海の彼方で、カナタを想う   作:おぴゃん

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8.7月20日/ブレイム・イット・オン・ザ・フォーリング・スカイ(2)

 レイジが見つめる先が、ルリコからブンタに移り変わる。

 

 ────どうしよっかな。

 

 レイジの白いタンクトップを押し上げる胸板を見上げながら、ルリコは一瞬でいろんなことを考えた。

 コイツが飛び出したら、私はどうすればいいだろう。

 コイツ止めたほうが──止められる? 私で? ブチ切れたレイジ絞め落とすとか? ハハ──ライオンとやりあったほうがまだマシ。

 

 ごくり。

 

 ルリコが苦い唾を飲み下すのと、レイジが地響きを立てて歩き出すのは同時だった。

 

「あっ、レイジ、だめ──」

 

 彼の歩みは、ゆっくりだった。

 ブンタは建材の上でじっとしている。

 レイジは彼の元にたどり着く前に、静かにひざまずいた。担いでいた袋をその場に下ろし、散らばったボルトとルリコの元に戻る。

 傷だらけの太い指で、何度も取りこぼしながら、彼は黙々とボルトを拾い集める。

 まるで因縁のフミオの父親など、もとから目に入ってないようだった。

 

「あー……ちょっと、いいかな」

 

 ブンタが彼の背に声を放つと、彼の頭がコクリと頷くのが見えた。

 

「そっちでカナタちゃんは、どうしてる?」

「少しずつ、よくなってきてる」

 

 レイジは首にかけたタオルで顔を拭う。チリとホコリで真っ黒になった彼の顔型が、そこに魚拓のようにプリントされた。

 

「おやっさんには感謝してる。ルリコが病院に連れて行った後、手を尽くしてくれたって。それがなかったら、今頃カナタは、もっとひどかったと思う」

 

 話している間、レイジの目はずっとタオルに刻印された顔型に落ちていた。

 何の感情も読み取れない、黒い顔だ。彼だって、フミオの父と出くわしてしまえば、もっと激しく心が揺さぶられると考えていた。だが、凪いでいる。

 それがいいことか悪いことかは分からない。

 ただ、そのおかげで落ち着いて話すことはできた。

 

「だいじょぶ?」

 

 彼の背中に添えられたルリコの手はひどくこわばって、ほとんど握りこぶしのようだった。

 彼女のほうが、レイジよりずっと緊張している。

 

「俺は問題ない。ルリコ、ありがとう」

「あっ……」

 

 そっと触れてレイジが手をはがすまで、彼女はそのことに気づかなかったようだ。

 胸元で手を抱くルリコと共に、レイジはブンタに振り返る。

 町を実質支配する防衛局の支配者──つまり彼らの海への旅路を阻む最大の障害は、いつの間にか立ち上がって、彼らのすぐ目の前にいた。

 武器はない。防具もない。

 いつの間にか、工事の手を休めて、黄色いパワードスーツが緑色のセンサーを二人に向けている。腕部一体型の解体用チェーンソーは展開したまま、あたりに凶悪なアイドリング音を響かせていた。

 

 だが、傍にいる護衛といえば、それだけだ。

 ブンタはまったく無防備に突っ立っている。

 

「こうやって呼びつけた目的を果たしたいんだが、いいか?」

 

 言うが早いか、ブンタはクルっと背を向けて、歩き出す。

 

「私も行くわ。いいでしょ?」

「そのために来たんだろ。ルリコちゃんもすっかり関係者ってやつだし。遠慮すんな」

 

 ブンタが顎をしゃくる前から、ルリコはすでに彼の後に続いていた。

 

「見れば見るほど、ひどいものね」

 

 ルリコの言葉に、ブンタは微かにうなずく。

 三人は、ドローンたちが向かっていく方向──七区の中心に向かっていた。

 一心不乱に働き続ける機械たちの奮闘によって復旧作業が進められているが、彼女たちの目に入ってくるのは破壊されつくした果てた町並みでしかない。

 

「けほっ──わあ!?」

「少しだけ、ガマンしてくれ」

 

 音を立てて崩れ去ったビルが撒き散らす粉塵でケンケンとルリコが咳き込むと、その口をレイジがタオルで覆った。

 彼の汗をバツグンに吸った、じっとり湿った脇の下クサいタオルで、だ。

 

「アンタの優しさ、身にしみるけど……シリコーシスになったほうがまだマシかも……」

「シリ……?」

 

