海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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7.深夜/ノー・サプライゼズ

 激しくむせこんで、レイジは跳ね起きた。

 口の中は鉄の味。鼻は固まった血でほとんど塞がっている。全身ダルくてたまらない。あちこち砕けたり潰れたのを治した後は、いつもこうだ。

 それは別にいい。

 問題は気分だ。カナタを捜しに町に出て、物騒な男たちと掴み合いにあって──そこからの記憶がない。

 何もできなかった。そんな無力感が、ズンと胸にのしかかってくる。

 

「やっと起きたかい。レイジちゃん」

 

 暗闇に日焼け止めのにおいが漂う。

 満月を浮かべた窓辺に、長身の女子生徒が寄りかかっている。

 ボタ子だった。シャツの上から肩にひっかけただけのジャージが、夜風で静かに揺れている。

 

「あ……」

「聞かれそうだから先に説明しとくと、ここは合宿所の談話スペースってやつ。そこのソファ、寝心地よかったろう?」

 

 ボタ子はそう言うが、フェイクレザーのソファは湿気を吸ってくれるほど親切ではない。レイジが背中を浮かせると、月の光が座面についた彼の寝汗を照らし出す。

 

「俺はどれだけ寝てた……?」

 

 前にかがんで、レイジは顔を覆う。

 

「あたいが町に出る前からだから……半日ってトコかね」

「どうやってここに?」

「キリエちゃんがクルマで運んできたんだ。ルリコちゃんと、それにカナちゃんも──」

「そうだ……カナタはッ!?」

「慌てんじゃないよォ」

 

 あわてて立ち上がろうとしたレイジの胸を、ボタ子がドンと突いた。

 彼はよろけて、崩れるようにソファに倒れる。元バレー部と聞いてその体格のよさには納得していたが、力がやたらと強い。レイジが想像していたよりも、ずっと。

 

 ギュムッ

 

 隣のソファに、ボタ子が腰を下ろした音だ。

 

「あの子なら大丈夫。元気にごはん食べてたよ」

 

 テーピングだらけの彼女の大きな手は、レイジの胸に置かれたまま。ひとまず落ち着いてあたいの話をきいていけ──と、そういうことなのだろう。

 

「どーいうワケか、帰ってきたとき三人とも泥まみれでねえ。まったく。なにがなにやら。ってカンジじゃないか」

「…………そう、か。カナタは、行かなかったんだな。外に」

「だね。今度こそ防衛局もホンキだったみたいだよ。紙一重だ。センセーたちには感謝しかないねえ」

「よかった……!?」

 

 安堵のため息をもらしてから、レイジはバッとボタ子へと振り向く。

 マリコよりずっと短い黒髪が、夜風にそよぐ。彼女は薄く笑ったまま、外廊下に据え付けられた消火栓の赤ランプを瞳に映していた。

 

「驚くと、けっこうカワイイ顔すんだね」

 

 しゅるり。ボタ子の指が名残を惜しむようにレイジの胸板に「の」の字を書いてから、離れていく。

 

「カナちゃんはそういうところ、しっかり見てくれてたんだねえ。いいねえ」

 

 レイジはその指を通して心を読まれたような気持ちになる。

 さっきボタ子はさりげなくその名を出した──防衛局。超技術を使って西町を裏から管理する、地下世界の支配者(ビッグブラザー)の名前を。

 身の周りに関係者が多すぎるせいでレイジはマヒしていたが、この町に住むただの女子学生が知っていていいワードではない。

 

「なぜ、防衛局を」

「今はもっと、大事なハナシがあるんじゃないかい」

 

 ボタ子がレイジの胸のうちを読んだように、今はレイジにもそれができる。

 彼は戻ってきてしまったのだ。悪気はなかったとはいえ、散々引っ掻き回して、醜態を見せ付けて、切り捨てるように離れた2-Aの合宿に。

 そのケジメをつけさせるためにボタ子はずっと枕元で待っていてくれたのだと、レイジは理解する。

 

「ぶきっちょなレイジちゃんにしちゃ、うまくやったモンだねえ。雑用ぜーんぶあたいらチームバカに押し付けて、最高のタイミングでご帰還ってかい」

「それは……すまない」

 

 レイジが深く頭を下げると、ボタ子は一度黙る。古びた自販機が、談話室の中にかすかなうなりを響かせながら二人のやり取りを見守っている。

 

