海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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5.7月17日/ランニング・ダウン・ザ・ヒル(1)

 ルリコは英単語の暗記をしている。

 片手にはサンドイッチ。昨日マリコが作ったカレーの余りを、チーズと一緒にパンに乗せて焼いたものだ。

 そんなマリコは、下級生のくせに、すっかり2-Aに入り浸るようになっていた。

 

「ヨシくん、それっ、ダウト!」

「ぶっは、直撃じゃないかい!」

「はあああああ!? ま、マリコちゃん、なんかズルしてねえか!?」

「ウチ、勝負勘あるんで。ほらほら早く、身包み脱ぐ準備するス!」

「このボウズ頭の裸踊りとか、カネもらっても見たくないですがね……」

 

 いまや昼休みの教室に彼女の笑い声が響くのは当たり前だった。

 今日はヨシたちのところで、カード賭博に興じている。昔のルリコだったら走っていってカードごと机をひっくり返すところだが、最近そうする気が薄れてきた。

 見てない見てない。私見てないから、関わらなくていいから──ルリコはため息を吹いて、カリカリのトーストをかじる。

 

「買出し。いく」

 

 彼女が膝の上に落ちたパンくずを拾っているところにカナタがやってきて、言った。

 

「は? 仕入れなら昨日やったばかりじゃない。アンタのポケットマネーでさ」

「どうしても欲しいものが出来た。すぐ行きたい」

「ふうん……」

 

 単語カードを繰るルリコの手が、止まる。

 別に、買出しに行きたいのなら好きにさせてやればいいじゃないかと思う。昼休みは始まったばかりなのだから、今出れば、カナタの足でも十分五限に間に合う、はず、だ──

 

「本当に行かなきゃダメなの?」

 

 何か、ひっかかりを覚えて、彼女は聞いていた。

 

「ああ。そうだ。今日、買っておかないと」

「今日の今? 放課後じゃダメ?」

「ダメだ」

 

 断固としている。まるで、これを逃したら最後とでも言うかのようだった。ルリコは今感じている胸騒ぎを気取られないよう、落ち着き払ってペンを握る。

 

「……私、忙しいの。とっても。明日からアンタらチームバカの面倒見るために、今日中にテスト範囲をコンプリートして、課題も終わらせないといけなくって」

 

 カナタは、腕に巻かれた包帯を握り締める。ほとんど真っ黒に染まった包帯の下からじわっと黒い体液が染み出す。

 

 チリリン──

 

 夏のはじまりに、ボタ子がふざけて窓辺に吊った風鈴が、涼しげな音を奏でる。窓枠一枚隔てた向こうは、目が覚めるような青空だ。

 一方教室は、夏の光が作り出すかげりの中にある。

 青い影の中でルリコとカナタは見つめ合った。乾いて割れて、老婆のようになった唇を、カナタは噛み締めている。

 

「……忙しいから。私、買い物に付き合えないわよ」

「いらねえよ。何でだよ。どうしてルリコがアタシの用事についてくるんだよ」

 

 先に目を伏せたのは、ルリコの方だった。

 

「────だって。トモダチってやつでしょ。私たち」

 

 カナタの目がわずかに見開かれた。

 ふつう、ルリコはこんなこと言わない。ドライな女なのだ。『あっそ』と『ふうん』で大体の会話を終わらせてきた、コミュニケーションの天才だ。

 そんな彼女が恐る恐る口にした一言は、本当に驚くべき変化の産物だった。

 

「ほんじゃ。もう時間ないし、アタシいく」

 

 トモダチとして、「ああそうだよ」と答えてやればいいと分かっているのに、カナタにはそれができなかった。

 

「ね……明日じゃダメなの。それなら一緒に行けるわ」

「ああ。今日がいいんだ。みんなのためだから」

「そう……すごく、すっごく無理してあげよっか。これから一緒に、行ったげようか?」

「いい。やめてくれ。アタシこんな体で、あんまり力出せないし。ルリコがまた栄養失調おこして倒れられても、なんもできねえから」

 

 即座にカナタが断った。

 

「じゃあ、じゃあ──くれぐれも、気をつけてね」

「ああ…………ルリコ。今まで、いろいろありがとう」

「まるで今生の別れみたいな挨拶ね」

「ハハ。考えすぎだろ。そんじゃ」

「そう。それじゃ、さよなら。バイバイ」

 