 煙の中に怪物のように大きなシルエットを投げかけるレイジが、首をひねる。

 

「肺の中にコンクリのビルが建つユカイなビョーキのことよ」

「ルリコちゃんは物知りだねえ。げほっ。そういうのって、どこで知るの?」

「さあね。元から知ってた。たまに、そういうコトがあるの」

「なるほどねえ。まるで『クソ難しい公式覚えてるのに、勉強した記憶だけがない』みたいな?」

「そのとおりよ。ヒトの頭いじくる組織の親玉さん。アンタ、なんか知ってるでしょ」

 

 ブンタは意味深な沈黙で答えた。そのハゲ頭に向かって、ルリコが鼻を鳴らす。

 

「ふん」

 

 砂嵐のように立ち込める粉塵の中に日差しが差し込んで、あたり一面が真っ白だ。視界を涙でボヤけさせた二人は、かろうじて見えるブンタの背を追う。

 

「レイジが……オエ……泣いてるの、なんか新鮮」

「ホコリが目にしみただけだ」

「でしょうね。アンタが感極まってべしょべしょ泣くとか、それこそ奇跡だし」

 

 無表情で目の下に涙の筋をつけたレイジは、反論しようとして、やめる。

 かつて心が流す涙というのを、一度だけ体験したことを思い出した。それも、この七区でだ。

 カナタを水の中から連れ出した時、彼は確かに泣いた。あの瞬間だけ、確かに自分が生きた『にんげん』だと思うことができた。

 今はもう違う。彼に残されたのは機能として流れる水分でしかない。

 

 砂塵の中を抜けた直後、ルリコはレイジを振り払った。

 

「アリガト。でもぺたぺた触られるの、好きじゃない。知ってるでしょ」

 

 口の中に残されたしょっぱいツバを吐いて、ルリコは先に行ってしまう。

 地区の中央は、さっきまでバイトをしていた外周より破壊がヒドい。建物はひどく破壊され、灰色の荒野が広がっている。

 雲ひとつない青空から殺人的な日の光を浴びさせられながら、レイジは寒々しく感じてしまう。

 

『町って、誰かの生活で思い出だろ』

 

 カナタの言葉を思い出す。

 だとするなら、ここにあるのは冒涜された死体の山だ。

 まるで撃たれたことを自覚できないまま立ち尽くす兵士のように、切り裂かれ、弾痕を刻んだ残骸があちこちに転がっている。

 ブロック塀、スクラップ同然の電気自動車──あらゆるものに、黒い痕跡がこびりついていた。汚染水に触れた人間が、そこで倒れた痕跡だ。

 

「ちょっとだけ、待ってくれないか」

 

 前を行く二人にレイジが呼びかけた。

 

「いいぜえ。急がねえから、ゆっくりやんな」

「私も。ちょっと休憩」

 

 クリーニングされないまま残された水泳部室のことを、レイジは思い出す。

 そこにかつて誰かの人生があって、そして完璧に破壊された。

 極め付けに忘れられる。ハルマサがそうであったように、闇に葬られ、厳重に錠をかけ、偽りの90年代というペンキで塗りつぶされる。

 

(せめて、俺だけでも……)

 

 自然とレイジは手を合わせた。

 ごうごうというエンジンのうなりと瓦礫を粉砕するドリルの騒音が響く中で、彼は数分の間、そうしていた。

 それをルリコとブンタが見守っている。

 人の形に広がった黒い染みを前にして、レイジの目はどこまでも空虚だった。とても、この惨状を作り出した本人とは思えない。

 

 ■

 

「──見えてきた。あの向こうがゴールだぜ」

 

 へし折れたカーブミラーを跨ぎ越して、ブンタが指差した。

 先には用水路沿いにゆるやかな坂道が延びており、その頂上にビニールの壁が聳え立っている。

 目隠しのために七区の外周を覆う壁よりずっと高い。

 かりそめの平和をかたどる西町に生じたほころびである七区。その中でも特に謎めいた空間の前には、ものものしい武装に身を固めた兵士たちが備えている。

 

「局長。お待ちしてました」

「おう。楽にしてくれ。これ、公務じゃねえしな」

 