「カナちゃん、隠れて泣いてたよ。ま、あの子そういうの苦手だし、目赤いからバレバレだったけど──あんな強い子、あたいも初めてだ。屋上でひとりでメシ食ってんだ。なんか思い出すたびに、ゲロ吐きながらね」

「…………そう、か」

 

 そのときのカナタの顔を、レイジは想像することすらできない。

 

「あの子がツラいの、助けてあげんのがアンタじゃなかったのかい。アンタ、どう落とし前つけんだい」

「わからない」

 

 それがすべてだ。どれだけ立派なイイワケを持ち出しても、すでに「やっちまった後」だ。レイジは押し黙る。それしかできない。

 

「だろうね。あたいがアンタの立場でも、サッパリだろうよ」

 

 二人はまた、沈黙を纏った。

 もうすぐ日付が変わろうというタイミングだ。竹刀を担いだルリコに限界の限界のそのまた先まで脳みそを絞りつくされたクラスメートたちは部屋に引きこもって熟睡中で、誰も外を通りかかったりはしない。

 非常灯の緑と、消火栓の赤。二つのライトで不気味に象られた暗闇の中で、二人はただ、見つめあった。

 

「──あたいがクラス代表するなんておこがましいケドね。みんな、ガッカリしてるよ。アンタ、きしょくてボーっとしてるけど、悪いヤツではなかった。

 でもね、困ってる女のコほっぽりだして、家出なんてカマすんじゃないよ」

 

 そばかすの浮いたボタ子の目元は、とても鋭い。

 だがレイジの胸が引き裂けそうになっているのは、そのためではない。自分でもガッカリなのだ。カナタを傷つけ、その上裏切ったイスルギレイジが。

 彼はぎゅっと拳を握って、項垂れる。

 刀を持ったキリエに死をこいねがったときと同じだ。自責の嵐が胸の中で渦巻いて、吹き荒れて、どうすることもできない。

 小刻みに震えるレイジの頭に、ボタ子が手を伸ばした。

 

「このバカちん」

 

 そして、軽く。綿ボコリを払うように、本当に軽く、彼の頭をはたいた。

 

「はい……ぎすぎす終了ね」

 

 信じられないような顔を向けてくるレイジに、ふっと笑いかける。

 

「あたいもヤだったけどさ。こういうの、誰かがやっとかないとだからねえ」

「え?」

「これでミソギっつーの? 終わり。町でそうとうボコられたって聞いたし、罰っつーワケじゃないけど、十分さね。バカ同士、明日からお勉強、頑張ろうねえ」

 

 はずみをつけてボタ子はソファから立ち上がり、ヒラヒラ後ろ手を振る。さっきまでの重苦しさがウソのような、決着のつけ方だ。

 あとに残されたレイジはあっけにとられて、あやうくそのままボタ子を行かせるところだった。

 

「あ、待っ、待ってくれ……っ!」

「なんだーい?」

 

 すでに出口の引き戸に手をかけていた彼女は、不思議そうな顔をレイジに向ける。月の光を浴びたことで、その彫りの深さが強調される。

 日本人離れしている。そのスタイルのよさも相まって、スクリーンに放り込んだらそのままボンドガールを勤められそうなほどだ。

 

「どうして、俺にそこまでしてくれるんだ」

「そこまでって……なんか、したっけねえ」

 

 これっぽちも心当たりないねー、と言うかのように、彼女は頬に指を添えて、考える考えるそぶりを見せる。

 

「起きがけにお説教こいて、ヤな気持ちにさせただけじゃないかあ。うわ、自分で言っててサイアクだね、あたい」

「ボタ子。きみは、なんというか……励ましてくれたんじゃないか。そう感じた」

「うげー、よしとくれ。ガラじゃないよ、そういうの」

 

 レイジがソファから立ち上がって、ボタ子のところに向かう。

 彼女は右股にある太い縫い目をなぞりながら、面白そうに彼のことを見つめていた。

 やがて目の前にやってきて、二人の視線が合う。

 ボタ子は傷跡から手を離し──その指で、レイジの唇に触れる。

 日焼け止めだ。レイジは不動のまま、その香りを感じる。ボタ子が何を思って、どうして自分にこんなことをしてくるのか、彼にはわからない。

 

「……ね。あたいの名前なんて、レイジちゃんは覚えちゃいないだろ」

 

 唇をなぞりながらボタ子が放った言葉は、短く、重かった。

 