 包帯の切れ端を風に泳がせながら、カナタが教室を出て行く。

 サイズの合わないブカブカのジャージをひっかけた彼女の背中を、ルリコはついに、最後まで見ることが出来なかった。

 彼女が出て行ったことを知る者は、ルリコを除いてここにはいない。引きずるようなカナタの足音は、すぐに昼休みの騒がしさの中に紛れて消え──

 

 パキリ。

 

 そして、ルリコが握ったシャーペンの芯が砕ける音が響いた。

 

「マリコッ!!」

 

 勢いよくイスを引いて立ち上がると、彼女が叫んだ。

 

「あ、アイアイ!?」

「アンタ、レイジの居場所ゲロしなさい!」

 

 怒号を浴びせられ、ブッ飛ぶ勢いでマリコがやってくるなり、その胸倉をルリコが掴む。

 今なら睨むだけで人を殺せそうな形相だった。まるで阿修羅のようなたたずまいの彼女から放たれる殺気が、クラスメートたちの視線を釘付けにする。

 

「し……知らねっス」

「うるさいっ、そんなミエミエの嘘に付き合ってるような場合じゃないのよ!」

「い、いきなりなんスか。いくらおねえでも、こんな、離せッス!」

 

 流れるようだった黒髪を針のように逆立てて、ルリコが凄む。

 いきなり始まった姉の暴力ショーに、いちおうマリコも抗議するが、怒りと焦りでぐちゃぐちゃになった瞳で見据えられ、「ひい」と情けない悲鳴を上げた。

 

「カナタがヤバいって言ってんのよ! 早くあのバカに声かけて。探させて。私も手分けする!」

「……カナタ、先輩が?」

 

 ほとんど吊り上げていた妹の体を、ルリコがぱっと下ろす。

 べちゃっと床に落ちたマリコはしばらく目を白黒させていたが、その顔にすぐ緊張がみなぎる。

 実の妹だ。本当に「ヤバい」ときに姉がどんな表情をするのか知っている。そしてそれが、今のルリコだ。

 

「お、俺らも、行くぞ!?」

 

 ヨシが、ザワちんが、そして他の生徒たちがガタガタと騒々しく立ち上がろうとするのを、ルリコは視線で制した。

 

「最近アンタらの連帯感、嫌いじゃなくなってきたけどね。でもダメ、アンタらは勉強してて。カナタにできることなんて、せいぜい()()()()()()()()()だから──」

 

 ■

 

 校門を出たカナタは、何度も何度も振り返りながら坂道を下っていく。

 しかし、ルリコが追ってくることはない。

 あんなに堂々と別れの言葉を口にしたことを、カナタは我ながらに思い切ったものだと感じた。

 コッソリ脱出すれば、こんなにハラハラしないでよかったが──どうしても、最後に面と向かって「さよなら」を言っておきたかった。

 坂道の中ほどまで下りていって、カナタは最後にもう一度だけ振り返った。

 グラグラと揺らぐ蜃気楼の中に、西高が白い巨人のようにそびえていた。青空と入道雲を背負った校舎に向けて、彼女は手を振る。

 

「じゃ。短かったけど、本当に楽しかった」

 

 たった一ヶ月の付き合いだが、彼女にとっては大事な母校だ。

 一度溶けたあとにもう一度固まって、うまく曲がらない足を引きずりながら、長い長い坂道を下っていく。

 黒く濁った汗で焼けたアスファルトに刻印しつつ、まず向かう先は中央区だ。

 相変わらず客入りがなさそうな映画館のロビーでは、受付の男が顔に新聞を乗せたままイスにひっくり返っている。

 まだ閉鎖されたままになっている市民プールの前を通っていく。

 虫のように日陰の中を選んで這い回るカナタに向けて、まぶしい反射を投げかけてくるのは、ガラス張りの水族館だ。

 

 渋滞した電気自動車の列から投げかけられる視線を避けるようにして、カナタは足早に歩いていく。

 

