海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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6.7月17日/レット・ダウン(1)

「この先に行っても──」

 

 バンに寄りかかっていたキリエが、反動つけて立ち上がった。

 とっくの昔に朽ち果てたサスが軋み、車体が大きく揺れた。

 カナタに向かって歩いていくキリエを見送るように、ボンネットの上のスキットルが陽光をチラつかせる。

 

「──海なんてありゃしませんよ。ぜーんぶつくりモンのうそっパチなんです。キミだって知ってるでしょ」

 

 彼女はいつものようにおどけているが、カナタには分かる。愉快でみんなの笑いもののヘッポコ道化師キリちゃんではなく、ここにいるのは秘密組織のエージェント・樋口キリエだ。

 長大なブレードを手に、山の稜線から沸き立つ入道雲を背にキリエは立ちはだかる。

 カナタの目に、それは西町の空を背負って立つ巨人のように映る。

 

「防衛局ってのは、アタシのコトをつかまえときたいんだろ」

 

 カナタはフラついた。

 蹂躙された足首からドロドロとタールが流れて、彼女の足元に黒い水溜りを広げていく。

 浜に打ち上げられて鳥についばまれたクラゲのように無残な姿になった教え子を見て、キリエは眉ひとつ動かさない。

 

「そういう風に主張するヤツもいます。でも、局長(ハゲ)も私も、カナタさんには楽しんでもらいたいんです……だって、十七で夏で、一番バカ。でしょ」

 

 だらしなく垂れたボサ髪の下で、たまにキリエの瞳に緑の燐光が宿る。

 それだけが彼女という機械が抱く、微妙な感情の揺れを表しているようだった。

 

「いいんだ、もう。アタシ十分楽しんだ。楽しみすぎて、きっとバチが当たったんだ」

「まだまだでしょ。夏は長い。人生だって。ちょっと深い谷間に落ちたからって、永遠に這い上がれないワケじゃない」

 

『本当に?』

 

 にじむような白い日差しと青い畑。クリーム色のバンの上でスキットルがキリエに囁く。

 

『キリエちゃんはアルコールのプールから這い上がれるの?』

 

「フミオがいなくなって、レイジだって消えた。アタシの周りに誰も残らなかった」

「だれも?」

 

 ふと、キリエは近くの田んぼに目をやる。

 カナタも彼女の視線を追って振り返った。しかし、そこでは青々と育った稲が吹き渡る風にサラサラと流れているだけだ。

 青空をバックに独りでそびえる鉄塔のシルエットが、妙に物悲しい。

 

「アタシが壊したんだ。あいつらの友情も、夏も、夢も──ぜんぶ」

「だから落とし前をつけると?」

「うん。最後だけは、きれいに終わらせておきたい。から」

 

 ぬちゃ。カナタが一歩前に進むと、粘り気のあるタールが彼女を引き止めるように糸を引く。

 

「ダイナシだ……だから。アタシ、ここで終わりにする」

 

 ぬちゃ、ぬちゃ、ぬちゃ──畦道のぬかるみと、カナタの体液の音。

 二人の間には十数メートルの距離しかないが、彼女が歩く速度はいたたまれなくなるほどに遅い。

 足が痛むのか、それとも、本当は終わりになんてしたくないのか。

 キリエはしばらく下唇をかんで、その様子を見ていた。

 

「カナタさん」

 

 彼女の握る鞘が地面を引っかく。カナタと同じくらいゆっくり時間をかけて、畦道を横切るように一本の線を引いていく。

 

「あの怪物どもがキミを狙っていると言う連中がいる」

「知ってる。たぶんそのとおりだ」

「この先には、外と内側を分けるための壁があります。そこにまで怪物が沸くなんて万一のことがあったら、困る。正直私はどーでもいいですが、エラい人はそうじゃない。だから、この線をアナタが越えたら」

 

 話している間も、カナタは止まらない。

 