 巨人のため息のような音を立てて、シリンダーが収縮する。

 ブンタと兵士の一人が会話する間、レイジの真横に一機のパワードスーツが立っていた。明らかに工事用とは違う。

 装甲が全体的に丸みを帯び、西洋の甲冑を連想させる。

 野蛮な目的のために用意されたものだ。大の大人の身長と同サイズの機関砲を携え、真鍮色の弾薬を満載したベルトリンクをジャラリと鳴らす。

 その無遠慮な銃口は至近距離でレイジの頭に向けられていた。

 

 兵士たちの視線も冷たい。まるで、犯罪者予備軍を見るようだ。

 

「なによ。文句あんの?」

 

 恐れ知らずの生徒会長がギロリと睨み返したが、無視された。

 さっさと先に行こうとするブンタのことを、彼らはなぜか、何度も何度も引き留めた。

 

「分かった、分かった。そんだけ忠誠心があるんなら、俺サマの言ったこと、ちゃんと守れ。頼むぞ」

 

 とうとうブンタの意思が揺るがなかったので、彼らは最後に敬礼して、シートの端をめくりあげた。

 そこをくぐって奥の空間に進む。ずっと、レイジとルリコは背中に殺気じみた視線を感じていた。

 スーツの駆動音も聞こえる。一瞬で二人をミンチにできる機関砲が、今も向けられている。

 

「なんか……ね」

「ああ」

「ヤな感じ」

 

 イライラしたルリコが、石ころを蹴っ飛ばした。

 思いのほかよく飛んだ石は放物線を描き──巨大な穴に吸い込まれる。

 

 ……カツーン。

 

 遠い遠い穴の底で石の跳ねた音がした。

 シートの向こう側には町がなかった。すべての景色が削り取られたように消滅し、数百メートルにも渡るクレーターに飲み込まれている。

 ごう、と風が吹き、チリ混じりの突風がルリコの頬をかすめた。

 

「ここんトコの雨でフチが脆くなってるもしれん。あんま近寄るなよ」

 

 ブンタを無視して、彼女はずんずん歩いていく。

 

「なによ、コレ」

 

 奇妙な光景だった。

 彼女の一メートル先で道が途切れている。アスファルトもビルもブロック塀も等しく消失し、クレーターの一部になっていた。

 ふと彼女は顔を上げる。傾いだ一時停止の標識が見下ろしている。そのプレートはクレーター側が半分削れており、鋭利な断面を晒していた。

 

「アイスクリーム……」

 

 荒涼とした風景に、ルリコの声が響く。

 

「アイスクリームを取り分けるときに使うやつ、あるでしょ。それのすっごく大きなの持ってきて、町を削り取ったかんじ」

 

 レイジは彼女の隣に立って、茫洋としたクレーターを見つめる。そして、かつてこの場所にあったはずの風景と、あったであろう人々の生活を想う。

 

 全部、彼がやった。あの黒い光を使って、一切合財ぶっ壊した。

 

「レイジ?」

 

 よろめいて、座り込んだレイジを見て、ルリコが声を上げた。

 

「────心配だった。俺はいつか、怪物になるんじゃないかって」

 

 このクレーターは、彼が棘皮人間の群れからカナタを守るために作ったものだ。

 カナタは彼に身を任せながら、震えていた。あの時レイジは高揚感に任せて暴れるだけで深く考えたりはしなかったが──今なら分かる。

 

「元から、『にんげん』ではなかったんだな……」

 

 彼女は殺到してくる棘皮人間たちよりも、レイジに怯えていたのだ。

 彼という破壊衝動の獣と、そこに秘められた憤怒の激しさ、どうしようもなさに。そして一ヵ月後、悪い予感は的中する。

 カナタの首を絞めた手で、レイジは自分の顔を覆った。ざらつき、かえしのように突き刺さる皮膚の奥に、彼女の香りがまだ宿っているような気がする。

 

「爆発しないよう、ずっと体を鍛えて押さえ込もうとしていた。耐えて耐えて、耐え続ければ、自分の抱える問題を解決できると思い込んでいた」

「レイジ、それ……」

 

 昔の私と一緒ね。喉元まで出掛かった言葉を、ルリコは飲み込んだ。

 虐待に耐えた日々。あの緩やかな坂道を転がり落ちていくような閉塞感と絶望が、じわりじわりと彼女の中に蘇ってくる。

 だけど、なれなれしくレイジの絶望に触れることは、しない。

 いつだって理性が働くのは、ルリコのいいところだ。

 

