バンの乗り心地は最悪だったが、不思議なけだるさと眠気がカナタを取り巻いていた。
傾いた日差しの中をガタゴト揺れて、クソみたいなクリーム色のバンが走っていく。
ルリコにさんざん泥ビンタを食らったカナタは、そんな状態で乗り込むことに抵抗があったが、杞憂だ。
いまさらシートに泥をなすったところで、どうにもならないほど車内は荒れ果てていた。
「ねえ──
三人が泥だらけであるように、キリエが半泣きで田んぼのなかを這い回って拾ったスキットルも泥にまみれていた。
サスが死んだバンが畦道のデコボコで跳ねるたび、ダッシュボードに撒かれたファストフードの包みと一緒にスキットルがジャンプする。
キリエは、それに伸ばしかけた手を止めた。赤く泣きはらした目をバックミラー越しにルリコに向ける。
「みんな同じこと言いますねえ。何を私に期待してんだか」
ボコン。ルリコが、キリエの座るシートを後ろから蹴りつけた。
「そのみんなだけどね、今、勉強合宿してるの。担任のアンタに秘密で」
「ハハ……ほーらね、頼られてないんです……その程度のモンですよ、私なんか」
片手でハンドルを握ったまま、彼女は器用にキャップを回して開ける。それを勢いよくひっくり返すのを、ルリコは感情のない目で見つめていた。
「ぐげええええ!?」
そこからキリエの顔面に勢いよくブチ撒けられたのは、茶色い液体だった。しかしウイスキーのような透明感も香りもない。匂い立つ泥だ。
取れたてほやほや。人口太陽の熱でいい感じに仕上がった、生暖かい栄養満点の泥がアホみたいに開いたキリエの口を素通りして喉を滑り落ちていく。
「ウギャバアーッ!」
ガッタンと車が跳ねる。
「どああ!」
カナタが悲鳴を上げた。
キリエが堪らずハンドルを狂わせたため、クリーム色のバンは畦道を飛び出し、田んぼをかき混ぜながら爆走する。
ミキサーの中に突っ込んだようにすべてが上下左右にバウンドしまくる車内で、ルリコだけが別の世界にいるかのように涼しい顔をしている。
「さっき拾うの手伝ったときに中身捨てて詰め替えといた」
「うべべっ、ぺっぺっ、なんてことをすんだ、このクソガキ! オエーッ」
「いいいいいから前見てくれ、前!!」
斜めに傾いた車内などお構いなしにやりあうキリエとルリコ。
しばらく青田の中を水牛のように這い回ったあと、バンはなんとか脱出した。
泥と稲を道に振りまきながら町のほうに走り去っていくキリエの車を、農業ドローンたちが迷惑そうに見送る。
「はあ……はあ……でもよ。忘れちゃいねえだろ、ルリコ……」
脱輪の衝撃でドアに張り付いていたカナタが、ゆっくり体を剥がしながら息を落ち着ける。
「アタシらが何ていって石頭の生徒会長を泣き落とししたか。みんなが何のために、落第しないようにがんばってるのか」
「ふん。そうね」
ルリコが鼻を鳴らすと、それまで必死に泥を吐き出していたキリエがちらと目を向けてくる。
「アル中クソ教師にこれ以上肩身の狭い思いさせたくないって、さ」
「ぺっ……」
キリエはハンドルの上に泥混じりのツバを吐きつけただけだった。
ほとんどノイズの音みたいなカーラジオ、カビ臭い空気を吐き出すだけのエアコン。不機嫌なサスペンション。フロントに飛び散った泥を広く薄くなすりつけるだけのワイパー。
そんな壊れかけの車の中で一番磨耗している部品が、おもむろに口を開いた。
「つまり私がまだ、みんなに見捨てられてないって?」
「もとから見捨てられた連中同士でしょ。これ以下なんてない。這い上がろうとするヤツがいるなら、ドン底から見守るくらいはするわよ」
「ハハ。鬼の生徒会長サマともあろうもんが、なに甘いコト言ってんだか」
キリエはもう一度スキットルを手に取った。
親指で軽くキャップをなぞったあと──それを後部座席に向かって無造作に放る。
泥に塗れた銀色は、窓から差し込む西日を車内に乱反射させると、カナタの手元に吸い込まれていった。
「おっ、とと……」
「預かっててくれますか。ついでに洗っといて」
初めて間近で手にとって眺める、キリエのスキットル。鋭いものでボディに何か掘り込まれているが、今は泥に汚れてよく見えない。
「大事にして。蝶よりも花よりも尻のデキモノより丁重に扱ってくださいね」
「捨てちまおうか!? なあ、コレ、今ここからブン投げたら、センセー長生きできんじゃねえかな!」
「いいわね。やっちまいましょうよ!」
ルリコに後押しされながら、カナタはギコギコとハンドルを回して窓を開けていく。
