「あっ、クソ……」
上手に焼けた金色の卵の上に黒い雫が飛び散った。
「これいいカンジだったのにな……やり直そう。マリコ、悪ィ、片付け手伝って」
「あいあーい」
読んでいたテキストをパタンと閉じて、マリコが手を洗い始める。
カナタの手では、蛇口をひねることさえ難しい。以前のようにタマゴを割るのも、それを焼くのも、当然無理だ。
腐ってとろけた右腕を忌々しげに見つめながら、彼女は包帯をキツく巻きなおす。
キツくキツく。そのせいで皮膚が破れて、包帯に体液が染み出すほどに。
彼女は痛みに顔をしかめながら、指先の感触を確かめる。
「カナタ先輩。ムチャはダメっスよお」
「アリガトな。バイト、行きたかったろ」
「まあそうスけど。ほらウチ、せんぱい第一なんで」
マリコが、作り損ねた卵焼きに手を伸ばす。それを、カナタが握った菜箸で制した。
「アタシの汁ついてっから。やめろよ」
「ウチ、そういうの気にしないんで~。ぱくぱく」
少なからぬ腐臭を放つカナタの体液がついた卵焼きを、マリコは顔色ひとつ変えずに頬張る。
きっとクサいはずだ。汚いはずだ。だがマリコは「だいこんおろしが欲しくなるスねえ」などと呟くだけだった。
「ウマいっスよお。やっぱりパイセンの料理はサイコーっス」
「ありがとな……レイジ、食ってくれるといいケド」
「たりめーっしょ。なに当たり前のコト聞いてんスか。ノロケっすかあ?」
食堂には二人っきりだ。
出発前にボタ子が気を利かせて持ち込んだ銀色のラジカセからグスタフ・マーラーの交響曲第2番「復活」が流れている。
ドラマチックな曲を聴いているとついつい料理の出来栄えまでドラマチックになるカナタはクラシックを敬遠していたが、ボリュームを絞ってかけるうちに、いつの間にか耳によく馴染んでいた。
「ノロケ……ってさあ。間違ってねーか、それ」
クラリネットが鳴り響く中に、ダシの香りが漂う。おかしな空間が広がる。
「そスかね」
「それってコイビトとか、イイカンジのやつらに使うコトバじゃねえ?」
「だって付き合ってんでしょ、先輩ら」
イタズラっぽく笑いながら、ルリコはカナタの顔を覗き込む。
午後の日差しの中で、灰色の瞳がキョトンと見つめ返してきた。しばらくそうしていると、崩壊を免れ、無事な左頬に、徐々に赤みが差し始めて──
「──こないスね」
「何言ってんだ、オマエ」
への字の口と、八の字の眉。ノロケと言われ、付き合ってると冷やかされ、カナタの顔に浮かんだものは、ただただ、困惑だった。
「え?」
予想外の展開だ。マリコは思わず聞き返す。
「何言ってんだ。ワケわかんねーぞ」
冷蔵庫を開けたカナタが、ほとんど曲がらない指を使ってタマゴを取り出そうとする。あっけにとられていたマリコは、あわててそれの手伝いに走った。
「カっ、カナタ先輩って、レイジさんと同居してたんスよね。オトコとオンナすよね。ムラっときてそのまま……とか。あったんじゃないスか?」
「ねえよ。ちんこ見ちまったことはあるけど。おえっ」
「で……デカかったスか」
「こんくらい」
と、カナタがシンクにゴロリと放り込まれたままの大根を指差すと、マリコは立ちくらみを起こしたようにフラついた。
「……銃刀法違反で捕まるでしょ、こんなの」
「にしてもよお、アイツと恋人同士か……はは。考えたコトもねーな……」
「イヤすか?」
「んー、よくわかんねーんだよな。そういうの」
あいまいな顔をして、カナタは会話の間に混ぜ終えた卵液を流し込む。しゃあっと音を立ててフライパンに広がったタマゴが、端の方から白くなってパチパチ弾けた。
「分からない、スか。じゃあ……もしそうなれたら、カナタ先輩はどうするスか」
「アイツと、付き合ったら?」
醤油とダシの香りに包まれながらシンクに寄りかかるマリコは笑っていたが、その口元には寂しさがひとすじ混ざっていた。
カナタは、恋することや愛することを理解できない。
誰かを好きになること、そして好かれること。そういう経験を一度もしないままに、レイジという答えに出会ってしまったのだ。