 やがて、クルマが奏でるモーターのうなりも雑踏の声も聞こえなくなった頃──ふとカナタが顔を上げると、夏の陽炎の中で、商店街の看板が見下ろしてきていた。

 ジャージをフードのように被ったまま、カナタは錆び付いた看板の向こうに目をやる。

 暮酒店が見えた。

 炎天下、何もかもが白熱して焼きつくような風景の中で、そのガラス戸は閉め切られたままだ。

 店の前のベンチが目に入る。

 温いラムネを飲みながら、みんなでバカ話に花を咲かせた日々のことが、妙に懐かしく感じた。

 

「ごめんな。フミオ。アタシ、ケジメだけは、ちゃんとつけるな」

 

 軽く頭を下げて、カナタは再び歩く。

 

 暑い。

 

 溶ける。

 

 ──もうちょっとだから。

 

 もとから壊れかけの体を引きずって歩く彼女は、右に左にふらふらと揺れて、昼日中の街中を、まるで蜃気楼の一部のようになって歩いていく。

 

「おっ」

 

 急にどん、と強く肩をぶつけられた。

 体が思うままに言うことを聞かず、カナタはその場にしりもちをつく。新しく出来た肌の裂け目を押さえてうめく彼女に、舌打ちが浴びせられた。

 

「このクズ……」

 

 大学生か、社会人か。

 無精ひげに覆われたそいつの顎を見た瞬間、彼女の中の『オモトカナタ』が大声で喚き散らしたのが分かった。

 どこの町の、どんな通りにでもいそうな男だった。

 身なりはきれいで、どこかのバーで仲のいい友人たちと談笑していてもまったくおかしくない。

 ただ、その目。

 異様に小さく、そのどんぐりのような目の中でもひときわ小さい、針で突いた穴のような黒目に見据えられた瞬間、カナタは身がすくむ。

 

「なに見てんだ、ああ?」

 

 相対したことがない、危険な大人だった。

 彼の手から火のついたタバコが飛んできて、カナタの耳を掠める。怖い。彼女は顔を上げることすら出来ない。

 

「おい、どした?」

 

 彼の取り巻きの一人が、引き返してきた。

 

「気味悪ィガキがぶつかってきやがった。しかも臭ェ。こいつクソ漏らしてんのか?」

「浮かれてんじゃねえよ、バァカ」

「悪ィ悪ィ……よっ、と」

 

 男がクルリときびすを返す。助かった──そう、カナタが胸をなでおろしかけた瞬間、彼は足を思い切り振りかぶった。

 

「あぐっ」

 

 むこうずねをサッカーボールのように蹴り飛ばされた瞬間、カナタは目の前が真っ白になった。

 神経を走る電撃の音が、本当に聞こえた。

 

「あッ……あああ……!」

「ハハハハッ、うせろ、クソガキ!」

 

 足を抱えて息を詰まらせるカナタの頭に、ヤニ臭い唾が吐き掛けられる。

 通り過ぎる人々は冷淡だ。薄気味の悪い黒い汚れにまみれたカナタを一瞥するだけで、誰も手を差し伸べはしない。

 

 彼女はしばらくそのままだった。

 ぐちゃぐちゃの足はひどいもんだ。あうあうと呻きながら傷から手を離すと、流れ出した体液が指の間で糸を引く。

 腐肉の塊になった足は、男の無慈悲な一撃で完全にメゲていた。潰れ、削げ、薄くなった肉の層の向こう側に、骨が見える。

 

「ごめん……なさい」

 

 遠ざかる背中に発したそれは、オモトカナタの口ぐせだった。

 記憶の中の彼女は、怒鳴られるたび、殴られるたび、何もしてなくても謝っていた。

 

 ふと横から視線を感じて顔を向けると、そこは見覚えのある着物屋だった。

 夏祭りの晩に立ち寄った、キリエの実家だ。

 ショーウインドーの向こうから一部始終を静観していたキリエの『母親』が、慌てて目を伏せたのが見えた。

 カナタは黙って、窓に反射する自分の姿を見る。まるでハムナプトラから飛び出てきたミイラの怪物だ。

 

 気づくと、カナタは走り始めていた。

 スクラップになった足が、一歩ごとに途方もなく痛む。

 それでもあの場にとどまっていたら、一番幸せだった日々の出来事をもっと思い出してしまいそうだった。

 

 ダメだ。アタシは決めたんだ──もう、帰らないって。

 

 泣きながら、カナタは走り続ける。今はその、涙の色ですら黒い。

 

 ■

 