「やめてくださいよ! ちょっと! 急ブレーキかけますよ!」
「まったくコレだからアル中は救えないわ……」
「キリちゃんはいつになったら酒やめられんだろな……」
カナタだって本気ではない。
スキットルを捨てたところで、この世からキリエを誘惑する酒が消えるワケでもないし──と思いながら、窓から乗り出した身を引っ込めようとしたところで、彼女は路上に倒れた人影を見つけた。
「キリちゃん止まってくれ!」
カナタの大声が車内に響く。
「たのむ急ブレーキだ!」
「わかってますわかってますって!」
すでにバンは減速を始めていた。
巨漢が倒れている。その格好はタンクトップに、パンツ一丁。雨上がりに干からびたカエルのような姿で、畦道にへばりついている。
くたびれたバンは甲高いブレーキ音を立てながら、彼の数十センチ手前で停車する。
「なんだよ……なんなんだよ!」
「あっ、カナタ!」
とっさにルリコが伸ばした手は、カナタの背中を掻いただけだった。
彼女はすでにドアを蹴り開け走り出している。皮膚、筋肉、骨──あらゆるものがひどく痛む。こっちもいい加減、限界だ。
「レイジ!」
皮が剥げた全身の苦痛がどうでもよくなるほど、彼のことが心配だった。
「レイジ……どうした。なんでオマエ、こんなトコで……こんな、パンツいっちょで……」
二日前に、これっきりと言って合宿所を出て行ったはずのレイジがどうしてこんな所に現れたのか──そんなことは分かりきっている。
「……本当に、アタシのことばっかじゃん、オマエ……!」
レイジはぐったりとして反応が無い。気を失っている。
乱れた衣服と、白いタンクトップにスタンプされたいくつもの足跡を見る限り、こちらもこちらでたいへんな道のりを辿ってきたことが分かる。
何が起こるかわかっていながら、カナタは彼の顔に触れずにはいられなかった。
震える黒い指先が彼の頬をなぞる。
「う──」
と、カナタの胃袋を見えない拳がまさぐった。
いやらしい手つきだった。胃壁の内側に食い込んでひだのひとつひとつを掻き分けてなぞる動きまで感じる。
細った彼女の体が、ひしゃげるように折れ曲がる。
それを見て、ルリコがすばやく反応した。
「カナタ、辛いなら──」
カナタの喉元に反吐がせりあがる。
俺を思い出せと、切り裂いたような口元で笑う男が語りかけてくる。
彼女の首を締め上げて、その頬に舌を這わせる怪物の姿が蘇る。
焼けるように熱い感触。何度も何度も、汚らしいもので体をほじくられる不快感。体の内側を裏返すほどの羞恥心と、べっとり喉の裏側に張り付くような絶望が押し寄せて、彼女を打ちのめす。
「──消えろ。クソオヤジ。アタシの中に、オマエの居場所なんざねえ」
ボロボロになったレイジから顔を背けて、カナタはそばの地面に昼飯を吐き出した。
「負けてたまるか。トラだのウマだの、父親だのに、アタシとレイジの今をクソにされてたまるかってんだ」
滴る反吐を、肉がむき出しになった腕で乱暴に拭い去り、カナタはレイジを抱き締めた。
「アタシはこんなだけど……でもやっぱり、オマエと離れ離れはつらいよ……」
「ひでえ日射病ってトコですねえ」
カナタの背後から長い指が伸びて、レイジの額に触れた。
「このタフマンが倒れるまで──ホントにバカな弟子を抱えたモンです」
「どう、キリちゃん。レイジのやつ、ようやく死ねそう?」
見渡す限りの青田の中にあって、咳のような音を立ててうなるバンの横で、ルリコが首をしゃくった。
「残念ながら」
キリエはそう返して、レイジのブ厚い胸板をベチンと叩いた。
「あっそ。じゃ、そいつが居眠りから目を覚ます前に町に戻らないとね」
「車に乗せるんで手を貸してください。力自慢の人は──ああ、ハイハイ。きゃしゃな女どもはイイですね。全部私がやりゃいいんでしょ」
百キロをゆうに越すレイジの体を米俵のように担いでキリエが歩き出す。
暗い顔のカナタがその後について歩いて、レイジの顔にこびりついた靴跡を袖で拭おうとする。
「レイジ、レイジ……死なないで。ごめんな。アタシがこんなんだから」
「はー、何見てきたんですか。この子の頑丈さは折り紙つきです…………それと、謝ってばかりじゃ、距離が開くいっぽうですよ」
「だって……アタシのせいだ。アタシが」
「トモダチで、家族なんでしょ。なら、こんなんでダメになったりしないから」
後部座席のドアを開けて、キリエはカナタたちに先に乗るよう促した。