「今まで通り、同じトコで寝起きして、メシ食って映画見て……それができればアタシ、ずっと幸せ。かな」
不自由な体で、たった一人の男の子のために卵焼きを作りながら、カナタは照れたように笑う。
マリコの目に映る彼女の姿は、まさしく恋する乙女なのだが──彼女はそれを口には出さず、ほくそ笑みながらラジオのチューニングをいじった。
マーラーはホワイトノイズに飲まれていく。
まるで劇場の幕が閉じるように、重厚な弦の余韻がすっと消えた。
そしてすぐ、宇宙の広がりを感じさせるようなイントロのメロディと、けだるいボーカルが浮かび上がる。
「あ……これ、イイじゃんか」
なんて言ってるかわかんねーけど。そう続けるカナタの前で、名も知らぬ英語のロックは激しさを増していった。
ボーカルの声の上に、不意の落雷のようにドラムの一撃が落とされる。
豹変したギターが凶暴なリフをかき鳴らし、コーラスを歌い上げる声すら音の豪雨が飲み込んでいく。
「カナタせーんぱい。タマゴ、コゲちゃうスよー」
「あっ、ああっ!?」
絡み合い、飲み込み合うようなギターに意識をもっていかれたカナタに、そっとマリコが菜箸を手渡した。
カナタは焦ったが、さすがルリコの妹だけあって、マリコが声をかけたタイミングは完璧だ。
カナタが痛む指で菜箸を操ってフライパンの上で巻いたタマゴの色は、きれいにきつね色の焼き目がついた、完璧な卵焼きだった。
「レディオヘッド、さまさまスね」
「へ?」
体に染み付いた動きでくるくると卵焼きを転がしながら、カナタは聞き返した。マリコは軽く肩をすくめてから、親指でラジオを指した。
「レディオヘッド。コレ歌ってるグループの名前ッス」
「らじお……」
「レディオね。ラジオじゃなくて。そこ、大事スよ」
「……へんな名前」
カナタはそう言って、もう一度ラジオに耳を傾けた。
■
ガッコン。角ばって細長い、古い自販機から飲み物が吐き出されてくる。
「アンタ。エラいわ」
ルリコはセメントまみれの袖を捲り上げて取り出し口に手を突っ込む。
彼女の横顔を夕日が照らしていた。
七区から西高に戻る途中の駄菓子屋に、二人は寄り道していた。ここの自販機はえらくガタついており、狭い取り出し口の中でビンが誇らしげに起立している。
「くそ……めんどうね……」
ルリコの苦行が始まる。
近くのドブ川のせせらぎに混じって、彼女がうんうんうなる声が流れ始めた。
「とに、かく……アンタはよく、うっ、やったわ。エラい。エラすぎでしょ」
「エラくなんてない」
レイジは川岸のガードレールを握り締めて立っていた。
ひや、としたものが彼の上腕に押し付けられる。
「あんだけのことがあって、一発も殴らずに帰るなんて。私にはできない選択よ。ハイこれ、よく耐えたご褒美」
よく冷えた、コーラのビンだった。
汗まみれの体になった二人が去っていくのを、ヒモで自販機から吊り下げられた栓抜きがブラブラと振れて見送る。
「疲れたわねえ」
「ああ。そうだな。やたらと、疲れた……」
半日工事現場でバイトしたこともだが──それ以上にくたびれる出来事だらけだった。
「アンタがおじさんの腕引っこ抜いても、私、止めなかったと思う」
「おやっさんは悪くないだろ」
前を見つめて歩くレイジの眉間に、はっきりしわが寄った。
「俺が許せないのは。俺と、フミオだけだ」
「そうね。アイツが勝手に突っ走って、全部ブチ壊した」
そこでルリコは言葉を切ると、抱えているモヤモヤを洗い流すようにビンを垂直にしてあおった。
開けたてで、炭酸もバチバチに炸裂するだろうに、彼女は喉を鳴らして中身を干していく。
思わずレイジが足を止めて見守るほど、見事な呑みっぷりだ。
「くあ~っ!」
そして、口元を拭う姿が少しおじさんくさい。
「けぷっ……考えてみなさいよ。アンタのために土下座してるカナタを、フミオに嬲り殺しにされたらって」
ピシっと音を立てて、レイジが持ったコーラのビンに亀裂が入る。
あわてて力を緩めた彼の拳から、ジュースがヒタヒタ滴った。
「おじさんが二度と立てないほどボコボコにしてやれば、少なくともアイツはイヤな気分になる。最低最悪の気分に」