「進んだら、どうすんだ」

 

 気の遠くなるほどの時間と労力をかけてやってきたカナタと、キリエは、お互い境界線にピッタリ爪先をつけて見詰め合う。

 キリエの大きな体を見上げてくるカナタは、指先ひとつでさえ揺らがない。

 ひどく擦り切れて、腐ってもいる。だがやはりきれいな子だな、とキリエは感じた。

 

「アタシ、もうレイジたちと会えないか?」

「彼らはカナタさんを解剖するでしょう。生きたまま。それがどういうことか、説明しますか」

「いや。よくわかんないけど、終わりになるんだろ。それなら──安心だ」

 

 カナタの脚がわずかに動いた瞬間、近くの畑からガサリと音が響いた。

 

「ちょっと待てやお前ら!」

 

 ドスの効いた声が飛んできた。

 二人がぱっと振り向いたところで、近くの畑で稲と泥の塊が爆発するように飛び散った。

 

 バッ、シャアアア! 

 

「はは」

 

 キリエが乾いた笑い声を上げる。

 今まで水田の中に体を潜めていたものが、泥まみれの姿で立ち上がって歩いてくる。

 それは、ルリコだった。

 

 ■

 

 イモジャーを着て、カワイイと自称する顔は容赦なく泥でカモフラージュ。自慢の髪の毛をぐちゃぐちゃにしまいこんだバンダナに引っこ抜いたイネをくくりつけ、ルリコはかなり気合の入った迷彩を身につけていた。

 

「なんつーカッコしてんですか」

「でもカワイイでしょ。こんなんなっても」

 

 ずちゃずちゃとぬかるみを鳴らしながらやってきたルリコはカモフラージュを殴り捨て、真っ黒になった顔をバンダナでぬぐった。

 たちまち、切れ長の瞳の美人が現れる。

 その瞳に、あふれ出そうなほどの激情を秘めた美人が。

 

「すごい自信ですね。毎回」

「それしか取り柄ないから」

 

 カナタは絶句して、近づいてくるルリコを見ていた。

 なんでここに? うまいこと誤魔化して出てきたハズじゃ? ──どれだけ考えても、彼女には分からない。

 ただひとつ、確かなことがある。ルリコはブチ切れていた。

 抜けるような頭上の青空と同じくらい清々しい顔でニコニコ笑いながら、その足音は遠雷のように腹に響く。

 足をビス留めされたように一歩も動けない。と、ルリコの姿はカナタの目の前まで来ていた。

 

 ぱんっ。

 

 カナタの白い頬で、泥の塊が爆ぜた。

 

「あ……え……?」

「おいコラ、海産物」

 

 泥まみれの平手を軽く振って、ルリコが腕組みした。カナタはゆっくり頬に手をやった。痛い。今まで一番痛い。足を蹴られたときより、ずっと。

 

「聞くだけイイワケ聞いといてやる。アンタ、買い物行くつって外出たよな」

「殴ってからなに言って……防衛局へ……行こうって……」

「ちゃんとレイジと相談して決めた? 目と目を合わせて、話し合って決めた?」

「…………ンなこと、できるはず、ねーだろ」

 

 ぱん。

 

 往復ビンタを食らって、へたりとカナタの腰が落ちた。

 

「ににに二度もぶった!」

「私をここまで本気にさせたの、アンタが初めて。そんな私に二発もビンタしてもらえたの。アンタ一生の誇りになさい」

 

 ルリコが髪の毛に手ぐしをかけて、顔をしかめる。

 あれだけ大事にしていた髪は、いまや見るも無残な泥団子だ。乱暴にぐいぐい指を通す姿からは、彼女が髪の具合を気に止める様子は見えない。

 カナタは頬を押さえたまま見上げる。ほうけたようになったカナタの前で、ルリコは黙って爪の隙間に入りこんだ土をほじくり出していた。

 

「あの、会長さん……午後の授業は?」

 