「すまない」

 

 そっとボタ子の指が離れていく。レイジはウソをつけない。

 

「俺たちはずっと同じクラスなのに、な」

 

 ルリコ、フミオ、俺。それだけが、一ヶ月前までの彼が築き上げた全世界だった。何か話を振られても、誘いがあっても、無言で首を横に振ってバーベルを上げ続けた。

 思い返すと今まで何度も親切にして、気にかけてくれたボタ子のことを、レイジは何一つ知らないままだ。

 どうしてここまでしてくれるのかも。腿の傷の由来も。

 

「はははっ! なーんてカオしてんだい、まったく!」

 

 きっと気を悪くするだろうというレイジの予想に反して、彼女は豪快に笑って見せた。聞いてるほうも気持ちよくなるような、カラっとした笑い声だった。

 

「アンタ、こんなで謝ってるようじゃ大変だよ。これからずっと、謝り通しになっちゃうよお」

「だが、きみは俺を知ってくれてた」

「それでいいのさ。こっちがどれだけ興味もってても、縁とか運命ってのがジャマするモンさ。あーあ、こりゃもっと、がんばらなきゃかあ……」

「興味? ボタ子は、俺なんかに──」

「あー! あー、ナシナシ、今のナシ! ただのコトバのアヤだから、真に受けてんじゃないよ!」

 

 ボン。照れ隠しに思いッきり両肩をはたかれたレイジは、床ごと陥没するような衝撃を受ける。

 よろめく彼の前で、ボタ子は少しばつが悪そうにしていた。

 

「えーと……だからねえ、レイジちゃん」

 

 すぐに彼女はさっきまでの調子を取り戻すと、レイジの肩を何度も何度も優しく叩いた。

 

「アンタが今もってる繋がりってヤツのことさ。大事にするんだよ。どうなるにせよ、大事な絆にはキッチリとケジメつけて、前向いて歩いてきな」

「あ、きみの、名前……」

「あとで名簿でも眺めてみるこったねえ、それが興味の第一歩ってヤツさあ!」

 

 戸をあけたボタ子は、その笑い声と同じくらい快活な上履きの音を鳴らして、廊下の先の暗闇に消えていく。

 彼女にむけて伸ばしかけた手をぎゅっと握り締め、レイジはしばらくそのまま、立ち尽くしていた。

 

 ■

 

「うっわ」

 

 細い体にタオルを巻いて浴場に入ってきたザワちんは、自分でも顔が引きつるのが分かった。

 思春期バリバリの野郎共が浸かったあとで、すっかり汚れて温くなった浴槽。そこに顔半分沈めて小島のようになった状態で、レイジがいたからだ

 

「ン……」

 

 声でザワちんに気づいた彼が、チラと目を向けて会釈した。それだけだ。また体を浴槽の隅に寄せて、壁を見つめはじめる。

 

「俺って心臓──いや、全体的にヨワヨワなんですよ。ドッキリは勘弁しちゃくれませんかね」

 

 辛苦くせー時間に、辛気くせー野郎と一緒になっちまった。そんなコトを考えながら、ザワちんはシャワーを浴びる。

 浮いたアバラの溝を伝って、湯が流れるのを感じる。最近ますます肉が落ちた。鏡に映る青年は相変わらず美しいが、それは病的な美貌になりつつある。

 薄く浮いた頬骨をなぞりながら、彼は鏡越しにレイジを見据えた。

 

「ボタ子が、野郎部屋にきやがりま、し、てッ」

 

 彼はプルプル震える手で湯の入った桶を頭の上に持ち上げ、ザバっとひっくり返す。

 石像のように固まっていたレイジがザワちんに目を向ける。繊弱な彼の背筋に、濡れた長髪が張り付いている。

 

「ぷはっ……あいつ、『レイジちゃんに脱走のケジメつけさせから!』って叫んですぐ帰ってきましたよ。ホントですか」

「どうなんだろう。まったく、何もしていない……」

「そこはウンって言っておけばいいでしょ。相変わらず頭回りませんね」

 

 股間をタオルで隠しながらやってきたザワちんが、そのまま湯船に浸かる。いまさら言うことでもないが、彼はレイジを忌避している。

 腰を落ち着けた位置は、ほとんどレイジと対角線上だ。

 はふうと大きく息をついて、ザワちんは浴槽のヘリに頭を預けた。天井と、大きな天窓がよく見える。明かりにつられて裏山から降りてきた羽虫の大群が、曇ったガラスの向こうで乱舞していた。

