翌18日は、梅雨が舞い戻ってきたような激しい雨が降った。
ぺっちゃんこのカバンで雨を防ぎながら下校していく生徒たちを見下ろしつつ、2-Aの勉強合宿はこの日も続く。
レイジちゃんの
集会室でノートをぐしゃぐしゃにしながら、彼は三角関数を勉強している。
彼の周りだけ席が空いている。クラスメートたちの、彼に対するスタンスは明らかだった。
三日間使って徹底的にテスト範囲を詰め込んで、コーチ役に回った『チーム上澄み』たちも、彼と交わす言葉は最低限だ。
「どう。こいつ、なんとかなりそう?」
「う、うん。ギリギリおっけ、ってカンジ」
「まあレイジにしちゃ頑張ってるか。この調子でお願いね──」
それも、竹刀を担いで机の間を練り歩くルリコの目があるからだ。
彼はこのクラスに居場所がない。彼は、一人のままだ。
「よっしゃ。いい席めっけー」
勉強する手を止めたカナタがハラハラしながら見守っていると、ヨシがやってきて、レイジの隣に腰掛けるのが見えた。
「座って構わんよな。俺、すみっこ好きなんだ」
「……ああ」
かすかにレイジが頷くと、ヨシは何食わぬ顔でテキストを開いて勉強を始める。
珍しすぎる組み合わせだ。
ひそかに目を見張るカナタのすぐ横を、口笛吹きながらボタ子が通り過ぎていく。彼女も、レイジの両脇を埋めるように座り込む。
ヨシの隣には、いつの間にかザワちんまでいた。
レイジの傍に寄るだけでアレルギーを起こしたようなしかめっ面になるのは相変らずとして、彼はもう、憎まれ口を叩くようなことはしない。
「ヨシ。伝えて。三番のふたつめ」
「あ、何……? ああ。レイジ、そこ間違ってるって。ザワちん言ってる」
彼は彼で、名前を奪った宿敵のことを気にかけているようだ。レイジがしでかしたミスを見つけると、ヨシの脇腹を小突いて伝えさせる。
「おやまあ。ザワちゃんもカワいいトコあるんだねえ」
「るっせえですね。妖怪巨大女」
雨がポツポツガラスを打つ音の中に、ボタ子のくぐもった笑い声が響く。いちおう、みんなが勉強しているのでボリュームを抑えてくれている。それでも彼女が体をゆするだけで、合宿所が揺れるような錯覚がある。
カナタがちらりと見やると、他のクラスメートたちもレイジのまわりを眺めて、ポカンとした表情を浮かべていた。
あんな男に、そういう器用な付き合いができたのか? と。
「ホラ、カナタ先輩。ウチらも頑張らなきゃっスよ」
隣のマリコに肩をつつかれて、カナタはようやく我に返った。
「お、おう──そうだな。アタシも、気合いれっか」
まだ戸惑いはあったが、彼女は黒い斑点にまみれたノートを開く。
包帯の隙間から見えるカナタの口元に、うれしそうな笑みが浮かんでいるのを見て、マリコも頬を緩めた。
明らかに何かが大きく変わった、なんてことはない。2-A全体の学力は絶望的なまま。レイジは孤独なまま。カナタは傷ついたまま。
そこにあるのは、小さな変化の連続だ。
カナタは、抜けるような青空の下で、キリエのアルコール臭い抱擁を受けたときのことを思い出す。
『世界を変えるのは、ヒーローの劇的な一撃じゃない』
たぶんそれは本当だ。
この小さな日常の積み重ねが、きっと大きな奇跡を引き起こすのだと、彼女は信じる。
■
「レイジちゃあん」
19日。この日の昼休み、レイジはボタ子に連れ出された。
向かった先は裏山のふもとに広がる雑木林の中だった。
「こんなところで……なにを?」
「ふっふ。おデート。かもねえ」
木陰の中を歩いてきたレイジが振り返ると、酷暑の日差しを浴びたグラウンドは、白く焼きついて見えた。
