「ウオワーッ!」
昼過ぎの街角に、野太い奇声が響き渡る。
西町のマスコットキャラ、ニッシーくんだ。この世のものとは思えない間抜け面を貼り付けた体長二メートルの黄色い鯨が、直射日光に晒されるビルの谷間の交差点で、直立二足歩行しながら風船を配っている。
「ウオオーホウォーッ!」
立ってるだけで寿命がモリモリ縮みそうな、いい夏の日だった。
そんな中分厚いきぐるみクジラが駆り出されたのは、熱中症の予防キャンペーンのためなのだが、おそらく一番クールダウンが必要なのはニッシーくんの中の人だ。
「わ。すっげえ。ニッシーくん、それカラテのやつじゃん!」
……の、はずなのだが、ニッシーくんの動きは鈍らない。
なぜか風船配りそっちのけで空手のピンアンを始めたクジラの怪物は、あっという間に小学生たちの人気者になった。
なにせ、キレがある。
中の人の汗でぬれそぼったぬいぐるみは、残像が見えるほどのスピードで演舞を続ける。
「ホワアーッ!」
クジラとしてはかなりムリのあるひねりを加えての、猫足立ちからの左上段外受け。シュババ、と安いフェルト地を鳴らしたニッシーくんが気合を発すると、子供たちは大盛り上がりだ。
「あれ、いいんですかね。なんかいろいろ……」
「前のボンクラよりはマシだろ。目立つし。とにかく風船は配れてるんだし」
「ボンクラって……放送中に女子アナにちょっかい出してブン投げられた人ですか」
近くのワゴンで、スーツの役人たちがうちわをあおいでいる。
彼らでさえ軽いめまいを覚えるほどの日差しの中、ニッシーくんは絶好調だ。ピンアンの合間にピタリと止まっては子供たちに色とりどりの風船を手渡す。
彼(?)の足元には、気ぐるみを伝ってきた汗が水溜りを作っている。と、いうのに、化けクジラの動きは一向に衰えない。
新しく雇った学生バイトは、まるで不死身の超人だ。
「かあちゃん! あのすごいのに風船もらった!」
「そ、そう……よかったわね」
アカンことになる前にちゃんと水分とってね、というプリントがなされたバルーンを我が子が揺らして帰ってくると、親たちの顔は少し引きつる。
役場に雇われているだけで、あのクジラは明らかに奇人のたぐいだ。
子供たちの相手をしていたニッシーくんの動きが、ふと止まる。
いつもニコニコ、不気味なまでのスマイルが張り付いた顔で、歩き去っていく親子の後姿を見送る。
七色の風船が揺れる下で立ち尽くす彼は、どこか羨むように、憧れているように、小さく肩を落とした。
「おーいニッシーくん、ちょっと休憩しようや」
ワゴンから呼びかけられて、彼はハッとした。
大きく肥えた腹をユサユサ揺らしながら、猛烈に首を横に振る。俺はまだまだやれるぜ、ということらしい。
「なんですか」
「まだやるってさ」
「そんな頑張ったって、給料変わるモンじゃないんですがね」
スーツ男たちは、それぞれに肩をすくめて弁当を取り出す。
今日はラクな仕事だ。本当はニッシーくんの近くにいってチラシを配らなきゃだが、何せバイト君は優秀だ。
せっかくだし、優雅にランチとしゃれ込みますか──と、カーステレオでかかっていたラジオのボリュームを上げた時だった。
「あああああーっ! いたっスー!!」
交差点の雑踏の中から、甲高い声が響いた。
行き交う人々を押しのけて、まるでシャケか何かの川のぼりのようにグイグイ突き進んでくるのは、小麦肌の女子高生だ。
ネコのように大きな目に黒髪ピアス。ほっぺに貼られたガーゼが目を惹く美少女は、一直線に彼らのもとを目指してくる。
というか、ニッシーくんを。
「はあ……はあっー、ひい……なあにを、客寄せパンダなんて、してるんスか……」
マリコだった。
目の前までやってきて息を切らす彼女のことを、黄色いクジラが困ったように見下ろしている。
彼はなりきっているのだ。中身が何者であれ、今の彼は西町のドマイナーマスコット、くじらのニッシーくんに他ならない。
彼にできるのは、大きな体を揺らして、首──と思われる部位をかしげるだけだ。
「『ん?』じゃねーんスよ! 役に入りきってる場合じゃないんス」