 

「んで……どしたんです、こんな夜更けに」

「考え事をしていた」

「カナタさんのことですか」

 

 レイジは答えない。

 だろうな──ザワちんは白く細い脚を泳がせながら、思う。

 フミオやルリコ、そしてカナタのようなきれいどころの上澄みどもと付き合ってるせいでなかなか浮き彫りにならないが、レイジは変人だらけの2-Aの中でさえ、うまくいってない。

 人付き合いは苦手だし、勉強もマズい。もともと気味悪がられていたのが、最近は脱走騒ぎのせいで嫌われつつある。

 そんな義理ないはずなのに、ザワちんは少しだけ同情してしまう。

 

「なんとか、してやっちゃくれませんか」

 

 彼のことを考えて考えて、出た言葉がそれだった。

 

「カナタさんの、あんな姿はもう見たくないんです」

 

 やはり、レイジは答えない。ザワちんも期待しちゃいない。

 濡れた天井から、ポタリとしずくが湯船に落ちる。ちょうど、二人の間の位置だ。

 波紋が、ゆっくりと広がっていく。しかしそれは水一滴だ。風呂全体の水に対してあまりに小さい。水面のわずかな揺らぎに邪魔されて、ザワちんの元に届く前に、消える。

 

「──俺は、今のままが、一番だと思う」

「は?」

 

 消え入りそうな声でレイジが呟いて、ザワちんは彼に目を向けた。

 彼は相変わらず、感情を読み取れない顔で目の前の壁を見つめている。そこに群生した黒カビだけが俺の理解者だとでも言いたげな態度だった。

 

「は?」

 

 ふつふつと湧き出す怒りが、二度目の問いかけに篭っていた。

 

「カナタを傷つけて、裏切った」

「知ってます。ここから、どうリカバーするかってハナシでしょ」

「ボタ子は向き合えと言うが……俺はもう、カナタに近づかないほうが──関わらないのが、一番、カナタのためになる。だから、このままが」

「それじゃ、何も解決なんて……ッ!」

 

「はぁーっ! まったく。まだ毛穴に泥が詰まってる感じ」

 

 ザワちんが本格的にブチ切れる寸前で、浴場を隔てる壁の向こうからガラガラという引き戸の音が聞こえた。

 

「ねーえ、そっち誰かいる?」

 

 声は、ルリコのものだった。

 

「……俺ですよ。ザワちんです」

「やっほー、ザワちん!」

 

 さらにカナタの声まで聞こえてきた瞬間、レイジはぎょっとした。

 彼は口をつぐんだまま視線を泳がせる。目が合ったザワちんは、黙ってうなずいて見せた。

 

「こっちは俺だけ。ひでえ赤みとミミズ腫れでヤク中みたいな腕してるんで。なるべく一人で入りたいんですわ」

「飲むやつから注射に変えたんだっけ。おかげで、だいぶ調子よさそうじゃない」

「これまでと同じ。具合いいのは最初のうちだけですよ──というか何でそんなことまで知ってんですか、怖いんですけど!?」

 

 割と本気でビビった様子のザワちんが叫んだが、ルリコは答えない。壁の向こうから、クスクスと押し殺した笑い声を放ってよこすだけだった。

 

「と……ところでカナタさんの体はどうですか」

 

 鬼の生徒会長は地獄耳。改めてルリコの情報収集力に戦慄させられたザワちんは、気を取り直すように咳払いしてから、問いかけた。

 

「そうねえ……おっぱいがデカい!」

「るせえ、セクハラだぞ!」

 

 カナタが大声を張り上げて、ザワちんは苦笑した。

 レイジもつられて笑おうとしたが、できない。

 以前までの自分がどうやって笑っていたのか思い出せない。ずっとずっと努力して、カナタのおかげでようやく自然に出るようになった笑みを、忘れてしまった。

 

「おっぱいと聞いたら心惹かれもしますが──実際のところ、傷、どうです。よくなってますか」

 

 暗い顔のレイジを一瞥だけして、ザワちんはつとめて、明るい声で語りかける。すぐにカナタが返事してきた。

 

「うっすいカワは張ったんだけどさ。気ィ抜くとすぐ破れちまうんだよ。セッケンがしみる」

 