 遠く、遠くから西高のチャイムが流れてきた。

 

「サボった。どっかのバカ教師と同じね。アハハ。おっかしいー」

 

 ルリコの目は笑っていない。ついでに口元も笑っていない。

 真顔のまま、声だけは明るい。

 彼女に見詰められて、キリエはブレードを弄ぶ手を止めてしまった。そして悟る。ルリコがキレている相手はカナタだけじゃない。この場の全員だ。

 

「バカなトモダチに、バカな教師……そして、マヌケな生徒会長、ときた……」

 

 指先を揉みながら泥を落としたルリコは、まだ汚れが残る指をピンと伸ばす。眉間めがけて爪の先を銃口のように突きつけられ、カナタが後ずさった。

 

「な、なんだよ……!」

「人サマに死ぬなって言っておいて、自分だけ逃げるワケ? そして──」

 

 ”銃口”が逸れる。次にルリコがブッ放す相手といえば、一人しかいない。

 

「てめーだよ、テメー。テメーが一番情けねえよ。樋口キリエ」

「え、わ、私ですかあ!?」

 

 キリエが声を裏返した。

 

「いくつになっても中身ガキのくせに、こんな時にムリして大人ぶろうとしてんじゃないわよバカ。アル中。オトナコドモのセルフネグレクト女。人間失格」

「へ。へへ、悪いですか。どうせ、センセーは大人子供だも──」

「そういうところがガキだってんだろうが!!!」

 

 ついに爆発したルリコが何かを振りかぶって、全力投球した。

 

「ちょ、おわっ」

 

 あわてて身をかわしたキリエの頬を、シュッと音を立てて泥の塊が掠める。

 

 カァンッ

 

 ──彼女の背後で甲高い音を立て、ボンネットの上のスキットルが弾けた。泥まみれになったキリエの生命線が、くるくると回転しながら、生い茂るイネの群れに落ちて、消える。

 

「ああ、おあああああ──ッ!!!?」

 

 この世の終わりのような声でキリエが絶叫した。

 驚いた水鳥がいっせいに飛び立つ中、彼女の上げた悲鳴はその羽音にもかき消されないほどバカでかく響き渡る。

 

「ル、ルリ、会長、あ、お、おまえ、ばかーっ!?」

 

 こんなときばかり、キリエの動きは機敏になる。

 それがルリコの怒りに油を注ぐ。

 自分で引いた境界線をほっぽりだし、田んぼに向かってダイブしようとするキリエの背中に狙いをつける。

 ワインドアップは一瞬。ルリコの足が高く、まるで太陽を突き刺すように伸びる。そして、

 

「ぎゃあっ!」

 

 キリエの背中で、砂利混じりの泥球が炸裂した。叩き落されたブレードが、カラカラと音を立てながら地面を滑っていく。

 

「先生。これ以上ダメになりたくないなら、もうお酒やめて。やめなさい。やめろ」

 

 背中を押さえてうずくまるキリエを冷たく睨みながら、ルリコは新しい泥球をこさえ始める。尖った石を拾い上げ、躊躇なく泥の中に混ぜ込む。

 どうせキリエなら大事にならないし、そのまま酒を拾いにいくようなロクデナシなら、むしろ石を投げられるべきだろう。

 ルリコはそういうスタンスだ。

 

「次カナタから目離したら」

 

 んで、コイツが線の先に言ったら。そう言って、ルリコはカナタの背中を強めに叩く。

 

「私、本気でガッカリするから。アンタのこと、二度と先生って呼んでやらない。クソみたいに嫌がらせして、二度と社会に出られないようになるまで痛めつけてやるから」

 

 完璧な投球フォームを維持したままで、ルリコが二人を交互に睨み付けた。

 怒り心頭。それも百二十パーセントでブチ切れる彼女を前にして、キリエもカナタも、叱られる子供のように目を伏せてしまった。

 びゅお、と音を立てて風が吹き渡る。波打つ青田の上を光の筋が走り、セミの声が三人を包み込む。

 