恐ろしいことをサラリと言ってのけて、ルリコはレイジの顔色を見た。
怒りも悲しみも、今の彼には見て取れない。全面にヒビが走って白くなったビンを撫でる視線にはただひとつの感情──迷いがある。
未開封のまま、彼の尻ポケットに突っ込まれた書類の束。即ち彼の過去を受け入れるかどうか、という迷いだ。
「んぐ」
彼女が見ていると、レイジはボトルをあおった。
さっきルリコがそうしたように、真上を向いて、真顔のまま。コーラが勢いよく流れ込み、炭酸がはじけて喉が焼ける。
その間ずっと、ずっと無表情だ。
「くあーっ」
「ふふっ」
そしてとうとう最後まで表情を変えないまま、オッサンくさい掛け声だけ出してくるレイジを見ていると、ルリコはなんだかおかしくなった。
「レイジ。景気づけ。やりましょ」
「え──ああ」
ドブ川の護岸ブロックを指差して、ルリコが思い切りビンを振りかぶる。レイジもマネしてビンを構えて、ワン──ツー、そしてスリー。
「えいっ」
ルリコがビンを放る。レイジも放る。
ウェーブがかった彼女の髪が派手なピッチングに合わせて舞い上がる。
ゆるい放物線を描く薄緑のビンは、茜色に染まった光を受けて輝いた。
パシャッ。
ブロックに激突して粉々になっても、舞い散る破片の一つ一つが、美しい黄金を映してきらめく。
濁りきった水の底に沈みゆくかけらを二人でじっと見つめていると、チェーンの音を鳴らして、一台の自転車が二人の背後を走り抜けていく。
「げ」
それが近くの交番に勤めているお巡りさんだと分かった瞬間、ルリコはとっさにレイジの影に隠れた。
だが相手は、ガキんちょに理解のあるオトナだった。彼は一瞬自転車を止めると、悪い笑顔を彼女らに投げかけた。それだけだった。
軽快に走り去る自転車を、彼らは並んで見送る。
きっと、無関係の大人から見た二人は、どこにでもいるただのコドモでしかない。
「あー……ビビったわね……」
「……怒られると思った」
ルリコは緊張をほぐすように深呼吸する。
地獄にいるものも、そうでないものも、この茜色の中では平等だった。
「家に帰るとさ……ママがいて……なんというか、すごく……強い、言葉とかで、叱られたりするのよ」
気づけば、そんなことを口走っていた。
「学校から家まで歩く間、好きなんだ。夕日の中一人で歩いてるときって、何も言われないし。私も、普通の女の子みたいに見えるはずだから」
「普通」
「うん。普通。難しいわよね。そうあるのって」
普通であること。にんげんであることに一番あこがれているはずのレイジがどんな顔をしているのか、ルリコは確かめようとしなかった。
かわりに夕空を見上げる。
一機の飛行機が、雲の尾を細く長く引きながら飛んでいく。それはドームに投影された映像でしかない。
茜の向こう側から漂いはじめた群青も、そこで輝く星々も。すべて、過去に停滞することを選んだオトナたちが描いた、永遠に配達されない20世紀へのラブレターだ。
西町に住む全員が、巨大なスクリーンに映し出された映画を見ている。
みんながフィクションを見つめる観客で、ここにリアルはない。
「ノスタルジーに惑わされちゃいけない。のにね」
いつかどこかで耳にした映画のせりふを、ルリコは口にした。
「ねえ、それどうするの」
ルリコが言う『それ』が何を指すのか、レイジには分かっている。
彼はポケットの中から、湿気でヨレヨレになった封筒を取り出した。中には鋭いカミソリのような過去が詰め込まれ、開封のときを今か今かと待ち侘びている。
開ければ、レイジはただでは済まないだろう。
だが、ムナカタという研究者に焼き払われた記憶を、完全に取り返せるかもしれない。
それとも、何も変わらないのか。姉の位牌と同じく、実感のない情報の墓標が転がり出てくるだけなのかもしれない。
考えれば考えるほど、「かもしれない」がレイジをグラつかせる。揺るがぬ大男が、足元から崩れ去ろうとしていた。
「私が捨ててきてあげよっか。ついでに中、チラっと見るかもだけど────ううん。確実に処分する。この世の誰にも、今のアンタにノーを言わせない」
