬の片鱗が、ほんのわずかに顔をのぞかせた。

 

「でもなあ……レイジ見てっと、なんつーか血が騒ぐんだわ」

「あの鈍感マンがグダグダやってるから?」

「それもある。だけど、今の俺がどこまでやれるか試してみたい。こっちがデカいかな」

 

 ヨシの拳が握り締められる。

 それは一瞬で鋼になった。かつて、彼の前に立ちはだかる一切合財を丸ごと吹き飛ばしてきた最強の武器だ。

 ほんとうに、なんの容赦もなく、誰も彼も。

 西高で一番ブレーキがイカれた不良──キッチンの中でマリコと談笑している、もっとイカれた女(ボタ子)にシメられるまでその名をほしいままにした純粋な暴力の塊を、彼は惚れ惚れと見つめた。

 

「やばーん」

 

 むき出しの力こぶを、ルリコがペチリとひっぱたく。

 

「なんだかんだ、会長さんも好きだろ、野性的な男っての」

「嫌いじゃないけど? でも、私、ちょっと愛情の向け方が変わってるから。屈強な男がボコボコにされて、泥水舐めながらもがいてるほうが。そそるわ」

「会長もなかなかアレですね……」

 

 ■

 

 ひとりきりになりたくて、合宿所の屋上に来たカナタは包帯を解いた。

 腕の具合は、控えめに言ってよろしくない。

 彼女の意思に応じて変幻自在した手足は、いまや、鈍くて冷たい棒でしかない。

 

 何か口に入れないとマズいことだけは理解しているので、かろうじて動くほうの腕で、カレーを口に運ぶ。痛いだけで、味を感じない。

 

 すべてが遠い。

 

 鼻をつまんでプールに潜ったときを思い出す。

 水の底にいると、楽しそうにしている周りの子供たちの声があぶくに紛れて聞こえなくなる。

 傷だらけの自分の体を見られなくて済む。生きていると感じなくてすむ。

 自分が地球上から消えることが出来た気がして、ほっとする。

 

 それは『オモトカナタ』という少女が、ほんのわずかに安らぎ感じられた瞬間の記憶だ。

 

 コトリ。

 

 誰かがここまで引っ張りあげたコカ・コーラの赤いベンチに食器を置いて、カナタはポケットからガーゼと包帯を取り出した。

 オモトカナタも、傷の絶えない女だった。

 そんな言葉が生やさしいと思えるほど、記憶の断片から見える彼女の手や足、もっと深い場所も含めて、傷だらけだった。

 だから、手当ての方法は分かる。包帯の片端を口に咥えて、隙間無く巻き付けていく動きは、彼女自身驚くほどの手際だ。

 

 ────そういえば。

 

 手首まで包帯を巻き終えたとき、カナタはふと、砕けてしまったビーズのブレスレットのことを思い出した。

 あれは、まだ、冷たいシャフトの奥底で汚物にまみれて散らばったままなのだろうか。

 できることなら今すぐ駆け戻って、かき集めたい。

 

 あれは宝物で、一番楽しかった夏の記憶そのものだ。

 レイジと一緒に過ごした時間が形になったようだ。

 

「うっ……ぷ」

 

 解剖室の床に敷き詰められたタイルの冷たい感触を思い出した瞬間、彼女は口を押さえて前かがみになった。

 

 ビシャシャと暗闇で水っぽい音を立てて、食べたばかりの夕飯が、彼女の足元に吐き出されていく。

 

「はあ……はあ……っ、せっかく、マリコが作ってくれたのにな……」

 

 涙と鼻水を拭う。

 嘔吐することに、オモトカナタは慣れきっていた。だから、カナタにとっても苦痛ではない。

 苦しいが、無視できるようになった。オモトカナタ──つまり、過去のカナタだが──彼女が孤独に飲み込み続けた苦痛の、あまりの大きさのせいで。

 

「あれ……」

 

 そのはずなのに、カナタは目をこする手が止まらない。

 

「おかしい、なっ。ゲロ吐いてるだけなのに、こんなに、悲しくなったり、じないのに゛っ……」

 

 せっかく交換した包帯が黒く汚れていく。

 傷はどんどん増えていく。体はこの瞬間も壊れ続ける。記憶は色あせていく。

 足元に滴る、腐臭を漂わせる液体が、終わってしまったと、お前は壊れてしまったのだと、残酷なまでに彼女に突きつけて来る。

 

「うっ……あうっ……ぐうううっ…………」

 

 闇夜。世界から切り取られたような屋上に一人腰掛けたまま、カナタは止め処なく流れる涙を、壊れた機械のように拭き取り続けた。

 

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