「なんなのよ、アンタら。マジ、なんなの」

 

 ルリコの全身は泥まみれで、それが真夏の陽光で乾いたせいで埴輪のようだ。

 普段だったら思わず笑っちゃうような格好をしているのに、誰も、そうすることができない。

 

「アンタらが私引き止めたせいで、血反吐はいて踏みとどまってやったのよ。それが何? 今度はアンタらがダメになるワケ? シーソーじゃないのよ?」

「オマエにはわかんねえ、深いジジョーがあんだよ……!」

 

 カナタが苦しそうに搾り出した。

 

「私のシャツとテントに散々ゲロぶっかけといて、いまさら他人行儀にしないで。さっさと合宿所に戻んなさい。こんなコトしてられるほど頭よくないでしょ」

「もうテストなんてどうでもいいだろ!」

「勝手に終わった気になってんじゃねえわよ!」

「終わったんだよ! 夏もバカも全部終わり!」

 

 とっさにルリコが掴んだ手首を乱暴に振り払って、カナタは頭をガリガリかきむしった。

 白くちぢれた髪の毛が、束になって頭から抜け落ちていく。

 ここまでの長い道のりで包帯はあちこちほどけかけていた。彼女の素肌は破れ、薄黒い膜に覆われ、腐った体液にまみれた白い骨が透けて見える。

 もはやカナタは死体も同然だった。

 

「アタシは腐って、メシなんか二度と作れねえ。外に出ればいじめられる。こうやってオマエらにガキみたいにわめくことしかできねえ。そんで、そんで──」

 

 金きり声を上げて叫んだカナタは、不意に黙った。

 落ち窪んだ目で、太陽をじっと見上げる。

 

「アタシ……レイジと父さんのこと、被ってみえてんだ……」

 

 キリエが、空気の塊をぐっと飲み込んだ。

 ルリコですら何も言えない。こんな場を切り抜けられるうまい言葉なんてどんなヒーローにも思いつかないし、あったとして、それは欺瞞だ。

 

 カナタの闇にようやく触れられて、その深さのあまりにルリコは絶望する。

 

 父さん──そんな言葉がこの状況で出てくるなら、それが意味するところは一つしかない。

 

 カナタは頬のはげた顔を両手で覆って、崩れ落ちた。

 

「アタシ……アタシ……違うのに。レイジはそんなんじゃないのに。あいつの汗臭いにおいが好きなのに。ごつい手が好きなのに。助けてほしいのに……レイジが怖い」

 

 カナタはキリエの引いた境界線に向かって歩き始めた。

 

「……せめて、アタシはアタシの手で終わりにしたい。だけだ」

「ちょっとカナタ、私の話、終わってない!」

 

 ルリコは──そこに手を伸ばして、強引に彼女を引き止めることができなかった。

 

「ッ、先生! なんとかしてよ!」

 

 とっさにルリコは口走った。

 自分でも何がなんだか分からなくなって、気づけばキリエに、よりによって一番頼りにならない相手に、助けを求めていた。

 

「アンタの生徒でしょ、頼むわ、お願い、カナタを止めてったら!」

「なんですか。私に何も期待しないって言ったのはアナタのほう──」

「もうアンタしか頼れないのよ! そのバカ止めてったら! 力ずくでもいいから!」

 

 カナタでさえ足を止めていた。ルリコが人に助けを求めたことは、一度だってない。そんな彼女がだだをこねる子供のように、顔を歪めて叫んでいる。

 それも自分ではなく、カナタのために。

 

「なんでもしてやるわよ。アンタの足舐めたっていい。正直考えるだけでゾっとするけど──私を連れ戻してくれたカナタが海を見ないで終わるなんて、バカみたいじゃない!」

 