「考えれば皮肉なモノだ。鍛えた体で、俺はカナタを傷つけたんだから。この体は、なんのために……」

「お前さんはなんも悪くねえ」

 

 トレードマークの酒屋エプロンに手を突っ込んで、ブンタが歩み寄ってきた。何か、音がする。

 ガサガサと、分厚い紙の束が立てる音だ。

 

「お前さんをそんなふうにしちまったのは、全部俺サマの落ち度だ」

「違う。カナタを追い詰めたのは俺だ。俺は間違ってるんだ」

「そうやって、やたら体だの心だのを痛めつけるの、アンタの悪いクセよ」

 

 何を言ってもレイジの気分がマシにならないのは分かっていたが、それでもルリコは口を出さずにいられない。

 

「おじさん。レイジの力が強いのは知ってる。でも……これは何。ただの筋肉の塊に、町ひとつ吹き飛ばすなんてこと、できるの?」

「俺サマは同じものを見たことがある」

「こんな……べらぼうなやつを?」

「七年前。かつて外の世界に、相模湾って呼ばれた地形があった場所でな」

 

 切り立ったクレーターの縁が吹き渡る風にごうごうと音を立て、雲の影が扁平な生物のようにその表面を這っているのが見える。

 ブンタは、ありもしない髪の毛を撫で付けるように、何度も頭を手でさすった。

 

「反物質の生成。それが引き起こす対消滅──レイジくんの『終結因子』は、そういう形に進化してんだ」

 

 ■

 

「『終結因子』たあな、早い話が何億年もかけてイキモノたちが模索してきた適応進化における、ひとつの究極形態っつーヤツだ」

「早くない。その話、ぜんぜん早くないから。私たち、バカみてーな出来事の連続で、けっこう心が疲れてるの。もっとやさしい言葉で言い換えてちょうだい」

 

 くまの浮いた目元を指で押さえながら訴えかけてくるルリコは、既にイライラのピークを迎えつつあった。西高の活火山に、ブンタは肩をすぼめて続ける。

 

「種族全体の天敵が持ってる力をコピーする力だと思ってくれりゃいい」

 

 ルリコは一瞬眉をひそめたが、すぐに力ない笑いを浮かべた。

 

「つまりは『あっちが核撃つならこっちも核』みたいなモノってことでいい?」

「その通り。終結因子は絶滅に対して、人間っていうチンパンジーが最後に放つ最強のカウンターパンチだ」

 

 そこまで話を進めた二人は、『終結因子』の持ち主に視線を注いだ。

 巨体の内に黒い炎を宿した男は、座り込んだままだ。

 

「何によ」

「うん?」

「何に滅ぼされんのよ、人間は。『終結因子』……だっけ? それって、人類の天敵がテニスで地球滅ぼそうとするなら、レイジがこの星で一番強いサーブを打てるようになるだけのチカラなんでしょ」

 

 そこでルリコはもう一度、クレーターを眺めた。

 レイジが生み出す莫大な量の反物質、黒い光は重力を歪ませ、特異点──ブラックホールを作り出す。この陥没孔をつくりだした超質量は、彼の『憤怒』のイカれた重さの証明でもある。

 

「反物質だの対消滅だのたいそうなものがドンドン出てくるけど。そんなの使って、ちっぽけなサルを絶滅させようとしているのは、一体何者なの?」

「……それを言える権限は、俺様にはねえんだ」

「じゃあ誰を締め上げたら教えてくれるワケ。町役場に入っていって、一番エラそうなやつ締め上げて直談判すればいい? それともキリちゃんカツアゲしてみる?」

「やつは確かにポロっと言いそうだな。あのクズ、子供(ガキ)好きだし」

「ハハハ。マジで? 今まで聞いた中で、最悪の冗談」

 

 空虚なクレーターに、ルリコとブンタの笑い声が響いた。

 

(────それ、三日前に言ってくれたら、もっと愉快に笑えたんだけどね)

 

 ルリコはひとしきり乾いた笑いをとどろかせてから、その顔をしかめた。

『子供はすぐ死んじゃうんだもの』と言って泣き崩れるキリエの姿は、ウソを言っている人間のものではなかった。

 

「あの人、アルコールなければイイ先生になれそうなのに」

「シラフになったヤツは怖ェぞ。かわいいガキがムチャするとマジで止めにくるぜ。たとえば──町を出る、とかな」 

「死ぬ気で戦ったら、私ワンチャンス勝てるかもよ。先生に」

「ルリコ、もういい」

 