そこに昨日の大雨が追い討ちをかける。むわっと茹ってまとわりつくような湿気を掻き分けながら、彼はボタ子の後を追っていく。
彼の手で、燃料缶がちゃぷちゃぷと水音を立てていた。人類が地下都市に引きこもった影響でガソリンが廃れ、今ではめっきり見なくなったものだ。
「それに、このガソリンは?」
「好きだろ、火遊び。レイジちゃん達のイタズラ見て、あたいもしてみたくなってさあ」
ああ、ガチの火遊びの方ね──忘れずそう付け加えて、彼女は片足を引きずるように歩き続けた。
雑木林の奥には、四畳半ほどの開けた土地があった。
土砂が滑り落ちて木の根がむき出しになっているところで足を止めたボタ子は、ずっと持っていたスーパーのレジ袋を地面に置く。
「いつつ……これ。よっく見といてねえ」
古傷のある腿をさすりながら体を屈めて、彼女は袋の結び目を解いた。
木漏れ日が中身を照らし出す。薄汚れた衣服と──クツだった。襟に黒い染みのついたシャツは泥と血でひどく汚れ、くちゃくちゃだ。
「ン……」
先の尖ったシューズに、レイジは見覚えがあった。つい最近、どこかで目にしたような気がしてならない。
「見たね?」
屈託のない笑顔で、ボタ子が見上げてきた。
「あ、ああ。見た。たしかに」
「ん。ならよし。ほんじゃ、景気よくいこうかね」
それがいつのことだったのか、レイジが思い出す前にボタ子はキュッと袋の口を縛りなおした。
彼女に促されるままレイジは袋の上にガソリンを注ぐ。
じだじだじだ、とビニールの上で跳ねた燃料がゆっくり地面に広がっていく。アリの行列が足早に逃げていくのを見つめつつ、レイジはなんでこんなことをしているのか、分からなくなってくる。
「レイジちゃん」
すべての燃料をブチまけて、レイジは袋から距離を取る。
ボタ子が隣に立って、マッチ箱をマラカスのように鳴らした。
「仕上げ、あたいがやっていい?」
やっぱりワケが分からないまま、レイジはうなずいた。ボタ子の手元ですぐさまシュッとやすりをこする音が響き、ツンとくる臭いが立ち昇る。
「これであたいら、共犯だねえ」
彼女の手から、火のついたマッチが放たれる。マッチは狙いを外さず燃料まみれの袋に命中し、ボウっと音を立てて炎が舞い上がった。
白昼、日差しの下で陽炎と踊る炎は端が透明で、燃え方が鋭利だ。レイジの目には、ガラスが身をよじりながら燃えているように見える。
「共犯?」
「うん」
「なんのだ?」
「ヒミツ」
唇に人差し指を当てて、ボタ子がウインクする。
「よく分からない犯罪の片棒を担がされてしまった」
「くくく。悪いね。でもまあ、殺しとかじゃないから。ギリギリだいじょぶ。たぶん」
黒い煙が一筋立ち昇っていくのを、二人はじっと見つめた。
「思ってたほどは、燃えちゃくれないねえ……」
その場にボタ子がしゃがみこんで、面白くなさそうに膝を抱えた。
これもまた、昨日の雨のせいだろう。袋はほとんど灰になっていたが、じっとり湿った地面はわずかに黒くなっただけで、燃え広がったりしない。
「ボタ子」
「あんだい」
消え行く火を見つめながら、レイジは囁いた。ボタ子が少し顔を上げる。
「ありがとう。なんとなく、だけど」
「いいんだよ。あたいが……好きでやってるだけだから」
やがてフッと煙が切れた後も、二人はしばらく焦げた地面を眺めていた。
風に吹かれて舞い飛ぶ灰と、アブラゼミの大合唱。木陰に篭った炎の熱さ。この世界でレイジとボタ子しか知り得ない、たった三十分間の思い出。
煙のにおいを僅かに服に染み付けて、二人は教室に帰る。
それが、7月19日に起こったことのすべてだ。
■
「くおらっ、バカボウズ、たるんでんじゃないわよ!」
「ぐおあああああッ!!!?」