「まったく。一人じゃクソもできなかったポンコツが、女の子一人のために命がけになるなんて……ねッ!」
女子二人が乗り込むと、キリエは彼女たちの膝の上に、パンツ一丁の大男を乱暴に放り出す。
「ちょ、ちょっと、先生!?」
ジョリジョリの無精ひげが生えたレイジのあごで膝をこすられ、ルリコが不平の声を上げる。そんなの聞こえぬそぶりで、キリエは古びたバンの運転席に尻を押し込んだ。
「はいはい。揺れますよー」
午後の日差しで手垢がテカるギアを、パーキングからドライブへ。ぼふっ、と黒い煙を吐き出して、泥だらけのバンは、町に向けて走り出す。
「ね……手、かして」
微震するシートの上で、ルリコは包帯に包まれたカナタの手を取った。汗だらけで、ホコリだらけで、おまけに傷だらけのレイジの胸板に、その手を導く。
ペトリと彼の素肌に手のひらを置いた時、軽くカナタの肩がハネた。しかし、もう何も起こらない。
胃袋をひっくりかえすことも、怖い記憶が襲い掛かってくることもない。
それは、ずっとカナタと一緒にいたレイジのぬくもりでしかない。
カナタは深々と息を吸う。
「こいつは、アタシの父さんじゃない」
そして、納得を手に取って確かめるように、口にしてみる。
「ウン。そうよ。レイジはレイジでしかない。たった一人の、アンタの家族」
ルリコは、カナタの肩を優しく抱いた。
「──アタシ、やっぱ海に行きたい」
ルリコの白い太腿の上で、レイジは安らかに眠っている。彼の頬は無精ひげに覆われており、窓から差し込む日差しがその上で踊り、複雑な影を落とす。
「レイジと一緒に、本物の海を見たい」
その髭を一本一本、離れていた間の記憶を読み解くように指でなぞりながら、カナタは確かな決意を秘めた目で、ルリコを見た。
そんなカナタを頼もしげに見つめ返しながら、ルリコはレイジの頭に伸ばしていた手を、引っ込めた。もはやそこは、自分が触れるのは許されない場所のように感じた。
「ねえカナタ、知ってた?」
どっしりと肩にのしかかる疲れに身を任せ、ルリコは目をつぶる。
「海ってね、本当は一人でも行けたのよ。でもアンタは……とっくの昔に、海へ行くことよりも、誰と行くかが大事になってたのね」
汚い汚いバンの車内で、ルリコは足元に転がってきたワンカップの空きビンを蹴って転がした。彼女の膝の上でレイジが軽く身じろぎする。
「十七歳で、夏で、バカの極みで。
そんな小恥ずかしいことを直球で叩きつけられて、カナタはつい、顔を背けてしまう。
「……なんか。恥ずかしい。スゲー照れクサいよ」
「ううん。そんなコトない」
そっぽを向くカナタを見つめてルリコは微笑んだ。
彼女が漂わせる腐臭はひどく甘い。車窓から差し込む夕日と一緒に暮れてなずんでいく。なぜかルリコは心地よくなる。
彼女が腕にこめる力が、にわかに強くなる。
カナタの首元に寄せた鼻を、ルリコがスンと鳴らす。くすぐったさに「ひえ」と飛び跳ねるカナタを見て、ルリコはクスクス笑って見せた。
「それにね。恥ずかしいのって、とっても大事なことなのよ」
「どういうことだソレ。ワケわかんねえ!」
答えず、ルリコは意味ありげに肩をすくめただけだった。
「アンタはもう大丈夫。きっと、何かになれるわ。ここで寝てる恥ずかしいバカと一緒に海に行ったら、もっともっと、幸せで自由な何かになって、遠いところに飛んでいけるから」
微笑をたたえてフロントガラスを見つめるルリコの目は、ジオラマめいた西町のビル群を突き抜けて、そのずっとずっと先に向いているように見えた。
そこにかすかだが確かな憧憬を見て、カナタはつい聞いてしまう。
「ルリコは」
「うん」
「ルリコは家に帰る前に、やっておきたいことは無いのか?」
「そうねえ……」
頬に指を当ててルリコは考え込んだ。
「花火かな」
「花火って。こないだ、夏祭りで見なかったか?」
「うぐう!」
ゴットンと音を立てて、バンが大きな石に乗り上げた。老人の足腰よりもヘタったサスはロクに仕事をせず、その軋みでキリエの苦々しげな声を掻き消した。
「実はあの時、素敵な素敵な女の子とデートしてて見逃しちゃった。だから、でっかい花火、一発でもいいから見ておきたいなーってカンジ」
「ふうん……?」
町はもう、すぐそこだ。
くすくす笑いながら目の前の座席を何度も蹴りつけるルリコと、その振動に合わせて「うぐ、うぐ」と声を漏らすキリエを見て、カナタは不思議そうに首を傾げた。