 指をボキボキ鳴らすルリコの隣にレイジが立って、彼女をブンタから庇うようにした。

 

「俺が傷つけて、壊すことしかできないバケモノなのは身に沁みた。あんたのおかげで覚悟も決まった」

「覚悟? なんの──」

 

 あまりこの場で聞きたくない言葉が頭の上から降ってきたので、ついついルリコはレイジを見上げる。

 彼の表情からは、思っていることが読み取れない。

 彼はからっぽで、うつろな男に戻ってしまった。七区にポッカリ開いたクレーターと同じ、ただのがらんどうだ。

 

「最後だ。おやっさんが俺を、ここに連れてきた理由が知りたい」

「ひとつは、レイジくんと改めて話してみたかった。そんで、もうひとつが──」

 

 前掛けのポケットから、毛むくじゃらのブンタの手が引き抜かれた。彼の手には、厚みのある茶封筒が握られていた。

 

「これが俺に許された全てで調べたものだ。受け取ってほしい」

 

 差し出されるままに、レイジは封筒を受け取った。

 

「待った。すごいイヤな感じする」

 

 彼の指が封筒を開けようとした瞬間、ルリコがその腕を掴んで止めた。

 

「こういうところで満を持して出てくるものって、絶対ロクなもんじゃないでしょ。これ、本当にレイジを傷つけるようなモノじゃない?」

 

 レイジが驚くほどの力が、ルリコの指に篭っている。

 

「ルリコ」

「いいから。まだ待って。私のカンって、けっこう鋭いの」

 

 あの一件からずっと、レイジはルリコに軽蔑されていると思っていた。ずっと、見放されたと思っていた。しかし今、彼女の手を伝ってくるのは、ひたむきにレイジを守りたいと思う気持ちだった。

 

「そいつは、過去だよ」

「なんの。いや、誰のよ?」

「レイジくんの。脳をいじられる前、どこに住んでいて、誰が家族で、友達で、どういう風に生きてきたか」

「ちょ、アンタ……!」

 

 怒りとも、驚きともつかない顔で、ルリコがかすれ声を搾り出す。

 その横で、レイジは横っ面をハンマーでガツンと叩かれたようなショックに立ちすくんでいた。空洞に、その衝撃はよく響く。

 

「どんな食べ物が、どんなテレビ番組が好きだったか。どんな敵がいたのか、どんな苦しみが、喜びが、かつてのお前さんを作ったのか。その中に全部ある」

「おやっさ」

「この──この、たわけのクソ大人ッ!」

 

 レイジが何か言う前に、ルリコが叫んだ。

 顔を真っ赤に、どころではない。その端正な顔の額に青々とした血管を浮かせたルリコは、拳を振りかざしてブンタに突撃していく。

 あわてて立ち上がったレイジが、彼女を羽交い絞めにした。

 

「がああッ、なによっ、触るなって……言った、でしょ……!」

「ダメだ。殴るな。俺のために怒らなくてもいいんだ、ルリコ」

「アンタがどんだけ苦しみながら生きてきたか、ちょっとだけども分かるのよッ!」

「別に殴ってもいいぜ。見張りの連中にも、手出し無用と伝えてある」

 

 ブンタは涼しい顔でそこに立っている。

 むしろ彼はドーム天井に突き刺さるほど強く殴り飛ばされることを望んでいるようにも見えた。それがルリコの怒りに油を注ぐ。

 

「おじさん……アンタ最低。息子とおんなじ。どんだけヒト踏みにじれば気が済むの!?」

 

 いまだかつてない勢いでルリコがまくし立てる。

 

「今のコイツを否定するようなモン出しといて、ボーっと突っ立ってんじゃないわよ!」

 

 レイジの指は、分厚い封筒のフチをなぞっていた。いくつもの紙束に混ざって、硬い紙片が放り込まれているのが分かる。写真だ。それも、一枚だけじゃない。

 彼の家族、姉、生家。友達や学校、きっと、なくしてしまった笑顔でさえ──そこに、彼の人生の回答が記されている。

 ここにいるうすっぺらなレイジを上書きしてしまうほどの、圧倒的に『にんげん』だった頃の彼の姿が。

 

「レイジ、ダメよ。開けちゃダメ」

 