「これは、持っておく。ひとまずは」
しばらく考えて、レイジはそれを、尻のポケットに突っ込んだ。
「そう……だけど、これだけは覚えておいてね」
ルリコは、彼と並んで合宿所に向かいながら、語りかけた。
「何も選ばないで今を宙ぶらりんにするっていうのは、とても優しいことだけれど。最後は一番周りを傷つける」
ルリコの歩調は強まり、そしてレイジを引き離して、ずんずんと先を歩き始める。
「アンタは……それで泣く女の子を、作っちゃダメよ」
■
食堂で、みんなが天井の蛍光灯を見上げていた。
七月にしては異様なほど涼しい夜だった。風呂上りの肌を優しく撫ぜる風に乗って、鈴虫の声が室内に流れ込む。
もはや秋なのではないかと錯覚するような空気の中に、ひたすらくたびれた雰囲気が漂っていた。
「私ねえ……セメント作んの上手いみたいなのよね……」
「なあんで会長さんが現場仕事してるんですかね……けほっ、げほおっ」
虚脱感に任せてルリコが呟くと、ザワちんが激しく咳き込み始めた。
彼が回されたバイト先は中心街の奥まったところにある、図書館だった。彼の体力をおもんばかったチョイスだったが、結果は大失敗だ。
ホコリまみれの空気にすっかりノドを打ち負かされた彼は、ほとんど使い物にならなかったという。
「役立たずでっ、けほっ、スマンですね。けほっ」
「いいだろ。ザワちん体弱ェんだから。よう頑張ったって」
「ンン……やらしー手つきしやがって。男でもお構いなしですか、お前」
背中を優しくさすってくれるヨシのことを、彼は睨み付けた。
「ンだよお……俺、マジでそういうつもりじゃ……」
ヨシは耳の後ろを掻きながら、うしろめたそうに目を逸らす。
「はん。そういうお前は? ドコに行ったんですか?」
「俺、スーパーの店員さん。まあ、家でもたまにレジ打ちするし。普通だったな」
「ふうん。ボタ子は? アンタは銭湯だっけ?」
「そうだよお。ヒマだったんで、ずーっと番台さんとフルーツ牛乳飲んでお喋りしててさあ。お腹、タプタプさ」
レイジちゃん、触ってみる? と言いながら、すでに彼女は隣に座る大男の手をガッチリつかんで、自分の腹に持っていっている。
勝手に人の手でムニムニやらせているが、当のレイジはうわのそらだ。
「ボタ子、お前さあ……」
「なんだいなんだい、ヨシちゃんもあたいの腹に興味深々かあい?」
「怪物女の腹筋なんて、願い下げだね。それならザワちんの胸揉んだほうが────いっ、てええ!?」
それまで苦しげに咳き込んでいた男とは思えないほどのキレを見せて、ザワちんの平手がヨシの坊主頭をひっぱたいた。
パチーンと言い音を立て、彼の頭が弾かれた。
「妥協で俺に手出したら、殺しますよ」
「おお……コワ……」
すぐ傍でザワちんがうなり声をあげて牙を剥き、ヨシは頭を押さえて縮こまる。右手の下ではボタ子のたくましいシックスパックを感じる。
それだけあっても微動だにせず、じっと窓の外を見つめ続けるレイジの様子を、頬杖ついたルリコが眺めている。
仕方ない。彼女は思う。
封筒のこと。カナタのこと。身近な大人に土下座されたショック含めて──しゃんとしろとどやすのは、あまりに酷だ。
「レイジ。おい、おいったら、デカブツ」
「あ──」
見かねたヨシに目の前でヒラヒラ手を振られて、ようやく彼は現実に帰ってきた。
「お前も会長さんと一緒に七区行ったんだろ。どうだ、なんかオモシロいもんみっけたか?」
「なにも……疲れただけだ」
「相変わらず、面白みのない野郎ですねえ」
「まー、仕事ってなそんなもんじゃないかね」
そしてみんな、基本姿勢に戻る。口を「あ」の字に開いて、イスの上でだらしなく伸びて、天井と、蛍光灯の周りで8の字を描く蛾を見つめる。
「カナタちゃんのこと、どーすんだよ」
ぽつり、とヨシが言った。
「お前が戻ってきてもう三日だぞ。何をするか、どうするか。当然、答えは出たんだろ」
「何もしないさ。俺はもう、カナタに何もしないって決めたんだ」
「ッだよ。だらしねえヤツだな、おめえ……」
レイジの体が、ガクンと揺れる。