 キリエは笑う。

 ルリコの必死さを笑う。

 こんな自分に、最後の最後に期待を乗せてしまった彼女の哀れさを笑う。

 何もない人なのだ、キリエは。

 力が強くたって、何かを守れるわけじゃない。それを痛いほど身にしみた日から、ずっと酒に逃げてきた。

 アルコールは、自分に想像しうる一番ダメな自分にしてくれる。

 ようやく理想のドン底にたどり着いて、何も頑張らなくてよくなったはずだった。

 

 だというのに──

 

「ンだよ、おい」

「は」

 

 後一歩で境界線をまたごうとするカナタの体が止まっていた。

 キリエは自分でも知らないうちにその手を伸ばし、彼女の両肩をおさえつけていた。

 

 ■

 

「離せよ。そういうの似合わねーって、オマエが一番わかってんだろ」

 

 弱々しく、刺々しい。

 キリエにつかまれて身をよじるカナタの顔は、怒り半分困惑半分だ。

『止めて』と言ったルリコでさえ、泥のツララのようになった前髪の間から、まん丸になった目でキリエを見ている。

 

「ええと。あれ……私もよく分からない、ですけど……」

 

 長い背を丸めるようにして、キリエはカナタを抱きしめた。

 

「えっと、なんか。やめませんか、もう、つらいのは」

 

 なんでそうしたのか、本人にもよく分からない。ただ、それが一番いいと思ったからだ。

 

「はなせよ、酒、くせえ……!」

「離すとアナタ、行くでしょう」

「そうやって力づくで止めても明日いくぞ。明後日も、その次も、アタシは絶対に。その場のノリでイヤイヤ教師始めたようなやつが、アタシのしつこさに付き合えるのかよ!?」

 

 そうだ。

 そのとおりだ。

 ただのノリだ。

 

 もはや教師を始めた理由すら思い出せない。

 気がついたら年老いたロバのように擦り切れて、疲れ果てていた。

 子供という、大人の理屈が通じない、よく分からないルールの中で生きたり死んだりする存在の相手をするのが、心底から(イヤ)になっていた。怖くなっていた。

 

「はなせよっ……このっ……このっ!」

 

 いつになっても離そうとしないキリエの背中に、つぎつぎと泥の手形が刻まれる。何度殴られても、彼女はまったく痛くない。

 こうすることで壊れていくのはカナタの手首だけだ。

 

「カナタ、やめなさい! そいつ、一応先生なのよ!」

 

 ルリコが言うのを、キリエが手で制した。

 

「頼りない大人でごめんなさい。キミが一番必要なときにいられなかった大人でごめんなさい。でも──」

 

 何か言いたくて、でもキリエは結局何を言っていいやら分からなくなる。

 ただ、カナタを抱きしめた。それで大人の義務が果たせるとは思わない。

 

「もう、いなくならないでくれ」

 

 だからいっそ、大人の仮面なんて脱ぎ捨てて、ガキの頃に戻ってしまうことにした。奇妙で凝り固まった、上っ面だけの”教師”を心の中から追い出して、ひざを折る。

 カナタの前で、キリエの長躯が砂の城のように崩れ落ちた。

 こぶしを振りかぶったカナタの胸に顔をうずめる。

 

「たのむ。おねがいだ。もう私の前からいなくならないでくれ」

 

 振り上げられたままのカナタのこぶしが、キリエの背中に軟着陸する。なんとなくだ。アルコールの臭いプンプンの教師の背中を、ゆっくり撫でる。

 

「アタシはもとからいないモンだろ。もう、死んでんだから」

「じゃ……じゃあ、そうだ」

 

 珍しくキリエは口ごもった。

 

「レイジくんだ。あいつは全部なくして、何も無いところから頑張って頑張って、自分を作り直していった」

 