 ルリコがレイジに取り付いて、全身使って封筒を引っぺがそうとする。

 だが、どれだけ強く引っ張っても、彼の指は石のように閉じたまま開かない。

 

「今のアンタでいいでしょ! ここまで頑張って変わろうとしてきた、ありままのアンタでも!」

「もしかしたら。カナタに許してもらえる俺になれるかもしれない」

「なっ……」

 

 レイジは無表情のままに打ちひしがれていた。

 

 七年。

 

 七年使って、何も無いところから自分を組み立てなおしたはずだった。その積み重ねが、今、たった一通の封筒で崩れかけているのが分かる。

 

「アンタがどんな気持ちでこれ渡したのか知らないけどね──私、許さないから。おじさんのこと、これからずっと、恨むから」

「言ったろ。ここで何が起こっても、それはここだけのハナシだ」

 

 ブンタの膝がゆっくりと地面につく。

 

「何やってんのよ」

 

 そのまま、彼は両手をついて、額を、砂利とガラスまみれの地面につけた。

 

「何やってるって聞いてンのよバカ!」

「これで、納めちゃくれねえかな」

「はあ!?」

 

 大のオトナが、土下座だ。

 

「あのさ、俺のコト好きなだけ殴っていいからさ。もう殺すつもりでやっていいからさ。フミオのことだけでも、水に流しちゃくれねえかなあ」

「…………フミオが見ていたらどう思う。おやっさんが謝るのは、筋違いだ」

「あいつ、いいやつなんだよ。ただ……クソ。やっぱダメだったかなあ。俺様の教育ってさあ」

 

 苦しげにうめくようなブンタの声を聞いて、ルリコは理解する。コイツ本気だ。

 ホンキで自分の息子を助けるために死ぬ気なのだ。

 彼は立派な大人だ。しっかり責任を背負って、自分の息子のケツまで拭こうとしている。

 それがルリコは、どうしようもなく許せなかった。

 

「そういう問題じゃないってんでしょ!」

 

 かつてないほど激昂したルリコが前に出て行こうとするのを、レイジはまた羽交い絞めにして止めなければいけなかった。

 

「はなッ、して……! やったげる。アンタができないなら、私が全部代わりにやるわ。こいつボコして、首ちぎって持ち帰って味噌汁にしてやるッ!!!!」

 

 ルリコと同じくらい、それを抑えるレイジは必死だ。

 彼女の暴れっぷりは尋常ではない。彼の手が少しでも緩んだ瞬間、彼女はブンタに飛び掛って、そのハゲた頭を壮絶に踏みにじるだろう。

 あたり一面血の海にして、怒り狂って叫びまわって──そんなルリコを見たくはなかった。

 

「この町のオトナなんて、みんな、大ッキライ! その中でもアンタが一番ロクでなしよ!」

「ルリコ、頼む、落ち着いて、くれっ!」

「自分トコのかわいいガキ許してもらうために、レイジの記憶をダシにしてんじゃないわよっ、このっ、この!」

「いいんだ、ルリコ。もう、なにもかも」

「アンタは悔しくないの!? フミオにはこんなクソ甘い親がいるのに、アンタと私にあったのは……」

 

 目を血走らせたルリコは、そこでようやく頭上のレイジの顔を見た。

 

「さびしい家と……冷たいご飯だけだったじゃない……っ」

 

 彼の顔に夏空が濃い影を落としていた。目と頬は、落ち窪んで穴のように見える。

 

「せめてカナタを、海に連れて行ってやってくれないか」

 

 風の音にかき消されそうなほど微かな声でレイジが言うと、ブンタは静かにかぶりを振った。

 

「それだけはダメだ」

「理由を聞かせてもらっていいか」

 

 あくまで落ち着いて、静かに、レイジは聞く。

 

「俺サマにできる償いなら、なんでもする。だが海だけはダメだ」

「だから、なぜ」

「海に行ったら、絶対に不幸になる。カナタちゃんとオマエさんだけじゃない。ここにいる人たち全員がダメになっちまうかもしれない」

「俺は理由を聞いている」

「体に聞いてみりゃいいだろ」

 

 ブンタは、静かに顔を上げる。

 ガラスで切れた彼の額から、一筋の血が流れ落ちていった。

 

「そうか」

 

 レイジが歩き始めると、ルリコはその場に取り残される。

 ブンタの元に向かう男の顔は、やはりいつもどおりの、何を考えているか分からない、がらんどうだった。

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