ニッシーくんの胸──っぽいところを鷲掴みにして激しく揺すりながら、マリコは叫ぶ。
「ねえ。ねえったら。とにかくウチといっしょにきて……」
「なー、ねえちゃん」
傍にいたハナたれ小学生が、クイクイと彼女のスカートのすそを引っ張った。
「なんできぐるみなんかと真剣にハナシしてんだ?」
「うっさいっスねえ! ウチはこいつの中身に用があるんスよ!」
彼女の視界の端でワゴンのドアが開いて、スーツを着た役人たちがこちらに駆けて来る。あまり時間が残されていない。
「あー、もう仕方ねえー! このやろーッ!!」
頬のガーゼが剥がれるのをものともせず、マリコは大きく飛び上がった。向かう先は、間抜けに開いたニッシーくんの口の中だ。
後先考えてるヒマはない。
彼女はきぐるみの中に、頭から突っ込んだ。
「むぐおおお!?」
ゴチン、とマリコの頭突きが、中にいたレイジの鼻面を打ち砕く。
「うわ、やべえ、ニッシーくんがねえちゃん食った!」
「たすけろ!」
セイちゃんの口からデロリとぶら下がったままのマリコの下半身を見てそういう感想が出てくるのは自然だが、実際には立場が逆だ。
内部では衝突のショックで鼻血を流して呆然とするレイジの前で、マリコがつばを飛ばして叫んでいる。
「あ、あ、な、何を!?」
「そりゃコッチのセリフっスよ! カナタさんほったらかして、何マヌケなコトやってんですか! ぐあっ、ちょっ、エロガキども……足ひっぱんな……」
「うわーっ! やべえー! このネーチャンえげつねえパンツ!」
「ほったらかしにしてない。俺はこうしてカナタの生活費を稼いでいたところだ! この後も、ティッシュ配りと、工場のラインと、工事現場の交通整理が……」
「そんなん有ったって、カナタさんがいなくなっちゃったら……あああ、もー!!!」
前には要領を得ないレイジ、そして足元ではグイグイと引っ張って邪魔してくる上にパンツのデザインを報告してくる子供の大群。
ついに業を煮やしたマリコが、セイちゃんの口を押し広げて、中に侵入してくる。
「ちょ、さすがにキツ……」
「うっさいスね、じっとしてられないんスか、このでくのぼう……!」
そんなくぐもった声が口の中から響いたっきり、ボッコリと腹を膨らませたクジラの着ぐるみは、地面に倒れこんで動かなくなった。
「ど、どうしたのかな」
「近寄ってみよう……」
と、死体のように転がっていたニッシーくんの全身がボコボコと動き始めた。
それがきぐるみだと分かっていてもさすがにビビるチビっ子と大人たちの怒号で、平和な昼間の中心街に、あっという間に混沌が撒き散らされていく。
べちょ。
すっくと立ち上がったマスコットの口から、汗にまみれた大男が吐き出された。
「ウワーッ!? ねえちゃんが半裸の偉丈夫になったーッ!?」
何が何やら分からないままきぐるみをマリコに奪い取られたレイジがヨロヨロと立ち上がる。
「マリコ、いったい、何がなにやら」
「カナタ先輩が町の外に行ったみたいス!」
「な……」
「やっぱ、おねえと同じ顔するんスね。あんなボロボロでそんな遠くまで行けると思わないけど──ヤバいんでしょ。町の外に行くのって」
マリコは知らないなりに、察するところはあるようだ。
厳密に言えば町の外は、存在しない。そこで待ち構えているのは厳重な監視網と、脱走者を容赦なく狩り立てる特殊部隊に大型兵器の群れだ。それを理解してカナタが突っ込んでいった意味を考えるだけで、レイジは足元が崩れるような感覚に囚われる。
「ルリコは、なんて?」
それまで気が抜けたレイジの顔つきが、一瞬にして変わった。
「先に七区の方から外に出る。別の場所を探してほしい──そうス」
「分かった」
マスコットキャラを演じ続けようという最後の意地か、ポカンと口を開けて彼を見つめる子供たちに気づいたレイジは、片足立ちして両手を体の横でバタつかせる『西町賞揚のポーズ』を取って見せる。汗だくでタンクトップの大男が、真顔で。
「いいから行けス、ばかアンポンタン!」
「ちょっとちょっと、困るんだよね、キミい! ドタキャンはさあ!」