ルリコ渾身の一撃が、ヨシの背中に炸裂した。
バシーンとイイ音立てて竹刀でぶっ叩かれ、ヨシが悲鳴を上げて机に突っ伏した。
あうあうと喘ぐ彼の膝の上に、パチスロ雑誌が広げられていた。ペっと手に唾を吐くルリコと目が合った巻頭グラビアの女優が、困ったように笑っている。
「次、サボったら、その叩きやすそうな頭いくわよ。いいわね」
「ひいい……」
テスト前最後の土曜日の朝は、このようにして開始された。
涙とよだれをたらして畳の上にうずくまったヨシに、隣のレイジは手を差し伸べてやろうとする。
「いいですよ、そんなボウズ頭。ほっときゃ静かになるでしょ」
彼の相棒、ザワちんは冷淡だった。
「アンタらも。倒れたヤツ相手にうだうだしてると、ついでにブッ叩くわよ」
「ひでえ。奴隷鉱山かよ……」
フンと鼻を鳴らして、ルリコは去っていく。
そんな彼女の目の下は、ハッキリと青い。最強無敵の生徒会長とはいえ、何もせずにテストに勝てるワケじゃないのだ。
みんなの勉強を見て、フトドキモノをぶちのめして、マリコとカナタの傷の世話して──それだけやって、当然彼女は弱っている。
だが文句ひとつもらさない。カナタの『魔法のヘアピン』で、何でも願いを叶えると約束したからだ。
「ルリコ様ァ!」
そんな彼女の背中に向かって、叫んだものがいた。
つい数秒前まで倒れて悶絶していたはずのヨシが、ムクリと起き上がって直立不動だ。
天井めがけてピンと伸びた手と、精一杯クソまじめを取り繕った表情には、命がけの直訴に挑む覚悟がみなぎっている。
「あーん?」
竹刀で肩をトントン叩きながら振り返ったルリコには、ヤンキーの風格がある。
レイジが、カナタが、ザワちんが、そしてボタ子とクラス全員が二人に注目する中────蒸し暑い集会室の中に、ヨシの声が高らかに響き渡る。
「そろそろ、俺らもケジメってのをつけるべき時かと具申しまーあす!」
「ふうん。そうね……」
高々と挙がった手を見たまま、ルリコは部屋の前方にある机に尻を乗せる。
「……私たちってねえ、テキスト代消耗品費食費遊興費もろもろ、というか食費でデカいムリ抱えて合宿してんのよ。でも誰か、不便してる?」
そこで一度、ルリコは部屋の中を見渡した。
否を唱える者はおらず、クラス一同じっと彼女の声に耳を澄ませている。音といえば、外から吹き込む風で掻き鳴らされる風鈴だけだ。
「不思議よねえ。まるでどこかの親切さんが、助けてくれてるみたいじゃなあい?」
「あっ、ちょっと、やめろよ──」
カナタが飛び出してこようとするのを鋭い視線で制して、ルリコは再び竹刀を肩にかけた。
「おかげで私たちは合宿できてるけど──この合宿始めたお題目、忘れちゃいないわよね。キリちゃんに迷惑かけたくないからでしょ?」
「誰かさんのフトコロ痛めたまま期末突破しても、そりゃ成功とは言えないんじゃないですかねえ」
ザワちんが、ブラブラと力ない動きで手を挙げて加勢する。
ルリコが重々しく頷いた。
「
「そうこなくっちゃ、さっすが会長!」
「アタシ、別にィ……」
ヨシが手を叩く景気のいい音が鳴り響く中で、当の出資者であるカナタはどうでもよさそうにしている。
テンションが上がってきたせいでルリコから二発目の竹刀アタックをもらいそうになるヨシの隣で、静かに腰を上げたものがいた。
レイジだ。
「そのツラ。アンタもやるってコトでいい?」
ルリコが、彼に向かってあごをしゃくる。
「ああ。俺はどんな重労働でもやれる。一番キツい現場に行こう」
「百人分の働きを期待してるわよ。ミスターハルク」
「んじゃ、ウチも。マスコットの中の人とかいいスねえ。こないだ、ワリと楽しんだし。ちやほやしてもらえるし」