 シャワーの音に混じって、たまに「うぐぐ」という、なんとなく気の抜けたカナタのうめき声が聞こえてくる。

 

「とくに背中ね。骨、見えてるのよ。感染とか……今のところ大丈夫みたいだけど。ちょっと心配」

「そりゃ痛そうだ」

「ンだよ、オマエらアタシのこと甘く見てんじゃねえか?」

「おっ」

 

 驚いたザワちんの声に、かすかなレイジの声が重なった。

 昨日の夜、世界の終わりのような顔で食堂から姿を消したカナタとは思えないほどに、彼女の声音は前向きになっていた。

 

「アタシ、まだまだ頑張れるから!」

 

 威勢よく打ち水した音が響き渡るなり「いてえ!」と、お湯がしみたカナタの元気な悲鳴が上がった。

 

「ところで当たり前に会話してるけどねえ、ここ設計したヤツ、どこのスットコドッコイよ。何この下品な壁の隙間! ふざけてんの!?」

「マリコさんも、初日に同じことで文句言ってましたよ」

「さすが目の付け所がいいわね! アイツに来年の生徒会押し付けちゃおうかしら!」

「ザワちーん!」

 

 カナタの大声が響くたび、レイジは萎縮して、湯船に沈んでいく。そんな様子を横目で見ていたザワちんは、苛立った舌打ちを小さく鳴らした。

 

「明日のメシなんだけどさあ。リクエストある?」

「ほーお、久しぶりにカナタさんの手料理が食べられる……ってことですか?」

「それはもうちょっとカンベンな。アタシの手、すげーきちゃない汁出てるから。でも、マリコに任せりゃ、なんでもござれだ」

「じゃあ卵焼きですかねえ。甘くてしょっぱいやつ」

 

 いたって何気なくザワちんが言って返すと、今度はカナタの返事が来るまで、わずかな間があった。

 

「……なんで。んなモンを?」

「実は気になってたんです。イスルギのあんぽんたんの前じゃ絶対に言いたくないですけど、あの能面男が楽しそうにメシ食ってるの、なんか、いいじゃないですか」

「ハハ。ノーメンか」

 

 ちょっとあきれたようなカナタの声。

 

「じっと見てると、結構いい顔するんだぞ」

 

 カナタの口から、どんな失望を聞かされるのだろう──と、身構えていたレイジは、不意をつかれたような気持ちだった。

 

「いい顔? この……あの無表情マンが?」

「ところでさ、やっぱりそっちに誰か、いたりしないわよね?」

 

 驚きのあまり犯したミスを、慌ててザワちんが言い直した。それで生まれた間を埋めるように、ルリコが声を上げた。

 

「おやあ。今夜の会長さんはずいぶんプライバシーが気になるみたいですが」

「ここからの話、ほかのヤツに聞かれたらマジで困るから。とくに、レイジには。ホントにホントに、いない? オケの中まで探した?」

「桶なんかに収まるはずないでしょ、あんなデカブツ! ──それに、ご存知のとおり俺とヤツとの関係は終わってんで。もしアイツに俺がおかしな気をつかうなら──」

 

 そこで一度、ザワちんは言葉を切ってレイジを見据えた。

 

「よほどの緊急事態かと。クラス全体の士気に関わるような」

 

 今だけは、ザワちんでもレイジの表情を読み取れる。

 恐れ、だ。

 ルリコはきっとこちらに彼がいることを知っているし、その上で猿芝居を打ってくれていることを、レイジの方も気づいている。

 その上でわざわざ秘密にしておきたいというなら、それは必ず知っておいてほしいということだ。

 それはきっと、カナタと離れようとするレイジにとって、恐ろしいことだ。

 

「マジでいないわね?」

「ええ。いるかどうか分からない神様と、俺の病気に誓って」

「……そ。ワカったわ。アンタ敵に容赦しないタイプだし、信頼する────あのねえ、今日のお昼、カナタが家出しやがったでしょ」

 

 ばちゃっ。向こう側から、あせったような水音が聞こえた。

 

「あ、おい、もうやめろったら、そのハナシ!」

「結局どこで見つかったんですか?」

「詳しいことはいえないけど、ほとんど町の外。これまた秘密なんだけど、もう少しでこの子、完全ゲームオーバーって感じだった」

 

 男湯の中で、湯船いっぱいの水をそのままブチまけたような、ハデな音がした。ザワちんがそちらに目を向けると、レイジが立ち上がっていた。

 彼は壁の隙間に目を向け、何か言いたげに口をわななかせている。

 