さらにこちらにやってくるスーツの男。
その声でも止まらず、レイジが銃弾のようなスピードで走り去ったのを見届けて、ニッシーくんはさっきより遥かにキレのいい『西町賞揚のポーズ』を見せ付ける。
「キャンセルぅ? いいや、続投してやるスよ!」
きぐるみの中で、マリコは牙を剥いた。
「ウチがかわりにやったりますよ。ええ、無給でもなんでもかかってござれス。さあ、どのくそガキからあやせばいいんスか!?」
「わあお……」
ポカンと口を開けた子供が、一人。風船を持ったまま、ただその場に立ち尽くしていた。
■
女の話をしていた。
女の話をしていたと思う。
ビル街からがむしゃらに走ってきたレイジは、彼らの前で立ち止まった。
三人いる男たちの中の一人を、レイジはじっと見つめる。
彼らはおかしなタンクトップの筋肉男を一瞥して、鼻を鳴らしただけだった。そうしてまた、女の話を続ける。
どこぞの女がどうしただの、あの女はダメだの、アレをこうするといいだの悪いだの、そういった話だ。
大きく体を開いてバスのターミナルのベンチを占領した彼らは、酒の入った缶を手に同じことをずーっと話している。
「なあ」
そのうちの一人。
どんぐりのように小さな目の男が、とうとうレイジに声をかけた。
「なんか用か。お前」
どこの町の、どんな通りにでもいるような、ありきたりな男だった。
服装。ハデでも地味でもない。ヒゲが少し伸びてるが、ファッションの範疇だ。全体的にこざっぱりとしていて、何も言わずに笑って立っていれば、とても感じ良く見えるだろう。
だがその目が。どんぐりのように小さな目が帯びた光が──ひどく、イヤな感じがする。
「おい。兄ちゃん。おいったら」
一向に返事しようとしないレイジを見て、彼の取り巻き二人が腰を浮かした。
ひさしの中から男たちが出てくる。エモノを見つけたハイエナの動きだ。酒を手にした二人の男がゆっくり背後に回って、次にレイジがどう動くか、じっと観察している。
レイジは座ったままの“どんぐり
「…………女の子を見なかったか?」
「ああ見たよ。そこらへんにいくらでもいる」
“どんぐり目”がそう返すと、レイジの背後から笑い声がステレオで浴びせられる。耳に張り付く、いやな笑い方だった。
「このくらいの大きさで……髪が、白くて……」
「見てねえ。そりゃ、お前のバアちゃんのことか?」
「違う。高校生の女の子だ。俺の友達なんだ。よく思い出してくれ」
「だから、見てねえよ」
「あ、おい、コラ──」
“どんぐり目”にツカツカ歩いていくレイジに背後から声がかかる。相手が身構えるより早く、彼のたくましい腕が男の胸倉を掴んだ。
「だったら、これは?」
白いシャツの胸元に、黒いタールのシミがこびりついていた。
カナタを自分で手にかけたレイジだから、よくわかる。これはカナタのものだ。男の放つ煙草と殺気の下からでもよく分かる、下水に似た腐臭もそうだと主張している。
そして、足元。
薄汚れたシューズの爪先に、紙切れのようなモノがへばりついている。ウロコが生えそろった、皮膚の切れ端だ。
「カナタに何をした」
それまで困惑していた男の目にハッキリとした怒りが燃えた瞬間、レイジはドン、と突き飛ばされる。
「あーっ!? マジだ、あのクソガキ……!」
よろめくレイジの目の前で、男はシャツの襟を広げて見せる。
「うわ、それひっでえなトモくん。ばっちいなあ」
「知ってるんだな。その足は?」
「病気のガキが勝手にぶつかってきたんだよ。ンで勝手によろけて、コケやがった」
ウソだ──レイジはすぐに見抜く。
この男たちはウソを言っている。肩をすぼめてヘラヘラ笑う彼らを見ているだけで、レイジは胸がむかついてくる。
カナタは彼らと出くわしてしまった。そして、なにかをされた。皮膚がベロリと剥げて靴にこびりつくような、何かを。
『憤怒』が彼の胸の中で首をもたげ、血が沸き立つ。
だが、今はその時ではない。途方もない怒りで今にも爆発しそうだが、それに首輪を掛ける。今は彼女が無事か、どこにいるのかを確かめるのを急ぎたい。