 教師の仮面すら投げ捨てて、キリエはカナタにすがりついた。

 あれほど化け物じみたキリエの手は、ウソのように力なく、カナタの肩に置かれている。置かれているだけだ。軽く振り払えばその指は砕け、ヒビの入ったガラスの置物のように全身が粉々になってしまうんじゃないか──と、思うほど、目の前の破綻者は、カナタの目に弱々しく映る。

 

「ゆっくりすこしずつ、立ち直ろうとしているんだ。あの子は。だから、きみだって。ゼロからだって」

「それはレイジがすごいだけだ。アタシには、そんなことできない」

「アイツが変わったのはね、アンタのおかげなのよ」

 

 カナタのすぐ後ろから、ルリコの声が聞こえる。

 

「ずっと前に進めなかったアイツの手を、アンタがはじめて引いてくれたの。本当に本当に偉大な一歩目は、アンタが踏み出させてやったものよ」

 

 カナタを抱くキリエの手に、ルリコの手のひらが乗せられる。

 

「だからさ……やめてよ。アンタみたいなスーパーウーマンが落ち込んでるの見ると、カワイイだけの出来損ないは、もっとずっと絶望するの」

 

 それはいつもの軽口に見せかけた、心からの言葉だった。

 

「私、アンタとレイジが笑ってるところ、好きなのよ。もう見られないなんて、イヤよ」

 

 ────私って、本当に勝手なクソ女ね。

 

 ルリコはめまいをおこしそうだった。

 自分に自信がないのは、彼女も同じだ。

 確かに顔はいいだろう。勉強だって、人の何倍もできるし、大体のことは完璧にこなせる。それでも胸を張って生きていた瞬間なんて、一瞬たりとも無い。

 自分の腹を切ってみたら、流れ出すのは母から投げかけられてきた真っ黒な罵倒でしかない。

 

「やめろよ」

 

 彼女たちの手の上に、カナタも手を重ねた。

 

「アタシだって、ルリコに憧れてんだぞ」

「じゃあ、これからはお互いリスペクトしよ。そのほうがもっとずっと──ウン。トモダチっぽいし」

 

 ルリコはちらと、キリエを見る。

 穏やかな表情で、彼女は生徒たちの頭を撫でた。

 

「壊れてない大人なんていない。同じくらい、子供だってマトモではいられない」

 

 外の世界がブっ飛んで、それから七年、なんとなく教師を続けてきた。

 自分のおちぶれっぷりを自覚して呆然とするほど、かつては何かに燃えていた時期もあった。

 だが火はやがて消える。輝きは翳る。

 どんな町の、どんな学校にも、どんな家庭にも地獄は潜む。

 彼女の周りを通り過ぎていった教え子たちは、みんなそれぞれに地獄を抱え、そのまま西町という見た目だけのユートピアの中に溶けて消えていった。

 それがキリエを、褪せさせていった。

 

「どんな町にも、どんな学校にも地獄が潜んでいて──そして子どもは、驚くほどあっけなく、腐っていく」

 

 キリエの預かる2-Aはまさに、それを早まわしで行う場所だった。

 

「うちのクラス、職員会議でマジで酷い名前で呼ばれてんだ。退学待機列だの、人生のホスピスだの、崖っぷちクラスだの」

「うわ……そこまで……」

 

 さすがにルリコも顔を引きつらせる。面と向かって教師たちはそうした呼び方をしなかったが、彼らの態度に全てが表れていた。

 

「子供って鋭いから、なんとなく分かるんだろうな。みんなコケにされるのに慣れすぎたんだ。

 プールのヘドロ掃除だの、雑草抜きだの。どんなクソ雑用押し付けられても、満足に反抗もできないくらい……」

 

 ルリコの肩越しに西町を見やりながらため息をつくキリエは、かつてないほど心を開いて生徒たちと話していた。

 呪縛のように脳裏にへばりついていたアルコールへの渇望も、今はない。

 暑くて、セミはうるさくて、おまけに二日酔いで具合が悪い。だというのに、この瞬間の中に永遠に身を浸していたくなる。

 不思議な時間だった。

 