「はあ……はあ……ダッサ。アタシ……ほんとダメになっちまった……」

 

 酷使した肺が、呼吸のたびに痛む。

 蹴られた足はもはや折れかけの棒切れだ。痛みを通り越して、冷たさを感じている。

 あれから走って走って、がむしゃらに走り続けて……気がつくとカナタの周りは開けていた。

 商店街は遥か後方に過ぎ去り、目の前には郊外まで続く青田が広がっている。

 西町と『外』の狭間を示す標識のように、レイジと、そしてカナタの暮らしたマンションが見えた。

 チョロチョロと道の横を流れる農業用水の音を聞きながら歩いていって、彼女は灰色の廃墟を見上げる。

 この瞬間が、一番辛かった。

 絶対にありえないと分かっていても──レイジが、今にも駐車場から駆け出してきて、自分を引き止めてくれないかと、期待してしまった。

 

 甘く、残酷な幻想だった。

 

 青、白、緑。それだけの風景の中を、はいずるような速度で歩いていく。

 マンションですら、豆粒のように小さくなった頃、トタン造りの小さなバス停を見つけた。

 近くに寄ってみてみると、天井は破れ、雨どいは引き千切られて地面に転がされている。

 ここで何があったのか。じっと立ち尽くすカナタに物語るものはいない。

 

レイジたち(アイツら)、こんなトコでグダグダたむろってたりしたのかな)

 

 こんな状況なのに、カナタはほくそ笑んでしまう。

 フミオがいつものようにバカ話する横で、ルリコがベンチに寝そべって。それで、レイジのあほはバス停にブラ下がって懸垂とかしたりして……

 ついに自分が『四人目』として認められることがなかった仲良したちのことを考えるとき、カナタの顔は優しさを取り戻す。

 同時に、途方もない寂しさが彼女を襲う。

 

 バス停の内外に張られたポスターが目を引く。

 

 異様なまでに割のいい求人。手厚い子育て支援。やりすぎなくらいの住宅補助、いきすぎなくらいの生活支援、もろもろのイベント────

 

 すべてはこの、作られた90年代に人々を留めておくためのものだった。

 

『マジで行くの?』

 

 白く日焼けしたポスターで、かろうじて見える写真の男女が問うてくる。カナタは前進することでそれに答える。

 

 日差しは地獄の炎のようだった。

 真夏の太陽が暑いのは当たり前だが、ここは地下2000メートルの町だ。

 そんな場所に本物と見間違うほどの太陽を作り上げた人間は、外の世界へにとてつもない未練を抱いていたのだろう。

 

 同時にカナタは、自分が作り物であることを強く意識する。

 

 オモトカナタという死んだ女を、黒い泥をこねまわして再生したのが今の彼女だ。あの怪物たちと、本質は何も変わらない。

 だとすれば、半ば異形と貸してもなお人の形を保とうとする体も、オモトカナタの未練なのだろうか? 

 

 じりじりと太陽が焦がし、彼女の体は刻一刻と乾いていく。

 田畑から立ち上るむっとした泥の香りがカナタを包み込む。

 

 以前カナタがみんなと町の外を目指したときは、世にも恐ろしい特殊部隊の猛追を受けるハメになった。

 雨の中で散り散りになり、まるで狐を狩るように一人一人仕留められていったことを思い出す。

 パワードスーツ、最新鋭の銃器に、サイボーグ忍者。とても、学生数人に出すような戦力じゃない。

 

 だが、今回は(おもむき)が違うようだ。

 

 日射病寸前で、呼吸を荒げながらカナタが顔を上げる──数十メートル前方に、クリーム色のバンがポツリと停まっている。

 

「日傘も差さずに、どこ行くんですか」

 

 コーティングが剥がれてツヤの消えたボンネットには一本のスキットルが立てられており、銀色の輝きをカナタの顔に投げかけてくる。

 

 道の終わりで、キリエが待っていた。

 

 ジーンズに白いシャツというラフな格好だ。しかし、手袋に覆われた彼女の左手は機械式の剣を弄んでいる。

 これからしなくてはいけない『仕事』に備えて、彼女の殺気が研ぎ澄まされていく。

 

「見りゃわかんだろ」

 

 ふらつく頭でカナタは力なく笑う。

 

「この町を出るのさ。アタシはもう、何も望まない」

 

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