「早く教えてくれ」
辛抱強く話しかけるレイジの頬に窓ガラスの反射を落として、一台のバスが走り去る。
「お前らは、カナタがどこに行ったか──ぐっ!」
レイジの言葉は、最後まで形にならなかった。
彼の頬を殴りつけた男が薄ら笑いを浮かべると、その取り巻きも、円を描くようにレイジの周りを取り囲む。
「汚したのオマエのツレだろ。カネ。クリーニング代」
「わかった」
財布を手に取った瞬間、レイジは一瞬だけ、迷った。
だが、それでも──投げた。
威圧されている。そんなことは、いくら鈍感なレイジだって分かる。使い古されたマジックテープ式の財布が渡されるなり彼らはせせら笑いながら、中身を確認する。
「ふうん」
ちょうど、警備とマスコットのバイト代を突っ込んだ直後だ。
炎天下で具合の悪くなるような重労働をして稼いだ金だが──高校生の分際で何万という大金をポケットに入れているレイジは、さぞかしいい所のおぼっちゃんに見えたのだろう。
「もっとあるだろ。飛べよ」
「そうしてもいいが、そこにあるのが全財産だ。とにかくカナタの行き先を」
バシャッ
「なあもういいだろ、トモくん。なんか楽しくなってきたし、ボコっちゃおうぜ」
背後からレイジに酒をブッかけてきた取り巻きの一人が、彼の巨体に寄りかかってくる。
彼らのせせら笑いを聞きながら、彼は酒にまみれた。夏の日差しと彼の高い体温で、質の悪いアルコールはどんどん蒸発する。
胸が悪くなりそうな悪臭に包まれ、濡れた前髪の間から”どんぐり目”を睨むレイジは微動だにしない。
ビビってるわけではない。怒っているわけでもない。
ただ、何も感じていないようにそこに立っている。
「そこに膝つけよ、デカブツ」
その態度が、更に彼の嗜虐心に火をつけたようだった。
「なるほど」
レイジは言われた通りにしてやると、彼らは顔を見合わせて笑った。
三人に囲まれた大男が酒びたしにされ、白昼のバスターミナルで跪いている。それで周りの様子が何か変わったかといえば、そうでもない。
どんな町でも、目を凝らせば見つかるような風景の一つでしかない。
偶然居合わせた人たちは、自分たちが新たなターゲットにならないように遠巻きにするだけだ。時刻表を確認するフリをしながら、腕の下から彼らの様子を伺ってくるものもいる。
レイジの前に”どんぐり目”がしゃがんだ。
「おい、おい、カネ。カネだよ」
彼は地獄の門番のように手招きする。
「ないな、これ以上は……」
「ヒョオーッ!」
カンフー映画のような甲高い奇声を上げて、背後から男が飛び掛かってきた。
ガッ、ツン、と音を立てて、レイジは頸椎がズレたことを知る。どこかできゃあ、と控えめな悲鳴が上がったのを聞きながら、彼は地面に頭をつける。
痛いほどにアスファルトが焼けていた。
「こいつのズボン、脱がしてみろ」
「あいよ」
「いろいろあってスラックスは一着しか残ってないんだ。雑に扱われたくない。今、自分で脱──」
別の取り巻きに、頭を横から蹴り上げられた。
おとなしく言われた通りにしてやってるのに、ままならない—―ついでのように背中めがけて踵を落とされて、レイジは唾を吐く。
しゃべってる最中に思い切りキックを受けたせいで、舌を噛んでしまった。口の端から血を垂らすレイジを見て、“どんぐり目”が首をかしげる。
「っだよ……てめえ、何笑ってんだ」
「気が変わった。脱ぐのが面倒になったから、代わりにやってくれ」
股間を、後ろから思い切り蹴り上げられる。
「ハッ──あっ、はっ、ははは……」
胃袋の辺りまでまで睾丸がせり上がってきたような鈍痛を感じながら、レイジはアスファルトの上にはいつくばって息を詰まらせる。
果てしなく流れる涎で水溜りができる。そこに男たちの影が落ちる。
この無様を、通りかかるみんなが見ている。そして、誰も手を差し伸べない。
次々に彼らがレイジを蹴りつける。小便の染みのついた靴で。カナタもこうして足蹴にしたであろう靴で。だれかをやすやすと踏み潰し、砕いてきた足で。
レイジの口から、折れた奥歯が飛ぶ。腫れで目が塞がる。鼻血でおぼれそうになる。