「すべてが変わったのは、カナタさんが来てからだ。みんなが明るくなったんだ」

 

 イスルギレイジ。よく笑うようになった。卵焼きが作れるようになった。

 アグリルリコ。キレなくなったし、ちょっとお茶目になった。

 ニカイドウヨシ。賭博グセは相変わらずだが、もっと友達思いになった。

 アイザワレイジ。学校に来るようになった。憎まれ口のキレが増した。

 ボタ子は特になにも変わらない。だけどツレの二人がいつも楽しそうなので、彼女はいつでもご満悦だ。

 

 あれほどテキトーにやっていたはずなのに、次々と教え子の名前が頭に浮かんできて、キリエは小さく首をかしげる。

 

 そして──

 

「フミオくんも、そうだ」

 

 カナタにとって辛い名前でも、出しておかなければならない。

 

「キミは知らないかもだけど、前のフミオくんはずっとつまらなそうだった」

 

 俺はいずれビッグになるぜ──なんて言いながら、自分がどこに行けばいいのか、どこまで行けるかも理解できず、倦んだ顔でバイクをいじっているだけだった。

 父親とはそりが合わず、ブンタは職場でそのグチばかり。

 でも息子がコッソリ学校からカナタの作った肉団子を作って分けてやると、その日の親子はずーっとその話ばかりしていた。

 こりゃ酒に最適だね。いや俺は知らねえよ飲まないし。じゃあ今度、コッソリ飲ませてやるからさ──

 

「会って三日でキミをバイクの後ろに乗せてくれたろ。あれって、スゴいことなんだよ」

 

 フミオのバイクの荷台には、いつも父への誇らしさが載っているからだ。

 

「そんな、大したことしてねえよ」

「当たり前だろ。世界を変えるのは、ヒーローの劇的な一撃じゃない。そういう小さな積み重ねの連続なんだ」

 

 ありがとう──私にできなかったことをしてくれて。

 そう言って、キリエはズズっと強く鼻をすすり上げた。

 

「でもアタシは……変われないよ」

「何もしなくたっていい。こんどは皆がキミに応えてくれる。だから────うっ、最後は、きみが幸せになれるんだ。こんな中途半端なところで諦めないでくれ。ふぐっ、はあっ、これから最高に楽しくなるはずなんだっ、だから、消えるなんて、言わないで、うっうっ、えうっ」

「キリちゃ……」

「うっ──うああああ! うああああん!」

「うわあ」「ゲ……」

 

 カナタはもちろん、炊きつけたルリコでさえドン引くほど、キリエは子供のように泣き喚いた。渾身の力で抱きしめられたカナタは内臓が飛び出るほど苦しかったが、不思議と、振りほどく気にはなれなかった。

 

「キリちゃん、そういうキャラじゃねえだろ!」

「こっ、子供ってすぐ死ぬし、いなく、なる、がらっ、深くかかわりたく、なかっ、ぶえええ。おえええええ」

「せ、ちょっ、ハナが……なんか……べちゃっとしたものが、つむじに……」

 

 邪険にしないで、カナタは、目の前の大きな子供をあやし始めた。

 追いついてきたルリコが、引いていた。引きながら、カナタの隣に膝をついて、改めて抱きしめる。そしてキリエも、まとめて。

 

「ルリコ、ごめんな。ごめんなあ。アタシ、ばかだ」

「いいわよもう。アンタが戻ってきてくれるなら、なんだって」

「あ。あのう、先生だって、けっこう……」

「はいはい、”キリちゃん”もね。頼むからアンタはもう少しだけ自分の体大事にして……にしても、思ってたより、みんなズタボロだったわね」

 

 ルリコは二人の髪に鼻をうずめて、慈しむように、その香りを吸い込んだ。

 

「やっぱクセーわね、こいつら……」

 

 そんな言葉とは裏腹に、彼女はますます強く、二人を抱きしめた。

 

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