どうやって止めようかとカナタが思っていると、その隣でマリコまで立ち上がる。
二人に向かって鷹揚に頷いてから、ルリコは軽く咳ばらいをした。
「ただ、でけー問題が二つばかりあるわね。ひとつ、我が校は原則バイト禁止。ふたつ、テスト本番が間近──ねえヨシ。そのスポンサー、夏休みまで待ってくれないの? そしたら、ケツに火つけずにラクラク返済、できるんだけど」
「ダメだ」
ヨシがキッパリ言い放つ。
「
「だからアタシ、別にカネなんてもう—―」
「なるほど!」
乾いた、甲高い大音量が、カナタの声を掻き消した。
目の前の机を思いッきり竹刀で叩いたポーズのまま、ルリコは一同を見回す。深く疲労の浮いた顔で、しかし、心の底から愉快そうに。
「なるほど分かりました。じゃあ仕方ない。やるっきゃない。異論、ある?」
シン……と、妙に熱の篭った沈黙がルリコに応えてくる。
ここでなんだか楽しくなってきちゃってるのは、ルリコも一緒だ。すぐに結論を出すようなマネはしない。この一体感を、もう少しだけエンジョイしたい。
「ねーえー……アンタらハミダシ
「あい」
「ン」
満を持したようにボタ子が手を挙げた。ルリコの竹刀の先が、即座に彼女を指す。
「あたいも体ナマってきてたし。ちょっくら運動でもしたくってねえ。それに、これまでさんざんカナちゃんに世話なってるし……」
「「おああああああああー!?」」
彼女に最後まで言わせてやらず、ルリコとヨシが大声を張り上げた。
その声は集会室のガラスをビリビリ鳴らしながらグラウンドまで響き渡り、裏山のセミまでもが、一瞬、ピタリ鳴きやんだ。
「あっあっ……バレちゃったねえ……へへ……」
ドーム都市いっぱいに広がるこだまを聞きながら、気まずそうに首を掻くボタ子。なにやっとんじゃこいつ、と見つめる生徒たちの上に、天井の破片がパラリと落ちてくる。
「俺が……俺が最後の最後にバラしてボケたかったのに!」
「ふざけんな! お前、空気ちょっと読め!」
ヨシはもっとバカだった。それまで黙って聞いていたみんなが、いっせいに彼に向けて野次を投げかける。
「まあほとんど公然の秘密だったケドね……」
竹刀が風を切る不穏な音と共に、ルリコが呟いた。
大ヘマをこいたボタ子とふざけてばかりのヨシをこの後ブッ叩くために、既に素振りを始めている。
みんな、笑っていた。
もはやカナタには止めようがない。教師からも見捨てられるほどのダメダメ問題児の集まりなのに、貴重なラストスパートの時間を借金返済に充てようというのだ。
「い、いいんだって。マジで……」
いたたまれなくなって、彼女は呟いた。
「そして最後の問題」
みんなのざわめきが落ち着いた頃、ルリコは竹刀でバンバン机を叩いて注意を惹いた。
「三つじゃねえスか」
すかさずツッコんだマリコを無視して、ルリコは続ける。
「全員分の働き口が見つかるかってコト。しかもド短期で、都合よく」
「そりゃ問題なし」
間髪入れず、ヨシがサムズアップで応じた。
「カネのタネならもう見つけてある。というか、向こうからのオファーだ。キチンと学校の許可も取ったうえで、俺たちに話をしてきた」
「へえ……いつ? どうやって?」
「そいつをヒミツにしといて。ってのが、あちらさんの出した条件だ」
それまで読んでいた雑誌に、ヨシは封筒を挟んで持ち込んでいた。細長い茶封筒の束には、それぞれ連絡先と、住所が書き込まれている。
「内容はバラバラ。本日午後からの、二十四人分のド単発バイト。依頼者は暮酒店──フミオの父ちゃんだ」
学校をサボりっぱなしのフミオの父が、いきなり仕事を持ちかけてきた?