 まずい。

 

 ザワちんはとっさに自分の胸を強く打つ。

 効果は一瞬で出た。彼の弱りきった呼吸器はすぐに不平の声がわりに咳を出す。

 

「げほっ、ひゅーっ……マジ、すか……そりゃ、えほっ、えほっ」

 

 やっておいて後悔するほど、ツラい。すぐにザワちんの口の中に鉄の味が溢れ出した。かまうことはない。吐血はもう慣れっこだし、ここは風呂場。いくら汚してもすぐ流せばいい、と彼は自分に言い聞かせる。

 明らかに尋常でない激しさの空咳を聞いて、レイジがはっとした。

 

「ザ、ザワちん……だいじょぶか?」

 

 驚いたのは、カナタも同じだった。

 

「いやちょっとコケました。げほっ、げほっ、ビックリしちゃって」

 

 そういいながら、彼はタオルを丸めて、思い切りレイジの顔面に投げつけた。彼はよろめいて、倒れこむように浴槽に座り込む。

 

「またまたすげー音したけど……つらいのか? 様子見に行ったほうがいいか?」

「だっ、大丈夫でえす! 今日は調子いいほうなんで!」

「そっか……ま、無理しないでな」

 

 カナタはまだ心配そうだったが、それ以上深追いはしないでくれた。

 

「……カナタ引き止めるために泥まみれになったワケだけども。何度洗っても髪が臭い気がして。これ二度目のおフロなのよね」

「アタシも」

「アンタは軽傷でしょ。こっちはまだ泥水の臭い染み付いてんのよ。そんで──」

 

 沈黙があった。

 壁の向こうで何が起こっているのか、ザワちんにも、レイジにも分からない。彼らが視線を交わして頷きあってきたように、ルリコたちの間にも、細かい感情のやり取りがあるのだ。

 男たちは、黙って続きを待つしかない。

 

「──カナタね。諦めないんだって。レイジと一緒に、海を見たいんだって」

 

 でしょ? と、ルリコの声が響く。

 

「ウン」

 

 今度のカナタの返事は、水音に負けそうなほど微かだった。

 だがそれで十分だった。いつの間にか力んで、浴槽から立ち上がっていたザワちんは、気が抜けたように湯船に腰を下ろす。

 

「そっか。夢、捨てないことにしたんですね」

 

 微笑んだザワちんが、レイジのほうに腕で湯を押しやった。

 小さな小さな波が起こり、それはレイジの胸板に当たる。彼は目を見開いたまま、揺らぐ水面を見つめていた。

 

「ああああ! かゆい! 言っといてなんだけど、全身かゆくなってきた!!」

「おいおい、アタシのコトバで恥ずかしくなるなよ! ひでーヤツだな!

 

 悲鳴のようなルリコの声と、カラカラと笑うカナタの声が響きはじめる。

 

「……じゃ、まあ、アンタらも、遅くなる前にあがんのよ」

「ルリコ、『ら』って?」

「あ、いや。ほんとに間違えただけ。じゃ、包帯巻いたげるから。行くわよ」

 

 ペタペタと裸足の足音が遠のいていって、入り口の戸がピシャリと閉め切られたのを最後に、風呂場は再び静かになった。

 今度こそ本当に、ザワちんとレイジだけだ。

 

「カナタさんは立ち直りますよ。それで、お前と向き合うためにやってくる。お前はそのとき、どうするんですか」

「ザワちん──」

「お前が俺のこと、その名で呼ぶのだけは許可しないからな」

 

 再びその声色に鋭利さを取り戻したザワちんだったが、すぐに、気が抜けたように肩をすぼめて見せた。

 

「俺……先に上がりますけど。のぼせて、ただでさえ少ない脳細胞減らすんじゃないですよ」

 

 残されたレイジは風呂に体を沈める。それは、かつて黒い海におぼれたときのことを思い起こさせた。

 

「みんな……どうして、俺に関わりたがるんだ」

 

 ゆっくり、ゆっくりと、彼は沈む。肩、首、そして、頭まで。やがて完全に湯の中に沈むと、全てが遠ざかっていく。

 

「ばかみたいじゃないか。俺は、これ以上……」

 

 そこから先は、声にならない。ただ泡の砕ける音に紛れて、ボヤけて消えた。

 

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