テーブルの向こうから身を乗り出したヨシが、その手でレイジの胸倉を掴んでいた。相変わらず大型犬のように愛想のいい笑みを浮かべている。
だが、握り締める力はあまりに凶悪だ。
「だらしないかもしれない。が」
小さな驚きを覚えて、ルリコは目だけレイジに向ける。ヨシを睨み返す彼の瞳は、決して逸れない。
クレーターの端で口にした「覚悟」を、彼は視線に込めていた。
「ヨシには分からない。俺の決めたことに、口出し、するな」
「おーおー、なるほど? バイト先で言い逃れの方法でも教わってきたか? ようわからんこと抜かすようになったじゃねえか」
「ちょいと。やめなよ、ヨシちゃん──」
思わず立ち上がってボタ子が止めに入るのを、ザワちんとルリコは静観する。
疲労困憊のうえ、空気は一触即発。これからテスト本番に向けて走り出そうというタイミングで、よくない傾向だ。
ヨシの苛立ちも、レイジの気持ちも、ルリコには分かる。だから、何も口出しできないが──
というところに、彼女には聞き覚えのある足音が近づいてきた。
「じゃじゃーん!」
なにやら大げさな身振りでやってくるのは、厚底シューズを脱いでも騒々しい実の妹。そして、その後ろから、ギクシャクした動きでついてくる、カナタ。
「われらがシェフからレイジさんに、特別メニューだそうスよ!」
「そういうのいいから。な、なあレイジ……」
コトリ。
一枚の白い皿が、目の前に置かれる。
懐かしい香りが漂い、レイジの意識を、否応なしにそちらにひきつけた。
丁寧に切り分けられた卵焼きだった。
「あの────わり。何度やってもきれいに作れなくて。これでも、マシな所だけ取り分けたつもりなんだ、ケド……」
包帯にぐるぐる巻きにされた手で、カナタはエプロンの端をきゅっと握り締めた。そこに浮き出るものと同じ黒色で、いびつな卵焼きの角が少し汚れている。
気づくと、食堂は静まり返っていた。
「な、なあ。みんなもいいから。ちゃんと休めったら」
カナタが言っても、効果はない。
クラスメートたちの視線はひとつの皿と、一人の大男に注がれていた。
これ以上失望させるなよ、という、刺すような、抉るようなプレッシャーを浴びせられたまま、彼は微動だにしない。
「しっかりやれよ。デカブツ」
静かにカナタを見上げるばかりのレイジの胸元から、そっとヨシの手が離れていく。
アザだらけのカナタの喉が動いて、唾を飲み込んだのが分かる。
彼女は続けて深呼吸して、レイジの近くに、皿を押しやった。
「アタシ、オマエともう一度、キチンと話し合いたい」
あたりは恐ろしいほどに静まり返って、言葉と言葉の間に挟まる沈黙は耳が痛くなるほどだ。
「だから、これは……仲直りの卵焼き。ってーと、少し違うけど」
そこまで言って、カナタは、ひゅうと苦しそうな音を立てて息を吸った。そして、まっすぐレイジを見据える。
「たのむ。このままなんてイヤだ。勝手に離れて、勝手に仲直りとか抜かして、悪ィ。でも、アタシはもう一度、レイジと旅がしたいんだ」
「食べるスよね、もちろん」
マリコがレイジの顔を覗き込んだ。
「ね?」
「チャンスだよ。うまくやりなね」
そっと、ボタ子がレイジの脇腹をつつく。
「取り返し、つかないことになるわよ」
参考書を逆さに持ったルリコが、落ち着き払って髪に手ぐしをかける。その隣で、ザワちんは咳き込む。
テーブルの上に細かな赤い斑点を散らしながら、彼はレイジを睨み付けていた。
(風呂場で頼んだこと、忘れちゃいませんね──)
言われるまでもなく、レイジは必死に何かを言おうとしていた。
「あ」かすれた声しか喉から出てこない。
彼のポケットからハミ出ていた封筒がズルリと落ちて、床に投げ出される。そんなことにも気がつかないほど、彼は苦しそうだ。
「おい、イスルギ……」
痺れを切らしたザワちんが、何かを言おうとする。
と、それまで酸欠を起こしてもがくようだったレイジの目に、確かな決意が宿る。
卵焼きの皿を手に取り、しばらく、じっとそれを見つめたあと──
「やめよう。もう、これっきりにしよう」
その場の誰もが、絶対零度で凍りついた。