あたりはにわかにどよめきに包まれた。
みんな、困惑していた。
なにそれ、という顔で目を丸くするカナタ。
無言で腕を組み、封筒を睨み付けるルリコ。
そしてレイジは、あのシャフトに充満したにおいを思い出したように顔をしかめていた。
■
「どういう風の吹き回しよ!」
ほとんど何も聞こえなくなりそうな工事現場の騒音に負けないように、ルリコが叫ぶ。
積み重なったスレートの上で、ブンタも叫び返す。
「どうもこうもねえよ。困ってそうだから、よかったらって持ち掛けたの!」
ヘルメットをかぶったルリコの頭上を巨大な影がよぎっていった。
建物としての機能がほとんど完成したプレハブ構造を吊り下げた大型ドローンが、崩壊した七区の上空を飛びまわっている。
外から見ると、灰色のシートで覆われた野暮ったい田舎の工事風景なのに、中に入ると人間より自律マシーンの方が多い。
これがレイジに指定されたバイト先──そして無理言ってついてきたルリコの前に広がった光景だった。
「ルリコちゃあん、これ遊びじゃないんだからさ。ほら、セメントこねてこねて!」
「ぐああああ、もう! なんでこんな力仕事ばっか手作業なワケェ!?」
ジャージに灰色の飛沫をくっつけながら、ルリコはスコップを使って練り箱の中に渦巻くセメントと格闘中だ。
「仕上げのセメントは手作り派だから、俺サマ!」
「これで……はあはあ……何が……変わるってのよ……はあ……ッ!」
「でもなんか違うのよ。やっぱ人の力ってヤツなのよ。最後は────とか言っちゃったりして。いや正直よう分からんけど」
「アンタね、こんな華奢でカワイイ女子高生にセメントいじらせて何も思わないの!?」
夏場のセメント作りは地獄だ。
汗だくになって砂利やら砂やらかき混ぜて、水をブチ込んでるうちに砂場でブイブイ言って遊んでるような気持ちになる。
どうして大のオトナ──というほどでもないけど、子供でもない私が。
どうしてわざわざ箱なんか使うわけ? 外に全部バラ撒いた方が早くない?
「あづい。しんじゃう」
「ルリコちゃんが自分でココ来たんだから。俺サマのこと
べちゃっ
ルリコが無言で放ってよこしたセメント塊を、ブンタが真顔のまま首だけスッ……と傾けて避ける。
ルリコはスコップを握り締める。指がもげそうに痛い。
熱さと日光と汗と砂とブンタのダジャレでデロデロになった頭でやってるうちに、何がなんだかよく分からなくなった。
「あはは、あははは、見て、おじさん。私、セメントの達人かも」
全てがどうでもよくなって、ヤケクソでスコップとダンスを踊る。
しかし実際、ルリコの手際は悪くない。
動けないカナタの手伝いで合宿所に残ったマリコは、かつて言っていた。ルリコは一種の怪物だ、と。
ニンゲンにできることなら、一通りできる。いつもひ弱に見えるのは、栄養が足りていないだけだ。とも。
ドロ汗まみれ、指はささくれで完璧なセメントを仕上げていくルリコのことを、いつしか軽口を止めたブンタが見つめている。
その底知れなさを、確かめるように。
「ルリコちゃん。そんくらいでいいぞ」
「あは……あん?」
ブンタが手元の端末を操作すると、瓦礫の上を滑るようにして二機のドローンが走ってくる。
もともとツヤのある黒で塗装されたボディは酷使で銀色の傷だらけ。二本の太いアームを装備してガッチリした機体のデザインも相まって、歴戦の職人さんの風格を漂わせている。
「ビ」
ルリコの仕上げたセメントを一瞥して、彼らは満足そうにビープ音を鳴らした。
呆然と立ち尽くすルリコの手からシャベルをもぎ取ると、彼らは箱ごとセメントを持ち上げて、工事中の区画に向かって走り去っていく。