それは別にいい──叩きのめされて血走った睾丸と折れた歯を即座に再生しながら、レイジはもうろうとした頭で考える。
ズルズルと脱がされてターミナルのゴミ箱に叩き込まれるスラックスのことも、道路に投げ捨てられたサイフのことも、どうでもいい。
腹を見せた犬のように地面に転がって、それをカメラ付きケータイで撮影されるのも、まあ、いい。
野次馬のどよめきも、今は遠い。
「いくらでも、なぐれ」
レイジは顔面に飛んできた“どんぐり目”の足首を握りしめる。
「あぎっ」
悲鳴が聞こえた。力加減が大事だ。砕ける寸前まで。
レイジは、この男にもっと必死になってほしい。もっともっとギリギリまで、自分を痛めつけてほしかった。
見上げると“どんぐり目”と目が合う。明らかに混乱していた。
興奮で赤みを帯びた彼の顔が、どんどん青ざめていく。レイジが握りしめたスラックスの下では、皮膚がもっと愉快な色になっているに違いない。
「そのかわり、カナタをどこで見たか教えてもらおう。どこに行ったか。貴様が何をしたか」
取り巻きが渾身の力でレイジの腹を蹴り上げても、彼の力は揺らがなかった。
足首、腿、腕、胸──まるでロッククライミングのように“どんぐり目”の体に手を掛け、100キロを超すレイジが這い上る。
シャツに食い込んだ彼の指の形に、血が染み出してくる。
そのたびに“どんぐり目”は情けない悲鳴を上げた。レイジは気にしない。汚れたシャツのクリーニング代も、治療費も、前払いしてある。
「ヒ──」
「カナタは、どうした」
「しょ、商店街だ!」
レイジの重量をブラ下げて、身動きできない“どんぐり目”がひきつった声をひねり出す。
「そこでぶつかって──ネズミみてえに町はずれに走ってった! ホントだ! あとはなんも知らねえ!」
「ほかには」
「なにもない! なにも!」
もはやさっきまでの尊大さのヘッタクレもなく半泣きで喚き散らす男を、ゼロ距離からレイジが睨む。血とよだれでまみれた彼の顔は、もはや人間とは思えない形相を浮かべていた。
「そんで、イラついて一発蹴った。それだけ、だ!」
「そうか──お前、カナタに……」
レイジの手が、男の首にかかる。
計画変更だ。その口でハッキリとカナタに手をあげたと言われたからには、放っておくわけにはいかない。
やっと駆け付けた警察のサイレンをききながら、レイジはゆっくりゆっくりと力を込めていく。時間は十分ある。
レイジは笑ってしまいそうになる。
目の前でベソをかく男の顔が面白いのではなく、自分がこっけいで仕方ない。
カナタを深く傷つけた自分が、目の前の男に怒っている。カナタの首を絞めた手で、また誰かの首を絞めようとしている。
白い首に触れたときのおびえた目。むせかえるような汚物のにおい。崩壊していくカナタを目にして、逃げ出したこと。
俺がやっていることと、男がカナタにしてのけたこと、そこに何の違いが────
バキョッ
砕けた。
男の首ではない。何か重く、硬いものが彼の後頭部に叩き付けられたのだ。
ぐらり、と倒れていきながら、今度こそ、ハッキリとした悲鳴が聞こえた。視界がブレ、体に力が入らない。
グッタリ足元に倒れこんだレイジの頭目掛けて、我を取り戻した“どんぐり目”たちの踵が振り下ろされる。
何発も何発も。それで、失った尊厳が戻ってくるはずもないのに。
あたりに転がる土と、陶器の破片を見て、レイジはようやく理解した。男の取り巻きに殴られたのだ。しかも、植え込みの鉢植えで、思い切り。
「もっと……やってくれ」
うすれゆく意識の中で、レイジは呟いた。
パトカーを下りた警察が、駆けてくる。もうすぐ全部が終わる。それまでに、カナタが感じていた痛みの、何万分の一でもいいから味わいたかった。
カナタはもっと怖かっただろう。もっと、痛かっただろう。
自分がしでかした罪の罰を、受けたかった。
太陽は殺意を漲らせ、熱せられたアスファルトが内臓を焼く。降り注ぐ暴力はまるで温い雨のようだった。
疲れて眠る子供のように体を丸めて、レイジは目をつぶった。