青空の下、二機のキャタピラが砂塵を舞い上げる。砂埃混じりの風に、メットからハミ出たルリコの黒髪が弄ばれる。
「あとは、アイツらが仕上げてくれるから。あのセメント使って」
「け……」
「あ?」
「結局機械じゃねーかよッ! 最後は人の手がウンヌンはテキトーかいいッ!!」
あたりの騒音をかき消すほどの声で、この日一番のツッコミをルリコがかました。
「最終工程に人の手加わってるでしょ。いい仕事したよー、ルリコちゃん。マジで。人間の仕事よー」
「こ、こ、このハゲオヤジ……」
今にもブンタに掴み掛かっていきそうなルリコだったが、不意に、その肩から力が抜けた。
次の重労働を言い渡されるまで、一時休憩だ。
彼女は行きにマリコが持たせてくれたスポーツドリンクのボトルを持って、ブンタから少し距離を置いて座る。
「というかおじさん。命惜しくないワケ。レイジ呼びつけて。殺されるわよ」
日陰には、ブンタの纏うタバコの香りがうっすら漂っていた。暮酒店のにおいだ。もうあの店に通うこともないだろうと思うと、ルリコは少しだけ寂しくなる。
「惜しいよ。そりゃまだおじさんだし。長生きしてえし」
「アンタんトコのバカ息子に踏まれてるとき、きっとカナタもそう思ったわよ」
「容赦ねえな」
ルリコが水筒を傾け、ブンタはライターをいじくった。
「吸ってもいいわよ、べつに。ママ、ヘビースモーカーだったし」
「へえ。何箱くらい?」
「二つか……三つかな。マリコが一日に何度も買いに走らされてた」
「こんな体に悪いモン、やめさせてやれよ」
「体に悪いから吸わせてんのよ」
爪を噛んだルリコが、眉間にしわを寄せた。
一向にタバコに手を伸ばそうとしないブンタと彼女は、目の前の解体現場を見つめたまま、視線を交えることはない。
鮮やかなイエローで塗装された土木用のパワードスーツが、瓦礫の海を掻き分けながら作業している。
腕部が大きく展開し、巨大なチェーンソーがうなると、鉄筋コンクリートの雑居ビルが豆腐のように切り砕かれていく。
ドローンもスーツも初めて目にするはずなのに、ルリコは驚かない。覚えてないだけで、ずっと前に同じようなものを見た──そんな気がした。
「シャフトだの背骨だの、フミオに指示したの、アンタ?」
「違ェ。でも、言い訳したって、どうにかなる段階じゃねえわな。もう」
「じゃあ、アイツが自分で決めてやったってことでいい?」
「どうだろう。俺サマにも分からないことだらけでね」
「女に手上げるようなやつ庇ってんの? それが親の情ってヤツ?」
ブンタは答えなかった。黙って、赤く日に焼けたハゲ頭かいた。
さっきルリコからセメントを奪い取っていったものと同型のドローンが、いくつも連なったものが、二人と解体現場の間を横切る。
彼らはムカデのように連結し、巨大な鉄柱を運搬している。その柱の上にもセメントや工具の袋が載せられ、彼らは不安定な足場の上をゆっくりゆっくり行進していく。
その小袋のひとつが、ポロリと転げ落ちた。
ビニールの袋は瓦礫の上にボルトをブチ撒けたが、ドローンはそれにとんちゃくせずに歩き去っていく。
「あーあー、ホラね。やっぱダメよ、機械は」
呆れた様子でルリコが腰を上げた。
しかし、彼女が袋を拾い上げるよりも早く、大きな残骸の向こうからぬっと現れた大男が、それに手を伸ばした。
セメントの大きな袋を両肩に担いだ、レイジだった。
おそらくブンタにとてつもなく思うところがあるはずの男が、いきなり登場してしまった。
固ってしまったルリコのことを、彼はじっと見下ろした。